2 / 12
●二ペエジ
しおりを挟む
この屋敷に来て数週間。私も住み込みの仕事に慣れてきた。
旦那様が私に日誌を書くように命じられたからだろう。私の担当は旦那様と御坊ちゃまの世話が中心だ。
御坊ちゃまは実に優等生で、学校に行くとどこにもよらずにまっすぐ帰ってきたし、休日も熱心に勉強をして、ほとんど遊びにもでかけない。
旦那様が屋敷をでることはほぼない。ほとんどの時間を自分の部屋で過ごし、仕事をするか、本を読むか、時々庭を眺めるか。ただその繰り返しで、旦那様の部屋だけが、魔法のように時が止まって見えた。
正直この屋敷にくるまでは、少し怖かった。
ーー美佐。桐之院家の闇にとりこまれないように。気をしっかり持つんだよ。
祖父は真顔でそう言った。本気で孫の私を心配するように。
でも、今の所とても平和で、健全な家庭だ。
ただ……一つだけ困った事がある。御坊ちゃまがよく私を揶揄うのだ。使用人は年を取った人ばかりで、年の近い私が、一番気安く話せるのだろう。
「美佐。知ってるかい? 西洋人は人間の血を飲むんだよ」
「それは……赤い葡萄酒を飲む姿を、見間違えたからではありませんか?」
「もちろん。ほとんどの西洋人が飲むのは葡萄酒さ。でもね……羅馬尼亜に昔、ドラキュラ伯爵という人がいてね。その人は本物の人間の血を吸ってたんだよ」
また御坊ちゃまの揶揄いかと身構えて、動揺しまいとしたのがいけなかったのかもしれない。御坊ちゃまは唇をとがらせて肩をすくめた。
「信じてないようだね。ドラキュラ伯爵は化物なんだよ。影が無く、鏡に映らない。蝙蝠に姿を変えて空を飛ぶ事もできる。大蒜と十字架と太陽の光が苦手で、昼間は棺桶の中でひっそりと寝て、夜にだけ活動するんだ。そしてね……」
御坊ちゃまの手が私の首を撫でる。思わずぞくりとした。
「犬のように牙があって、若い女の首筋に噛み付いて血を吸うんだよ」
御坊ちゃまの掠れた声が恐ろしく響く。まるで御坊ちゃまが血を吸う化物で、今まさに私の血を吸おうとしているかのように、生々しくて。
「夜は気をつけたほうがいい……地下室の棺桶で、ドラキュラ伯爵の末裔の吸血鬼が眠っている。父上のコレクションなんだ」
このお屋敷なら、そんな棺桶が眠っていてもおかしくないと思えてきて、思わずカタカタと歯をならしてしまった。
私の表情にすっかり満足したように御坊ちゃまは楽し気に笑った。
「ふふふ。大丈夫。うちに棺桶なんてないよ」
嗚呼……やっぱり御坊ちゃまの冗談かとほっと胸を撫で下ろした所で、唇を撫でられた。
「でもね……父上に食べられてしまうかもしれないよ。美佐は若くて可愛らしいからね」
一瞬、旦那様と想像の中の吸血鬼が重なって、その妄想を振り払った。そして食べられるという言葉に別の意味を感じ、身体が熱くなった。
まさか……あの旦那様がそんな事をなさるとは思えない。でも吸血鬼などという作り物の化物より、主人が女中に手を付ける方が、ずっと現実味のある話だ。
御坊ちゃまはさらに嬉しそうに笑った。
「顔が真っ青になったり、真っ赤になったり、忙しいね。美佐は可愛いな。きっと良い家庭で育ったのだろうね。羨ましいよ」
先ほどまでの揶揄うような意地の悪い笑みは消え、本当に羨ましいかのように、儚気に微笑んだ。晴れていたと思ったら急に雨が降ったような、御坊ちゃまの不安定な移り変わりが不思議だ。
「良い家庭などと……このお屋敷に比べれば、ごく普通の家で……」
「優しい家族と、人の良い人々に囲まれて育ったのだろうね。この世界の汚らしいものなど見ないで、清らかに純真に育った。まるで蓮の花のようだ」
そこまで言って、御坊ちゃまは私から離れ、窓際まで歩いて行った。風にそよぐカーテンをぎゅっと握りしめ、俯いてぽつりと呟く。その横顔はあまりに切なく、悲し気で、胸に響いた。
「この世界の地下は泥まみれなんだ。そんな事、きっと君は知らない。でも……僕はそのままの君でいてほしいと願うよ」
御坊ちゃまのその言葉は、冗談ではなく、本心であると思え、だからこそわからない。人も羨むような家庭に育った御坊ちゃまが、なぜ私のような庶民を羨むのか。
ーー御坊ちゃまの情緒不安定さの理由を、この時の私は何も知らなかった。
旦那様が私に日誌を書くように命じられたからだろう。私の担当は旦那様と御坊ちゃまの世話が中心だ。
御坊ちゃまは実に優等生で、学校に行くとどこにもよらずにまっすぐ帰ってきたし、休日も熱心に勉強をして、ほとんど遊びにもでかけない。
