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小さな掌をふたつほど、並べたくらいの大きさで、焦茶色の天井に白い円を描いた蛍光灯は、古ぼけた畳に横たわる私の目にはすこしまぶしかった。腕を両の瞼に乗せると、暗闇が訪れるのだけれど、それはどこか嘘っぽくて、光が黒い衣を羽織っているだけのような気がするので、どことなくむずむずしてしまい、やっぱり身体を起こした。腹筋のほかに、太ももの内側がずんと重かった。
「マホ、ちょっとマホ」
ぴんぴんとしたなっちゃんが、備えつけのトイレから出てきた。
「晩ごはん、下に食べにいこうよ。そろそろ時間だよ」
ここは、料理がまずい。朝食と夕食付きでの一泊の値段は破格だが、どれもこれもまずい。食べられないほどではない絶妙なまずさなのが、たちが悪い。
「私はいいよ。いらない」
「なんでよ。せっかく用意してくれてるのに、もったいないじゃない」
「このへん、コンビニとかないの」
「ないよ、そんなの。山の中だよ、ここ」
わかりきっていることを、改めて聞いてみて、より絶望を深くしてしまう。えり好みをしてしまう私の脳みそへ、胃腸が空腹で死にそうだというエマージェンシーコールを送っていた。
背に腹はかえられない。しぶしぶ、私はなっちゃんに連れられて食堂に降りた。もっとも、食堂と呼ぶのも憚られるくらいにここの食事処は簡素で、毎日のふき掃除では追いつかない細かな汚れや埃などが時を経て蓄積し、なんとも味わい深い濃淡となった四人がけのテーブルが一つ、ぽつんとあるだけだった。
「おばちゃん、きたよ」
突然呼ばれたおばちゃんが「あらっ」と声をあげ、たるんだ頬をめいっぱい引っぱりあげた。まぶしいというよりは、騒々しい笑顔だった。
「待ってたのよぉ。昨日、美味しい美味しいって食べてくれたから、もう嬉しくって」
「だって、本当に美味しかったんですもん。ね、マホ」
「はい、とても」
こう云う他はなかった。
次々と、料理が運ばれてきた。べちゃついた白米、出汁の効かないみそ汁、小骨ばかりの焼き魚、そもそも嫌いな酢の物。手を合わせ、口に入れた。
「美味しい、美味しい」
なっちゃんは、本当に美味しそうに食べる。冷凍食品辺りのコマーシャルに出演すれば、たくさんの人々の食欲をそそることだろう。
「あれっ、なんで」
声の方に、ユウキがいた。後からヒデも入ってきた。
「あっ、もしかして」
「なんだ。宿、同じだったのか」
「へそ曲げたマホが先に帰りたがったもんだから、お互いの戻る時間がずれたんだね」
「車で送ろうと思ってたのに、気がついたら二人ともいなくなってるんだもんな。さすがにひどいと思ったぜ、あの時は」
「ごめんね」
手を合わせて、小さくおじぎをした。曖昧に笑ったユウキとヒデが隣に座る。おばちゃんがまた、次々に料理を持ってきた。
「なあ、ユウキ。この辺にコンビニとかないのか」
「あるわけないだろ。山ん中だぞ、ここ」
「そうだよな」
「どうしたんだ急に」
「いや、ここの飯まずいからさ、外ですませられないかなって」
焦燥を含んだ汗がじんわりと滲み、面妖な高揚がそれを蒸発させた。おばちゃんの姿を視界の隅に追いやって、ぼんやりと曖昧にした。急に「美味しいよ」となっちゃんとユウキが連呼しながら、目の前の料理を貪るように口へ運んだ。ユウキに頭を叩かれたあと、しぶしぶ料理を口に運んでいるヒデから、私はしばらく視線を外すことができなかった。
