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同志(太宰治と胸鎖乳突筋)

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 本日は、雨。

 多すぎる湿気は本には良くない。カビの原因になり、紙が痛んでしまう。
 そこから考えれば、このマッスル書店は、倉庫で書籍を管理して、正しい湿度と温度を保つことが出来ているのであるから、まあ、合理的っていえば、無理矢理合理的だと結論づけることも出来なくもないこともないか。

「ふむっ! 残念ながらこんな雨では、本日はお客様は少なそうだな!」
本因坊店長が、トレーニングでほとばしる汗を、愛用のハート柄のタオルで拭きながら、つぶやく。

「普段から客は少ないでしょ。こんな日だから、今日は早めに店じまいして……」

「たのもう!!」

 乱暴に開けられた扉の向こうに居たのは……放出はなてんさんだ。
 中古車販売を営むこの中年男は、本因坊さんの良きライバル。中書島さんがバイトに入っていた時からの常連さんだ。
 そう、つまり、とても面倒くさい人物なのだ。
 雨の中を走って来たのであろう放出さんの体からは、湯気の様に蒸気が出ている。
 ムワッとした感じが、こう、雨の日の不快指数を爆上げしてくる。

「太宰治の『斜陽』を所望したい!!」
放出さんが、堂々と言い放つ。

 『斜陽』……没落華族の女性を題材とした作品。既婚者に恋をした女性の心情、同じく女性の弟も、既婚女性に恋をするのだ。人物の対比も見事な傑作だ。

「断る!!」

や、だから本因坊店長? どうして、スッとお客様の欲しい本をお売りしないの? 本屋でしょ??

「お前のような軟弱な者に太宰治は危険だ! 魂吸い取られるぞ!!」

は? 吸い取られませんが?
百歩譲って、世界観に引き込まれて、呆然としてしまうことはあるかもしれないが……。

「本因坊! そう言うと思って、鍛えてきたのだ! 見よ!! この胸鎖乳突筋を!!」
放出さんが、自分の首を指し示す。

 ムッキムキの首の筋肉。あれが胸鎖乳突筋ってことだろうか?

「な、なんだと!!」
本因坊店長がワナワナと震えて感動している。

「おおっ!き、筋肉が光輝くようだ!!」
本因坊店長は、感激の涙を流す。

 はい、輝いていませんが? まあ、人それぞれ、世界の見え方は違うし。
 とりあえず、お買い上げってことでよろしいのでしょう!

 俺は、この茶番を横目に倉庫に足を向ける。

「佐々木君、すまない。私にも、一冊、太宰を!」
本因坊店長に呼び止められる。

「ほ、本因坊?」

「友を信じなかった私に太宰治の『人間失格』を!!」

「本因坊ー!!」

熱い友情を、互いに確認し合う本因坊店長と、放出さん。
え、本因坊店長ってやっぱ人間だったんだという考えが、脳裏に浮かんで消えたのは、俺。

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