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3章 宝剣の重み
4.選ばれる者と選ばれぬ者(1)
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昨晩の雨は嘘のように晴れている。夏は先だというのに地面を焦がすような陽が大都を照らしていた。
華紅妍の姿は大都にあった。隣には秀礼もいる。これは先日の文で指定されたことだった。いつぞや宮城を抜け出した時と同じように、今回も二人は抜け出したのである。
「今回は清益に怒られないようにしないとな」
気にしているのならば抜け出さないのが一番だろうに、秀礼はからからと笑っている。紅妍はというと、清益に気づかれぬことを願って身を縮ませるばかりだった。
前回と同じように露店を覗くのではなく、行き先が決まっている。西部の外れに行くと聞いた。
「大都の西側は疫病が流行っているのでは?」
「そうだ。西と南がひどい」
ならば余計に言ってはならない気がする。疫病に罹ることはもちろん、それを宮城に持ち込むこともよくないだろう。
「そう案ずるな。原因はだいたい見えている――水に触れたり、飲まなければよい」
「水、ですか」
以前大都に来た時もその話を聞いた。確か男が北の井戸から水を運んでいたはずだ。それがどうして疫病に繋がるのかと首を傾げれば、秀礼が答えた。
「大都の西と南は、丁鶴山の川から水を運んでいる。北と東、宮城は別の川から水を運んだ方が早い。この疫病に罹るのは西と南に住む者がほとんどだ」
「なるほど。水に原因があるから、発症地域が限られているということですか」
「ああ。探ったところ、西や南の水は濁っているらしい。飲まずとも触れただけで患う者がいるそうだ」
そうなれば水に良くないものが混ざっているのだろう。しかし向かうのは井戸ではなく、ある家らしい。それは西のはずれにあるそうだ。
通りから外れた道は人の気配が少ない。自然も次第に増えていく。道端には蒲公英が咲いていた。踏まれるかもしれない場所でも凜と背を伸ばし、めいっぱいに花を開いている。
「まだ遠いからな、少し休むか」
秀礼が言った。指が示す場所には小高い丘があり落葉松と木製の長椅があった。大都の民が休憩するために使っている長椅だろう。あたりに誰もいなかったので二人はそこに座る。
ほどよい、爽やかな風が吹いた。木の葉が揺れて、柔らかな音を奏でている。
「すまなかった」
秀礼が切り出す。何に対しての謝罪かわからず、紅妍は呆然とするだけであった。
「伺うと言っていたからな。待ちくたびれたことだろう。厄介な者が来ていて、その対応に終われてしまった」
「ああ、昨日のことでしたら、大丈夫です」
どうやら昨日は、紅妍が想像するよりも大変だったらしい。そのことを思い返していたらしい秀礼が深くため息を吐いた。
「良くない噂が流れていると聞いた。紅妍は大事ないか?」
「はい、今のところは。後宮での振る舞いは難しいのだなと日々痛感しています」
「……そうか」
秀礼は再びうつむく。何かを懐から取り出そうとしていたが、しばらく考え、手を止める。どうやら大事なものが入っているらしい。
「秀礼、どうなさいました?」
ここは大都であるから『様』は付けない方がいいだろう。そう判断して名を呼ぶ。しかし秀礼は目を伏せた後「い、いや何でもない」と告げた。懐に伸ばした手は何も掴めず戻ってくる。
逡巡しているような、しばしの無言が続く。紅妍から見て、秀礼は落ち着かない様子だ。
これは何か話をした方がいいだろう。そう考え、紅妍が切り出す。
「先日、辛琳琳様がいらっしゃいました」
その名が出た瞬間、秀礼の体がびくりと震えた。
「……既に行っていたのか」
「はい。冬花宮にいらしたのと、北庭園で会ったのと二度ですね」
秀礼は額を押さえた。どうやら秀礼にとって琳琳はあまり好ましくないらしい。扱いに手を焼いているというのが表情から伝わってくる。
「お前にも迷惑をかけたな。昨日、琳琳が言っていたことが、まさか本当だとは」
「ということは、昨日秀礼も琳琳様にお会いになったんですね」
「実は、あれの対応に追われて、出かけられなかった」
来客とは琳琳のことだったと判明し、けれど疑問が解けても心が晴れることはない。琳琳のことだ、紅妍についてのよくない話を吹聴して回っているのだろう。秀礼の参った様子からもそれが伝わってくる。昨日琳琳からどのような話を聞かされたのか察するのは容易だった。
「琳琳はわたしの許嫁だ」
