桐之院家の日誌

斉凛

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●二ペエジ

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 この屋敷に来て数週間。私も住み込みの仕事に慣れてきた。
 旦那様が私に日誌を書くように命じられたからだろう。私の担当は旦那様と御坊ちゃまの世話が中心だ。
 御坊ちゃまは実に優等生で、学校に行くとどこにもよらずにまっすぐ帰ってきたし、休日も熱心に勉強をして、ほとんど遊びにもでかけない。
 旦那様が屋敷をでることはほぼない。ほとんどの時間を自分の部屋で過ごし、仕事をするか、本を読むか、時々庭を眺めるか。ただその繰り返しで、旦那様の部屋だけが、魔法のように時が止まって見えた。


 正直この屋敷にくるまでは、少し怖かった。

 ーー美佐。桐之院家の闇にとりこまれないように。気をしっかり持つんだよ。

 祖父は真顔でそう言った。本気で孫の私を心配するように。
 でも、今の所とても平和で、健全な家庭だ。


 ただ……一つだけ困った事がある。御坊ちゃまがよく私を揶揄うのだ。使用人は年を取った人ばかりで、年の近い私が、一番気安く話せるのだろう。

「美佐。知ってるかい? 西洋人は人間の血を飲むんだよ」
「それは……赤い葡萄酒を飲む姿を、見間違えたからではありませんか?」
「もちろん。ほとんどの西洋人が飲むのは葡萄酒さ。でもね……羅馬尼亜ルーマニアに昔、ドラキュラ伯爵という人がいてね。その人は本物の人間の血を吸ってたんだよ」

 また御坊ちゃまの揶揄いかと身構えて、動揺しまいとしたのがいけなかったのかもしれない。御坊ちゃまは唇をとがらせて肩をすくめた。

「信じてないようだね。ドラキュラ伯爵は化物なんだよ。影が無く、鏡に映らない。蝙蝠に姿を変えて空を飛ぶ事もできる。大蒜と十字架と太陽の光が苦手で、昼間は棺桶の中でひっそりと寝て、夜にだけ活動するんだ。そしてね……」

 御坊ちゃまの手が私の首を撫でる。思わずぞくりとした。

「犬のように牙があって、若い女の首筋に噛み付いて血を吸うんだよ」

 御坊ちゃまの掠れた声が恐ろしく響く。まるで御坊ちゃまが血を吸う化物で、今まさに私の血を吸おうとしているかのように、生々しくて。

「夜は気をつけたほうがいい……地下室の棺桶で、ドラキュラ伯爵の末裔の吸血鬼が眠っている。父上のコレクションなんだ」

 このお屋敷なら、そんな棺桶が眠っていてもおかしくないと思えてきて、思わずカタカタと歯をならしてしまった。
 私の表情にすっかり満足したように御坊ちゃまは楽し気に笑った。

「ふふふ。大丈夫。うちに棺桶なんてないよ」

 嗚呼……やっぱり御坊ちゃまの冗談かとほっと胸を撫で下ろした所で、唇を撫でられた。

「でもね……父上に食べられてしまうかもしれないよ。美佐は若くて可愛らしいからね」

 一瞬、旦那様と想像の中の吸血鬼が重なって、その妄想を振り払った。そして食べられるという言葉に別の意味を感じ、身体が熱くなった。
 まさか……あの旦那様がそんな事をなさるとは思えない。でも吸血鬼などという作り物の化物より、主人が女中に手を付ける方が、ずっと現実味のある話だ。
 御坊ちゃまはさらに嬉しそうに笑った。

「顔が真っ青になったり、真っ赤になったり、忙しいね。美佐は可愛いな。きっと良い家庭で育ったのだろうね。羨ましいよ」

 先ほどまでの揶揄うような意地の悪い笑みは消え、本当に羨ましいかのように、儚気に微笑んだ。晴れていたと思ったら急に雨が降ったような、御坊ちゃまの不安定な移り変わりが不思議だ。

「良い家庭などと……このお屋敷に比べれば、ごく普通の家で……」
「優しい家族と、人の良い人々に囲まれて育ったのだろうね。この世界の汚らしいものなど見ないで、清らかに純真に育った。まるで蓮の花のようだ」

 そこまで言って、御坊ちゃまは私から離れ、窓際まで歩いて行った。風にそよぐカーテンをぎゅっと握りしめ、俯いてぽつりと呟く。その横顔はあまりに切なく、悲し気で、胸に響いた。

「この世界の地下は泥まみれなんだ。そんな事、きっと君は知らない。でも……僕はそのままの君でいてほしいと願うよ」

 御坊ちゃまのその言葉は、冗談ではなく、本心であると思え、だからこそわからない。人も羨むような家庭に育った御坊ちゃまが、なぜ私のような庶民を羨むのか。

 ーー御坊ちゃまの情緒不安定さの理由を、この時の私は何も知らなかった。
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