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1巻

1-2

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 太陽の光をびてゆらりと立つ姿。丸刈りにしていた髪は少しだけ伸びた。肩幅は広く、背も伸びている。肌は前より焼けたかもしれない。テレビ越しで見たときよりたくましい。でも服装だけは昔と変わらなくて、洒落しゃれのないシンプルなシャツとジーンズ。
 隣に立つ大海が「兄貴だ」と短く言った。
 拓海を視界にとらえてから胸が痛い。鼓動はいて、港のさわがしさなんて忘れるぐらいにうるさい。あの冷えたまなざしふたつ、私をとらえたら微笑ほほえむのか。彼は私の元に駆け寄ってきたときどんな言葉をかけてくれるのだろう。『待たせたな』、それとも『ただいま』なのか。私がかける言葉はずっと前から決めていた。だから早く迎えにきてほしい。
 けれど、拓海はなかなか船を下りようとしなかった。船室を振り返って、しばらく動かない。
 誰かと話をしているらしい。それからゆっくりと右手が船室に伸び、何かをつかんだ。
 どうして。拓海は何をしているの。

「誰かいるのかな」

 大海が首をかしげた。私は彼の右手に釘づけになって動けない。
 拓海がつかんでいるもの。それは船室から引き上げられて太陽の光に当たる――白い手。

「……あれ、は――」

 息をむ。言葉を発することさえできなくなっていた。船から下りるその人物が、私の時間を止めた。
 透き通るような白い肌。日差しをさえぎる麦わら帽子。水色のワンピース。ふたりは手をつないで船を下りた。
 手を貸しただけかもしれない。きっとそうに違いない。拓海は優しいから。
 けれど船を下りてもその手が離れることはなかった。私よりも背が低いだろうはかなげな女の子。彼女は隣に立つ拓海を見上げて何か言葉を発し、ふわりと微笑ほほえんだ。

「なんだあ、鹿島の坊主が女連れで帰ってきたぞ!」
「さすが内地に行った男はちげえや」

 拓海を出迎えるために集まっていた島民の、特に男の人がやいやいとさわいでいる。小さい頃からよくしてくれた漁師のおじさんは拓海の背をばしばしとたたいて笑っているし、同じ中学だった野球部の子も拓海と女の子を交互に見て笑っていた。

「鹿島、その子なんなんだよ?」

 島民の質問攻めに耐えきれず、拓海が口を開く。
 私と拓海の間には距離があるのに、なぜかはっきりと彼の声が聞こえた。私が想像していたような『待たせたな』でも『ただいま』でもない、もっと短くて残酷ざんこくな言葉。無表情のまま、いつもの真剣な顔でつむぐ。

「彼女」

 海の音、におい、島民のさわがしさ。ここにあるあらゆるものが息をひそめて、どこかに隠れる。視界の中央に拓海と、彼女だと紹介した女の子がいて。
 止まった時間を動かしたのは、がしゃんと耳障みみざわりな音だった。手の中にあったはずのハンドルはなくなっていて、足元に自転車が転がっている。

「か……彼女って……」
「千歳ちゃん……」

 気づけば大海がこちらを見ていた。そのまなざしは私を案じているけれど、かける言葉が見つからないのかぐっとくちびるんでいる。
 もう一度、女の子を見る。マスクをつけているから、顔の下半分はわからない。まんまるとした大きな瞳。色のボブヘアーは、金色に近い茶色に染めて長く伸ばした私の髪と大違い。品のいいワンピースを着ている彼女の前だと、キャップに薄いパーカーとショートパンツなんてラフな格好をした自分が恥ずかしく思えた。田舎いなか娘の私と、品のいいお嬢様みたいな子。あの子が拓海の彼女だとしたら私は――
 そこで拓海と目が合った。自転車が倒れた音で気づいたのかもしれない。彼がこちらを見ている。見開いた目、何かを言いかけるくちびる
 私は、顔を背けた。

「店に戻る」

 何も考えたくない、見たくない。ぜんぶうそだと言ってほしい。
 逃げ出さなければ押しつぶされそうだった。自転車を拾い上げてまたがる。頭は混乱していて、ハンドルを握る手がすべりペダルを踏む足がもつれる。それでもここから逃げたい一心で、ふらつきながら前に進む。