「おばちゃん、ごちそうさま。美味しかったよ!」
なっちゃんが快活な声をあげて私の腕をひっぱった。苦笑いするおばちゃんに手を振られながら、半ば引きづられるように食堂を後にした。
気怠い身体に妙な汗をかいたので、大浴場にむかった。赤い暖簾をくぐり、壁一面におかれた竹籠のひとつに着替えを入れて、服を脱ぎ、手ぬぐいで申し訳程度に前を隠しながら、立ちこめる湯気へと踏みいった。安っぽい蛍光灯の乏しい青白い光が、薄緑のタイルがぴしっと並んだ壁と、濡れた乳白色の床をぼんやりと照らした。乱雑に転がる、黄色いプラスチックで作られた風呂桶で湯船より湯を救い、身体を流した。じんとした。そのまま立ちあがり、足を湯船に入れようとした。
「えっ、マホ」
振り向くと、なっちゃんが泡だらけの身体で目を丸くしていた。
「身体、洗わないの?」
しまった。
「先に、浸かろうかなって」
「そっか」
断念。
「やっぱり、洗ってからにしようっと」
なっちゃんの隣に座って蛇口をひねった途端、じゃっと頭上のシャワーヘッドから冷たい水が噴射して、私の身体を打った。
「ちょっ、つめたっ」
なっちゃんにもかかった。
「わっ、ごめんっ」
あまり好きじゃない、静寂。
湯を出して、身体を洗う。横目でなっちゃんを見る。肉付きのいい腰回りに、大きなおっぱい。男にうけそうだと思った。すぐに前を向いた。
「あれは、やばいね」
なっちゃんはため息をついた。
「でも、みんなが言えなかったことを言ってくれたよ」
「言えなかったんじゃなくて、言う必要のなかったことでしょ」
「うん、そうだね」
首肯しておく。
「ああ、まったく。せっかくの料理が台無しじゃん。なんか、後味悪いよ」
味なんて元より悪いとは、さすがに言えなかった。
がらりと、戸を引く音。女湯には誰も入ってきていない。壁を隔てたむこう、男湯に、誰かが入ってきたようだ。なんの特徴もない声と、なんの特徴もない声がした。
「ヒデ、おまえ、今日ひどいぞ」
「なにが」
「自覚ないのかよ」
「だから、なにが」
「もういいよ」
嘆息。
「お前と旅行に来ると、いっつもこれだ。俺だけならとにかく、ナツキちゃんたちにも気を遣わせたらだめだろう」
「何言ってんだ。この旅行は、俺とお前で来てるんだ。俺とお前で楽しめばそれでいいだろう」
「俺が楽しむために、あの二人と仲良くしたいんだよ」
「でもそれは、俺が楽しくないぞ」
「それはしらん」
シャワーの水音が、二人の声をぼかした。
「丸聞こえだね」
声をひそめて、なっちゃんに耳打ちする。
「でも、盗み聞きなんて悪いよ」
「いいじゃん。聞いてることがバレなけりゃいいんだから。こうやってひそひそ話してれば、大丈夫だよ」
「そういうことじゃなくて」
案外、なっちゃんは繊細なのだ。
「わかった、わかったよ。でも、とりあえずお湯に浸かろうよ。浸かってるうちに聞こえてくるぶんには、不可抗力だよ。故意じゃないよ」
納得しきらないなっちゃんを湯船にいざなう。桶で湯をすくい、また身体にかけていると、なっちゃんはそのまま湯に浸かろうとしていた。
「あれ」
「ん?」
「かけ湯は?」
「え、洗ったし」
撤退。
「そうだね」
ざぶんと、肩まで浸かる。疲労が溶けてゆくような気がした。声が漏れそうだったが、抑えた。壁の向こうより、声が聞こえてくる。
「マホちゃんとはどうなんだよ」
「マホちゃん?」
「一緒に雪だるま作ってたじゃないか。自分から女の子のそばに行くなんて、ヒデにしちゃ珍しいなと思ったぜ」
