愛 源義経と白拍子

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愛 源義経と白拍子

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 牛若丸の誕生。          清和源氏の流れを汲む河内源氏の源義朝の九男として平治元年(1159年)に誕生する。九郎義経である。母は、九条院の雑仕女であるも、その姿や義朝を虜にする程の美しい女で側女とし寵愛される。その側女が「常磐御前」であり、牛若丸は、2人の兄の今若・乙若と異母兄弟であり平治元年(1159年)平治の乱勃発し、父の義朝は無謀人として囚われ敗死する。この時、牛若丸は2歳に満たない幼子であった。母常磐御前は、異母兄弟の2人の兄を連れ父義朝の無謀の係累を避ける為、「大和国」へ逃れる。そして、2人の兄達は、出家し僧侶として生きることとなる。そして、常磐御前は義朝を失うも、その美貌は、色褪せること無く、公家の一条長成に嫁ぐのであった。牛若丸は11歳迄は常磐御前と一条邸で暮らすも、「鞍馬寺」の覚日和尚に預けられた。この時「遮那王」と名乗る。しかし、遮那王は寺で修行積む内に僧になることを拒絶し、出奔する。軈て、遮那王は、近江国蒲生郡「鏡の宿」で自ら元服を行うのでした。承安4年(1174年の)3月3日の桃の節句の事である。  そして、源氏所縁の「義」と源氏初代「経基王」の字を似って実名を「義経」と改めた。この頃、2人の異母兄弟の兄達は共に大和国の預けられた寺を出奔し元服していた。「三男、源頼朝・六男、源範頼」と名乗る。       治承4年(1180年)8月17日に兄の義朝が伊豆で挙兵し、頼朝は義経に差し向けた臣下の「佐藤継信・忠信」の兄弟に数十騎の兵士とを同行させた。そして、義経は頼朝の幕下に入る。    それから、義経は、富士川の戦いで勝利した頼朝に再会し、涙の対面を果たす。そして、もう一人の兄範頼に遠征軍の指揮官を委ねるのでした。         そして、鎌倉を本拠地として腰を据える覚悟の義経でした。そのに、義経は頼朝の推挙もあって河越重頼の娘を娶る。「郷御前」と呼ばれる。この郷御膳に義経は母の常磐御膳の面影を重ねて郷御膳を愛し、中睦まじく寄り添うのでした。郷御膳との間に男子2人、女子2人、の4人の子を授かるも、後に、白拍子の「静御膳」を寵愛する。そして、静御膳は義経の子を身籠もり男子生むが、その子は日の目を拝む事無く、頼朝の命で臣下手に下り由比ヶ浜に生きたまま埋められて命を絶たれてしまう。寿永2(1183年)7月、木曽義仲が平氏を都落ちに追い込み京に入る。後白河法皇この平氏打倒の功績については、第一に頼朝、第二に義仲と評価したのであった。それは、頼朝の上洛に期待したからでした。          そして、同年8月14日に自らが擁立した「後継天皇」に北陸宮を据える事を主張し、後白河法皇の逆鱗に触れる。 「寿永宣旨」を法院は頼朝に下し、両者は対立しする。是を期に頼朝は京へ、決起するも、この頃の京の民は飢饉に喘いでいた。そこで、頼朝は義経と中原親能を代官として都に送り込んだのだった。この時の公家の綴り書きに、「頼朝の弟九郎、大将軍となり数万の軍兵を率し、上洛を企てつる」と記された。           そして、義経と親能はこの年の11月に近江国へ辿るも、この頃の軍騎は500程度であった。このような中、「法住寺合戦」が勃発し、木曽義仲は、後白河法皇を幽閉する。京の情勢は乱れ、後白河法院の笠下北面武士、大江公朝により伊勢国に移行したのであった。      これを義経は、事態の急変を頼朝に飛脚を使い知らせるのであった。