「千歳ちゃん、待って!」

 大海の叫ぶ声がしたけれど、振り返る余裕はなかった。
 長い登り坂、自転車をいで、いで。
 とにかく拓海から離れたかった。港で見てしまったものを受けとめることができなくて、涙がぽたぽたと落ちる。立ち止まれば拓海のことばかり考えてしまうから、振り払うようにひたすら足を動かした。
 港からコンビニまでの道のりは見慣れすぎていて、拓海が帰ってくることを信じていた日々を思いだしてしまう。待ち続けた三年間。高校の制服を着て、ひとりでこの道を歩いたこと。海の向こうを眺めて拓海のことを考えたこと。自転車をいで迎えに行った今日も、ここを通って拓海のことを考えていた。それらの記憶がむなしさに変わっていく。

「っ、拓海の、ばか。ばか。知らない。最悪。ばか」

 涙を止めたくて悪態をつくも、残念ながら効果はない。満水の容器に生じた亀裂きれつからとめどなく水が漏れていくように、涙は止まってくれない。
 そんな顔でコンビニに戻ってしまったから、レジカウンターにいた奥さんは、私を見るなりあわてて出てきて、何も聞かずに抱きしめてくれた。

「何があったんだ? 鹿島の兄貴は?」

 さわぎに気づいて店長も出てくる。馴染なじみの声を聞いて、ようやく頭が冷えた。

「仕事抜けてすみません。もう大丈夫です」
「千歳ちゃん。何があったのかわからないけれど、つらいときは無理しなくていいのよ。どうせ今日はひまなんだから、主人ひとりでもなんとかなるわ」
「そうだ。俺に任せとけ。今日はもう休んでいいぞ」
「いえ、働きたいです。そのほうが楽なので」

 拓海のことがずっと頭から離れない。けれどそれと向きあう余裕がないから、感情とか記憶を遠くに放り投げてしまいたかった。段ボールに詰めてガムテープをぐるぐる巻いて、二度と開けられないように封印してしまいたい。
 普段の生活に戻らなきゃいけないと根拠こんきょのない焦りが胸中をめていた。だから働いて、今まで通りに戻りたかった。


 本島では二十四時間営業のコンビニも、美岸利島では二十一時に閉店だ。滅多めったなことがない限り島民は夜中に出歩かないので、深夜に店を開けてもあまり実入りがないし、店長夫婦の都合もあって閉店時間は早い。とはいえ、閉店後も店内の清掃や品出しなどの仕事があるので、解放されるのは二十二時前だ。
 従業員用の裏口から出て自転車のほうへ向かう。店長は店に残っていたし、奥さんはコンビニ裏にある自宅に戻っている。バスの最終時刻もすぎたこの時間に外をうろつく人は少なく、いつも通り自転車が一台残っているだけのはずだった。
 自転車の隣。人影。私以外の誰かがいると気づき、息をんだ。

「千歳」

 私が声をかけるよりも早く、その人は短く言葉を発する。
 声は今にもれてしまいそうなくらい小さいのに、影だけがやたらと大きい。すらりと伸びた体は、街灯が放つオレンジの光をびていた。
 拓海だ。あれほど待ち望んだ鹿島拓海がこんなに近くにいる。
 彼を認識してから、息をすることさえ慎重しんちょうになるほど体が緊張している。高揚こうよう感。好きな人が私を見つめていることはこんなにも幸せなんだ。込みあげる嬉しさの反面、冷えた頭は彼を拒否していた。昼間のことが浮かんでいるからうまく笑えない。ばくばくといた心臓は好意によるものか不安によるものか、その答えは出さないようにして自転車に近づく。

「ここで働いてるって聞いて、お前を待ってた」

 ばつが悪そうに拓海は言う。私は何も答えたくなかった。

「お前に話があって」
「…………」
「千歳。待てって」

 無視して通りすぎ、自転車のサドルにまたがる。拓海なんてここにはいなかったのだと自分に言い聞かせて目を合わさず、ペダルを踏みだそうとした。
 けれど自転車が動き出す瞬間しゅんかん。拓海が動いた。

「千歳! 聞いてくれ」

 ハンドルを握った私の手に重なる、拓海の手。春の夜は肌寒いからその温かさが心地いい。でも昼間はこの手が他の子に向けられていたと思うと、触れた指先を憎く感じて、拓海をにらみつける。

