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楠木正成の忠義

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7.葛藤

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三学期が始まり、皆は受験という戦へ向けて兜の緒を締めに締めていた。締めすぎた一部の連中は、へとへとになって休み時間は寝ていることもあるくらいだった。だが、皆授業や自習の時間は必死だった。A組は比較的、学力の高い生徒が多いと言われていた。優秀な生徒は、学校の授業が何よりも受験に有効だと考え、先生の話す言葉を一字一句聞き逃さずにメモするような心意気で臨んでいた。そんな中で僕の学力は、クラスの中でこれでもかと言うほど、ど真ん中のレベルだったと思う。
   さて、僕とひかりの関係は忘年会を機に変化していた。会話は目に見えて減り、僕以外の生徒との関係も以前のように自然と談笑し合うそれではなくなっていた。
  「ねえ、富永君。ひかりのことなんだけど。ちょっと良い?」
   ある日の放課後、担任の橋本先生から呼び止められた。
  「はい、何でしょう?」
    僕は座席に座るよう勧められた。二人で向かい合っての話が始まった。
  「ひかり、最近元気ないわよね。あなた、何か知らない?」
    橋本先生が生徒の名を呼ぶ時、下の名前で呼び捨てにすることなど殆どなかった。それは複雑な事情を抱えるひかりへの、先生なりの気遣いだったと思う。
  「僕もよく分からないんです…。変わりましたよね…。格段に元気がなくなりました」
  「そうなの…それが不安で…」
  「性自認に関して、何か傷つくようなことがあったんでしょうかね…」
  「そうねぇ。あの子の心が一番動くのは、やはりその問題よね」
  「はい…。正しいかどうかは分からないんですが、僕らサッカー部で忘年会をやったんです。その時にちょっとした事件がありまして。それがきっかけのような気もします」
   「どんな事件?」   
    僕はひかりがサッカーのミニゲーム中、竹下に吹っ飛ばされて怪我したことを話した。
   「竹下君。彼は背も高いし、筋肉質よね。体は女子であるひかりが吹っ飛ばされたとしてもさほど不思議はない…こんなこと言ってはだめかしら」
    二人の間に微妙な空気が流れ、暫しの沈黙が訪れた。
  「まあ、竹下には僕も吹っ飛ばされたことがあります。彼は本当に強靭な体躯をしてまして。僕はどちらかと言うと痩せ型なので羨ましい限りです」
   尚も沈黙は続いた。また口を開いたのは僕だった。
  「恐らくですが…ひかりはサッカーで性差と言うものをまざまざと見せつけられてきたのではないでしょうか…。小学生の時、サッカーをやっていたそうですが、サッカーはテクニックだけでなく、スピードや体の強さも重要なスポーツです。小さい頃はあまり関係ないですが、体が成長するに従ってそれをもろに実感するようになったのだと思います」
  「そうなのね…。何とかひかりの力になってあげることはできないかな…」
  「話を聞くだけでも違うと思います。と言うか、それくらいしか出来ることはないかもしれません。彼と出会ってから三ヶ月。その心はとても緻密で繊細です。何となくですが、そう感じます。心と身体の問題で悩み続けてきた人生だったのだと思います」
  「そうね…ひと時も気の休まることはなかった…」
  「こんなこと面と向かって言うのはなんですが、橋本先生になら何でも相談できるかなって思いますね」
   「ありがとう。あなた優しいのね。凄く励みになる」
    橋本先生の悩み相談が終わると僕はひかりの家に向かった。彼のご両親はまだ帰っていないはずだ。彼の心を閉ざす何かを僕は探りたかった。その為には直接話すことが重要になってくる。だが、よそよそしくなっている僕らの関係が続く限り、彼が僕の訪問を受け付けることは困難を極めるだろう。
    僕は彼の住むマンションに来た。そびえ立つ建物は、僕を見下ろしていた。だが快く受け入れていはいない気がした。無関心ではないが、歓迎はしていなかった。いつもより影が目立ち、差し込む夕日をはねつけているように見える。今のひかりの陰気で朧気な心境を表していた。
  「ピンポーン」
    彼の部屋に着き、チャイムを鳴らした。その音もどことなく暗い。そして結論から言うと、彼は居留守を使っていた。中からガサゴソと音がする。放課後のこの時間、恐らく彼は出かけずに勉強しているはずだ。下手な詮索をすればデリケートな彼の心を抉ることにもなりかねないと思い、僕はその場を立ち去った。僕だって受験生なのだ。勉強以外のことに時間を取られるわけにはいかない。
    翌日もその翌日も、僕はひかりと挨拶程度の会話しかできなかった。放課後の訪問もやったが、空振りだった。ひかりは他の生徒ともほんの事務的な会話しかしていなかった。彼自身がそれを望んていたようだったし、僕はそれに対して、複雑な気持ちを抱いていた。
   ひかりに対し、どんなことでも無理強いはしたくなかった。ひかりは僕にとって本当に大切な友達だった。だから僕は待った。待ち続けた。   
