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10,覚悟

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 耀くんを助ける、守りたい。その思いはあれど方法がわからない。何が耀くんにとっての最良なのだろう。芽室先輩と話した日からそのことばかり考えてしまう。

 そうして悩んでも隠れ場所へ向かう足は止められない。六月になったというのにコンビニで肉まんが売っていたので、季節外れだと笑いながら二つ買った。その袋をぶらさげていつもの公園に入り、フェンスを上る。

「耀くん」

 寄り道をしていたからか、既に耀くんは着いていた。丸太に腰かけている背に声をかけると振り返る――はずだったのに。

「痛っ……華奈、か」

 動作の間に挟まれたわずかな間。腕を押さえていた耀くんの顔がかすかに歪んだ。それはほんの一瞬で、耀くんは何事もなかったかのように平静を装っていたけれど、何が起きたのか簡単に想像がつく。

 おそらく今日も、私の気づかぬ間に耀くんはいじめられていたのだろう。その痛みを隠して「隣、座らないのか?」と聞く姿が胸を苦しくさせる。無力なのだと思い知らされるようだった。

「耀くん、今日も――」

 いじめられた? そう聞きかけたところで、被せるように耀くんが喋る。

「それ。中身気になるんだけど。すげーいい匂いする」
「肉まんなの。季節外れなのに売っていたから面白くて、つい買っちゃった」
「俺の分ある?」
「もちろん。二人で食べよう」

 隣に座って、肉まんを一つ渡す。買った時についてきたおしぼりもそのまま渡した。

 梅雨時期なのもあって、空気はじめじめと重たい。今日は雨が降らなかったけれど、来週からは雨が続くようだ。この隠れ場所は一応屋根があるといえ、悪天候に弱い。この斜面をのぼることができたとしても泥まみれになるだろう。私も耀くんもそれを察していて、雨の日はここに来なかった。

「ふかふかだなあ。柔らかい」
「ちょっと冷めちゃったけど、でも美味しいね」
「……華奈、こっち向いて」

 名前を呼ばれて振り返る。すると耀くんが私の頬をぷにゅりと摘まんだ。

「え、ええっ!?」

 温かな指先に挟まれる私の頬。突然のことで混乱している私を見て、耀くんは笑った。

「前から思ってたんだけど、華奈のほっぺたもぷくぷくしてるだろ? 肉まんに負けない柔らかさ」

 そう言いながらぷにぷにと触られる頬の肉。緊張はしてしまうけれど、でも肉まんと比較されたことはなんだか悲しい。もっと可愛いものと比較してくれればよかったのに。

「……おかえし!」
「うわ、真似してきやがった」

 一人だけ遊ばれているのも悔しくて、私も耀くんの頬に触れる。何事もない顔をして頬を優しくつねったけど、本当は緊張して指が震えそうだった。

 耀くんの頬は温かくて、柔らかい。生きているんだなと実感する。好きな人の頬に触れて、触れられているのだと思うと、お互いの指先が特別なものになった気がした。

「耀くんだって肉まんに負けない柔らかさだよ」
「んなわけないだろ」
「ほんとだって!」

 夕暮れを眺めながら食べる肉まんは美味しくて、でもドキドキする。隣に耀くんがいるからだ。痛む腕を隠している切ない姿だとわかっていても、耀くんがいればそれだけで嬉しい気持ちになってしまう。こうして笑っている姿が幸せで、だからこそもっと彼の笑顔を見たいと思った。

 私、やっぱり耀くんが好きだ。だから守りたい。助けたい。

「ねえ、耀くん。提案があるの」

 どうしたら耀くんを助けられるのか。その問題は解決していない。これが最善手になるのかはわからないけれど、私の中にある薄っぺらな勇気は叫んでいた。

「……明日から、学校でも一緒にいたい。登校もお昼休みも下校も、ぜんぶ」

 それを聞いた耀くんは苦しそうに顔を歪めて、そして俯いた。きっと私のことを心配して提案を断ろうとするだろう。だからその前に、私は続ける。

「耀くんを守りたいの。私のことなら大丈夫、何をされても平気だよ」
「……それは、」
「こんな私じゃ頼りないかもしれないけど守らせて。ううん、断られてもついてく。傷つく耀くんを見たくないの……だから、お願い」

 手を伸ばして。
 綺麗に掴めるかはわからない。でも全力で掴もうとするから。その願いをこめて耀くんを見つめる。
 けれど耀くんはうつむいたままで、私の方に視線を向けることはない。