「触らないで。彼女いるくせに」

 苛立いらだち任せの発言とはいえ、『彼女』という単語を声に出してしまうことはとても怖かった。目の前で拓海に肯定されてしまえば、その事実を受け入れるしかない。
 その恐れは現実となって、拓海は否定せずに手を離した。触れあっていた箇所かしょが夜風に冷えていく。それは、私の心の冷え方と同じ。彼女がいるのは本当なのだと頭のしんみこんでいく。

「……ごめん」

 拓海は静かにそう言った。何に対しての謝罪なのか、言葉にして確かめることは必要なかった。たぶん私も拓海もわかっている。
 どうして彼女を作ったの。あの子が好きなの。ずっと約束を信じていたのに。言いたいことはたくさんあったけれど、口にすればもっとみじめな気持ちになる気がした。拓海は約束を守れなかったのに、私は信じていたと明かすようでばからしい。

「別に。謝る必要なんてないでしょ」

 拓海のことを待ち続けていたなんて知られたくない。この男が約束を忘れてしまったのなら、私も忘れてしまえばいい。妙なプライドがまさって、動きだしたくちびるは止まらない。とげだらけの言葉がこぼれていく。

「彼女ができたんでしょ、おめでとう。つーか何、わざわざコンビニに来て話がしたいって、彼女ができました報告? そんなのいらないって。惚気のろけたいなら海に向かって叫べば? 可愛かわいい彼女ができてよかったね」
「千歳。俺は――」

 拓海は何かを言いかけ、眉間みけんしわを寄せて苦しそうな顔をする。そして深く息を吐きながら私に告げた。

「約束守れなくて、ごめん」
「何それ、とっくに忘れた。あんたもそうだから彼女を作ったんでしょ」
「っ……それ、は……」
「帰るから。もう話しかけないで」

 言葉のとげは拓海と私のどちらに刺さっているのかわからない。確かめる余裕はなかった。昼間に大崩壊した涙腺るいせんが再び壊れてしまいそうで、これ以上拓海の顔を見ていることはできなかったから。
 自転車が動きだしても、後ろから追いかけてくる気配はない。拓海はまだオレンジ色の街灯の下に立ちつくしているのだろうか。振り返りたくなって、でもあいつには彼女がいるのだからと思いとどまった。

「約束なんて知らない。忘れた。消してしまえ」

 海岸線を自転車で走りながら、呪文のようにひとりごとをつぶやく。拓海と会った瞬間しゅんかんに幸福感を抱いてしまったなんて、私はばかだ。拓海なんて知らない。約束のことだってもう忘れてやる。


     * * *


 必ず叶うのだと信じていた恋が終焉しゅうえんを迎えた。けれど島の人達にとっては明るい日だ。島の野球少年が甲子園の地を踏み、本州で出会った彼女を連れ帰ってきたのだから。彼女連れで帰島した拓海のうわさはあっという間に広まった。
 拓海は大学に進学せず、父親の事業の手伝いを選んだ。拓海の父が経営している会社は美岸利島の特産品を扱っていて、本島や本州の飲食店に卸し、ネットショップで個人客向けの販売もしている。美岸利島は漁業が盛んな島なので、水産物や水産加工品が人気だ。
 さらに空いた時間があれば、足腰の悪い島民の家をまわって買い物代行をする。美岸利島に寄り添った仕事をする彼の父親は、島民から厚い信頼を得ていた。そんな彼をほこりに思っている拓海は、その仕事を継ごうとしている。
 私は相変わらずコンビニと実家を行ったり来たりの日々。すぐ近くに鹿島家があるから、寄り道や出発時間を調整して、拓海と顔を合わせないようにしている。とにかくあいつと関わりたくなかった。


 そうして一ヶ月がった。

「なあ、レジの上にある小銭こぜにって何だ?」

 休憩が終わってカウンターに戻ってきた店長が言った。見れば確かに小銭こぜにがある。

「……あ」

 思い当たるものがあった。先ほど来ていたお客さん、本町の鈴木すずきさんに渡すはずだったおつりだ。世間話に花を咲かせているうちに渡すのを忘れてしまった。

「すみません。おつりを渡し忘れました」
「おいおい、しっかりしてくれよお。最近ミスばっかりじゃないか」

 店長は「まあ理由はわかっちゃいるけどさ」とつぶやいて、頭をかく。これ以上のおとがめはなく、あまり怒られないこともまたむなしい。

「おつり渡し忘れたお客さん、誰かわかる?」
「本町の鈴木さんです。あとで届けに行ってきます」
「レジ番代わるから行ってきていいぞ。戻ってきたらそのまま休憩入っていいから」