    一月も後半に入った。私立高校の推薦入試がひと段落し、都立の推薦入試が行われた。僕は私立も都立も推薦入試を受けなかった。合格したら即入学と言うプレッシャーはとても厳しいものだ。それに学校の成績にはさほど自信がない。一般入試に集中するのは、当然の選択と言えた。
    私立高校でも都立高校でも、僕はとにかく入学するしかない。サッカーも続けたいし、将来のことを考えても進学は必ず成功させなければならない。それはどの生徒にとっても同じことだ。就職するにせよ進学するにせよ、義務教育を終えた僕らの辿る道は前途洋々とは限らない。だからこそ、周到な準備が必要なのだ。
   「ねぇ富永君、今日の放課後大丈夫かしら?」
    推薦入試がひと段落した二月の頭頃、僕は担任の橋本先生から声をかけられた。直感的にひかりのことだと思った。そして実際に 話をすると、予想通りであることが分かった。
  「ひかりの…ことなんだけどね…。話をしたのよ、私たち。最初は進路のことで話しててね。そのついでと言ったらなんだけど、聞いてみたの。あなたやクラスメートと疎遠になってることをね」
    先生が話をし始めると、僕の心臓は何かに圧迫されるかのように激しくリズムを刻み始めた。苦しいほどに僕の胸の中で波打っていた。
  「初めは少し躊躇っていたのだけど、教えてくれた。やっぱり悩んでるのは性のことだったみたい。今から詳しくあなたには話すけど、他の生徒に言ってはダメよ」
  「まあ…そうですよね。分かりました」
  「実は彼があなただけには話して欲しいと言ってたのよ。今、疎遠になって話しにくいから。だからこうやって話す場を設けたのだけどね」
  「本当…ですか?」
    僕は嬉しかった。彼はまだ僕のことを特別な友人として見てくれていたのだ。その証だ。その証に僕には
  「きっかけはご家族との会話だったみたいなの。ひかりはね、すぐ上のお姉さんと仲が良くないらしいの。お姉さんは二年前に実家を出て、地方で暮らしているらしいの。何の職業かは分からないけど、そちらで就職したそうなの」
   「そうなんですね」
   「そう。それでね。そのお姉さんがね、年末に仕事の合間を見て帰ってきたらしいの。ちょうどあなた達サッカー部の忘年会の日のことよ。そのお姉さんとひかりが、ひょんなことで口論になったらしいのよ。その時にまずいことが起きたみたい」
   僕は息を呑んだ。息だけでなく覚悟も飲み込んだ。覚悟を自分のものにしたかった。そうでないとこれから聞く話で気が動転するかもしれないような気がした。ひかりの存在はそれだけ大きなものになっていた。
   「お姉さんにね…私はちゃんとした妹が欲しかったのに…って…言われたらしいのよ。あなたみたいな弟か妹か分からないような子がなぜ兄弟なのかって…」
  「そ、そんな…」
    橋本先生の目に涙が浮かんでいた。涙混じりの先生の声が僕の胸を突き刺した。正確に言えば、先生の声が伝える言葉の一つ一つが僕の胸を突き刺していた。
  「あの子ね…それでとても傷ついたらしいの…お姉さんとはそれっきり口も聞かないまま、また離れたみたい…」
  「そうだったんですか…そしてその後に、忘年会でサッカーをやって竹下に突き飛ばされた…」
  「そう…ね…」
   橋本先生は泣き腫らした目で下を向いていた。先生自身も彼のこの告白を受けてかなり悩んだのだろう。
  「お姉さんには存在を否定され、その後にやったサッカーでは、心の性である男子との性差を見せ付けられる…何ていう一日だったんでしょうか…」
   竹下との衝突は普段であれば笑い話で済まされたはずだ。だが、あの日はそうではなかった。あの衝突こそ、彼の苦難のハイライトと言っても良かった。
  「今、思い返すと…竹下とぶつかった時、ひかりは途轍もなく寂しい目をしていた気がします。それは悔しさとも違います。寂しさ、または絶望と取れるかもしれません」
  「そう…」
    先生の目からは涙が止まらなかった。僕も先生も何も喋らなかった。気がつけば僕の頬にも涙が伝わっていた。
  「ひかりは、苦しんでいたんですね。僕は彼とほんの何回かだけですが、性について話したことがあります。悩んでいる様子は正直、あまり感じませんでした。自分の一部として受け入れているような感じでして…」
  「でも、実際はやはり受け入れ難いことなのよね…」
  「はい…」
    暫しの沈黙の後、先生は手で涙を拭いた。
  「ごめんなさいね。今どうこうできる問題ではないから、また話しましょう。ひかりにはそれとなく、あなたと話したことを言っておくから。あなたから話しかけるのは少し気まずいわよね。今からちょっとね、大事な打ち合わせがあるの。あなたも勉強よね。頑張ってちょうだい。私立も都立も、とにかく集中力と根気が大事。あなたならできる。また話しましょう」
  「はい、先生ありがとうございました。またよろしくお願いします。さようなら」
   僕は外国人向け日本語教材に載っているような挨拶文句で、教室を後にした。先生は暫く教室にいて考えごとをしているようだった。
  明日はひかりに話しかけよう、僕はそう思った。気が付けば、僕らは挨拶しか交わしていなかった。LINEも電話もせず、ただ学校で顔を合わせるだけの仲になっていた。だが親友である僕が少しでも力になれるのであれば、何でもしたかった。それがひかりへの友情の証だった。
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