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亡国の残響
オルゴールは再び歌う
宣戦布告から半日も経たないうちに、王都は守りを固め始めていた。
エテルナから戻ったイスズの指揮のもと、城壁や主要区画に設置された魔導装置の点検が進められている。各所を結ぶ術式を繋ぎ、王都全域を覆う魔法障壁を展開するための準備だった。
敵がどれほどの戦力を持つのかは分からない。
エリシオン侯国がどこにあるのかさえ、まだ正確には掴めていなかった。
どの方角から、何が来るのか。
分からない以上、今できるのは備えることだけだった。
夜も深まり始めたというのに、王城の灯りはほとんど落ちていない。
回廊では伝令が行き交い、窓の向こうでは騎士たちが持ち場へ向かっていく。装置の調整に向かう神官や術師の姿も、昼から途切れることがなかった。
ノアもその中にいた。
命令書を運び、防衛配置を確認し、必要とされれば次の場所へ向かう。
何かできることがあるうちは、足を止めなかった。
気づけば、正午の鐘から随分と時間が経っていた。
「ノア」
呼び止められて振り返ると、レクサスが立っていた。
その傍らにはモコもいる。首をわずかに傾け、じっとこちらを見ていた。
「今日はもう休んで」
「でも、まだ――」
「明日からの方が長いよ」
レクサスの声は穏やかなままだった。
その横からモコが大きな身体を寄せ、鼻先で軽く押してくる。
「……モコまで」
「くるる」
「二人とも、ずるいです」
そう言いながらも、ノアはようやく足を止めた。
聖騎士の詰所へ戻った頃には、外はすっかり暗くなっていた。
机の上には巡回記録と、ガラスのリンゴの文鎮。壁際には書棚が並び、窓から差し込む月明かりが室内を淡く照らしていた。
ノアは腰のアベニールを外し、机の脇へ立てかける。
そこで、窓辺に置かれた銀色のオルゴールへ目を向けた。
レガリアの最期のあと、ベルタが戻った依代。
イスズから預けられて以来、ずっとここに置いてある。
ノアは近づき、銀の蓋をそっと撫でた。
扉の向こうでは、夜になっても人の気配が絶えていなかった。
誰かが通るたび、飛行艇団の哨戒や北門の警備、避難経路を確認する声が途切れ途切れに届く。
自分だけが立ち止まっているような気がして、ノアの指先が銀の縁を少し強く押した。
「……どうしたらいいんだろう」
口にしてから、ノアは俯いた。
「私、ちゃんと……できるかな」
答える者はいない。
ノアは小さく息を吐き、手を離そうとした。
そのとき、オルゴールの奥で、かすかな金属音がした。
「……え?」
金具がわずかに震え、ゆっくりと蓋が持ち上がる。
「ベルタ?」
細く柔らかな旋律が流れ始めた。
淡い光の粒が舞い上がり、人の輪郭を形作っていく。
波打つ黒髪。
フリルを重ねた侍女服。
丸い眼鏡。
その奥に、紫色の大きな瞳。
「んん~……少々、眠りすぎてしまいましたわねぇ……」
少女は伸びをすると、ゆっくり目を開いた。
視線が室内を巡り、ノアで止まる。
「まぁ」
一拍。
「まぁまぁまぁ! ノア様ではございませんの~!」
「ベルタ……?」
スカートを翻し、ベルタはほとんど足音もなくノアの前までやってきた。
「ご無事でしたのね! お怪我は――」
途中で言葉を止め、ノアの襟元へ手を伸ばす。
「まあ。少し曲がっておりますわ」
「起きて最初にそこなんですか」
「大切なことでございますの」
素早く襟を整え、ベルタは満足そうに頷いた。
ノアはその姿をしばらく見つめていた。
「……おはよう」
ベルタの手が止まった。
「目が覚めたら、たくさん話をしようって言ったから」
ノアはオルゴールへ視線を落とす。
ベルタは一度だけ眼鏡の位置を直した。
「まあまあ。お待たせしてしまいましたわねぇ」
笑顔が戻る。
そのとき、扉の向こうを何人かの足音が通り過ぎた。
低く交わされる報告の声が、わずかに室内まで届く。
ベルタが扉へ顔を向ける。
「……随分と慌ただしいですわね」
ノアの表情がわずかに引き締まる。
「戦争になったんです」
「まあ……それは穏やかではございませんわね。どちらとですの?」
「エリシオン侯国」
ベルタの笑顔が止まった。
「……エリシオン?」
紫色の瞳がノアへ向く。
「侯国、と仰いましたの?」
「うん」
ベルタはゆっくり窓辺へ戻り、オルゴールへ手を添えた。
「ベルタが知るエリシオンは、王国でございましたわ」
声から、先ほどまでの華やかさが薄れている。
「そして、もう滅びましたの」
「今の国については、何か知っていますか?」
「存じませんわ。少なくとも、ベルタがレガリア様にお仕えしていた頃、そのような国はございませんでしたもの」
ノアは小さく頷いた。
「……飛行艇団の武装解除と、竜を人と対等な存在として扱うことをやめるよう要求されたんです」
ベルタの目が細くなる。
「……竜を、従わせるものとして扱えと?」
「以前、飛行艇団が遭遇した氷竜アルピーヌも、向こうでは『管理個体』と呼ばれていました」
「……管理個体」
ベルタはその言葉を小さく繰り返した。
「命令されると、自分の意思では身体を止められないようでした」
しばらく、オルゴールの旋律だけが流れた。
やがてベルタが顔を上げる。
「ノア様。その使節について、覚えていることをお聞かせくださいませ」
「使節?」
「服装、装飾、礼の作法。書状や封蝋でも構いませんわ」
「濃い灰色の礼装。銀色の留め具があって、書状は黒い筒に入ってました」
「紋章は?」
「そこまでは見えませんでした」
「十分ですわ」
ベルタは眼鏡を指先で押し上げた。
「作法や文書には、その国がどこから来たのか残ることがございますの。昔のエリシオンと繋がっているのであれば、何か見つかるかもしれませんわ」
「親書は王城に保管されてるはず……」
「でしたら、可能なら拝見したいですわね」
ベルタはそう言ってから、少しだけ目を伏せた。
「……ひとつ、嫌な想像もございますの」
「嫌な想像?」
「レガリア様と陛下を裏切った者たちですわ」
ノアの視線が止まる。
「国が滅びても、その場にいたすべての者が消えるとは限りませんもの」
「……その子孫が?」
「可能性のお話ですの」
ベルタはすぐに言葉を重ねた。
「証拠もなく決めつけるほど、ベルタは粗雑なお仕事をいたしませんわ」
その口元には笑みがあった。
けれど、紫の瞳は静かなままだった。
「もし本当に、あの者たちの血が今まで続いているのであれば……少々、嫌な巡り合わせではございますけれど」
ノアは窓の外を見た。
騎士たちが、次々と城内を行き交っている。
「……調べる必要がありますね」
「ええ」
ベルタはくるりと身を翻した。
「ではノア様。使節が謁見室へ入ってきたところから、覚えている範囲でお話しくださいませ」
「今からですか?」
「もちろんですわ~」
華やかな調子が戻る。
「せっかく目覚めたその日に、昔の国と同じ名を掲げる方々が戦争を始めたんですもの。気になるではございませんの」
ノアは椅子へ腰を下ろした。
ベルタは机の上から紙と筆を取り、向かいへ立つ。
「ベルタ」
「はい?」
「手伝ってくれるんですね」
筆を持つ指が、ほんの少し止まった。
「ええ」
ベルタは笑った。
「ベルタが、そうしたいので」
それ以上は何も言わず、紙へ筆先を落とす。
「では、最初からお願いいたしますわ」
「……うん」
窓の外では、戦へ備える王城の音が続いている。
その一角で、銀色のオルゴールは静かな旋律を奏でていた。
千年前に滅びた王国と、同じ名を掲げる現在の侯国。
その二つを結ぶものがあるのか。