そして、義経は、和泉守・平信兼らと共に、伊勢国人も率いて軍の増強を図ったのであった。そして、義経の郎党「伊勢義盛」この時義経に従ったのであった。義盛は、伊勢国の在地武士でした。    翌寿永3年(1184年)六男兄の範頼が東国から援軍を率いて、義経軍と合流するのでした。それは、正月の二十日の事。範頼軍は、近江国瀬田より攻撃し、義経軍は山城田原の攻撃し、この挾間み打ち攻撃に「志田義広」の軍勢を打ち負かした。そして、木曽義仲は敗走するが、粟津の戦いで討ち取られた。        是を期に義経軍と範頼軍は入京するのであった。         この間に、平氏は西国で勢力を立て直し回復する。そして、平氏軍は福原迄迫る。       頼朝は、範頼と義経に平氏追討を命じるのでした。義経は播磨国を迂回し、夜襲により、「平資盛」を討ち取る。この時、兄の範頼は大将軍をとして大軍を率いて2月7日「一の谷の戦い」に出征する。そして、義経は70騎で鵯越の峻厳な崖を逆落としして平氏の本陣を奇襲した。そこに範頼軍が攻め入る。これにより、平氏軍は混乱状態に落ちて、反撃の甲斐なき敗退する。範頼の率いる鎌倉軍の大勝利となるのであった。 それから、一の谷の戦い後、兄の範頼は鎌倉へ引き上げる。義経は、都に残って治安維持にあたる。この時の義経は、近国の在地武士の組織化、地方軍政を確立した。また、寺社の所領関係の裁断など民政にも関与して いった。           元暦元年(1184年)6月、朝廷の小除目が始まる。頼朝の推挙により、源氏三人が国司に任ぜられた。だが、戦で功績を挙げた義経は任ぜられなかった。この頃、兄頼朝は、弟義経の才覚に軈て「征夷大将軍」の座主を揺るがされると疑り、義経を疎ましく扱う。義経には、兄頼朝に対し、無謀の気持ちなど無ければ、兄頼朝に褒めて貰いたくて兄頼朝を慕う一途な気持ちから頼朝に尽くした。なのに、いつしか兄弟の歯車が噛み合わなくなっていくのでした。       その後、義経は平氏追討の為は西国に出陣の予定をしていたが、8月6日、「三日平氏の乱」が勃発した為、出陣は阻まれた。この為、西国へは範頼が出征した。8月、範頼は大軍を率いて山陽道を進軍し、九州に辿る。   一方、義経は、三日平氏の乱の後始末をの処理に追われていた。  その最中の事、義経は後白河法皇より「左右衛門少尉・検非遣使」任ぜられた。     9月、頼朝の周施により義経は、河越重頼の娘を娶る。「郷御前」である。郷御前は、義経との間に、男子2、女子2、を授かるのでした。中睦まじい夫婦でした。その折に、「さてこそ静が舞に知見ありとて、日の本一と宣旨を賜りける」と白拍子を称えた唄が後白河法皇は詠われた。この年の事、例年に無く、1百年に一度の日照りが続いて、この干ばつを癒す為、神泉苑では百人の高層が呼ばれて雨乞いの仁王経を読経するが効力は無く、次に後白河法皇は、美しい姿の白拍子百人を舞わせた。九十九にの舞い迄は一向に効力は無かったが、最後の一人静が舞うと、上空に曇天の雨雲が立ち込め雷鳴と伴に大粒の大雨が降り注いだ。この事を後白河法皇は、静の舞は日の本一の宣旨を静に授けた。この時、静は義経に見初められた。義経の側女の十二人の一人として堀川御所に呼ばれた。義経は、十二人の側女の中でも、静を強く寵愛した。正室の郷御前にやっかみも無く、義経に愛された。義経は、平氏が都落ちしてから堀川に邸宅を持っていた。    この頃、兄範頼の遠征軍は兵士の食いぶちの糧に喘ぎ、兵船の調達に苦労し苦しみの末、進軍は阻止される。   この状況を義経は知ると、後白河法院に出征を申し出て了承得る。  元暦二年(1185年)2月進軍編成し、僅かな少数の船で三日かかるところの讃岐国の瀬戸内海沿いにある兵士の拠点「屋島」到達した。 