秀礼が告げた。その言葉に、知らぬうちに紅妍の顔が強ばる。
「いまは亡き辛皇后が取り決めた縁談だ。辛皇后は元は融勒派だったが、あることで私を受入れるようになってな。何とかして後宮内の地位を確立させたかったんだろう。私の知らぬうちに縁談が決まり、琳琳もその気になっている」
現在、秀礼の妃はいない。だが年齢からして妃を迎える時期だろう。縁談が決まっていたところで何らおかしくはないのだが。
爽やかに吹き抜ける風が疎ましくなるぐらい、身がずしりと重たい。紅妍の周りだけ雨が降っているような沈んだ心持ちである。
(どうして、苦しいのだろう)
秀礼の姿に胸が痛む。苦しくて溺れているような錯覚だ。けれどちゃんと息は出来ている。気が沈んでいるだけだ。
秀礼もまた、紅妍の方を見ようとはしていない。彼の視線は地面に向けられている。どこか暗い表情をしていた。
「その琳琳が昨日言っていた。お前が融勒と親しい、と」
やはり、琳琳は北庭園で融勒と紅妍が会っていたことを話していたのだ。わかってはいたが秀礼から告げられると苦しくてたまらない。
「私としては、紅妍が派閥争いに巻き込まれることは好ましくない。お前はお前で、そのままでいいと思っている。だが周囲はそう見ないのだろう――いや、違う。それは表向きだ。本当はあの話を聞いて……」
そこで秀礼は言葉を止めた。何かを悩んでいるようである。
意を決するのには時間がかかったようだった。深く息を吸いこみ、紅妍の方を見るまでしばらく無言が続いていた。
「……私は、なぜかわからぬが、焦った」
秀礼が呟く。その言葉には、秀礼自身もわからない戸惑いが滲んでいる。
「お前が融勒と会ったところで関係はないとわかっている。けれど焦った。お前が融勒にどんな表情を向けているのか想像するだけで苛立って、筆を折りそうになるほどだ。お前宛の文を書くのも心を鎮めるまで随分と時間を要した」
「焦り……ですか?」
「なぜ焦ったのかはわからぬ。このような話をしたところで、お前も困るのかもしれないがな」
秀礼自身も答えが出ていない。しかし紅妍に伝えねば気は収まらなかったのだろう。
(融勒様と親しく話していたわけではないけれど)
ただ依頼されただけである。だというのに秀礼はひどい慌てようだ。紅妍よりも体格は大きい、だというのに怯える小さな子供のように見えてしまった。
(この人も、こんな風に慌てることがあるんだ)
新たな一面を垣間見た気がした。それが妙にくすぐったくて、紅妍はくすりと微笑む。
「……お前、」
その微笑みを秀礼はしっかりと眺めていた。驚きに目を見開いている。
「笑った、のか?」
「あ、すみません」
「いや、いい――違う、よくはない。お前が笑うのは好ましいが、この場面で笑われるのは違う。だが……お前、なぜいま笑った?」
秀礼にしては珍しくまごついている。その姿も面白く、紅妍は笑みをこぼしながら答える。
「秀礼が幼子のように見えてしまって」
「な……」
「悪い意味ではなく、です。いつも凜々しい秀礼もそのような顔をすることがあるのだなと考えて、わたしは笑ってしまったようです」
紅妍の微笑みは嬉しいのだろうが、場面を思えば複雑のようだ。秀礼は拗ねたように横を向いてしまった。
「……笑わずともよいだろう」
「すみません。でも可笑しくて」
「私は心配したのだ。融勒がお前に近づいたのは何の意味があったのか、しばらく考えていたぞ」
「それについてもお話しようと思っていました」
秀礼が表情を変えてこちらを向く。真剣な面持ちへと切り替わっていた。
「融勒様に頼まれたのです。もう一度、宝剣に触れる機会が欲しいと、わたしから秀礼にお願いしてほしいと」
どうやら秀礼が想像していたものとは異なっていたらしい。紅妍が微笑んでいたことで和んだ空気は一変して重たいものになる。
「融勒が宝剣を?」
疑うように秀礼が呟いたので、紅妍は永貴妃に頼まれたことや最禮宮で会った鬼霊、昨日七星宮で融勒から頼まれたことを明かした。
永貴妃に依頼された後は文を出しているが直接顔を合わせることはなかった。そのため話し終えるまでには時間がかかったが、秀礼が口を挟むことはなく、終わりまで黙々と聞いているようだった。
「……なるほど。最禮宮と春燕宮を行き来する鬼霊と、祓いを拒否する融勒か」
すべてを聞いたところで秀礼は再び考えこんでしまった。
丘に爽やかな風が吹いている。町の喧騒は届かない。ここは大都でもあまり人のこない場所なので、後宮とはまた違う心地よさがある。
飛んでいく鳥を追うため空を見上げる。落葉松はのびのびと光に照らされている。そこで秀礼が口を開いた。
「少し、長い話をする。宝剣が何であるのか、お前には聞いてもらった方がよいと思うからな」
華紅妍の姿は大都にあった。隣には秀礼もいる。これは先日の文で指定されたことだった。いつぞや宮城を抜け出した時と同じように、今回も二人は抜け出したのである。
「今回は清益に怒られないようにしないとな」
気にしているのならば抜け出さないのが一番だろうに、秀礼はからからと笑っている。紅妍はというと、清益に気づかれぬことを願って身を縮ませるばかりだった。
前回と同じように露店を覗くのではなく、行き先が決まっている。西部の外れに行くと聞いた。
「大都の西側は疫病が流行っているのでは?」
「そうだ。西と南がひどい」
ならば余計に言ってはならない気がする。疫病に罹ることはもちろん、それを宮城に持ち込むこともよくないだろう。
「そう案ずるな。原因はだいたい見えている――水に触れたり、飲まなければよい」
「水、ですか」
以前大都に来た時もその話を聞いた。確か男が北の井戸から水を運んでいたはずだ。それがどうして疫病に繋がるのかと首を傾げれば、秀礼が答えた。
「大都の西と南は、丁鶴山の川から水を運んでいる。北と東、宮城は別の川から水を運んだ方が早い。この疫病に罹るのは西と南に住む者がほとんどだ」
「なるほど。水に原因があるから、発症地域が限られているということですか」
「ああ。探ったところ、西や南の水は濁っているらしい。飲まずとも触れただけで患う者がいるそうだ」
そうなれば水に良くないものが混ざっているのだろう。しかし向かうのは井戸ではなく、ある家らしい。それは西のはずれにあるそうだ。
通りから外れた道は人の気配が少ない。自然も次第に増えていく。道端には蒲公英が咲いていた。踏まれるかもしれない場所でも凜と背を伸ばし、めいっぱいに花を開いている。
「まだ遠いからな、少し休むか」
秀礼が言った。指が示す場所には小高い丘があり落葉松と木製の長椅があった。大都の民が休憩するために使っている長椅だろう。あたりに誰もいなかったので二人はそこに座る。
ほどよい、爽やかな風が吹いた。木の葉が揺れて、柔らかな音を奏でている。
「すまなかった」
秀礼が切り出す。何に対しての謝罪かわからず、紅妍は呆然とするだけであった。
「伺うと言っていたからな。待ちくたびれたことだろう。厄介な者が来ていて、その対応に終われてしまった」
「ああ、昨日のことでしたら、大丈夫です」
どうやら昨日は、紅妍が想像するよりも大変だったらしい。そのことを思い返していたらしい秀礼が深くため息を吐いた。
「良くない噂が流れていると聞いた。紅妍は大事ないか?」
「はい、今のところは。後宮での振る舞いは難しいのだなと日々痛感しています」
「……そうか」
秀礼は再びうつむく。何かを懐から取り出そうとしていたが、しばらく考え、手を止める。どうやら大事なものが入っているらしい。
「秀礼、どうなさいました?」
ここは大都であるから『様』は付けない方がいいだろう。そう判断して名を呼ぶ。しかし秀礼は目を伏せた後「い、いや何でもない」と告げた。懐に伸ばした手は何も掴めず戻ってくる。
逡巡しているような、しばしの無言が続く。紅妍から見て、秀礼は落ち着かない様子だ。
これは何か話をした方がいいだろう。そう考え、紅妍が切り出す。
「先日、辛琳琳様がいらっしゃいました」
その名が出た瞬間、秀礼の体がびくりと震えた。
「……既に行っていたのか」
「はい。冬花宮にいらしたのと、北庭園で会ったのと二度ですね」
秀礼は額を押さえた。どうやら秀礼にとって琳琳はあまり好ましくないらしい。扱いに手を焼いているというのが表情から伝わってくる。
「お前にも迷惑をかけたな。昨日、琳琳が言っていたことが、まさか本当だとは」
「ということは、昨日秀礼も琳琳様にお会いになったんですね」
「実は、あれの対応に追われて、出かけられなかった」
来客とは琳琳のことだったと判明し、けれど疑問が解けても心が晴れることはない。琳琳のことだ、紅妍についてのよくない話を吹聴して回っているのだろう。秀礼の参った様子からもそれが伝わってくる。昨日琳琳からどのような話を聞かされたのか察するのは容易だった。
「琳琳はわたしの許嫁だ」
秀礼が告げた。その言葉に、知らぬうちに紅妍の顔が強ばる。
「いまは亡き辛皇后が取り決めた縁談だ。辛皇后は元は融勒派だったが、あることで私を受入れるようになってな。何とかして後宮内の地位を確立させたかったんだろう。私の知らぬうちに縁談が決まり、琳琳もその気になっている」
