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●九ペエジ
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まだ積もって溶けない雪に包まれた庭を、旦那様は静かに眺めていた。そっと部屋をあけ、気配を殺して入る。『私達』が室内にいる事に気づいていない。
御坊ちゃまが旦那様の肩を叩いたら、旦那様はとても驚いて振り返った。すかさず御坊ちゃまは日誌を差し出す。
旦那様の眼をみて、ゆっくりとはっきりと言った。
「日誌を見ました。このままでは父上が死んでしまうのですよね」
旦那様はとっさに私を睨みつけた。しかし御坊ちゃまは私と旦那様の間に割ってはいる。
「僕は貴方に死んで欲しくない。どうして死にたがっているのか、どうして僕を買ったのか教えてください」
御坊ちゃまのまっすぐな眼差しに押され、旦那様はとても困った表情を浮かべた。突然の事に旦那様も気が動転していたのかもしれない。
どれだけ沈黙が続いたかわからないが、御坊ちゃまはまっすぐに旦那様を見続けた。
その輝くばかりに澄んだ瞳で、眼をそらす事も許さない勢いで、じっと見つめる。
「貴方の事を知りたい」
ゆっくりとはっきりと紡ぐ声は、旦那様には聞こえないけれど、見えてはいる。
根負けしたように、唇を振るわせ、旦那様は重い口を開けた。
「私は醜く弱い化物だ……」
そう呟く旦那様の声は、せつないほどに弱々しい。
旦那様は静かに昔語りを始める。
ーー長い、長い時を生きてきた。
昔は戦地に赴いては、死にかけの兵士の血をすすったり、自殺志願者を見つけては血をすすったり。でも……たとえ助からぬ命や、自死を望むものであっても、人を殺して生きながらえるのも嫌気がさす。
では死なない程度に、少量づつ、多くの人から吸い続けたらどうなるか。
「これも問題がある。言い伝えのように、血を吸った人間を吸血鬼に変える力は、私には無い。だが……」
そう言いよどんでから、旦那様はちらりと私を見た。
「美佐。お前は私に血を舐められてどう感じた?」
思い返して身体の芯から熱くたぎる感じがした。御坊ちゃまは何も知らないから、眼を丸くして私をじっと見つめる。そうじっと見られると……とても言いづらいのだが。
「良くわかりませんが……気持ちよかった……と、思います」
旦那様は小さく頷いた。
「舐める程度だったから、そのくらいですんだのか。私にはよくわからないが、吸血鬼に血を吸われることは、人に非常に快楽を与えるようなのだ。麻薬のようにその心地よさに溺れる人間がいる」
眉間に皺を寄せ、不愉快そうに「あれは面倒だった」と呟く。一度きりのつもりでも、一度その快楽を味わったものが、また吸ってくれと旦那様にせがむことも多かったそうだ。
「麻薬と同じで、物理的に時間をおけば、その快楽を忘れて元に戻れる。だが吸われたいばかりに、暴れたり、叫んだり……見苦しくてうるさいから、大人しくなるまで部屋に閉じ込めたこともあった」
そうやって人を狂わせてまで生きることにも嫌気がさしてきた頃、旦那様はとある令嬢と出会った。桐之院家の一人娘で、あの写真の女性だ。
旦那様はあえて名前を口にしなかった。だから私達も聞かなかった。
「長い私の人生の中で、彼女は特別な存在だった。私が吸血鬼だと言っても、まったく恐れることも無く、朗らかに笑って。私をまるで普通の人間みたいにあつかって。それがとても心地よかった。そして私と彼女は惹かれ合って結婚した」
旦那様はその女性を深く愛していた。だから快楽に溺れるさまを見たくなくて、血を吸わなかった。
しかし……運命は非常に残酷だ。その女性は人間で、旦那様は吸血鬼。寿命が違う。
