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2章 いつわりの妃

4.芍薬に悔恨を(4)

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 鬼霊の足に縋るようにして泣く霹児に胸が痛む。紅妍は彼女の肩を数度撫でた。

「大丈夫。楊妃のことは任せて」

 そう囁いて立ち上がる。紅妍の鋭い眼光は宮女長を捉えていた。

「あなたが侵した過ちは曝かれている。楊妃を殺した罪は重い」
「っ……わ、わたしは……」

 宮女長は何かを言いかけたが、そこで止めた。彼女なりに保っていた矜持は崩れてしまったのだろう。武官に腕を押さえられたまま、身を揺らしながら笑いだした。

「ふ、はは……あははは」
「……なぜ笑うの?」
「華妃。あなたはひとつだけ間違っていますよ」

 高笑いと共に、宮女長が告げる。

「霹児は永貴妃様の名を出したでしょう。それは大間違いですよ。わたしに協力したのは永貴妃様ではありません」
「では、誰が」
「鬼霊ですよ。楊妃様を殺すことも、あなたたちが霹児を探していることも、華妃を秋芳宮に呼びだして始末することもすべて鬼霊が……ぐ、う、う」

 すべてを諦めたように勢いよく語っていた唇からうめき声がこぼれる。宮女長の瞳が大きく見開かれ、肌は血色を欠いて土色に褪せていく。そしてごぼりと、水がこぼれるような嫌な音がした。

 ぼたぼたと、口から溢れて落ちていく。瓊花たまばなだ。宮女長は口から瓊花のかたまりを吐き出している。腹の中に瓊花の低木があるのかと思うほど、枝や葉、花が吐き出されていく。瓊花は薄黄がかった白色をしているはずが、どれも紅色だ。上から紅で染められたように不自然である。
 口から瓊花を吐き出し続けていた宮女長はついに事切れた。眼球はだらりと上を向き、体も力を欠いて崩れ落ちる。口から吐き出された瓊花やその枝は渡り廊下のあちこちまで至っていた。

「……なんだ、これは」

 異様な光景にあたりはしんと静まり、宮女長も動かなくなったところで秀礼が呟いた。だが誰も答えられない。花を吐き出して死ぬなどおかしなことである。
 紅妍は宮女長が吐き出した瓊花に近寄る。顔は平静を保っているが、心のうちは怯えていた。この状況は、紅妍にとっても理解しがたく恐ろしい。
 瓊花の一つを手に取ってみたが、その花は虚ろだった。

(この花は違う……生きてない。空っぽの花だ)

 生きていない花なのだ。だから人の世を眺めることをせず、記憶を持っていない。本来の草花は生きているのだが、これはそのことわりから外れた花のようである。花詠みをしても何も見えないだろう。
 紅妍は瓊花のことを諦め、楊妃の鬼霊へと戻る。霹児と約束しているのだ。楊妃を救わなければならない。

「これから、花渡しをします」
「華妃様、花渡しとは」

 霹児が訊いた。宮女長の騒動によって涙は止まったらしいが、瞼や目の周りが赤く腫れている。

「鬼霊となった楊妃の魂を祓う。楊妃を浄土へ送る」

 ちょうどよく、ここには楊妃が好んだ芍薬がある。春に咲くだろう紅芍薬を待ち望んだ楊妃は、その花によって浄土に渡るのだ。紅妍は紅芍薬を一輪摘み取り、右手に持つ。対の手には折れた銀歩揺がある。
 瞳を閉じ、鬼霊に心を向ける。楊妃の鬼霊はたやすく、その心を開いてくれた。歩揺を掘り出した紅妍に感謝していたのかもしれない。

(楊妃。あなたを浄土に送りたい)

 その胸に咲く、痛みを示す紅花。どれほど痛むのだろう。どれほど楊妃を苦しめただろう。鬼霊となってでも宮に、春に咲く芍薬を見に来ていたのだ。その思いに紅妍の胸が苦しむ。
 涙が、落ちていた。
 楊妃を思って、自然と涙がこぼれていく。それはぽたりと手中に落ちる。同時に、楊妃の体が細い煙となって芍薬に吸いこまれていった。彼女が好んだ銀歩揺も芍薬の中に消えている。
 紅妍は瞳を開いた。双眸は涙に濡れている。拭う間はない。宙を見上げて告げる。

「花と共に、渡れ」

 風が走る。芍薬は白煙となって風にのり、流れていく。紅妍の涙と共に、風に流されて浄土に向かうのだろう。
 楊妃を連れた煙が遠くの方へ流れていくのを紅妍はじっと見上げていた。花詠みをした時に見ただけの楊妃は柔らかな人だった。鬼霊となっても人を襲わず、花だけを見る優しさを持っていたのだ。

(どうか、安らかに)

 その想いが涙となって落ちる。紅妍が宙に意識を向けていた時、花渡しを終えた手に何かが触れた。それは温かい。

「……あ」

 確かめるように見れば、そこには秀礼がいた。渡り廊下から庭まで下りてきたらしい。そしてなぜか、紅妍の手を掴んでいる。

「あの、この手は」

 戸惑い訊く紅妍だったが、秀礼もなぜか戸惑っていた。自らの行動が理解できないといった表情でぽつぽつと呟く。

「いや、これは……うむ……わからん。お前の手が震えているように見えただけだ」

 紅妍は己の手へ視線を移す。震えていたのだろうか。自覚はなかった。改めて己の手を確認するも震えている様子はない。ただ、秀礼の温かな手に掴まれているだけだ。
 むしろ、秀礼の手こそ震えている。それは秀礼自身も気づいていたらしい。

「女人に触れるなど初めてではないのだが、おかしい」
「はあ……では離していただけますか」
「いやまて。それもよくない気がする」

 訳がわからない。露骨に顔をしかめる紅妍と、首を傾げる秀礼。払いのけた方がいいのだろうかと考えていれば、秀礼がぼそぼそと小さく言った。

「お前が優しいようで、でも掴まなければ壊れそうなほど、脆く見えたのだ」

 秀礼は、枯れ枝と呼んで揶揄からかうのとは違う、別の脆さを感じ取ったようだが、そこまでは紅妍に伝わらなかった。紅妍は己の腕の細さを見やる。

(枯れ枝だの痩身だの、わたしはそこまでひどい細さをしているのだろうか……)

 しんと静かな秋芳宮にぽたりと芍薬が落ちる。芍薬を愛でた主はもういない。けれど次の春も咲けばいい。
 紅妍は忘れて空を見上げる。どこか遠くの方で銀歩揺の音がしていた。
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