現在、秀礼の妃はいない。だが年齢からして妃を迎える時期だろう。縁談が決まっていたところで何らおかしくはないのだが。
爽やかに吹き抜ける風が疎ましくなるぐらい、身がずしりと重たい。紅妍の周りだけ雨が降っているような沈んだ心持ちである。
(どうして、苦しいのだろう)
秀礼の姿に胸が痛む。苦しくて溺れているような錯覚だ。けれどちゃんと息は出来ている。気が沈んでいるだけだ。
秀礼もまた、紅妍の方を見ようとはしていない。彼の視線は地面に向けられている。どこか暗い表情をしていた。
「その琳琳が昨日言っていた。お前が融勒と親しい、と」
やはり、琳琳は北庭園で融勒と紅妍が会っていたことを話していたのだ。わかってはいたが秀礼から告げられると苦しくてたまらない。
「私としては、紅妍が派閥争いに巻き込まれることは好ましくない。お前はお前で、そのままでいいと思っている。だが周囲はそう見ないのだろう――いや、違う。それは表向きだ。本当はあの話を聞いて……」
そこで秀礼は言葉を止めた。何かを悩んでいるようである。
意を決するのには時間がかかったようだった。深く息を吸いこみ、紅妍の方を見るまでしばらく無言が続いていた。
「……私は、なぜかわからぬが、焦った」
秀礼が呟く。その言葉には、秀礼自身もわからない戸惑いが滲んでいる。
「お前が融勒と会ったところで関係はないとわかっている。けれど焦った。お前が融勒にどんな表情を向けているのか想像するだけで苛立って、筆を折りそうになるほどだ。お前宛の文を書くのも心を鎮めるまで随分と時間を要した」
「焦り……ですか?」
「なぜ焦ったのかはわからぬ。このような話をしたところで、お前も困るのかもしれないがな」
秀礼自身も答えが出ていない。しかし紅妍に伝えねば気は収まらなかったのだろう。
(融勒様と親しく話していたわけではないけれど)
ただ依頼されただけである。だというのに秀礼はひどい慌てようだ。紅妍よりも体格は大きい、だというのに怯える小さな子供のように見えてしまった。
(この人も、こんな風に慌てることがあるんだ)
新たな一面を垣間見た気がした。それが妙にくすぐったくて、紅妍はくすりと微笑む。
「……お前、」
その微笑みを秀礼はしっかりと眺めていた。驚きに目を見開いている。
「笑った、のか?」
「あ、すみません」
「いや、いい――違う、よくはない。お前が笑うのは好ましいが、この場面で笑われるのは違う。だが……お前、なぜいま笑った?」
秀礼にしては珍しくまごついている。その姿も面白く、紅妍は笑みをこぼしながら答える。
「秀礼が幼子のように見えてしまって」
「な……」
「悪い意味ではなく、です。いつも凜々しい秀礼もそのような顔をすることがあるのだなと考えて、わたしは笑ってしまったようです」
紅妍の微笑みは嬉しいのだろうが、場面を思えば複雑のようだ。秀礼は拗ねたように横を向いてしまった。
「……笑わずともよいだろう」
「すみません。でも可笑しくて」
「私は心配したのだ。融勒がお前に近づいたのは何の意味があったのか、しばらく考えていたぞ」
「それについてもお話しようと思っていました」
秀礼が表情を変えてこちらを向く。真剣な面持ちへと切り替わっていた。
「融勒様に頼まれたのです。もう一度、宝剣に触れる機会が欲しいと、わたしから秀礼にお願いしてほしいと」
どうやら秀礼が想像していたものとは異なっていたらしい。紅妍が微笑んでいたことで和んだ空気は一変して重たいものになる。
「融勒が宝剣を?」
疑うように秀礼が呟いたので、紅妍は永貴妃に頼まれたことや最禮宮で会った鬼霊、昨日七星宮で融勒から頼まれたことを明かした。
永貴妃に依頼された後は文を出しているが直接顔を合わせることはなかった。そのため話し終えるまでには時間がかかったが、秀礼が口を挟むことはなく、終わりまで黙々と聞いているようだった。
「……なるほど。最禮宮と春燕宮を行き来する鬼霊と、祓いを拒否する融勒か」
すべてを聞いたところで秀礼は再び考えこんでしまった。
丘に爽やかな風が吹いている。町の喧騒は届かない。ここは大都でもあまり人のこない場所なので、後宮とはまた違う心地よさがある。
飛んでいく鳥を追うため空を見上げる。落葉松はのびのびと光に照らされている。そこで秀礼が口を開いた。
「少し、長い話をする。宝剣が何であるのか、お前には聞いてもらった方がよいと思うからな」
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