旦那様が屋敷をでることはほぼない。ほとんどの時間を自分の部屋で過ごし、仕事をするか、本を読むか、時々庭を眺めるか。ただその繰り返しで、旦那様の部屋だけが、魔法のように時が止まって見えた。
正直この屋敷にくるまでは、少し怖かった。
ーー美佐。桐之院家の闇にとりこまれないように。気をしっかり持つんだよ。
祖父は真顔でそう言った。本気で孫の私を心配するように。
でも、今の所とても平和で、健全な家庭だ。
ただ……一つだけ困った事がある。御坊ちゃまがよく私を揶揄うのだ。使用人は年を取った人ばかりで、年の近い私が、一番気安く話せるのだろう。
「美佐。知ってるかい? 西洋人は人間の血を飲むんだよ」
「それは……赤い葡萄酒を飲む姿を、見間違えたからではありませんか?」
「もちろん。ほとんどの西洋人が飲むのは葡萄酒さ。でもね……羅馬尼亜に昔、ドラキュラ伯爵という人がいてね。その人は本物の人間の血を吸ってたんだよ」
また御坊ちゃまの揶揄いかと身構えて、動揺しまいとしたのがいけなかったのかもしれない。御坊ちゃまは唇をとがらせて肩をすくめた。
「信じてないようだね。ドラキュラ伯爵は化物なんだよ。影が無く、鏡に映らない。蝙蝠に姿を変えて空を飛ぶ事もできる。大蒜と十字架と太陽の光が苦手で、昼間は棺桶の中でひっそりと寝て、夜にだけ活動するんだ。そしてね……」
御坊ちゃまの手が私の首を撫でる。思わずぞくりとした。
「犬のように牙があって、若い女の首筋に噛み付いて血を吸うんだよ」
御坊ちゃまの掠れた声が恐ろしく響く。まるで御坊ちゃまが血を吸う化物で、今まさに私の血を吸おうとしているかのように、生々しくて。
「夜は気をつけたほうがいい……地下室の棺桶で、ドラキュラ伯爵の末裔の吸血鬼が眠っている。父上のコレクションなんだ」
このお屋敷なら、そんな棺桶が眠っていてもおかしくないと思えてきて、思わずカタカタと歯をならしてしまった。
私の表情にすっかり満足したように御坊ちゃまは楽し気に笑った。
「ふふふ。大丈夫。うちに棺桶なんてないよ」
嗚呼……やっぱり御坊ちゃまの冗談かとほっと胸を撫で下ろした所で、唇を撫でられた。
「でもね……父上に食べられてしまうかもしれないよ。美佐は若くて可愛らしいからね」
一瞬、旦那様と想像の中の吸血鬼が重なって、その妄想を振り払った。そして食べられるという言葉に別の意味を感じ、身体が熱くなった。
まさか……あの旦那様がそんな事をなさるとは思えない。でも吸血鬼などという作り物の化物より、主人が女中に手を付ける方が、ずっと現実味のある話だ。
御坊ちゃまはさらに嬉しそうに笑った。
「顔が真っ青になったり、真っ赤になったり、忙しいね。美佐は可愛いな。きっと良い家庭で育ったのだろうね。羨ましいよ」
先ほどまでの揶揄うような意地の悪い笑みは消え、本当に羨ましいかのように、儚気に微笑んだ。晴れていたと思ったら急に雨が降ったような、御坊ちゃまの不安定な移り変わりが不思議だ。
「良い家庭などと……このお屋敷に比べれば、ごく普通の家で……」
「優しい家族と、人の良い人々に囲まれて育ったのだろうね。この世界の汚らしいものなど見ないで、清らかに純真に育った。まるで蓮の花のようだ」
そこまで言って、御坊ちゃまは私から離れ、窓際まで歩いて行った。風にそよぐカーテンをぎゅっと握りしめ、俯いてぽつりと呟く。その横顔はあまりに切なく、悲し気で、胸に響いた。
「この世界の地下は泥まみれなんだ。そんな事、きっと君は知らない。でも……僕はそのままの君でいてほしいと願うよ」
御坊ちゃまのその言葉は、冗談ではなく、本心であると思え、だからこそわからない。人も羨むような家庭に育った御坊ちゃまが、なぜ私のような庶民を羨むのか。
ーー御坊ちゃまの情緒不安定さの理由を、この時の私は何も知らなかった。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
大嫌いな歯科医は変態ドS眼鏡!
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
……歯が痛い。
でも、歯医者は嫌いで痛み止めを飲んで我慢してた。
けれど虫歯は歯医者に行かなきゃ治らない。
同僚の勧めで痛みの少ない治療をすると評判の歯科医に行ったけれど……。
そこにいたのは変態ドS眼鏡の歯科医だった!?
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ARIA(アリア)
残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる