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第一章 常春と真冬編

7)誘拐未遂。

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「よくあるのか? ああいうの。」


 あれから落ち着きを取り戻した俺は、食事を終えて、常春が入れてくれた温かいほうじ茶を飲んでいた。


「ん……、たまに……」


 本当はしょっちゅうあるのだが、俺は何故か言い出せずにそう答える。


「……そうか。ずっと、一人で辛かったな……」


 常春はまっすぐ俺の目を見て、優しくそう言った。その瞬間、俺の視界はじわりとぼやける。


「え……? え……?」


 俺は何が起きたか分からなくなって、ただ困惑した。
 机の上に置いていた手が濡れている事に気が付いて、下を向いたまま瞬きをした瞬間、頬に熱いものが伝うのが分かった。

 俺は、泣いているのか……?

 けれども不思議と悲しい気持ちはなくて、生理現象のようにただ俺は涙を流し続けた。常春は首にかけていたタオルを無造作に渡してくれて、


「汗臭かったら、悪い」


 とぶっきらぼうに言った。

 俺はふるふると首を横に振り、借りたタオルに顔を埋めるようにして泣いた。
 常春のお日様のような匂いは、俺の強張った気持ちを溶かすように鼻腔を満たす。

 それから俺の涙が止まるまでの一時間ほど、常春はずっと側で俺の頭を撫でていてくれた。






◇◆◇◆◇◆






「長い間お休みしてすみませんでした!」


 一週間ぶりに出勤したバーで、俺はペコリと頭を下げた。雪平がゆっくりと寄ってきて、俺の顔をまじまじと見つめる。


「傷、だいぶ治ってる。良かったね、真冬」


 そう言いながら、雪平は俺の肩をポンポンと叩いてカウンターに戻る。続いて店長に挨拶をして、俺はスタッフルームへと向かった。

 着慣れたバーのエプロンを着けて、店へ出る。いつものように酒やつまみの在庫をチェックすると、足りなくなっていたものをタブレット端末に入力し、仕入れ業者へと送信した。


「そういえば……」


 バックヤードから戻った俺を見留めると、雪平が寄ってきてコソッと話しかけてくる。


「真冬がいない間、あまり見ない男が真冬を何度も尋ねてきてたけど、あれ知り合い? 真冬は今日から勤務だって伝えてあるから、多分今日また店に来ると思うけど。あ、これ三番卓ね」
「え? 誰だろう?」


 雪平が作った生ハムとチーズの盛り合わせを受け取りながら、俺は首を傾げる。
 自分で言うのも何だが、わざわざ職場に訪ねてくるような知り合いなんて、心当たりが無い。

 三番卓の客の元へつまみの皿を運びながら、俺はなんとなくスッキリできずに、仕事中もずっともやもやと考えていた。
 けれども雪平の言うその男は結局現れることがないまま、俺は久々の仕事に没頭していった。






「じゃー、お疲れ様でした!」

 
 バーの遅番の業務が終わるのは、いつも夜が更けきった時間だった。この日雪平は早番で先に上がってしまったので、今夜の家路は俺一人だ。
 いつもならば、ここから男を漁りに夜の街へ繰り出す所だったが、今夜はそうせずとも行く宛がある。
 仮のものとはいえ、行く宛があることはとても有り難くて、久々のバイトで疲れた体とは裏腹に、俺の足取りは軽かった。


「まーふーゆーくん!」


 裏通りに入った途端、背後から不意に声をかけられて、俺は立ち止まる。

 その場所は職場から十五分あまり。
 大通りから一本入った裏通りで、細い路地には怪しげなスナックや潰れた八百屋のあとなんかが秩序なくひしめき合っていた。

 さながら死にかけた商店街となっているそこには、街灯が殆どない。
 薄暗い闇の中で俺がキョロキョロと声の主を探していると、突然背後から強烈な蹴りを食らう。


「ぐっ……!!!?」


 物凄い衝撃に、一瞬で肺の中の空気が唾液と共にせり上がる。激しい痛みと共に、俺はつんのめるようにアスファルトの上に倒れ込んだ。

 地面に倒れたまま、俺は痛みに耐えながらゲホゲホと咳込む。

 せっかく治りかけていた俺の手のひらのすり傷は、転倒した際に擦れて、再び流血していた。痛みにじわりと生理的な涙が滲む。
 そんな俺の前に、背後から蹴りをくれた犯人と思わしき男が姿を表した。


「真冬くーん。あれからずっと探してたのに、どこにいたの? 会いたかったよ!」
「!!!」


 現れたのは、あの時のクソハズレ男だった。
 男は俺の背中を踏むようにして、俺の体の上に乗る。踏まれた重みで肺を圧迫され、苦しむ俺の左右の手首を掴みあげ、男はあっという間に両手の親指同士を結束バンドで後ろ手に縛り上げてしまった。


「ぐっ………!? やだ、何だよ!? 止めろっ! 外せよッッ!」


 事態を把握した俺は慌てて体を捻って逃れようとしたが、親指同士を縛られて足で背中を踏まれた状態では起き上がれるはずもない。必死に暴れれば暴れるほど、俺の膝や顎はコンクリートに擦れ、虚しく血を滲ませるだけだった。

 男は慣れた手つきで長い結束バンドを取り出し、今度は俺の足首をひとまとめに括る。ひょいと肩に担ぎあげられて俺が連れられた先には、闇に紛れるように黒のワンボックスカーが停めてあった。


「やめ、っろっ!!! だ、誰かっっっ!!!! 誰か、助けて!!! 誰か……ッッ」


 俺は咄嗟に大声を上げ、ジタバタと男の肩の上で暴れた。しかしそれは、男がポケットから取り出したハンカチによって、数秒で封じられてしまう。

 男によって力ずくで口に詰め込まれたハンカチは、喉奥に張り付いて俺の口呼吸すらも封じた。俺は必死に鼻で呼吸を繰り返しながら、布越しにくぐもった声を上げる。

「んんんーー!!! んーーーー!!!」

 男がポケットから、車のリモコンキーを取り出してロックを解除する。バックドアが開けられると、シートが倒されてフラットになった後部座席が見えた。

 俺がもう駄目かと思った、その時だった。



 ワンボックスカーからニ軒ほど離れた先にある民家の、玄関の灯りが不意にパッと灯った。玄関の内側で、住人がカチャカチャと鍵を開ける音がする。

 俺は最後の力を振り絞って男の肩の上で暴れた。肩に担がれていた俺の体は、バランスを崩してアスファルトの上に転げ落ちた。落ちた衝撃で、腰骨と左肩に強い痛みが走る。


「チッ!」


 男は舌打ちすると、アッという間に俺を捨てて車で立ち去っていった。
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