そこで、義経は、少数の軍を大軍に見せる為、野山や、民家を焼き払う。平氏側は是により敗走する。「屋島の戦い」は幕を閉じた。             そして、範頼は九州に渡る。そこは、平氏の最後の拠点である「長門国彦島」に向いその背後に攻め入るのでした。そして、義経は水軍を編成し、彦島に向かうのでした。             西暦3月「壇ノ浦の戦い」が勃発した。義経は、武蔵坊弁慶を伴い戦う。武蔵坊弁慶は、京の五条大橋で義経に戦いを挑むが打ち負かされ、義経のお供し、義経の傍らにいた。   義経はの俊敏な戦上手は壇ノ浦の戦いでも発揮される。「義経の八艘飛び」は今世紀迄、語り継がれている。    この戦いは、最初は平氏側が有利であったが、途中から潮の流れが変わり、攻勢は逆転した。平氏側の船より、煌びやかな女御達が、海の底に沈む。そこに、二位尼と、安徳天皇の姿があった。「海の底にも、都はございましょうや」と二位尼は安徳天皇を抱き海に沈んだ。今ではその死を痛み「安徳天皇陵」が祀られている。   この後、義経は、頼朝の平征伐の命令を軽んじて、壇ノ浦で捕らえた「平宗盛・清宗」親子を護送し、5月7日に京を立ち鎌倉へ凱旋の思案があったが、頼朝は、義経に不穏な動きありと見て、是を阻止し、平親子だけを鎌倉へ入れたのでした。   この時、義経は鎌倉郊外の「満福寺」に留め置かれた。そして、義経は兄頼朝に叛意のない事を書状に認め、頼朝の側近「大江広元」に腰越状を託したのであった。           壇ノ浦で勝利してからは、義経の功績を頼朝は素直に喜べなかった。ますます、義経との間に溝が深くなりつつあり、義経はそんな兄頼朝から離脱し、自立しようと目論むが、頼朝に悉く潰された。   そんな折、壇ノ浦の戦いで補佐を務めた「梶原景時」より「義経はしきりに平追討の功を我が一人のものとしている」と記された書状が頼朝に届く。義経は景時の意見を聞き入れず、独断専攻に、義経は、範頼の管轄である九州で腰権行為を働き頼朝より、仕事を奪い、また、配下の東国武士の達の軽い過ちでも手厳しくこれを諫めた。頼朝を通さずに勝ってな振る舞いで征伐した。その武士の恨みを買うなどがあった。そして、義経が最も頼朝の怒りを乞うたのが「吾妻鏡」の官位を頼朝の許可なく、義経は後白河法院より受けた事が逆鱗に触れるのでした。更に、義経の勝ってな振る舞いは、恩賞を求め頼朝に従っていた東国武士達の戦功を奪う結果となり、鎌倉政権の基盤の東国御家人の不満を募らせた。そこには、義経の壇ノ浦での功績に、二位尼と安徳天皇を自害に追い込み、また、朝廷との取り引きの品の「宝剣」を紛失していた。この数々の義経の功績は、失態を招いた。それは、兄頼朝の戦後構想を義経が破壊し打ち破るものでした。それが、皮肉にも義経の兵略と、勇猛果敢な大将として声望が後白河法皇の信用を高め、地武士達の人心を募らせた。その、義経が頼朝には、武家政権の確立を脅かす存在となっていき、それは、かつての平氏側の凱旋院政でもあり、義経はその頭角を現す。として、平氏の伝統を伝承する。そして、それは、後白河法皇が義経に継承させたと史実に記された。そして、平氏の捕虜の「平時忠」の娘を側女に宛がわれ迎えるも、静程の寵愛は無かった。そして、結局のところ、義経は鎌倉入りは果たされなかった。         同年六月九日、頼朝は義経に宗盛親子と重衛を伴い京洛に帰還を命じた。この時、義経は兄頼朝を深く心底恨むのであった。「関東に於いて恨みを成す輩は、義経に属べき」と言い放った。是を頼朝は聞き許さ無かった。義経の所領を悉く没収していったのでした。        そして、義経は近江国に入る。