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2.丹生田
16.初深夜勤
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寮の仲間が帰ってからも、畑田は出てこない。
仕方なく、健朗は分かる範囲で仕事をした。
それまでの質問で不明部分は解消されていた。それとパートの高野さんに教わったことを思い出し、やるべきことをひとつひとつこなす。自分の休憩はいつなのだろうと少し考え、ときおり奥へ通じるドアをちらりと見ることはあったが、益無いことを考えるのは無駄だと黙々と働いた。
客がいない時間は調理場を整えるのも深夜勤の仕事と聞いている。床、調理台、シンク、冷蔵庫、壁や換気扇周り、鍋。すべて磨いて拭き上げ、仕込みに使うボウルや包丁もきれいに整え、気持ちよく使えるようにする。備品の置き位置が曲がっていても気になってしまうたちなので、ピカピカの状態をさらに几帳面に位置を揃えて納得したりしていた。
もちろん通常の業務内でやるべき仕事もやる。
つまりカウンターを磨き、使った食器は全て手で洗って水気を拭き、所定の場所にきちんとしまう。それらに使った布巾を洗って干し、割り箸や山椒、紅ショウガ、漬け物といったカウンターの常備品はどれもいっぱいに入れて、ピッチャーにも氷入りの水がたっぷり。氷が溶けてきたら水を捨てて氷を足す。
深夜でもポツポツと客は来て、既に酔っているのに、牛皿でビールを注文する男もいた。よく分からないことをぶつぶつ言っていたが、淡々と仕事する丹生田に「聞けよ!」といきなり怒鳴り声を上げたので、丹生田が黙って見返すとくちを閉じ、ビール一本飲み終えてすぐに帰った。
四時を過ぎて腹が減ったと思い、夜食になにか食べても良いか聞こうと思って奥を覗くと、畑田は拡げた折りたたみベッドで寝ていた。寝るときはこうするのかと納得しつつ身体を揺すって起こし「夜食はどうしたら」と聞くと、面倒そうに「牛丼食ってろよ」と言って毛布に潜り込んでしまった。
(そうか、牛丼は食い放題と聞いていたな)
それは悪くないと思ったことを思い出す。休憩は、と少し考えたが、腹が減っていたので後回しにすることにして、健朗は牛丼を可能な限り最大級の大盛りにして食べた。
食い終えて腹がくちくなり、ボウッとしていると眠くなってきたので、細々と仕事を見つけて身体を動かしていた。畑田が出てこない以上、自分が居眠りをするわけにもいかない。次は自分が仮眠を取る番だと考え、その時までは頑張ろうと、何度も床を磨いたり、壁まで磨いてみたりと、ひたすら身体を動かす。ちょっとした汚れを許せないと感じ、磨き込んでキレイにすることに没頭すると、いつものことだが時間を忘れた。やがて客が来るようになると、寝ぼけてはいけないと緊張して、時間を確かめる余裕など無くなった。
そうして結局、健朗は休憩無しで一睡もせずに、朝まで一人で店を回した。畑田が出てきたのは、五時半過ぎだったのだ。
「ふわぁ」
あくび混じりの伸びをしながら出てきた畑田が、客が二人、牛丼や牛皿を食べている店内を見回す様子を見ながら、健朗は思う。
(早番が来るのは六時二十分。これから仮眠を取るのは難しいな)
黙ったままの健朗を見た畑田はニヤリと笑い、細々とチェックを始めた。
(仕事はちゃんとしていた。なにを見られても問題無い)
そう思いながら畑田を横目で見て、健朗は黙々と仕事した。客がひとり帰ったので食器を下げて台を拭き、シンクで食器を洗う。日中、汚れた食器は食洗機に突っ込むのだが、深夜の間は手洗いだと言われたから一つ一つ洗っていた。
また客が入ってきたので、「いらっしゃいませ」と言いながら手を拭いてカウンターへ出る。
