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老恋
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やっぱり、このお部屋には、陽の光がよく入ってまいります。寝起きの私が、しわくちゃになった右腕をベッドの柵へと伸ばし、よいしょと体を起こすと、縦に四尺、横に五尺程度の大きな窓から、ほわりと差し込む優しい光が、ちょいとばかし古ぼけたフローリングの床を、山吹色に染め上げるのでございます。ここに来てから、私は目覚まし時計を鳴らしたことがございません。毎朝、太陽が昇ってくると同時に、ぴかぴかと明るく照らされるこのお部屋では、あのようなけたたましい騒音を用いずとも、しっかりと目を覚ますことができるのでございます。もう、八十も過ぎた頃より、己の歳を数えることは忘れてしまいましたが、腰は曲がり、目もかすみ、半身がうっすらと痺れるこの体が、今日までそれなりに暮らせているのは、ひとえに、主人のおかげでございます。しかしながら、主人は底抜けに優しいお人でしたが、その優しさ故に、多くの人々に騙され続け、そのことに気が付かぬままに昨年、天に召されたのでございます。そんな主人のことを、私は、愛していました。たくさんこさえた借金を、やっとの思いで返済したその日の夜、もう潰してしまった、私たちの自宅の軒に二人で座ると、主人は月明かりで青白く灯った顔をこちらに向けて、本当にありがとう、と。たった、一言。それ以降、主人は病床に臥せてしまい、あれよあれよという間に、息を引き取ったのでございます。その後、私も脳梗塞に見舞われました。入退院を繰り返し、独りでの生活がままならなくなり、今の施設へと、入所したのでございます。このような、高齢者のみが暮らす施設へと入ってみると、いよいよ私も本格的におばあちゃんの仲間入りを果たしてしまったのだなあと、気持ちが沈んだ日々もございましたが、先程も申し上げましたとおり、このお部屋は陽の光がよく入り、とても、明るいのでございます。なんだか、私の気持ちまで明るくしてくれるような、不思議なお部屋でございます。思えば、このお部屋に入所したとき、引っ越し屋さんに持ってきてもらった、元の家では少々持て余すような大きさだった仏壇が、部屋の隅、大きな窓の隣に、それはそれはぴったりと、鎮座したのでございます。まるで、元よりここが、自分の居場所であったかのようでございましたが、衰えてしまった今の私では、仏壇前まで、たったの一尺ですら、自分の足を運ぶことは、難しいのでございます。申し訳ないなと、思いつつも、私のご先祖さまなら、きっと許してくれるだろうと、このお部屋の明かりに照らされていると、どこか楽観的でいられるのでございます。
窓から見えるのは、お日様だけではございません。ここは二階でございますので、ちょうどベッドに腰掛けた視線の高さに、すっと横一線、黒い電線が見えるのでございます。そこに時たま、雀や鳩が飛んできて、止まっては、首を傾げてゆくのでございます。私の稚拙な想像の中では、鳥たちは仲良くぴいぴいと鳴きながら、井戸端会議などをしておるのでございます。たまに烏がやってきて、カアと一鳴きし、鋭い眼光でこちらを睨んでくることもございますが、なんてことはありません。私は、目も衰えてきていますので、そのように凄まれたところでぼんやりとしか、全貌を知ることが、できない。その程度では、びくともしないのでございます。見たいものだけを見ることができるようになったのは、歳を重ねて、良かったことの一つでございます。
五体満足の皆さまからすると、私の眺めるものは、変わり映えのない、平坦なものに見えますでしょうが、そんなことはないのでございます。春夏秋冬、巡る季節の中で、この窓からの景色は、ゆるやかに、そしてたしかに、変貌を遂げているのでございます。春の桜、秋の紅葉など、わかりやすいものが見えるわけでは、ございません。まず、見えるのは、雲の流れゆく空でございます。天気によって変わりゆくのは言わずもがな、季節によって、空というものはここまで違うものなのかと、私もここに来てから、初めて知ったのでございます。空の青が、違うのでございます。それは、薄かったり、濃かったり、日によって千差万別でございます。ただ、春らしい空と冬らしい空には、大きく違うということが、ここで眺めていると、わかってくるのでございます。かつて街を駆け回り、仕事に明け暮れ、今よりずっとさまざまなものを見ることができたであろう若かりし頃の自分には、到底、見ることのできないものを、見ている今の私は、とても幸せもので、贅沢だとさえ感じるのでございます。