 届けに行くべく上着を着ていると、コンビニの扉が開いた。やってきたのは大海だ。「ちーっす。千歳ちゃん働いてるー?」とのんに言ってずかずかと店に入ってくる。
 高校の帰り道にコンビニがあるので、シフトのない日でも大海はよく顔を出す。大海がかよっているのは島で唯一の高校で、そこは私の母校でもある。でも、シャツではなくパーカーを着てジャケットを羽織はおる大海のファッションセンスのおかげで、制服をなつかしく感じない。別物のようだ。
 鹿島兄弟は一歳違いの男兄弟のくせして、中身は似ていない。
 中学生のとき、拓海は制服を着崩さず、むしろジャージでいるほうが多かった。学校指定のカバンにエナメルのスポーツバッグ、制服のシャツは丸めてカバンに突っこみ、ジャージの上に男子制服のジャケットなんてちぐはぐな格好をしていた。でもそれが不思議ふしぎと似あっていた。お洒落しゃれ無頓着むとんちゃくな、野球命の男子。

「……千歳ちゃん?」

 大海に声をかけられてはたと気づく。大海の姿をじっと見たまま考え事にふけってしまっていった。
 何かあるたびに拓海のことを考えてしまうくせはなかなか抜けてくれない。情けないような悔しいような気持ちが込みあげるも、平静をよそおって答える。

「鈴木さんにおつり渡し忘れたから、これから届けにいってくる」
「じゃあオレもついてこうかな、ひまだし」
「来なくていいよ。ひとりで行けるから」
「だってコンビニに残っていたら店長にコキ使われるしー」

 店長の反応をうかがえば、腕まくりをしてうなずいている。

「千歳ちゃんが届けにいっている間、配送の段ボール運びしてもらっていいんだぞ? 給料は出さねえけど」
「いーやーだー!」
「ま、それは冗談だけどもよ。今の千歳ちゃんはぼーっとしてるから、車道に飛びだしそうで怖くてな。大海もついてってやれや」

 ひとりで大丈夫と主張するが店長と大海の意志は固く、大海は早々に店を出ていき自転車にまたがり、店長も早く行けとかす。結局、お供つきで本町に向かうことになった。


 本町は島の中心部にあって、町役場や公民館、商店街がある。美岸利島は島の外側が住宅街で、中央に行くにつれ町の主要施設が増えていく。
 鈴木さんの家は本町の外れにあった。町役場を通りすぎて鈴木さんの家に伺い、おつりを渡す。昔から知っている人だったので家もわかっていたし、おつりの件も「私こそ長話しちゃってごめんなさいねぇ」と許してくれた。
 その帰り道。横断歩道で信号を待っていると、町役場の隣にある白い建物に目を奪われた。

「なんだっけ、ここ」

 美岸利島にしては珍しくぴかぴかの外壁。確か去年建てられたような。この施設を利用したことがないのでいまいち覚えていない。すると大海が「知らないの?」と言った。

「病院だよ。島出身のお医者さんが帰ってきて建てたんだ」
「あー、そういえばみんなさわいでたね。『美岸利島のブラックジャック』だっけ」
「そうそう。本州では有名な血液内科の先生だよ」

 美岸利島出身の人が有名なお医者さんになったとは聞いたことがある。故郷に戻ってきたその人を、島民は『美岸利島のブラックジャック』と呼び、喜んで迎え入れた。

「でも病院なら島にもひとつあるのに、どうして新しい病院を建てたんだろ」

 私は特に興味がなかったので、彼がどんな人で何をしたのか知らなかったけれど、大海が教えてくれた。

「ここは余命宣告が出た難しい病気の人達が使う病院なんだよ。シューマツイリョウって言うんだったかな、病気を治すんじゃなくて痛みを緩和かんわさせるんだってさ」
「病院なのに病気を治さないんだ?」
「うん。これが、この病院を建てたお医者さんのやりたかったことらしいよ」
「……だとしても、わざわざド田舎いなかの島に来ることないと思っちゃう」
「山も海も自然たっぷり、こののんびりとした空気がいいんだってさ。誰も知らない場所で終わりを迎えたいって考えの人に合うって聞いたよ」