水を出し注文を聞いていると、また客が入ってくる。
「いらっしゃいませ」
聞いた注文を書いたレシートを厨房前のカウンターに置き、そちらへも水を出し、注文を受ける。
(客が増えてきたな。そろそろ朝だが、食洗機を使って良いのだろうか)
受けた注文を復唱してから、先に受けた牛丼を作って出した健朗の背中が、いきなりパンと叩かれた。
特に動じずに振り向くと、畑田が「やれるんじゃん」と、なぜか怒ったような声で言った。
言葉は褒めているが、褒めている口調ではない。どこか至らなかったのなら教えて貰う必要がある。なにを言われるのだろう、と黙ったまま畑田を見た。
しかし畑田はチラッと見ただけで、すぐに目をそらして冷蔵庫を覗きこみ、なにやらチェックして、端末をピピピと操作している。
「すみません、それはなんですか」
教わっていないと思い聞いたが、先輩はチラッと目を寄越しただけで、なにも言わず奥へ引っ込んでしまった。なんだったのだろうと少し気になったが、さっき聞いた注文を出さなければならない。次の客が入ってきたので「いらっしゃいませ!」と声を上げ、水を出すと「並と卵」と注文を受ける。復唱していたら、先に食べていた客がレジに立ったので「ありがとうございます」と言いつつレジへ向かう。
レジを打っていると畑田が出てきて、卵付き並盛りを作って出し、汚れた食器を当たり前のように食洗機へ入れたので、健朗は(もう食洗機に突っ込んで良いのだな)と思った。
その後も客は切れ目無く、この時間は客が多いのだと健朗は知った。なにかを考える余裕も無く仕事をしていたら、六時を過ぎ、店長が早めにやってきた。
早番は六時二十分の出勤だが、おそらく健朗の様子を見る為に早く来たのだろう。畑田に店を任せ、健朗を連れてひとつひとつ確認するように見て回ると、「大体いいね」と言ったが、「ただし冷蔵庫の中の整理ができていないね」と注意を受けた。
「仕込みに使う野菜や肉が来るから、入れる場所を空けておかないとね」
「済みません。以後気をつけます」
畑田が冷蔵庫を見ていたのは、これだったのだろうか。ならば教えてくれなかったのは何故だろう、と脳裏を過ぎったが、それは畑田へ聞くべきと思い、その場はきっちりと頭を下げる。
店長は「うん、次からよろしくね」と言い「お疲れさん」とねぎらう声をくれた後、「悪いけど、もうちょっと店に立っててくれるかな」と健朗に言って畑田を呼んだ。
健朗はカウンターの中に戻ったが、早番のおばちゃんが「いいよ、あたしがやるから」と言ってくれたのでカウンターの傍に立ち、せめて牛丼を作る仕事はしようと店側に顔を向けて待った。その位置だと奥の声が聞こえる。
「どう彼、大丈夫そう?」
低めた店長の声が聞こえた。
「ああ……、つうか物覚え良くて」
もごもご言っている畑田の声が聞こえ、健朗はそちらへ目を向けた。
ほぼなにも教えて貰っていないのだが、という思いで見ていた健朗は、背を丸めて頭をかいたりしていた畑田が、ちらっと自分を見て動きを止めるのを、やはり黙然と見ていた。
百九十を超える長身。広い肩幅と剣道で鍛えた筋肉質な体躯。太くまっすぐな眉の下、黒目の大きい一重の目が、まっすぐ見つめている視線を、畑田は避けるように、ふいっと目をそらし、店長に愛想笑いを向けた。
「いい新人が入ったんじゃないすか」
店長は満足げに頷き、健朗は黙したまま、少し目の力を弱めてぺこりと頭を下げて、新たに入ってきた客に声をかける。すると店長が近寄ってきて
「もうあがっていいよ、お疲れ様」
そっと声をかけてくれたので、「お先に失礼します」と小さく礼をして健朗は奥へ行った。するとさっさと着替えを済ませた畑田が、靴を履き替えていた。
「お疲れ様です」