きゅっと、蛇口を閉める音がした。
「気になっただけだよ」
「なにが」
「マホちゃんが」
「ちょっ」
つい、声が漏れた。
「えっ、マホちゃん?」
「あっ、ごめんね。聞くつもりはなかったんだけど」
ざばっと、湯船を上がる音がした。
「おい、ヒデ!」
「大丈夫?」
「うん、まあ、大丈夫」
「よかった」
「こうやってやりとりしてみると、丸聞こえだね」
「えへへ」
「あれ、マホちゃん一人?」
「うん、そうだよ」
「ね、お風呂上がったらさ、マホちゃんたちの部屋に行ってもいい?」
少し考えた。
「うん、いいよ」
「やった」
「私、そろそろ上がるね」
「わかった。じゃあ、あとでね」
湯船を出て、引き戸を開けた。脱衣所の扇風機が微かに唸った。
着替えて部屋に戻ると、なっちゃんとヒデがいた。風呂あがりだからなのか、どちらの顔も赤く汗ばんでいた。
「ヒデくん、さっきはどうしたの」
「いや、あの」
しどろもどろだ。
「ユウキくん、あとでこの部屋に来るって」
「えっ、そうなんだ」
なっちゃんは嬉しそうだ。
「マホさん」
ヒデはこちらに向きなおった。
「僕とお友達になってくださいませんか」
「お友達?」
「ヨコシマな気持ちはない、の意でもあります」
「でも、すでに私とヒデくんはお友達じゃない?」
「ちょっとマホ」
「一緒に雪だるまを作った仲だし」
ふっと、ヒデの顔が緩んだ。
「そうですね」
その後、ユウキがすごろくを持って部屋へやってきた。声のトーンを上げたなっちゃんとすこし表情が柔らかくなったヒデも交えて、みんなで遊んだ。なっちゃんが持ってきていたお酒も飲んだ。私はあまり強くはないけれど、雰囲気のままに少しだけ飲んだ。
すごろくを三回したところで、ユウキがお手洗いに立った。なっちゃんもそれについていった。
「マホさん、すごいですね。全部一着ですよ」
「昔からくじとかサイコロとか、そういう運は良いの」
「僕はずっとビリっけつだったなあ」
「ヒデくんは、私のこと好き?」
「えっ、いや」
しどろもどろ。
「好きじゃないの?」
「そんなことはない、です」
「そっか」
すごろくを片づける。
「私いま、お酒入ってるの」
「僕もですよ」
「ちょっと、ふらふらして」
「えっ、気持ち悪いんですか?」
「そこまでではないんだけど」
「そうですか」
長いお手洗いだな、二人。
「お布団敷こっか」
「もう寝るんですか?」
「ふらふらするし」
「じゃあ、僕は自室に戻りますね」
「お布団、敷くの手伝ってよ」
「あっ、すみません。気がつかなくて」
「本当にね」
机を寄せて、布団を二つ横並びで敷いた。
「ユウキ、遅いな」
「二人で遊んでるんじゃない?」
「お手洗いですよ?」
「まあ、ねえ」
「ちょっと、様子見てきます」
スリッパを履こうとするヒデを、後ろから抱きしめた。案外たくましい背中だった。肉の匂いがした。
そのまま一晩中、ヒデと過ごした。
翌朝、なっちゃんが戻ってきた。私はまとめておいたなっちゃんの荷物を渡した。
「ユウキくんが、車で送ってくれるって」
まだ寝息をたてているヒデを、ちらりと見た。
「ううん。私はいいよ」
「そっか」
なっちゃんはすごく嬉しそうだった。手を振るなっちゃんを見送ったあと、ヒデの身体を軽くゆすった。
「おはよう」
「あれ、ナツキさんとユウキは?」
「先に車で行っちゃったよ」
「えっ、置いていかれたの僕たち」
「そうみたいだね」
いつもの微笑を浮かべる。
「ヒデくんは、私のこと好き?」
「うん」