確かめるための最初の糸が、静かに伸び始めていた。
エテルナから戻ったイスズの指揮のもと、城壁や主要区画に設置された魔導装置の点検が進められている。各所を結ぶ術式を繋ぎ、王都全域を覆う魔法障壁を展開するための準備だった。
敵がどれほどの戦力を持つのかは分からない。
エリシオン侯国がどこにあるのかさえ、まだ正確には掴めていなかった。
どの方角から、何が来るのか。
分からない以上、今できるのは備えることだけだった。
夜も深まり始めたというのに、王城の灯りはほとんど落ちていない。
回廊では伝令が行き交い、窓の向こうでは騎士たちが持ち場へ向かっていく。装置の調整に向かう神官や術師の姿も、昼から途切れることがなかった。
ノアもその中にいた。
命令書を運び、防衛配置を確認し、必要とされれば次の場所へ向かう。
何かできることがあるうちは、足を止めなかった。
気づけば、正午の鐘から随分と時間が経っていた。
「ノア」
呼び止められて振り返ると、レクサスが立っていた。
その傍らにはモコもいる。首をわずかに傾け、じっとこちらを見ていた。
「今日はもう休んで」
「でも、まだ――」
「明日からの方が長いよ」
レクサスの声は穏やかなままだった。
その横からモコが大きな身体を寄せ、鼻先で軽く押してくる。
「……モコまで」
「くるる」
「二人とも、ずるいです」
そう言いながらも、ノアはようやく足を止めた。
聖騎士の詰所へ戻った頃には、外はすっかり暗くなっていた。
机の上には巡回記録と、ガラスのリンゴの文鎮。壁際には書棚が並び、窓から差し込む月明かりが室内を淡く照らしていた。
ノアは腰のアベニールを外し、机の脇へ立てかける。
そこで、窓辺に置かれた銀色のオルゴールへ目を向けた。
レガリアの最期のあと、ベルタが戻った依代。
イスズから預けられて以来、ずっとここに置いてある。
ノアは近づき、銀の蓋をそっと撫でた。
扉の向こうでは、夜になっても人の気配が絶えていなかった。
誰かが通るたび、飛行艇団の哨戒や北門の警備、避難経路を確認する声が途切れ途切れに届く。
自分だけが立ち止まっているような気がして、ノアの指先が銀の縁を少し強く押した。
「……どうしたらいいんだろう」
口にしてから、ノアは俯いた。
「私、ちゃんと……できるかな」
答える者はいない。
ノアは小さく息を吐き、手を離そうとした。
そのとき、オルゴールの奥で、かすかな金属音がした。
「……え?」
金具がわずかに震え、ゆっくりと蓋が持ち上がる。
「ベルタ?」
細く柔らかな旋律が流れ始めた。
淡い光の粒が舞い上がり、人の輪郭を形作っていく。
波打つ黒髪。
フリルを重ねた侍女服。
丸い眼鏡。
その奥に、紫色の大きな瞳。
「んん~……少々、眠りすぎてしまいましたわねぇ……」
少女は伸びをすると、ゆっくり目を開いた。
視線が室内を巡り、ノアで止まる。
「まぁ」
一拍。
「まぁまぁまぁ! ノア様ではございませんの~!」
「ベルタ……?」
スカートを翻し、ベルタはほとんど足音もなくノアの前までやってきた。
「ご無事でしたのね! お怪我は――」
途中で言葉を止め、ノアの襟元へ手を伸ばす。
「まあ。少し曲がっておりますわ」
「起きて最初にそこなんですか」
「大切なことでございますの」
素早く襟を整え、ベルタは満足そうに頷いた。
ノアはその姿をしばらく見つめていた。
「……おはよう」
ベルタの手が止まった。
「目が覚めたら、たくさん話をしようって言ったから」
ノアはオルゴールへ視線を落とす。
ベルタは一度だけ眼鏡の位置を直した。
「まあまあ。お待たせしてしまいましたわねぇ」
笑顔が戻る。
そのとき、扉の向こうを何人かの足音が通り過ぎた。
低く交わされる報告の声が、わずかに室内まで届く。
ベルタが扉へ顔を向ける。
