不遇の花詠み仙女は後宮の華となる

松藤かるり

文字の大きさ
上 下
51 / 57
5章 呪詛、虚ろ花(後)

2.黄金の剣と華仙女(2)

しおりを挟む


 禍々しい気が満ちている。前に来た時よりも、坤母宮は邪気に淀んでいた。
 紅妍は脇目もふらず、庭に向かう。呪詛の元となる虚ろ花の場所は見当がついていた。

(百合の茂みの奥に、木香茨もっこうばらがあるはず)

 百合の花詠みをして意識を失ったとき、黒の木香茨が咲いているのを見た。木香茨の木はないというのに、地面から小枝が伸びて花を咲かせていたのだ。間違いなく虚ろ花だろう。
 紅妍は庭奥にある百合の茂みを見やる。塀の影、日の当たらないじめついた場所――百合の花をかきわけると、やはりそこに黒の木香茨があった。季は終わっているというのに、咲き誇っている。

(ここに咲くということは、木香茨は坤母宮を呪った――つまり辛皇后が呪われた)

 辛皇后は呪詛をかけられて殺されたのだ。木香茨の呪詛は辛皇后を苦しめるものだったのである。
 だが櫻春宮で見つけた百合の虚ろ花と違って、この木香茨はいまだに鬱々とした負の気を放っている。周囲に満ちる草木の生気を吸っては、それに負の感情を混ぜてどこかへ送っているようである。

(この木香茨の呪詛は終わっていない)

 木香茨の呪いが辛皇后に向けられたもので、呪詛によって辛皇后が死んだのなら――呪詛は代償を求める。呪詛を行ったものを呪うのだ。その方角はおそらく、光乾殿。

 坤母宮に流れる邪気が変わる。禍々しいだけではなく、むせかえるような血のにおいが漂った。鬼霊だ。そしてその鬼霊がどこにいるかも、わかる。紅妍は振り返らずに告げた。

「瓊花の鬼霊、いえ、辛皇后」

 この鬼霊は声を聞くはずだ。だからこそ紅妍は声に出して告げる。

「あなたは帝に呪詛をかけられて死んだのね」

 木香茨の呪詛をかけたのは間違いない、帝だ。
 呪詛は成り、呪詛をかけられた辛皇后は死んだ。だからこそ呪詛は代償を求める。帝の身を襲ったのはそのためだろう。辛皇后は代償として指を失うだけで済んだが、帝の場合は代償として失うものが指よりも大きい。それほどまで辛皇后を恨み、確実に殺したかったのだと考えられる。

 紅妍は虚ろ花となった木香茨を摘み、振り返る。そこにいたのはやはり瓊花の鬼霊となった辛皇后だった。

「……華妃、疎ましい存在よ」
「鬼霊となり痛みに耐えてでも自我を保つ。あなたがそれほどにこの世に未練を残していることは知っている。でも、どうして」

 辛皇后は紅妍を指で示す。小さな黒百合が覆う指がしめしたのは、手中にある虚ろ花だ。

「我は、帝に呪われた。許すまじ、許すまじ」
「あなただって璋貴妃を呪ったのだから、呪われたとして仕方ないでしょう」
「そうだとも。帝は我を皇后にしておきながら、璋貴妃を選んだ。だから妬ましい、腹立たしい、憎くて憎くてたまらない」

 ぐう、と憎悪に満ちた呻きが漏れる。辛皇后の胸に咲いた黒塗りの瓊花が揺れた。そこから黒い液体がたれる。花びらではなく泥のようで粘ついたものだ。花では覆いきれないほど怨念を腹にため込んでいるのだろう。
 紅妍は後ろ手に花を摘む。白百合だ。ちょうど鬼霊が呻き声をあげていたので気づかれずに済んだ。

(花があれば、とりあえずは難を逃れられる)

 完全な花渡しとならず浄土に送れなくとも、一時の難は逃れられるだろう。手に花があるだけで安心する。

「秋芳宮の宮女長を殺したのも、あなたね。どうして楊妃を陥れようとしたの」
「帝に関わるすべての者が妬ましい。楊妃も甄妃も、そして鬼霊を祓う華妃も。できることなら直接帝を斬り殺してやりたい。それができぬのは――ああ、あやつが」

 これに紅妍は首を傾げた。これほど強く自我を保っている辛皇后なら帝を襲えただろうに、それができなかった理由がわからない。

(『あやつ』とは誰だろう)

 鬼霊に立ち向かえる者がいるとしたら紅妍か秀礼だ。その二人でないとするなら一体誰が。
 しかし逡巡の間は与えられなかった。辛皇后が手を振り上げる。ぼとぼとと黒の液体が地に落ち、血のにおいが濃くなった。

「――っ!」

 咄嗟に身を翻す。少しでも判断が遅れていたら腕もしくは脚が斬られていたかもしれない。
 辛皇后は紅妍を殺める気なのだ。紅妍は唇を噛み、じりと後ずさる。

「華妃、厄介な存在、消えてしまえ」

 その言葉と共にもう一度、辛皇后が動いた。今度は横に凪ぐような動きである。
 紅妍は斜め前方の地面へと飛びこんだ。間一髪、それも避けることができた。もしも逆の手でなぎ払われていたらどうなっていたかわからない。

(いまは少し、宝剣が羨ましい)

 宝剣であれば防戦一方にはならないだろう。あれならば斬り祓うとまでいかずとも厄介な長い爪は抑えられたはずだ。

(せめて黒百合が咲く指だけでも落とせれば)

 ぎり、と奥歯を噛む。華仙術にそのような術はない。あれは宝剣に比べると柔らかなものである。花は詠みたがりの優しい存在だ。華仙術はその力を借りるだけである。

 再び辛皇后がこちらを向く。これならば白百合で花渡りをして一時の難を逃れた方がいい。いずれ復活するだろうがこの状況よりは――覚悟を決め、白百合をてのひらに乗せた時である。