健朗が言うと、畑田は怯えたように顔を歪ませ、ジャケットを羽織りもせずに掴んで、逃げるように出て行った。
仕方なく、健朗は分かる範囲で仕事をした。
それまでの質問で不明部分は解消されていた。それとパートの高野さんに教わったことを思い出し、やるべきことをひとつひとつこなす。自分の休憩はいつなのだろうと少し考え、ときおり奥へ通じるドアをちらりと見ることはあったが、益無いことを考えるのは無駄だと黙々と働いた。
客がいない時間は調理場を整えるのも深夜勤の仕事と聞いている。床、調理台、シンク、冷蔵庫、壁や換気扇周り、鍋。すべて磨いて拭き上げ、仕込みに使うボウルや包丁もきれいに整え、気持ちよく使えるようにする。備品の置き位置が曲がっていても気になってしまうたちなので、ピカピカの状態をさらに几帳面に位置を揃えて納得したりしていた。
もちろん通常の業務内でやるべき仕事もやる。
つまりカウンターを磨き、使った食器は全て手で洗って水気を拭き、所定の場所にきちんとしまう。それらに使った布巾を洗って干し、割り箸や山椒、紅ショウガ、漬け物といったカウンターの常備品はどれもいっぱいに入れて、ピッチャーにも氷入りの水がたっぷり。氷が溶けてきたら水を捨てて氷を足す。
深夜でもポツポツと客は来て、既に酔っているのに、牛皿でビールを注文する男もいた。よく分からないことをぶつぶつ言っていたが、淡々と仕事する丹生田に「聞けよ!」といきなり怒鳴り声を上げたので、丹生田が黙って見返すとくちを閉じ、ビール一本飲み終えてすぐに帰った。
四時を過ぎて腹が減ったと思い、夜食になにか食べても良いか聞こうと思って奥を覗くと、畑田は拡げた折りたたみベッドで寝ていた。寝るときはこうするのかと納得しつつ身体を揺すって起こし「夜食はどうしたら」と聞くと、面倒そうに「牛丼食ってろよ」と言って毛布に潜り込んでしまった。
(そうか、牛丼は食い放題と聞いていたな)
それは悪くないと思ったことを思い出す。休憩は、と少し考えたが、腹が減っていたので後回しにすることにして、健朗は牛丼を可能な限り最大級の大盛りにして食べた。
食い終えて腹がくちくなり、ボウッとしていると眠くなってきたので、細々と仕事を見つけて身体を動かしていた。畑田が出てこない以上、自分が居眠りをするわけにもいかない。次は自分が仮眠を取る番だと考え、その時までは頑張ろうと、何度も床を磨いたり、壁まで磨いてみたりと、ひたすら身体を動かす。ちょっとした汚れを許せないと感じ、磨き込んでキレイにすることに没頭すると、いつものことだが時間を忘れた。やがて客が来るようになると、寝ぼけてはいけないと緊張して、時間を確かめる余裕など無くなった。
そうして結局、健朗は休憩無しで一睡もせずに、朝まで一人で店を回した。畑田が出てきたのは、五時半過ぎだったのだ。
「ふわぁ」
あくび混じりの伸びをしながら出てきた畑田が、客が二人、牛丼や牛皿を食べている店内を見回す様子を見ながら、健朗は思う。
(早番が来るのは六時二十分。これから仮眠を取るのは難しいな)
黙ったままの健朗を見た畑田はニヤリと笑い、細々とチェックを始めた。
(仕事はちゃんとしていた。なにを見られても問題無い)
そう思いながら畑田を横目で見て、健朗は黙々と仕事した。客がひとり帰ったので食器を下げて台を拭き、シンクで食器を洗う。日中、汚れた食器は食洗機に突っ込むのだが、深夜の間は手洗いだと言われたから一つ一つ洗っていた。
また客が入ってきたので、「いらっしゃいませ」と言いながら手を拭いてカウンターへ出る。
水を出し注文を聞いていると、また客が入ってくる。
「いらっしゃいませ」
聞いた注文を書いたレシートを厨房前のカウンターに置き、そちらへも水を出し、注文を受ける。