もう一つ、見えるものがございます。それは、向かいにある一軒家。なだらかな屋根の下の、ちょうど二階に当たるところに、ここと同じような大きな窓に、白いカーテンが引かれているのでございます。ここに来てから、もう何年も経っておりますが、カーテンの向こうを見たことは、ございません。ただ、夜が更けると、ぽわっと、明かりが灯って、カーテン越しに、薄らと、影が動くのでございます。ああ、お仕事なのか、なんなのかはわからないけれど、無事に帰ってきたのだなとほっとして、しばらく眺めていると、私のよれよれの瞼がどんどんと重たくなってきて、いつもしぶしぶ床につくのでございます。向かいの窓に明かりが灯る瞬間は、いつも同じというわけでは、ございません。私が眠るまでに明かりが灯らないこともあれば、仄暗い夕焼けの中で灯ることもございます。しばらく、明かりが灯らない日々が続くと、もうすっかり見ることがなくなった、カレンダーを確認するのでございます。すると、ああ、今は連休なのだ、と納得し、無事にまた明かりが灯ることを、お祈りするのでございます。
主人と離れてから、特定の誰かの無事を祈ることが、なくなっておりましたが、向かいの家の住人の存在に気がついてから、なんだか遠い片想いをしているような気がして、むず痒く、もやもやとしてしまうのでございます。これは、ひょっとすると、こんなしわくちゃのおばあちゃんの私が、恋をしてしまったのではないか、と。思っているのでございます。まさかとは思いましたが、そのまさかであることは、明白なのでございます。流石に、昔のように恋に焦がれるようなことはなくなりましたが、いつもその動向が脳裏を掠め、思案し、時には鬱蒼とし、それでも明かりが灯るだけで、ほっとして、嬉しいなあと思いを噛み締め、また次に灯る明かりを待っている自分は、恋する乙女そのものなのではないかと、確信しているのでございます。
もちろん、私には、愛する主人がおります。その愛は、今までも変わっておらず、そしてこれからも、変わることはないのだと、喝破することができるのでございます。それなのに、恋をしたなんて、とんだ不貞でございます。そもそも、年齢はおろか、性別から容姿まで、全てが不明であるものに恋をするなんて、なんとも、不貞なおばあちゃんでございます。白髪でしわくちゃで、立つことすらままならない、こんな私が恋をするなんて、その身に余る、烏滸がましい行為であることは、百も承知なのでございます。ただ、私は何も望まないのでございます。何も望まず、ただ、窓の向こうの貴方が、健やかに生きていてくれることが、何よりも、幸せなのでございます。
私は貴方に、心の底より感謝しているのでございます。他者との関わりが希薄となった、もちろん、施設のスタッフさんや介護のヘルパーさんたちは、親切にしてくれるので、人との関わりそのものが希薄かと問われると、言い淀んでしまうことと思いますが、それは、あくまでも業務の上での話なのでございます。貴方は、私のことを知らないでか、ありのままの姿を、見せてくれているのでございます。もし、貴方をいつも眺めていることを、貴方自身が知ることがあれば、きっと、もう明かりが灯ることはなくなってしまうでしょう。私は、これから主人の元に召されるまで、貴方に知られることはなく、そして召されてからも、貴方の人生に、私の存在が入り込む余地なんて、ないのでしょう。でも、それで良いのでございます。片想いとは、そういうものでございましょう。なんだか、切なくなってまいりました。胸の奥が、ぎゅっと、締め付けられるようでございます。これは、身に余る想いを抱いた、私への、罰なのでしょう。きっと、この胸を締め付けているのは、嫉妬した主人の、あのごつごつとした手、なのかもしれません。心が揺れること自体が、不貞であるぞと、主人が私を叱りつけてくれたら、どれほど救われることか。でも、貴方は、もういない。もう、いないのです。私の隣で、もう、ありがとうとは、言ってくれないのです。だから私は、見ず知らずの貴方に、恋をした。それは、単なる代替なのかもしれません。しかし、これは恋なのです。愛なのです。ただ、何も望まぬ私の想いを、どうか、どうか、お許しください。
窓から見えるのは、お日様だけではございません。ここは二階でございますので、ちょうどベッドに腰掛けた視線の高さに、すっと横一線、黒い電線が見えるのでございます。そこに時たま、雀や鳩が飛んできて、止まっては、首を傾げてゆくのでございます。私の稚拙な想像の中では、鳥たちは仲良くぴいぴいと鳴きながら、井戸端会議などをしておるのでございます。たまに烏がやってきて、カアと一鳴きし、鋭い眼光でこちらを睨んでくることもございますが、なんてことはありません。私は、目も衰えてきていますので、そのように凄まれたところでぼんやりとしか、全貌を知ることが、できない。その程度では、びくともしないのでございます。見たいものだけを見ることができるようになったのは、歳を重ねて、良かったことの一つでございます。