旦那様が愛した女性は不治の病に冒され、医師も匙を投げる程に病み衰えてしまったそうだ。
旦那様は彼女を失いたくなかった。どうにか生かす道はないかと探したが、見つからなかった。
徐々に弱っていく彼女を側で見ていて耐えきれず、無駄なことだとわかっていても、伝説にすがってしまった。
彼女の血を吸って吸血鬼にできたなら、ずっと一緒に生きられるのではないかと。
「初めてすすった彼女の血の味は、濃厚な甘露のようで、飢えた私の身体に染みた。白い素肌に滴る血がきらきら光ってみえて……あれほど美味い血は他にない」
うっとりと笑みを浮かべる旦那様の顔は、ぞくりとするほど艶めいていて、どれほどその血が魅力的だったのか、とても伝わってきた。
「私は夢中でむさぼった。そして私に血を吸われ、病で苦しみ青白かった彼女の肌が、赤く上気して。艶かしい程に美しい笑みを浮かべた」
うっとりと笑みを浮かべた後、悲痛なまでに顔をしかめて項垂れた。
「しかし……それは無駄なあがきだ。彼女を吸血鬼にすることはできなかったし、むしろ彼女の死期を早めただけだ。彼女は病の苦しみから解き放たれたかのように、美しい笑顔のまま、私の腕の中で息絶えた」
自分の腕の中で、愛する女が冷たく固くなっていくのを感じて……覚悟した。
「その時、私は決めたのだ。もう誰の生き血も吸わないと。私の長い生涯で、最後の血の味は、彼女の血がよい」
旦那様はすぐに死ぬつもりだったらしい。でも……まだ旦那様の生涯は終わらない。
血を飲むことをやめれば死ねると思ったが、そう簡単なことではなかったそうだ。
完全に血を飲まずに飢えに耐え続けることは苦しく、自死をしようとしても普通の人間より丈夫な為になかなか死に切れない。
「そこで考えた。売血によって少しだけ血を補いつつ、自分を弱らせようと。じっくり、ゆっくり、死ねばいい……そう思った」
売血の血を得る為に、裏取引の場に訪れるようになって数年。
ーーそしてそこで、御坊ちゃまに出会った。
御坊ちゃまが旦那様の肩を叩いたら、旦那様はとても驚いて振り返った。すかさず御坊ちゃまは日誌を差し出す。
旦那様の眼をみて、ゆっくりとはっきりと言った。
「日誌を見ました。このままでは父上が死んでしまうのですよね」
旦那様はとっさに私を睨みつけた。しかし御坊ちゃまは私と旦那様の間に割ってはいる。
「僕は貴方に死んで欲しくない。どうして死にたがっているのか、どうして僕を買ったのか教えてください」
御坊ちゃまのまっすぐな眼差しに押され、旦那様はとても困った表情を浮かべた。突然の事に旦那様も気が動転していたのかもしれない。
どれだけ沈黙が続いたかわからないが、御坊ちゃまはまっすぐに旦那様を見続けた。
その輝くばかりに澄んだ瞳で、眼をそらす事も許さない勢いで、じっと見つめる。
「貴方の事を知りたい」
ゆっくりとはっきりと紡ぐ声は、旦那様には聞こえないけれど、見えてはいる。
根負けしたように、唇を振るわせ、旦那様は重い口を開けた。
「私は醜く弱い化物だ……」
そう呟く旦那様の声は、せつないほどに弱々しい。
旦那様は静かに昔語りを始める。
ーー長い、長い時を生きてきた。
昔は戦地に赴いては、死にかけの兵士の血をすすったり、自殺志願者を見つけては血をすすったり。でも……たとえ助からぬ命や、自死を望むものであっても、人を殺して生きながらえるのも嫌気がさす。
では死なない程度に、少量づつ、多くの人から吸い続けたらどうなるか。
「これも問題がある。言い伝えのように、血を吸った人間を吸血鬼に変える力は、私には無い。だが……」
そう言いよどんでから、旦那様はちらりと私を見た。
「美佐。お前は私に血を舐められてどう感じた?」