(客が増えてきたな。そろそろ朝だが、食洗機を使って良いのだろうか)
受けた注文を復唱してから、先に受けた牛丼を作って出した健朗の背中が、いきなりパンと叩かれた。
特に動じずに振り向くと、畑田が「やれるんじゃん」と、なぜか怒ったような声で言った。
言葉は褒めているが、褒めている口調ではない。どこか至らなかったのなら教えて貰う必要がある。なにを言われるのだろう、と黙ったまま畑田を見た。
しかし畑田はチラッと見ただけで、すぐに目をそらして冷蔵庫を覗きこみ、なにやらチェックして、端末をピピピと操作している。
「すみません、それはなんですか」
教わっていないと思い聞いたが、先輩はチラッと目を寄越しただけで、なにも言わず奥へ引っ込んでしまった。なんだったのだろうと少し気になったが、さっき聞いた注文を出さなければならない。次の客が入ってきたので「いらっしゃいませ!」と声を上げ、水を出すと「並と卵」と注文を受ける。復唱していたら、先に食べていた客がレジに立ったので「ありがとうございます」と言いつつレジへ向かう。
レジを打っていると畑田が出てきて、卵付き並盛りを作って出し、汚れた食器を当たり前のように食洗機へ入れたので、健朗は(もう食洗機に突っ込んで良いのだな)と思った。
その後も客は切れ目無く、この時間は客が多いのだと健朗は知った。なにかを考える余裕も無く仕事をしていたら、六時を過ぎ、店長が早めにやってきた。
早番は六時二十分の出勤だが、おそらく健朗の様子を見る為に早く来たのだろう。畑田に店を任せ、健朗を連れてひとつひとつ確認するように見て回ると、「大体いいね」と言ったが、「ただし冷蔵庫の中の整理ができていないね」と注意を受けた。
「仕込みに使う野菜や肉が来るから、入れる場所を空けておかないとね」
「済みません。以後気をつけます」
畑田が冷蔵庫を見ていたのは、これだったのだろうか。ならば教えてくれなかったのは何故だろう、と脳裏を過ぎったが、それは畑田へ聞くべきと思い、その場はきっちりと頭を下げる。
店長は「うん、次からよろしくね」と言い「お疲れさん」とねぎらう声をくれた後、「悪いけど、もうちょっと店に立っててくれるかな」と健朗に言って畑田を呼んだ。
健朗はカウンターの中に戻ったが、早番のおばちゃんが「いいよ、あたしがやるから」と言ってくれたのでカウンターの傍に立ち、せめて牛丼を作る仕事はしようと店側に顔を向けて待った。その位置だと奥の声が聞こえる。
「どう彼、大丈夫そう?」
低めた店長の声が聞こえた。
「ああ……、つうか物覚え良くて」
もごもご言っている畑田の声が聞こえ、健朗はそちらへ目を向けた。
ほぼなにも教えて貰っていないのだが、という思いで見ていた健朗は、背を丸めて頭をかいたりしていた畑田が、ちらっと自分を見て動きを止めるのを、やはり黙然と見ていた。
百九十を超える長身。広い肩幅と剣道で鍛えた筋肉質な体躯。太くまっすぐな眉の下、黒目の大きい一重の目が、まっすぐ見つめている視線を、畑田は避けるように、ふいっと目をそらし、店長に愛想笑いを向けた。
「いい新人が入ったんじゃないすか」
店長は満足げに頷き、健朗は黙したまま、少し目の力を弱めてぺこりと頭を下げて、新たに入ってきた客に声をかける。すると店長が近寄ってきて
「もうあがっていいよ、お疲れ様」
そっと声をかけてくれたので、「お先に失礼します」と小さく礼をして健朗は奥へ行った。するとさっさと着替えを済ませた畑田が、靴を履き替えていた。
「お疲れ様です」
健朗が言うと、畑田は怯えたように顔を歪ませ、ジャケットを羽織りもせずに掴んで、逃げるように出て行った。
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