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Ep3.親子熊の涙もぬかぼっけも塩辛い
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翌日。咲空たちは祖母宅へと向かった。大成町にある、古くからの味わい残した平屋だ。
車を止めて四人で歩いていくと、玄関から中太りの男が出てきた。母の葬儀以来久しぶりに会う咲空の伯父だった。丸い腹は昔と変わらないのだが、肉付きのよい体とアンバランスに顔はこけている。その姿をぱっと見て、伯父の体調を疑ってしまうほど疲労感が滲み出ていた。
「伯父さん、ご無沙汰してました」
「最後に会ったは中学生だっけね、やんやおがったなあー。すっかり大人だっけ」
「20歳になりました。今日は突然すみません」
「なんもなんも! 家さでっけえから二人じゃ余してんだわ。ゆっくりしてけれ」
懐かしい家にあがっていざ祖母の部屋へ、というところで伯父が引き留めた。
「……ばあちゃんさ、あんべは悪くねんだけども」
見ればその表情は沈んでいる。あんべというのは体調、体などのことだ。つまり体調は悪くないが何かがあるのだろう。伯父のやつれた顔付きと合わせて、不安が生じる。
「年だっけ、仕方ねんだけどな。ばあちゃん、ボケてしまってんだわ」
「……え?」
「心配かけたくねから言わんかったんだ。ばあちゃん、おらたちのこともわがんねくなってんだ、名前とかもわやくちゃでさ」
道南の、特に海沿いの町は訛りがひどい。函館弁だ。早口な上に伯父の活舌が悪いので、アオイは不思議な顔をしている。咲空は慣れていたので意味が通じていたがアオイたちはわからないだろう。小さな声で「心配かけたくないから言わなかったけれど、おばあちゃんがボケていて自分の子供たちのこともわからず、人の名前もめちゃくちゃになっているみたいです」と呟いておいた。
咲空が知る限り、祖母はしっかりとした人で曲がったことが嫌いだった。背筋をぴんと伸ばして座り、あまり笑うことはなかった。たとえ孫だろうと間違えたことをすれば叱り、良いことをすればめいっぱい褒める。物事を理論的に語る人だったので、祖母が言うことはすべて正しいような気さえしていた。その祖母が、ぼけてしまった。高齢だから仕方ないといえ、咲空には衝撃だった。
「まあ、咲空ちゃんはばあちゃんのめんこだっきゃ、なんとかなるべ」
伯父曰く、咲空は祖母に可愛がられていた。だから何とかなるだろうと、まるで伯父自身に言い聞かせるような言葉を残して、ふすまを開く。
その先に広がる和室。いつもの座布団の上にちょこんと、背筋を伸ばして腰かける祖母がいた。
見た目は何も変わらず、ぼけているなんて思えない。お気に入りの丸眼鏡をかけて新聞を読む姿は、咲空の記憶と一致していた。
祖母が振り返る。皺が増えて痩せた顔は咲空に向けられ、それから――
「ミサキ。おめ、いつ帰ったんだ?」
祖母は咲空を、ミサキと呼んだ。
伯父も咲空も立ち尽くす。少しも身動きは取れなかった。
ミサキとは咲空の母の名前だ。祖母の目には、町を離れて久しい娘の姿が映っているのだろう。
「なした? 紋別からきたんだか?」
「……あ、私、」
どう答えるべきか、悩んだ咲空に気づいて伯父が申し訳なさそうに言う。
「わりいな、ミサキのふりしてけれ。こりゃ咲空ちゃんのこともわがんねくなってんだわ」
ここで頑なに咲空だと主張しても祖母を混乱させるだけだ。まさかここまでひどい状態だと知らず驚いていた咲空も、腹を決めた。会いにきたのは自分なのだ、母であるミサキを装って答える。
「うん。紋別から来たよ」
「むすめっこは? 咲空は置いてきたんだか?」
「……咲空は置いてきたよ」
「あれぇ。したっけ、あの人が一人で咲空の面倒を見てんだか。ゆるぐないべさ」
あの人というのはミサキの夫つまり咲空の父を指している。どうやら祖母は、ミサキが娘を夫に預けて、一人でせたな町に帰ってきたと思っているらしい。
ここでアオイに触れられたらと冷や汗をかいたが、祖母の眼中には入っていなかったようだ。ややこしいことにならず咲空はほっとした。
「ばーちゃんは体大丈夫?」
「なんもなんも。おかげさまで」
咲空の胸が、ずきりと痛む。
咲空の頭に浮かんだのは母の葬儀の時だ。厳しい祖母のことだから母が死んでも気丈に振る舞うと思っていたのに、蓋を開けてみれば遺体に縋りついて人目も憚らずに泣いていた。それほど母の死は衝撃だったのだろう。
(ぼけて忘れてしまったのは、ある意味で幸せなのかもしれないな……)