思い返して身体の芯から熱くたぎる感じがした。御坊ちゃまは何も知らないから、眼を丸くして私をじっと見つめる。そうじっと見られると……とても言いづらいのだが。
「良くわかりませんが……気持ちよかった……と、思います」
旦那様は小さく頷いた。
「舐める程度だったから、そのくらいですんだのか。私にはよくわからないが、吸血鬼に血を吸われることは、人に非常に快楽を与えるようなのだ。麻薬のようにその心地よさに溺れる人間がいる」
眉間に皺を寄せ、不愉快そうに「あれは面倒だった」と呟く。一度きりのつもりでも、一度その快楽を味わったものが、また吸ってくれと旦那様にせがむことも多かったそうだ。
「麻薬と同じで、物理的に時間をおけば、その快楽を忘れて元に戻れる。だが吸われたいばかりに、暴れたり、叫んだり……見苦しくてうるさいから、大人しくなるまで部屋に閉じ込めたこともあった」
そうやって人を狂わせてまで生きることにも嫌気がさしてきた頃、旦那様はとある令嬢と出会った。桐之院家の一人娘で、あの写真の女性だ。
旦那様はあえて名前を口にしなかった。だから私達も聞かなかった。
「長い私の人生の中で、彼女は特別な存在だった。私が吸血鬼だと言っても、まったく恐れることも無く、朗らかに笑って。私をまるで普通の人間みたいにあつかって。それがとても心地よかった。そして私と彼女は惹かれ合って結婚した」
旦那様はその女性を深く愛していた。だから快楽に溺れるさまを見たくなくて、血を吸わなかった。
しかし……運命は非常に残酷だ。その女性は人間で、旦那様は吸血鬼。寿命が違う。
旦那様が愛した女性は不治の病に冒され、医師も匙を投げる程に病み衰えてしまったそうだ。
旦那様は彼女を失いたくなかった。どうにか生かす道はないかと探したが、見つからなかった。
徐々に弱っていく彼女を側で見ていて耐えきれず、無駄なことだとわかっていても、伝説にすがってしまった。
彼女の血を吸って吸血鬼にできたなら、ずっと一緒に生きられるのではないかと。
「初めてすすった彼女の血の味は、濃厚な甘露のようで、飢えた私の身体に染みた。白い素肌に滴る血がきらきら光ってみえて……あれほど美味い血は他にない」
うっとりと笑みを浮かべる旦那様の顔は、ぞくりとするほど艶めいていて、どれほどその血が魅力的だったのか、とても伝わってきた。
「私は夢中でむさぼった。そして私に血を吸われ、病で苦しみ青白かった彼女の肌が、赤く上気して。艶かしい程に美しい笑みを浮かべた」
うっとりと笑みを浮かべた後、悲痛なまでに顔をしかめて項垂れた。
「しかし……それは無駄なあがきだ。彼女を吸血鬼にすることはできなかったし、むしろ彼女の死期を早めただけだ。彼女は病の苦しみから解き放たれたかのように、美しい笑顔のまま、私の腕の中で息絶えた」
自分の腕の中で、愛する女が冷たく固くなっていくのを感じて……覚悟した。
「その時、私は決めたのだ。もう誰の生き血も吸わないと。私の長い生涯で、最後の血の味は、彼女の血がよい」
旦那様はすぐに死ぬつもりだったらしい。でも……まだ旦那様の生涯は終わらない。
血を飲むことをやめれば死ねると思ったが、そう簡単なことではなかったそうだ。
完全に血を飲まずに飢えに耐え続けることは苦しく、自死をしようとしても普通の人間より丈夫な為になかなか死に切れない。
「そこで考えた。売血によって少しだけ血を補いつつ、自分を弱らせようと。じっくり、ゆっくり、死ねばいい……そう思った」
売血の血を得る為に、裏取引の場に訪れるようになって数年。
ーーそしてそこで、御坊ちゃまに出会った。
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