「そっか」
「あらたまって、どうしたの?」
「とりあえず、帰りのバスに乗ろっか」
「えっ、僕、予約なんてしてないよ」
「大丈夫だから」
空いた友達の席に、座ってもらうことにしよう。
「マホ、ちょっとマホ」
ぴんぴんとしたなっちゃんが、備えつけのトイレから出てきた。
「晩ごはん、下に食べにいこうよ。そろそろ時間だよ」
ここは、料理がまずい。朝食と夕食付きでの一泊の値段は破格だが、どれもこれもまずい。食べられないほどではない絶妙なまずさなのが、たちが悪い。
「私はいいよ。いらない」
「なんでよ。せっかく用意してくれてるのに、もったいないじゃない」
「このへん、コンビニとかないの」
「ないよ、そんなの。山の中だよ、ここ」
わかりきっていることを、改めて聞いてみて、より絶望を深くしてしまう。えり好みをしてしまう私の脳みそへ、胃腸が空腹で死にそうだというエマージェンシーコールを送っていた。
背に腹はかえられない。しぶしぶ、私はなっちゃんに連れられて食堂に降りた。もっとも、食堂と呼ぶのも憚られるくらいにここの食事処は簡素で、毎日のふき掃除では追いつかない細かな汚れや埃などが時を経て蓄積し、なんとも味わい深い濃淡となった四人がけのテーブルが一つ、ぽつんとあるだけだった。
「おばちゃん、きたよ」
突然呼ばれたおばちゃんが「あらっ」と声をあげ、たるんだ頬をめいっぱい引っぱりあげた。まぶしいというよりは、騒々しい笑顔だった。
「待ってたのよぉ。昨日、美味しい美味しいって食べてくれたから、もう嬉しくって」
「だって、本当に美味しかったんですもん。ね、マホ」
「はい、とても」
こう云う他はなかった。
次々と、料理が運ばれてきた。べちゃついた白米、出汁の効かないみそ汁、小骨ばかりの焼き魚、そもそも嫌いな酢の物。手を合わせ、口に入れた。
「美味しい、美味しい」
なっちゃんは、本当に美味しそうに食べる。冷凍食品辺りのコマーシャルに出演すれば、たくさんの人々の食欲をそそることだろう。
「あれっ、なんで」
声の方に、ユウキがいた。後からヒデも入ってきた。
「あっ、もしかして」
「なんだ。宿、同じだったのか」
「へそ曲げたマホが先に帰りたがったもんだから、お互いの戻る時間がずれたんだね」
「車で送ろうと思ってたのに、気がついたら二人ともいなくなってるんだもんな。さすがにひどいと思ったぜ、あの時は」
「ごめんね」
手を合わせて、小さくおじぎをした。曖昧に笑ったユウキとヒデが隣に座る。おばちゃんがまた、次々に料理を持ってきた。
「なあ、ユウキ。この辺にコンビニとかないのか」
「あるわけないだろ。山ん中だぞ、ここ」
「そうだよな」
「どうしたんだ急に」
「いや、ここの飯まずいからさ、外ですませられないかなって」
焦燥を含んだ汗がじんわりと滲み、面妖な高揚がそれを蒸発させた。おばちゃんの姿を視界の隅に追いやって、ぼんやりと曖昧にした。急に「美味しいよ」となっちゃんとユウキが連呼しながら、目の前の料理を貪るように口へ運んだ。ユウキに頭を叩かれたあと、しぶしぶ料理を口に運んでいるヒデから、私はしばらく視線を外すことができなかった。
「おばちゃん、ごちそうさま。美味しかったよ!」
なっちゃんが快活な声をあげて私の腕をひっぱった。苦笑いするおばちゃんに手を振られながら、半ば引きづられるように食堂を後にした。