 そしてしばらくの間、私たちの間にあったのは静寂だった。きっと国道を走っている車がいるのだろう、でもその音が聞こえなくなるほど、私は耀くんの反応に意識を傾けていた。

「どうして、俺なんかにそこまでするんだよ」

 やっと聞こえてきたのは、絞り出したような小さな声。
 私はあえて明るく振る舞いながら話す。ここで弱った姿を見せてしまえば、頼りないやつだと思われてしまうかもしれないと恐れていた。

「耀くんと初めて会った時のこと、覚えてる?」
「ああ。お前、学校に行きたくないって言ってたよな」
「あれさ……私、中学校でいじめらていたの」

 不登校の理由を芽室先輩に問われた時は、口にすることができなかった。でも今は、不思議と話すことができる。まだ昇華されてなくて思い出すだけで胃が痛くなるようなものを、なぜか耀くんには打ち明けることができた。

「友達だと思っていた子に無視をされてしまったり、リーダー格の女子たちにいやがらせをされたり……あの頃は散々だった。学校に行きたくなかったもん」
「いやがらせって、何をされたんだ?」
「給食にごみを入れられたり、物を隠されたり、かな。殴られるようなことはなかったかも」

 今もまだ覚えている。平然と語れるほど気持ちの整理はついていない。
 大事にしてきた筆箱はどこかへ消えてしまったし、中学校の通学鞄には落書きだって残っている。ごみが浮いて食べられなくなったスープに、トイレの水をかけられてぐちゃぐちゃのパン。結局食べることはできず、食べることを強制されるのも怖くて、給食の時間が終わるまで教室から遠く離れたトイレに隠れていた。

 それらは鮮明に残っているのに、口にしていくと不思議なことに軽くなる。耀くんは顔をあげてこちらを見つめていて、そのまなざしが温かかったからかもしれない。

「一番辛かったのは……買い出しに走らされた時かな」
「使いパシリ?」
「そう、それ。買ってもお金を払ってくれないから、私のお小遣いから払うの。命じられたものがジュースとかお菓子みたいなどこでも買えるものならいいんだけど、簡単に買えないものだと探すのが大変で」

 耀くんは笑うことも呆れることもせず、淡々と聞く。

「何を頼まれたんだよ、それ」
「その時はお菓子とジュースとパーティ用のクラッカー、それから花火。特に花火が大変でね、夏も終わった十月だったから、どこのお店にもないの」

 もう季節は過ぎていて、花火の似合わない秋になっているというのに。私はいじめっ子たちに逆らえず、何軒も何軒も花火を探し回っていた。
 いじめっ子たちも花火の季節が過ぎたことを知っていたのだ。だけど持っていかなければ、何をされるかわからない。時計を確認し約束の時間が迫るほど、自転車を漕ぐ足が急く。夕日は沈みかけて暗くなろうとしていて、悔しさと虚しさで視界は滲んでいた。赤信号で自転車を止めるたびに涙を拭って、青になれば慌てて走り出す。

「どうなったんだ、手に入ったのか?」
「隣町の小さな商店街にいって、そこのおばあちゃんに事情を話したら、お店の奥から持ってきてくれたの。季節が終わったから奥に片付けていたけど、もう売り物にならないから持っていっていいよ、って」

 私は頷く。その時はまだ学校に行かないという選択をすることができず、この花火を渡すことで明日の平穏が得られるのだと信じていた。

 そうして苦労したものをいじめっ子たちに渡し、平穏を得られたのかといえばそれは異なる。結局いじめは十二月まで続いていて、私は学校に行けず、この公園に来ていたのだから。

 親も学校も、誰にも助けを求めることはできなかった。もしもいじめっ子にバレてしまえば、もしも両親に心配をかけてしまったら。あらゆる不安が私の選択肢を奪い、身動きは取れなくなっていく。あの時は生きていることが地獄のようで、助けてくれるものがあるとすればそれは、明日が来ないことだけ。