 海に囲まれた小さな島。テレビで見るような大型ショッピングモールはなく、コンビニも深夜営業はしない。インターネットの通販で買った品物は、離島料金加算があって配達日数もかかる。のんびりとしすぎている気がするのに、どうしてこの島を最後の場所に選ぶのだろう。それにブラックジャックって病を治すモグリの医者だったはず。誰がそんな名前をつけたのか。島民のセンスもずれている。
 横断歩道の向こうをもう一度見る。車いすに乗ったあの人は余命を宣告されているのだろうか。親戚しんせきの死はあれど、両親や兄弟といった身近な人の死を経験したことのない私にとって、それは未知なるもののように思えた。

「詳しいね。物知り大海くんって呼んだほうがいい?」
「あー、いや、詳しくなったのには理由があって――」

 ばつの悪そうな物言いは点灯した青信号にさえぎられる。大海の自転車は逃げるように動き出し、私もそのあとを追いかけた。
 大海の説明を思いだしながら病院を見上げる。島では少し浮いた、新しい建物。私がその場所を使うことはあるのだろうか。
 通りすぎようとしたとき――そこで、病院のドアが開いた。
 ふわ、と揺れたワンピース。太陽の下でもひときわ目立つ白い肌。視界の端に彼女が現れた瞬間しゅんかん、思わずブレーキをかけてしまった。

「……っ、今の」

 自転車を止めて振り返る。見間違いではない。
 港で見た拓海の彼女がいる。それだけではない。追いかけるように拓海も出てくる。
 どうして拓海がここにいるのか。いや、隣の彼女は。
 混乱する中、黒々とした瞳がこちらに向けられた。視線の先にあるのは私ではなく、大海だ。マスク越しだけれど彼女の表情がやわらかくなったのがわかる。それから彼女はゆっくりと手を振った。

「ひろくんだ」

 拓海もこちらを見る。大海と、それから私を。
 拓海と彼女がデートをしている。状況からそう判断して、心のどこかが痛んだ。けれどそんな痛みなど悟られたくなくて、無表情をよそおう。彼女は私に見向きもせず、こちらに歩いてきて「学校は?」と大海にいた。

「ひろくん、どうしてここにいるの?」
「学校はもう終わって、えーっと……その……」

 大海も彼女と面識があるらしい。拓海の弟だから当然のことだけど、置いてけぼりにされているような気がした。
 拓海の彼女の声を聞くのは初めてだ。陰鬱いんうつな空気など微塵みじんも感じず、月と太陽のどちらを彷彿ほうふつとするかと問われれば、迷いなく太陽と答えるような高くんだ声。美しい声の形容として『鈴を転がすような』という言葉があるのだと、国語の授業で学んだのを思いだした。その言葉がぴったり当てはまりそうな、可愛かわいらしい声だった。
 そんな彼女の視線が今度は私に向く。おそるおそるのぞき見るならまだしも、頭のてっぺんからつま先まで舐めるように観察してくるので落ち着かない。

「い、行こう。千歳ちゃん」

 私の不快感は大海にも伝わったらしく、あたふたしながらかしてくるけれど遅かった。彼女の目は爛々らんらんと輝いている。

「あなたがうわさの千歳さんね!?」

 うわさの、ってどういうことだ。眉間みけんにたっぷりしわを寄せてにらみつけるも、彼女は意に介さずこちらに寄ってきた。その後ろでは拓海があわてて追いかけてくる。港でちらりと見た、彼女の両親らしき人達も病院から出てきたところだった。
 彼女と拓海と彼女の両親がそろい踏みなこの状況。なんだこれは。そんな中、彼女は私の前に立って言った。

「わたし、あなたに会ってみたかったの!」
「……私に?」
「だってたっくんのおさな馴染なじみさんでしょう!? ひろくんからもよくお話を聞いていたの」
「たっくん……ひろくん……」
「高校のときから、たっくんって呼んでいるの。可愛かわいいあだ名でしょう?」

 奇怪なあだ名がついたものだ、と『たっくん』と『ひろくん』の表情を確かめる。私の冷ややかなまなざしに顔をらしていたことから、どちらもそのあだ名を受け入れがたいと思っているらしい。
 しかし『たっくん』とは。あの拓海がそんな呼ばれ方をしているなんて。笑ってしまいそうな反面、どうしてか苛立いらだった。
 むすっとした私と異なり、彼女は無邪気むじゃき微笑ほほえんで自己紹介を始めた。


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