気怠い身体に妙な汗をかいたので、大浴場にむかった。赤い暖簾をくぐり、壁一面におかれた竹籠のひとつに着替えを入れて、服を脱ぎ、手ぬぐいで申し訳程度に前を隠しながら、立ちこめる湯気へと踏みいった。安っぽい蛍光灯の乏しい青白い光が、薄緑のタイルがぴしっと並んだ壁と、濡れた乳白色の床をぼんやりと照らした。乱雑に転がる、黄色いプラスチックで作られた風呂桶で湯船より湯を救い、身体を流した。じんとした。そのまま立ちあがり、足を湯船に入れようとした。
「えっ、マホ」
振り向くと、なっちゃんが泡だらけの身体で目を丸くしていた。
「身体、洗わないの?」
しまった。
「先に、浸かろうかなって」
「そっか」
断念。
「やっぱり、洗ってからにしようっと」
なっちゃんの隣に座って蛇口をひねった途端、じゃっと頭上のシャワーヘッドから冷たい水が噴射して、私の身体を打った。
「ちょっ、つめたっ」
なっちゃんにもかかった。
「わっ、ごめんっ」
あまり好きじゃない、静寂。
湯を出して、身体を洗う。横目でなっちゃんを見る。肉付きのいい腰回りに、大きなおっぱい。男にうけそうだと思った。すぐに前を向いた。
「あれは、やばいね」
なっちゃんはため息をついた。
「でも、みんなが言えなかったことを言ってくれたよ」
「言えなかったんじゃなくて、言う必要のなかったことでしょ」
「うん、そうだね」
首肯しておく。
「ああ、まったく。せっかくの料理が台無しじゃん。なんか、後味悪いよ」
味なんて元より悪いとは、さすがに言えなかった。
がらりと、戸を引く音。女湯には誰も入ってきていない。壁を隔てたむこう、男湯に、誰かが入ってきたようだ。なんの特徴もない声と、なんの特徴もない声がした。
「ヒデ、おまえ、今日ひどいぞ」
「なにが」
「自覚ないのかよ」
「だから、なにが」
「もういいよ」
嘆息。
「お前と旅行に来ると、いっつもこれだ。俺だけならとにかく、ナツキちゃんたちにも気を遣わせたらだめだろう」
「何言ってんだ。この旅行は、俺とお前で来てるんだ。俺とお前で楽しめばそれでいいだろう」
「俺が楽しむために、あの二人と仲良くしたいんだよ」
「でもそれは、俺が楽しくないぞ」
「それはしらん」
シャワーの水音が、二人の声をぼかした。
「丸聞こえだね」
声をひそめて、なっちゃんに耳打ちする。
「でも、盗み聞きなんて悪いよ」
「いいじゃん。聞いてることがバレなけりゃいいんだから。こうやってひそひそ話してれば、大丈夫だよ」
「そういうことじゃなくて」
案外、なっちゃんは繊細なのだ。
「わかった、わかったよ。でも、とりあえずお湯に浸かろうよ。浸かってるうちに聞こえてくるぶんには、不可抗力だよ。故意じゃないよ」
納得しきらないなっちゃんを湯船にいざなう。桶で湯をすくい、また身体にかけていると、なっちゃんはそのまま湯に浸かろうとしていた。
「あれ」
「ん?」
「かけ湯は?」
「え、洗ったし」
撤退。
「そうだね」
ざぶんと、肩まで浸かる。疲労が溶けてゆくような気がした。声が漏れそうだったが、抑えた。壁の向こうより、声が聞こえてくる。
「マホちゃんとはどうなんだよ」
「マホちゃん?」
「一緒に雪だるま作ってたじゃないか。自分から女の子のそばに行くなんて、ヒデにしちゃ珍しいなと思ったぜ」
きゅっと、蛇口を閉める音がした。
「気になっただけだよ」
「なにが」
「マホちゃんが」
「ちょっ」
つい、声が漏れた。
「えっ、マホちゃん?」
「あっ、ごめんね。聞くつもりはなかったんだけど」
ざばっと、湯船を上がる音がした。
「おい、ヒデ!」
「大丈夫?」
「うん、まあ、大丈夫」