「華奈、」

 話終えたところで、耀くんに名前を呼ばれた。それから、ふわりと頭に落ちる手のひら。

「頑張ったな。お前、すげーよ」
「……っ、」
「いじめとかあったんだろうなって察してはいたけど。でも俺が想像するより、お前は強いやつだった」

 犬や猫を可愛がるような撫で方ではなく、その手のひらにあるのは理解。髪の毛が揺れるたび温かなものに包まれている気がした。

「辛かったな。でもそれを乗り越えてる」

 打ち明け、それを認められること。過去だけではなく今の自分も含まれたその言葉は抱えてきた苦しさに響く。程度の差はあれど、いじめという同じ問題を味わった私たちだからこそ、ここに理解が生じていたのかもしれない。

 それは、私の心臓に、記憶に、涙腺に響く。花火を探し回って泣いていた時とは違う、解放されるような熱いものがこみあげて視界を滲ませた。

「そんなことがあったのに、俺がいじめられてる場面に飛びこんでくるなんて、お前ほんとすげーやつだ。どうなってんだよお前の強さ」
「それは……」

 十二月の、絶望の底にいた私を引き上げてくれたのは耀くんだ。耀くんという目標ができたから、針の筵のような学校に戻る決意をした。あれは一筋の光で、そのためなら何をされても構わないとさえ思えた。

 すべて一人に繋がっているのだ。耀くんが好きだから。
 でも今は近くにいるだけじゃ足りなくて、もっと一緒にいたい。隠れ場所でも学校でも、耀くんの傍でその笑顔を見ていたい。

 今なら好きだと告げてもいいんじゃないか。そうすれば、頭を撫でてくれるこの手を引き止められるのではないか。

「あのね、耀くん。私――」

 薄っぺらい勇気が震える。この気持ちを告げてしまえと全身がざわついている。

 けれど。そこでちらりと茂みが揺れた。視界に入りこむのは、白い、白い。

「……っ!」

 あの、白猫だった。

 茂みからのそりと現れた躯体にふさふさの尾。ビー玉のような二つの目玉が私をじいと見つめていた。

「ん? なんだよ、何を言おうとしたんだ」

 耀くんは白猫に気づいていないようだった。その白猫は私を一瞥した後、ふらりと身を翻して去っていく。その背は何かを言いたげで、私に追ってこいと告げているようだった。

「ご、ごめん! ちょっと猫を追いかけてくる!」
「はあ? 猫ってなんだよそれ」

 言いかけたものを飲みこんで立ち上がる。かばんを手にして白猫を追いかけた。


 白猫は走るというよりも早歩きに近く、何度も振り返って私を見ていたことから追いかけていることに気づいているのだろう。
 そうして隠れ場所から離れて、国道も見えないような茂みの奥。伸びた草はそのままで耀くんが立ち入った後すらないような、鬱蒼とした場所でようやく白猫は止まった。

「……し、白猫、さん」

 草木に阻まれ、足を滑らせたらと恐ろしくなるような傾斜が続く中をひたすら追いかけてきたのだ。私の息はあがって、これ以上走ることはできないほどに疲れていた。

 白猫はくるりと振り返ってこちらを見る。あくびをするように大きく口を開いたと思えば、出てきたのは落ちついたいつもの声音だった。

「くだらない恋愛ごっこだ。何が勇気だ、何が強さだ。絶望していたお前を助けたのがあの男なんて、笑わせる」
「そ、それは……」
「お前に勇気なんぞあるものか。お前は、まもなく地球が殺されると知っているだけのずるい人間だ」

 その言葉は、ぴしりと体に突き刺さる。

 否定をすることはできなかった。白猫の言う通り、約束を知っているから行動できているだけ。耀くんや芽室先輩が言うような強さなんて私は持っていない。

「明日を殺せと願った者が、死を前にして想いを告げる。ああ、滑稽だ滑稽だ。お前は地球どころか自分もあの男も殺してしまうのにな」
「で、でも。今の耀くんを放っておけない、私は耀くんのことが――」
「池田華奈。勘違いするなよ。人を助けることは時に自らを傷つける。あの男を助けるヒーローなのだと酔って浅い気持ちで踏みこめば、どん底に落ちるのはお前だ」
「それは耀くんを助けるな、ってこと?」
「解釈はお前次第。願いには覚悟が必要だ」

 白猫は再び歩き出す。もう走れない私を嗤うようにちらりと振り返って、告げた。

「夏休みが終わると共に地球を殺す。そう願ったのはお前だよ」

 白猫の尾が左右に揺れていた。奇妙なリズムを描くそれを見つめながら、私は自らの浅はかな願いを後悔していた。十二月の私は、なんて約束をしてしまったのだろう。今になって、その約束の重さがのしかかる。
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