「……随分と慌ただしいですわね」
ノアの表情がわずかに引き締まる。
「戦争になったんです」
「まあ……それは穏やかではございませんわね。どちらとですの?」
「エリシオン侯国」
ベルタの笑顔が止まった。
「……エリシオン?」
紫色の瞳がノアへ向く。
「侯国、と仰いましたの?」
「うん」
ベルタはゆっくり窓辺へ戻り、オルゴールへ手を添えた。
「ベルタが知るエリシオンは、王国でございましたわ」
声から、先ほどまでの華やかさが薄れている。
「そして、もう滅びましたの」
「今の国については、何か知っていますか?」
「存じませんわ。少なくとも、ベルタがレガリア様にお仕えしていた頃、そのような国はございませんでしたもの」
ノアは小さく頷いた。
「……飛行艇団の武装解除と、竜を人と対等な存在として扱うことをやめるよう要求されたんです」
ベルタの目が細くなる。
「……竜を、従わせるものとして扱えと?」
「以前、飛行艇団が遭遇した氷竜アルピーヌも、向こうでは『管理個体』と呼ばれていました」
「……管理個体」
ベルタはその言葉を小さく繰り返した。
「命令されると、自分の意思では身体を止められないようでした」
しばらく、オルゴールの旋律だけが流れた。
やがてベルタが顔を上げる。
「ノア様。その使節について、覚えていることをお聞かせくださいませ」
「使節?」
「服装、装飾、礼の作法。書状や封蝋でも構いませんわ」
「濃い灰色の礼装。銀色の留め具があって、書状は黒い筒に入ってました」
「紋章は?」
「そこまでは見えませんでした」
「十分ですわ」
ベルタは眼鏡を指先で押し上げた。
「作法や文書には、その国がどこから来たのか残ることがございますの。昔のエリシオンと繋がっているのであれば、何か見つかるかもしれませんわ」
「親書は王城に保管されてるはず……」
「でしたら、可能なら拝見したいですわね」
ベルタはそう言ってから、少しだけ目を伏せた。
「……ひとつ、嫌な想像もございますの」
「嫌な想像?」
「レガリア様と陛下を裏切った者たちですわ」
ノアの視線が止まる。
「国が滅びても、その場にいたすべての者が消えるとは限りませんもの」
「……その子孫が?」
「可能性のお話ですの」
ベルタはすぐに言葉を重ねた。
「証拠もなく決めつけるほど、ベルタは粗雑なお仕事をいたしませんわ」
その口元には笑みがあった。
けれど、紫の瞳は静かなままだった。
「もし本当に、あの者たちの血が今まで続いているのであれば……少々、嫌な巡り合わせではございますけれど」
ノアは窓の外を見た。
騎士たちが、次々と城内を行き交っている。
「……調べる必要がありますね」
「ええ」
ベルタはくるりと身を翻した。
「ではノア様。使節が謁見室へ入ってきたところから、覚えている範囲でお話しくださいませ」
「今からですか?」
「もちろんですわ~」
華やかな調子が戻る。
「せっかく目覚めたその日に、昔の国と同じ名を掲げる方々が戦争を始めたんですもの。気になるではございませんの」
ノアは椅子へ腰を下ろした。
ベルタは机の上から紙と筆を取り、向かいへ立つ。
「ベルタ」
「はい?」
「手伝ってくれるんですね」
筆を持つ指が、ほんの少し止まった。
「ええ」
ベルタは笑った。
「ベルタが、そうしたいので」
それ以上は何も言わず、紙へ筆先を落とす。
「では、最初からお願いいたしますわ」
「……うん」
窓の外では、戦へ備える王城の音が続いている。
その一角で、銀色のオルゴールは静かな旋律を奏でていた。
千年前に滅びた王国と、同じ名を掲げる現在の侯国。
その二つを結ぶものがあるのか。
確かめるための最初の糸が、静かに伸び始めていた。
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