五体満足の皆さまからすると、私の眺めるものは、変わり映えのない、平坦なものに見えますでしょうが、そんなことはないのでございます。春夏秋冬、巡る季節の中で、この窓からの景色は、ゆるやかに、そしてたしかに、変貌を遂げているのでございます。春の桜、秋の紅葉など、わかりやすいものが見えるわけでは、ございません。まず、見えるのは、雲の流れゆく空でございます。天気によって変わりゆくのは言わずもがな、季節によって、空というものはここまで違うものなのかと、私もここに来てから、初めて知ったのでございます。空の青が、違うのでございます。それは、薄かったり、濃かったり、日によって千差万別でございます。ただ、春らしい空と冬らしい空には、大きく違うということが、ここで眺めていると、わかってくるのでございます。かつて街を駆け回り、仕事に明け暮れ、今よりずっとさまざまなものを見ることができたであろう若かりし頃の自分には、到底、見ることのできないものを、見ている今の私は、とても幸せもので、贅沢だとさえ感じるのでございます。
もう一つ、見えるものがございます。それは、向かいにある一軒家。なだらかな屋根の下の、ちょうど二階に当たるところに、ここと同じような大きな窓に、白いカーテンが引かれているのでございます。ここに来てから、もう何年も経っておりますが、カーテンの向こうを見たことは、ございません。ただ、夜が更けると、ぽわっと、明かりが灯って、カーテン越しに、薄らと、影が動くのでございます。ああ、お仕事なのか、なんなのかはわからないけれど、無事に帰ってきたのだなとほっとして、しばらく眺めていると、私のよれよれの瞼がどんどんと重たくなってきて、いつもしぶしぶ床につくのでございます。向かいの窓に明かりが灯る瞬間は、いつも同じというわけでは、ございません。私が眠るまでに明かりが灯らないこともあれば、仄暗い夕焼けの中で灯ることもございます。しばらく、明かりが灯らない日々が続くと、もうすっかり見ることがなくなった、カレンダーを確認するのでございます。すると、ああ、今は連休なのだ、と納得し、無事にまた明かりが灯ることを、お祈りするのでございます。
主人と離れてから、特定の誰かの無事を祈ることが、なくなっておりましたが、向かいの家の住人の存在に気がついてから、なんだか遠い片想いをしているような気がして、むず痒く、もやもやとしてしまうのでございます。これは、ひょっとすると、こんなしわくちゃのおばあちゃんの私が、恋をしてしまったのではないか、と。思っているのでございます。まさかとは思いましたが、そのまさかであることは、明白なのでございます。流石に、昔のように恋に焦がれるようなことはなくなりましたが、いつもその動向が脳裏を掠め、思案し、時には鬱蒼とし、それでも明かりが灯るだけで、ほっとして、嬉しいなあと思いを噛み締め、また次に灯る明かりを待っている自分は、恋する乙女そのものなのではないかと、確信しているのでございます。
もちろん、私には、愛する主人がおります。その愛は、今までも変わっておらず、そしてこれからも、変わることはないのだと、喝破することができるのでございます。それなのに、恋をしたなんて、とんだ不貞でございます。そもそも、年齢はおろか、性別から容姿まで、全てが不明であるものに恋をするなんて、なんとも、不貞なおばあちゃんでございます。白髪でしわくちゃで、立つことすらままならない、こんな私が恋をするなんて、その身に余る、烏滸がましい行為であることは、百も承知なのでございます。ただ、私は何も望まないのでございます。何も望まず、ただ、窓の向こうの貴方が、健やかに生きていてくれることが、何よりも、幸せなのでございます。
私は貴方に、心の底より感謝しているのでございます。他者との関わりが希薄となった、もちろん、施設のスタッフさんや介護のヘルパーさんたちは、親切にしてくれるので、人との関わりそのものが希薄かと問われると、言い淀んでしまうことと思いますが、それは、あくまでも業務の上での話なのでございます。貴方は、私のことを知らないでか、ありのままの姿を、見せてくれているのでございます。もし、貴方をいつも眺めていることを、貴方自身が知ることがあれば、きっと、もう明かりが灯ることはなくなってしまうでしょう。私は、これから主人の元に召されるまで、貴方に知られることはなく、そして召されてからも、貴方の人生に、私の存在が入り込む余地なんて、ないのでしょう。でも、それで良いのでございます。片想いとは、そういうものでございましょう。なんだか、切なくなってまいりました。胸の奥が、ぎゅっと、締め付けられるようでございます。これは、身に余る想いを抱いた、私への、罰なのでしょう。きっと、この胸を締め付けているのは、嫉妬した主人の、あのごつごつとした手、なのかもしれません。心が揺れること自体が、不貞であるぞと、主人が私を叱りつけてくれたら、どれほど救われることか。でも、貴方は、もういない。もう、いないのです。私の隣で、もう、ありがとうとは、言ってくれないのです。だから私は、見ず知らずの貴方に、恋をした。それは、単なる代替なのかもしれません。しかし、これは恋なのです。愛なのです。ただ、何も望まぬ私の想いを、どうか、どうか、お許しください。
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