咲空を母だと思い込み、にこにこと笑う。母しか見ることのできなかった祖母が目の前にいた。
翌日。咲空たちは祖母宅へと向かった。大成町にある、古くからの味わい残した平屋だ。
車を止めて四人で歩いていくと、玄関から中太りの男が出てきた。母の葬儀以来久しぶりに会う咲空の伯父だった。丸い腹は昔と変わらないのだが、肉付きのよい体とアンバランスに顔はこけている。その姿をぱっと見て、伯父の体調を疑ってしまうほど疲労感が滲み出ていた。
「伯父さん、ご無沙汰してました」
「最後に会ったは中学生だっけね、やんやおがったなあー。すっかり大人だっけ」
「20歳になりました。今日は突然すみません」
「なんもなんも! 家さでっけえから二人じゃ余してんだわ。ゆっくりしてけれ」
懐かしい家にあがっていざ祖母の部屋へ、というところで伯父が引き留めた。
「……ばあちゃんさ、あんべは悪くねんだけども」
見ればその表情は沈んでいる。あんべというのは体調、体などのことだ。つまり体調は悪くないが何かがあるのだろう。伯父のやつれた顔付きと合わせて、不安が生じる。
「年だっけ、仕方ねんだけどな。ばあちゃん、ボケてしまってんだわ」
「……え?」
「心配かけたくねから言わんかったんだ。ばあちゃん、おらたちのこともわがんねくなってんだ、名前とかもわやくちゃでさ」
道南の、特に海沿いの町は訛りがひどい。函館弁だ。早口な上に伯父の活舌が悪いので、アオイは不思議な顔をしている。咲空は慣れていたので意味が通じていたがアオイたちはわからないだろう。小さな声で「心配かけたくないから言わなかったけれど、おばあちゃんがボケていて自分の子供たちのこともわからず、人の名前もめちゃくちゃになっているみたいです」と呟いておいた。
咲空が知る限り、祖母はしっかりとした人で曲がったことが嫌いだった。背筋をぴんと伸ばして座り、あまり笑うことはなかった。たとえ孫だろうと間違えたことをすれば叱り、良いことをすればめいっぱい褒める。物事を理論的に語る人だったので、祖母が言うことはすべて正しいような気さえしていた。その祖母が、ぼけてしまった。高齢だから仕方ないといえ、咲空には衝撃だった。
「まあ、咲空ちゃんはばあちゃんのめんこだっきゃ、なんとかなるべ」
伯父曰く、咲空は祖母に可愛がられていた。だから何とかなるだろうと、まるで伯父自身に言い聞かせるような言葉を残して、ふすまを開く。
その先に広がる和室。いつもの座布団の上にちょこんと、背筋を伸ばして腰かける祖母がいた。
見た目は何も変わらず、ぼけているなんて思えない。お気に入りの丸眼鏡をかけて新聞を読む姿は、咲空の記憶と一致していた。
祖母が振り返る。皺が増えて痩せた顔は咲空に向けられ、それから――
「ミサキ。おめ、いつ帰ったんだ?」
祖母は咲空を、ミサキと呼んだ。
伯父も咲空も立ち尽くす。少しも身動きは取れなかった。
ミサキとは咲空の母の名前だ。祖母の目には、町を離れて久しい娘の姿が映っているのだろう。
「なした? 紋別からきたんだか?」
「……あ、私、」
どう答えるべきか、悩んだ咲空に気づいて伯父が申し訳なさそうに言う。
「わりいな、ミサキのふりしてけれ。こりゃ咲空ちゃんのこともわがんねくなってんだわ」
ここで頑なに咲空だと主張しても祖母を混乱させるだけだ。まさかここまでひどい状態だと知らず驚いていた咲空も、腹を決めた。会いにきたのは自分なのだ、母であるミサキを装って答える。
「うん。紋別から来たよ」
「むすめっこは? 咲空は置いてきたんだか?」
「……咲空は置いてきたよ」
「あれぇ。したっけ、あの人が一人で咲空の面倒を見てんだか。ゆるぐないべさ」
あの人というのはミサキの夫つまり咲空の父を指している。どうやら祖母は、ミサキが娘を夫に預けて、一人でせたな町に帰ってきたと思っているらしい。
ここでアオイに触れられたらと冷や汗をかいたが、祖母の眼中には入っていなかったようだ。ややこしいことにならず咲空はほっとした。
「ばーちゃんは体大丈夫?」
「なんもなんも。おかげさまで」
咲空の胸が、ずきりと痛む。
咲空の頭に浮かんだのは母の葬儀の時だ。厳しい祖母のことだから母が死んでも気丈に振る舞うと思っていたのに、蓋を開けてみれば遺体に縋りついて人目も憚らずに泣いていた。それほど母の死は衝撃だったのだろう。
(ぼけて忘れてしまったのは、ある意味で幸せなのかもしれないな……)
咲空を母だと思い込み、にこにこと笑う。母しか見ることのできなかった祖母が目の前にいた。
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