「よかった」
「こうやってやりとりしてみると、丸聞こえだね」
「えへへ」
「あれ、マホちゃん一人?」
「うん、そうだよ」
「ね、お風呂上がったらさ、マホちゃんたちの部屋に行ってもいい?」
少し考えた。
「うん、いいよ」
「やった」
「私、そろそろ上がるね」
「わかった。じゃあ、あとでね」
湯船を出て、引き戸を開けた。脱衣所の扇風機が微かに唸った。
着替えて部屋に戻ると、なっちゃんとヒデがいた。風呂あがりだからなのか、どちらの顔も赤く汗ばんでいた。
「ヒデくん、さっきはどうしたの」
「いや、あの」
しどろもどろだ。
「ユウキくん、あとでこの部屋に来るって」
「えっ、そうなんだ」
なっちゃんは嬉しそうだ。
「マホさん」
ヒデはこちらに向きなおった。
「僕とお友達になってくださいませんか」
「お友達?」
「ヨコシマな気持ちはない、の意でもあります」
「でも、すでに私とヒデくんはお友達じゃない?」
「ちょっとマホ」
「一緒に雪だるまを作った仲だし」
ふっと、ヒデの顔が緩んだ。
「そうですね」
その後、ユウキがすごろくを持って部屋へやってきた。声のトーンを上げたなっちゃんとすこし表情が柔らかくなったヒデも交えて、みんなで遊んだ。なっちゃんが持ってきていたお酒も飲んだ。私はあまり強くはないけれど、雰囲気のままに少しだけ飲んだ。
すごろくを三回したところで、ユウキがお手洗いに立った。なっちゃんもそれについていった。
「マホさん、すごいですね。全部一着ですよ」
「昔からくじとかサイコロとか、そういう運は良いの」
「僕はずっとビリっけつだったなあ」
「ヒデくんは、私のこと好き?」
「えっ、いや」
しどろもどろ。
「好きじゃないの?」
「そんなことはない、です」
「そっか」
すごろくを片づける。
「私いま、お酒入ってるの」
「僕もですよ」
「ちょっと、ふらふらして」
「えっ、気持ち悪いんですか?」
「そこまでではないんだけど」
「そうですか」
長いお手洗いだな、二人。
「お布団敷こっか」
「もう寝るんですか?」
「ふらふらするし」
「じゃあ、僕は自室に戻りますね」
「お布団、敷くの手伝ってよ」
「あっ、すみません。気がつかなくて」
「本当にね」
机を寄せて、布団を二つ横並びで敷いた。
「ユウキ、遅いな」
「二人で遊んでるんじゃない?」
「お手洗いですよ?」
「まあ、ねえ」
「ちょっと、様子見てきます」
スリッパを履こうとするヒデを、後ろから抱きしめた。案外たくましい背中だった。肉の匂いがした。
そのまま一晩中、ヒデと過ごした。
翌朝、なっちゃんが戻ってきた。私はまとめておいたなっちゃんの荷物を渡した。
「ユウキくんが、車で送ってくれるって」
まだ寝息をたてているヒデを、ちらりと見た。
「ううん。私はいいよ」
「そっか」
なっちゃんはすごく嬉しそうだった。手を振るなっちゃんを見送ったあと、ヒデの身体を軽くゆすった。
「おはよう」
「あれ、ナツキさんとユウキは?」
「先に車で行っちゃったよ」
「えっ、置いていかれたの僕たち」
「そうみたいだね」
いつもの微笑を浮かべる。
「ヒデくんは、私のこと好き?」
「うん」
「そっか」
「あらたまって、どうしたの?」
「とりあえず、帰りのバスに乗ろっか」
「えっ、僕、予約なんてしてないよ」
「大丈夫だから」
空いた友達の席に、座ってもらうことにしよう。
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