「……お、叔母上、ですの?」

 門の方から声がした。鬼霊の意識がそちらに向く。紅妍も門の方を見た。

「琳琳!」

 慌てて叫ぶ。そこにいるのは辛皇后の姪である、辛琳琳だった。
 秀礼と共に光乾殿に向かったと思い、尾行する者はいないと気を緩めていた。まさかここまでついてくるとは。
 琳琳にとって辛皇后は見知った人物だろう。瓊花を縫い付けた面布で顔を隠していてもわかってしまう。青ざめ、震えた声でもう一度名を紡いだ。

「叔母上、どうして、鬼霊なんて――」

 この声を辛皇后は聞いているだろう。しかしその程度で、憎悪が晴れることはない。むしろ格好の的である。辛皇后は紅妍から琳琳へと狙いを移した。

「だめ、逃げて!」
「お、叔母上……そんな……」

 迫りくる辛皇后に怯え、琳琳は座りこんでいる。これでは逃げるどころかあの爪を避けることさえ出来ない。
 そしてこれでは花渡しをする間もないだろう。紅妍は駆けた。

(間に合え!)

 幸いにも鬼霊の動きは遅い。胸から垂れる粘ついた液体が辛皇后の動きを鈍くしているのだろう。その隙に紅妍は琳琳の前に回り込む。両手を広げて、琳琳を庇うように立ち塞がった。

「か、華妃……様……」
「立て、逃げろ! あれはもう辛皇后じゃない。妄執に囚われた鬼霊だ!」

 それでも琳琳は動けない。腰を抜かしているのだろう。その身に触れていないのに琳琳ががたがたと震えていることが伝わってくる。

(だめだ。琳琳は動けない。こうなれば身を挺して守るしか――)

 紅妍の前に鬼霊が立つ。ついに辛皇后が手を振り上げた。

(――っ、秀礼様!)

 ぎゅっと固く目を閉じる。頭に浮かぶのはなぜか秀礼のことだった。
 今頃、光乾殿にいるだろう。紅妍のことを待っているかもしれない。

(もっとおそばにいたかった。お役に立ちたかった)

 別れる前、ひどく寂しそうな目をしていた。紅妍のことを案じ、このまま光乾殿に向かってよいのかと揺らいでいたことだろう。

(大都を歩いた時も、みなで蜜瓜を食べた時も、すべてが楽しかった。わたしの一生で最大の幸福があるとすれば秀礼様がいた時だ)

 笑顔が、浮かぶ。頭を撫でられた時の、あの大きな手が愛おしい。危機は目前まで迫っているというのに、どうかもう一度と欲深いことを願ってしまう。

(遠くからでもいい。あなたが宝座に座る瞬間を見たかった)

 たとえ妃になれぬとしても。愛されぬとしても。死期を前にして思うことは、そばにいたかったという純粋な願い。

 その紅妍に、風が吹く。鬼霊が手を振り下ろしたのだ。長い爪が紅妍に向かって落ちる。
 終わりの瞬間がきたのだと、思っていた。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

皇帝は虐げられた身代わり妃の瞳に溺れる

えくれあ
恋愛
丞相の娘として生まれながら、蔡 重華は生まれ持った髪の色によりそれを認められず使用人のような扱いを受けて育った。 一方、母違いの妹である蔡 鈴麗は父親の愛情を一身に受け、何不自由なく育った。そんな鈴麗は、破格の待遇での皇帝への輿入れが決まる。 しかし、わがまま放題で育った鈴麗は輿入れ当日、後先を考えることなく逃げ出してしまった。困った父は、こんな時だけ重華を娘扱いし、鈴麗が見つかるまで身代わりを務めるように命じる。 皇帝である李 晧月は、後宮の妃嬪たちに全く興味を示さないことで有名だ。きっと重華にも興味は示さず、身代わりだと気づかれることなくやり過ごせると思っていたのだが……

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

〖完結〗その子は私の子ではありません。どうぞ、平民の愛人とお幸せに。

藍川みいな
恋愛
愛する人と結婚した…はずだった…… 結婚式を終えて帰る途中、見知らぬ男達に襲われた。 ジュラン様を庇い、顔に傷痕が残ってしまった私を、彼は醜いと言い放った。それだけではなく、彼の子を身篭った愛人を連れて来て、彼女が産む子を私達の子として育てると言い出した。 愛していた彼の本性を知った私は、復讐する決意をする。決してあなたの思い通りになんてさせない。 *設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。 *全16話で完結になります。 *番外編、追加しました。

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない

文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。 使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。 優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。 婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。 「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。 優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。 父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。 嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの? 優月は父親をも信頼できなくなる。 婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。

松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。 そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。 しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

【商業企画進行中・取り下げ予定】さようなら、私の初恋。

ごろごろみかん。
ファンタジー
結婚式の夜、私はあなたに殺された。 彼に嫌悪されているのは知っていたけど、でも、殺されるほどだとは思っていなかった。 「誰も、お前なんか必要としていない」 最期の時に言われた言葉。彼に嫌われていても、彼にほかに愛するひとがいても、私は彼の婚約者であることをやめなかった。やめられなかった。私には責務があるから。 だけどそれも、意味のないことだったのだ。 彼に殺されて、気がつけば彼と結婚する半年前に戻っていた。 なぜ時が戻ったのかは分からない。 それでも、ひとつだけ確かなことがある。 あなたは私をいらないと言ったけど──私も、私の人生にあなたはいらない。 私は、私の生きたいように生きます。

旦那様には愛人がいますが気にしません。

りつ
恋愛
 イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。 ※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。

処理中です...