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第一章 常春と真冬編

8)アルバイト。

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 明かりのついた民家から外に出てきたのは、夫婦と思わしき初老の男女だった。彼らは俺を見るなり慌てて駆け寄ってきて、拘束を解いてくれる。


「君、大丈夫か!?」
「今、警察を……!」


 ぶるぶる震える手で携帯電話を操作しようとした女性を制止して、俺は首を横に振った。
 俺が警察沙汰になれば、唯一の家族である母親が呼ばれるのは必至だった。
 一人で帰るのは怖かったけれど、そんな事になる位ならば一刻も早く帰り着き、常春の腕の中で安心したい……。


「大丈夫。一人で帰れますから……」


 ここからなら『ラーメンはる』までは数分の距離だ。それに、このタイミングで引き返してくるほど、あの男も馬鹿ではないだろう。

 ……そう自分に言い聞かせる。

 心配そうな夫婦に深々と頭を下げてお礼をいい、俺は早歩きで帰路につく。
 否、早歩きは小走りになり、小走りはいつしか、全速力の疾走に変わっていた。まるで怖いものから追いかけられて逃げるかのように、俺は脇目も振らずに走った。


「はぁ……はぁ……」


 遠くに『ラーメンはる』の見慣れた看板が見えた途端、俺は腰からへなへなと力が抜けた。
 恐らく、腰が抜けてしまったのだろう。

 仕方がないので、俺はスマートフォンを取り出して常春に電話をかける。数コールの後眠そうな声で電話に出た常春の声を聞いた途端、俺は不覚にも、じわりと涙を滲ませてしまったのだった。






◇◆◇◆◇◆






「はぁー!? 知らない男が帰り道で待ち伏せしてて、拉致されかけたぁぁ!?」

 灰色のスエット姿の常春は、俺の擦り傷の手当をしながら、夜中だというのに大声でそう言った。


「しーっ。前に店でちょっと会ったことはあるから、全く知らない男では無いんだけどね……」


 擦り剥けた膝と顎に絆創膏を貼って貰いながら、俺はそう答える。


 本当は、会った事があるどころかヤッたこともあるのだが、流石にそこは言う訳にはいかない。


「それって、今後も同じ目に遭うかもしれないって事じゃないのか!?」
「職場の先輩が、俺が休んでた間にも職場に何度か来てたって言ってたから……まぁ、完全に俺狙いだろうね」


 畳に散らかった絆創膏の剥離紙をくしゃりと一握りにまとめながら、俺はそう答えた。


「バーの仕事、しばらく休めないのか?」
「何言ってんの。やっと復帰したんだよ? また休みたいなんて言ったら、流石にクビでしょ」


 苦笑いしながらそう答えて、俺はひとまとめにした絆創膏の剥離紙を和室の隅にあったゴミ箱を狙って放り投げる。

 休めるものなら勿論俺だって休みたかった。けれど、生きるには先立つものも必要で、いつまでも常春の世話になっている訳には行かない。


「じゃあ、俺が帰りにバーまで迎えに行く。うちの店は0時で閉店だから、急げば間に合う」

 
 ゴミ箱の縁にあたって畳に転がった剥離紙は、常春の手によって拾い上げられ、本来入るはずだったゴミ箱へと入れ直される。


「……! は、はぁ!? 何言ってんの? また夏目に怒られるよ」
「構わねーよ。あいつなら、どうせいつものことだー位の反応だろ」
「で、でもっ。そこまで迷惑かけられない……」

 
 俺が言うためらいの言葉に、常春は問答無用とばかりにこう言った。


「あーっ、頑固だな。俺がしたいからすんの! 心配だからしたいの! 迷惑かけるとか寂しいこと言うなよ。……つーか、そう思うんなら真冬、お前次の土日からしばらく、うちの店手伝わないか? 体が空いてるときだけでいいからさ。夏目、次の土日からサークルの合宿で二週間いないんだよ。勿論バイト代は出すし」
「え……?」


 それは俺にとって、とても有り難い申し出だった。

 そもそもバーは火曜と日曜が定休日だったし、基本的に夜だけだ。
 カラオケ屋のバイトはバーの定休日に合わせて入れていたものの、睡眠時間などを考えると入れる時間帯が限られていた。そのため給料も安く、最近は怪我のせいであまりシフトに入る事ができていない。
 俺は常春のありがたいその申し出に二つ返事でオーケーして、気怠い体に唆されるまま、常春のあぐらを枕にするようにゴロリと畳に寝そべった。
 

「あっ、コラ。シャワー浴びてから寝ろよ」


 常春はそう言いながらも、俺に毛布をかけてくれる。
 大好きなお日様の匂いに包まれた俺は、トロリと意識が溶けゆくのを感じた。

 なんだか今日は、とても疲れた……。






◇◆◇◆◇◆






「いらっしゃいませ。お客様、何名様でしょうか?」


 俺はその週末から『ラーメンはる』でアルバイトを始めた。

 チャラそうに見えて意外に真面目な夏目は、三日ほどかけて俺にしっかりと仕事を教えてくれてから、今朝早くに合宿先である東北へ旅立っていった。


「真冬、これ二番のボックス席に頼む。定食な」
「はい!」


 俺は常春がカウンターへ差し出した餃子をトレーに乗せ、味噌汁とご飯を丁寧によそって、客の元へ運んだ。運ぶ道すがら、別の客に飛び止められる。


「兄ちゃん、お水お願い」
「はい!」


 ランチ営業の時間になると、ものの三十分で小さな店内はすぐにいっぱいになり、俺はバタバタと仕事に追われていた。


「真冬、レジ頼む!」


 厨房で炒飯を炒めながら、常春が俺を呼んだ。

 
「今行く!」
「すみません、子供用のお椀とフォークをひとつ、お願いします」


 背後から、女性の声がする。


「!? えっ、ええっと、はい! 少々お待ちくださいっっ」
「すみませーん、注文ー!」
「はーい!」

 慣れないレジを打つ俺に、次々と客からの声がかかる。

 この目の回るような忙しさを、今まで夏目は一人でこなしていたのだ。そう思うと、夏目はとても有能なアルバイトなのかもしれない……。



 三時間のランチタイムが終わり、俺は疲労困憊でカウンターに突っ伏していた。


「うーっ、足が痛い。疲れた」
「ははっ。初日だし、土曜日は客も多いからキツかったろ? 今日真冬がバイトに入ってくれて本当に助かったよ。よく頑張ったな、真冬。昼飯にしようか」


 常春は暖簾を下げながら、店に入ってきてそう言った。


『本当に助かったよ。よく頑張ったな、真冬』


 常春が言ったその言葉が、俺の胸にじんわりと沁みた。
 俺はゾンビみたいにズルリとカウンターから立ち上がると、暖簾をしまい終えて厨房に戻ろうとしていた常春に背後から抱きつく。


「え、おいっ……」


 一瞬驚いたように振り向いた常春だったが、特に俺を拒むわけでもなく、黙って俺のしたいようにさせてくれた。抱きしめた常春の背中はポカポカと温かくて、俺の大好きなお日様の匂いがする。

 慣れない仕事で肉体は疲弊していたけれど、俺は今、少しだけ幸せだった。
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