そこで、宗盛親子を捕らえ斬首の刑に処するという、奈良東大寺に焼き討ちの張本人の重衛を東大寺へ護送した。          そして、この年の8月16日に小除目(叙位任官)の一人に義経は選ばれた。義経は、「伊予守」として君臨するが、京では「左右衛門少尉・検非遣使」も兼ねての出世であった。   その最中、朝廷より配流の令が下されていたにも関わらず「平時忠」は、京を出奔せず居座る。これに頼朝は怒り、六条堀川邸の義経の様子を梶原景季(梶原景時の嫡男)を使わし「源行家」の追討を要請する。しかし、義経は源行家は同じ源氏の流れを汲むと言う理由と、自分は今病であるからと追討を断ったのであった。しかし、義経は病の床にあらず、追討を逃れる為の偽りだった。      この年の10月、これを頼朝は見破る。「義経の仮病」は、行家と義経は同行の為の嘘にあると判断し「義経討伐」を余儀なくされる。そこで、頼朝は御家人の「土佐坊昌俊」を京へ送る。  十月13日、土佐坊昌俊は、義経を問いただすと、義経は「行家に同心した」と述べた。その理由は、頼朝の国務妨害(伊予国)没官領没収、刺客を使って暗殺を企てた噂をあげ話した。  そして、義経は墨俣辺りで頼朝と戦を望むと土佐坊昌俊に告げた。  これには、法皇も仰天し、驚くも重ねて義経に心中を問う。だが義経の心中は変わらず「行家に同心である」と答えた。そして、「頼朝征伐」の宣旨を要求する。是を法皇は頼朝に伝える。頼朝は憤慨し、義経征伐は幕を開けるのであった。16日のことであった。      そして、17日、頼朝は土佐坊昌俊と、60余の騎馬軍が、六条堀川の義経邸を奇襲したのだった。「堀川夜討」がされた。義経と行家は打って出て対峙する。 この時、土佐坊昌俊を捕らえ、首謀者が頼朝であることを聞く。義経は激しく怒った。  義経は、行家を伴い後白河法皇に奏上した。  義経は、後白河法皇より、院宣を得るも、後に法院から頼朝が義経追討を院宣される。  頼朝は、24日、父の義朝供養を営む。       しかし、京の武士達は、義経につかず、逆に敵対する武士も出てくる中、義経は頼朝に窮地に追い込まれた。  そんな中、29日に頼朝は義経追討に軍を率いる。そして、11月1日には駿河国横瀬川に達した頃、義経は、九州行きを図り、3日には九州の「緒方氏」を頼り300の騎馬を率いて、京へ落ちる途中、摂津源氏の大多行綱ら諸将の襲撃に遭うが、これを撃退した。これが「河尻の戦い」であった。      義経は、6日に九州へ向けて出航するも、途中、暴風雨に見舞われ、難破し、摂津に戻された。これにより、義経は、九州落ちは天候に阻まれた。         7日、義経は、「検非違使伊予守従五位左右衛門少尉」を法院より解任される。 そして、25日に「義経と行家を捕らえよ」と法院より院宣が諸国にお触れが出された。    12月、頼朝追討の親義経派の公家を解官させた。そして、諸国に「守護.地頭」を認めさせた。それは、義経と行家を追補の為でもあった。それから、義経は郎党に、静程御膳を連れて奈良の吉野に身を隠すも、追討の為、静御膳は捕らえられた。義経は逃れる。   そして、義経は反鎌倉の貴族.社寺勢力に匿われ京の外れの地に潜伏した。そして、翌年の文治二年月(1186年)5月、泉国で、行家は鎌倉方に討ち取られた。  同年6月、源有綱も大和国で討ち取られた。  また、諸国に散り散りになっていた義経の郎党達は(佐藤忠信.伊勢義盛)等は、次々に探し出され征伐された。       そして、義経の正室の父親「河越重頼.嫡男重房」も頼朝の命にて、所領没収の後、討ち取られた。そんな中、義経は自己意思無く名前を改めさせられた。義顕と改名された。これを敗走中の義経は知る由も無く、この改名は頼朝の意向にあり勝ってに改名されていた。そして、頼朝は、京の貴族や、法院が、義経を逃がしていると憶測を募らせた。そして「義経を逃がすなら、京に大軍を送り征伐する」と鎌倉方に戦の構えを通告するのであった。            そこで、京に潜伏していた義経は京に居られなかった為、妻子と弁慶を伴い「奥州藤原氏」を頼り奥州へ赴く。その姿は、山伏に稚児であった。そして、平泉に身を寄せたのでした。この逃亡が文治3年の9月から10月頃だったと確認される。それから、義経一行が頼る「奥州藤原氏」は弱体化していく中、義経は京へ引き返すべく、叡山の僧侶に身上をしたためた書状を使わしたが、この僧侶は頼朝配下に囚われた。頼朝は朝廷に宣旨を出させて義経追討のお触れを出したのでした。弱体化していた奥州藤原氏はこれに従うしか術がなく頼朝に屈した。そして、500騎の兵で藤原基成の衣川館に隠れていた僅かな手勢の義経一行を奇襲した。武蔵坊弁慶に僅かな郎党は防戦するが、悉く討ち死にした。ここに弁慶力及ばず。そして、この衣川館を平泉兵に取り囲まれた義経は、一切立ち回らず、正室の郷御膳と、幼い4人の我が子達を連れ持仏堂に籠もるも、熾烈化する戦いの中、義経は「もはや、是まで」と覚悟を決め、意を決し、妻子を先に殺害し、その後に自身は自害し義経はこの平泉に没するのでした。     そして、義経の首は討ち取られ、黒漆の棺に酒に浸され「新田冠者高平」が43日かけ鎌倉へ使者として参じたのであった。その義経の首は、平治5年(1189年)梶原景時.和田義盛により腰越の浦で首実検が行われた。その後、義経の首は藤沢に葬られ、祭神として「白旗神社」に祀られ位牌は「荘厳寺」に置かれた。そして、胴体は奥州栗駒沼倉の「判官森」に埋葬された。     文治5年4月30日源義経自害似て死する。享年31歳。この世に未練遺る余りに若すぎる死没であった。       後に、静御膳の恋慕の舞は儚い義経との思いを歌い舞たことが史実に伝えられた。      静御膳は文治元年(1185年)の翌年大和国は吉野で頼朝配下に囚われるも、この時に静御膳は義経の胤を宿していた。頼朝は「生まれ来る赤子が女であれば助けようも、男なら容赦ない」と静御膳に言い放った。そして、静御膳は悲しくも男子を出産した。頼朝配下はその赤子を召し上げようとするが、静御膳は確り抱きすくめ放さなかった。「女に生まれ来ればよいものを…」と泣きながら赤子を連れ去られまいと身構えた。しかし、頼朝配下達は力ずくで赤子を取り上げた。その、まだ目もみえぬ赤子を由比ガ浜に穴を掘り、生きたまま投げ入れ、砂をかけて生き埋めにし殺害した。これは頼朝の命令を受けての所業であった。静御膳はそれを知り悲しみに打ちひしがれた。それから静御膳は頼朝の囚われの身となり生きる。そして、鶴岡八幡宮の社殿で静御膳は、頼朝と正室の北条政子に舞を所望された。静御膳は意に反して扇を手にし舞た。それが「しずや、しず」と義経との恋慕を舞うのでした。これに、頼朝は激怒するが、女御の北条政子に諫められた「もし、同じ立場なら我もそれを舞う」と言われ、静御膳は打ち首の所を北条政子に助けられたのでした。静御膳は打ち首を覚悟で「しずや、しず」を舞ったのではなかったのかは不明だが、愛する義経との別れと最愛の生まれて間もない息子を亡くし、我が身は頼朝の囚われとなり生きる希望が死ぬ希望に静御膳の中で置き換えられたのではなかっただろうか。悲恋を生きた哀しみの人生を儚く生きた義経を慕い時代の白拍子の静は「愛と哀しみ」の意中を表し静の舞を舞うのでした。「しずや、しず」ーーーーー
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