滅びゆく都会の住人

一宮 沙耶

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第1章 都会生活

6話 この人の子を産みたい

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 捜査が私にまでくる気配はなかったのだけど、それからずっと、罪悪感に押しつぶされそうな夜を過ごした。

 毎晩、火に焼かれる3人の姿が脳裏に浮かぶ。私に、助けてくれと手を伸ばし、お前のせいだと言って息絶える、そんな姿が私を追い詰める。

 ただ、日常は、全く、そんな素振りは周りに見せずに明るく振る舞っていた。もしかしたら、前よりもっと明るくみえるかもって感じ。もともと祐樹が悪いのだし、そんなことで警察に捕まるのは嫌だから。

 そんな私に、この人の子を産みたいと体が訴えてくる人が目の前に突然、現れた。なんか、恋愛とかじゃない気がする。体の中から、この人の子が欲しいと叫んでくる。どうしちゃったんだろう。

 3日前に私たちの職場に異動してきた上司で、年齢は、さすがに私の年齢の2倍上じゃないとは思うけど、はるか上の男性。どう考えても恋愛の対象とはなり得ないんだけど、これは理屈では説明できない感情だった。

 廊下を歩いている先に彼がいると、ついつい彼に目が釘付けになってしまう。でも、どこか、これまで付き合った男性への感情とは違う。何が違うんだろう。

 これまでのように、背中姿に憧れるとか、顔がイケメンでかっこいいとか、そういう所に憧れたわけじゃない。よくわからない。

 とは言っても、周りからは、ダンディーと言われている。たしかに、最近は見かけないような人で、背広をばしっと決めて、できるビジネスマンというオーラがある。

 私は、少し前に犯してしまった罪に苛まれ、男性と一緒に過ごすときのことばかり考えてしまっている自分が許されるのかと悩みつつ、体の内側からでてくる、この気持ちも抑えられなくなっていた。

 彼との間に生まれ、初めて抱きしめる赤ちゃん、そして、その子を優しく見つめる私、公園で無邪気に遊ぶ我が子のイメージが鮮明に目の前に現れる。こんな私は初めて。

 彼と一緒に過ごしたいという気持ちもあるけど、それより、彼との間に生まれる子供に会いたいという気持ちのような気もする。

 私から赤ちゃんを奪った罪悪人の祐樹を殺害したから、そのご褒美に、赤ちゃんが私のもとに返ってくるということなのかしら。

 オフィスで、そんなことを考えている時、彼が私の方に向かって歩いてきた。あれは、明らかに私に向かってきている。え、なに?

「今井さん。これまでの成果をみたけど、結構、がんばってるね。今年の下期の目論見を聞かせてくれるか。」
「はい。下期は、上期のこの3案件は継続すると思っています。そして、今、仕掛けている病院の新規案件は1件は取れるはずなので、2億円はいくはずです。」
「すごいね。まずは、ベースロードは着実にキープして、来年度も見据えた種まきをお願いするよ。期待しているから、頑張ってね。」

 言い方というか、やっぱりやり手ね。上から目線じゃなくて、部下から高い目標を言わせておいて、言った以上は達成しろという感じなのかしら。なんか、逃げられないって感じ。

 仕事の話しが終わった途端、また、彼の動きを目で追っている自分が信じられなかった。変わってしまった自分を。

 別に、優しくして欲しいとか、一緒に楽しい時間を過ごしたいとか、今は、そんな気分じゃない。この人の精子が欲しいだけなのかもしれない。

 自分でもよくわからない。なんなんだろう。でも、体が欲しがっている。そして、そんなことを考えている間は、私が犯した罪のことを忘れることができた。

「ねえ、今度来た河北さんって、どんな人なんだろう?」
「かなり、やり手らしいよ。仕事ばかりで、厳しいらしい。大変になっちゃうね。」
「そうなんだ。でも、プライベートとかはどうなんだろう?」
「なんか、離婚してバツ1と聞いたことある。そして、前の奥さんとの子供が2人いるとか。」
「ふ~ん。年はいくつかな。」
「なに、みうは、河北さんに興味あるの? あんなおじさんに?」
「いえ、そういうわけじゃなくて。上司のことは知っておいた方がいいじゃない。」
「それはそうね。たしか50代前半らしいよ。」

 彼と結婚なんてことはないとは思うけど、子供が2人もいるのは面倒ね。でも、離婚してるんだったら、彼との接点は少ないかも。また、見た目だと精力はまだありそうだから、子供は、まだ作れそう。

 でも、こんな罪深い私のことを、彼は受け入れてくれるかしら。言わなければバレないだろうけど、言わないことへのストレスが私を押しつぶそうとするに違いない。

 上司との職場恋愛って、別れる時は泥沼になりそうで大変かもしれない。でも、彼のことを考えている時間は、罪から逃れられ、楽になれた。

 そうでもしないと、真っ暗な闇が私を包み込み、私を批判する多くの姿なき声に潰されそうな気持ちだったから。

 そんな苦しみから逃れようと、私は、オフィスでは、一層、明るく振る舞うようになった。

 それから1ヶ月経った頃、私は、週末のお客様への報告に向けて、メンバー5人と夜遅くまで仕事に追われていたの。

「今井さん、これで今週末の中間報告、行けますね。河北さんにメールを送っておきます。」
「お疲れさま。11時過ぎたし、もう帰ろう。内容も十分詰めたし、本当に助かった。」
「河北さんにメール送ったし、帰りの準備をします。」
「みんなで、一杯、飲んでいく?」
「もうこんな時間だし、終電で帰りたいから、今回は遠慮します。すみません。」

 そう、そう、今時の子たちは飲みに誘っても来ないわよねと思いながら、真っ暗な自分の家に戻ることへの怖さを感じていた。

「あれ、河北さんから返事が来た。何点か直せって言っていますよ。これから、まだ仕事しろっていうことですかね。ひどい、帰れない。」
「私がやっておくから、みんな帰っていいよ。」
「今井さん、そんなに働いていたら、自分の時間、なくなっちゃいますよ。」
「いいから、いいから。」
「では、すみません。よろしくお願いします。」

 メンバーは、部屋から出ていった。もしかしたら、35歳で仕事しか関心がない、一人暮らしの寂しい女性なんだろうと悪口を言っているかもしれない。

 でも違う。これは、河北さんにアピールできるチャンス。あの人の指摘はいつも的確だし、その趣旨を正確に理解し、早々に返事できる頼りになる部下と思われたいから。

 そして、私からメールを出して、私の名前を見る機会を少しでも多くすれば、そのうち、個人的にも親しくなれるかもしれない。

 そして、河北さんとの時間が増えれば、私の罪悪感から、少しでも逃れられるはず。

 少なくとも、蛍光灯が照らすこの明るいオフィスにいれば、今は、姿なき声からの攻撃を受けることもないし。
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