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亡国の残響
折れた翼と天脈樹
セラ・アベンシスが港に現れたあと、ホークの周りはにわかに慌ただしくなった。
裂けた船腹を見たセラは、まずホークを整備庫へ移すよう手配した。港の潮風と湿気の中で制御核を開けるわけにはいかない。翼骨を揺らさないよう固定具を増やし、吊り上げる位置を細かく指示し、飛行艇団員たちに制御部へ触れないよう念を押す。
「ここで中を開けたら駄目。整備庫に入れてから見る。固定は五点。翼の根元を揺らさないで。制御核には誰も触らないこと」
「は、はい!」
団員たちが慌ただしく動き出す。
セラはようやく顔を上げた。港に横たわるホークを見て、それから周囲の顔ぶれを見渡す。
「……で、団長は?」
その問いに、近くの団員が少しだけ言葉を選んだ。
「城に戻られています。腕を折っていますが、命に別状はありません」
「腕?」
セラの声が一段低くなった。
「はい。ただ、歩ける程度にはお元気で……その、すでに報告書を確認するとおっしゃって」
「馬鹿なの?」
あまりにも平坦な声だったので、団員は返事に詰まった。
セラは短く息を吐き、もう一度ホークを見た。
「ホークは夜のうちに整備庫へ。私は一度、城に戻る。明日の朝、私が見る」
その言い方は落ち着いていた。けれどノア・ライトエースには、セラの指先が一瞬だけ強く握られたのが見えた。
* * *
ラクティス・ジーニアは自室にいた。
片腕を吊ったまま、机の上に広げた報告書へ目を通している。寝台の脇には医務官が置いていったらしい薬瓶が並び、そのどれにもほとんど手をつけた様子がなかった。
「……休めって言われなかった?」
セラが言うと、ラクティスは顔を上げ、いつもの調子で笑った。
「腕を折っただけだ。目と口は無事だぜ」
「そういうところ」
「怒ってる?」
「まだ。明日のホーク次第」
「そりゃ怖いな」
軽口を叩く顔色は、いつもより少し悪かった。セラは何も言わず、吊られた腕の固定を見た。
「無茶した?」
「団長として必要な分だけな」
「じゃあ、次からその必要な分を減らす方法を考える」
ラクティスは少しだけ目を細めた。
「頼もしいな、俺の機関士長は」
「怪我人は黙って休む」
「へいへい」
セラは溜息をついた。けれどその声は、怒りきれていなかった。
――ホークが王都港の整備庫へ運び込まれたのは、夜明け前だった。
裂けた翼骨。歪んだ制御軸。外装に走った、蜘蛛の糸みたいな細い亀裂。
飛ぶために作られた艇体が地上で動けずにいる姿は、空から無理やり引き剥がされた生き物のように見えた。
セラは、しばらく何も言わなかった。
けれど、立ち尽くしていたわけではない。
その手はもう工具を選んでいた。指先は傷の深さを測り、耳は軸の歪みを拾い、目は壊れた場所ではなく、まだ生きている場所を探している。
ノアは、その背を見つめていた。
整備庫の空気は冷えている。夜明け前の石床に残った冷気が、靴底からじわりと上がってきた。
その中で、セラの手つきだけが妙に温かく見えた。
「……直せる?」
レクサス・アルファードが静かに問う。
セラはホークの翼の付け根から顔を上げた。額にかかった髪を手の甲で払う。その指先には黒い煤と、淡い銀の粉がついていた。
「形だけなら、直せる。飛ばすだけならね」
ノアの胸が、きゅっと強張った。
“飛ばすだけなら”。
その言い方が、セラらしくて、少しだけ怖かった。
セラは工具を置き、制御核の覆いを開いた。内部は、急激な冷気に晒されて白く脆くなっていた。
「でも、同じことが起きたらまた折れる」
整備庫の中に、重い沈黙が落ちた。
セラは腰の工具袋から、一枚の紙を取り出した。角は擦れ、折り目には何度も開かれた跡がある。
図面だった。
ホークの翼骨、補助軸、制御核の周辺構造。余白には細かな計算と、いくつもの素材名がびっしり書き込まれている。
「セラさん、それ……」
「妹の手伝いで実家に戻ってる間、少しずつ考えてたの」
セラは紙の端を指で整えた。
「湯を沸かしてる時も、布を干してる時も、頭のどこかでずっとホークのこと考えてた。竜のそばを飛んでも、風や魔力の乱れに振り回されない方法はないかって」
彼女は、裂けた翼骨を見た。
「で、今出せる中で一番いい案がこれ」
図面の中央に、見慣れない文字があった。
天脈樹。
「てんみゃくじゅ……?」
ノアが読み上げると、セラは小さく頷いた。
「風竜の棲家に生える樹よ。風竜の羽ばたきと魔力を長い年月受けて育つ。軽くて、しなやかで、外から流れ込む魔力を散らせる」
レクサスが図面を覗き込んだ。
「それを翼骨に使うんだね」
「うん。ホークの骨に天脈樹の芯材を組めば、急旋回の負荷も、冷気や魔力干渉も今より逃がせる。制御部の補助軸にも使える」
そこで、セラは言葉を切った。
続きを言いづらそうに、ほんの少しだけ唇を結ぶ。
「ただし、場所が問題。人里からかなり離れた風竜の棲家にあるものよ。風竜にとっても大事な樹だし、人間が『ください』って頼んで、「はいどうぞ」って分けてもらえるようなものじゃない」
整備庫から、工具の音が消えた。
「話してみましょう」
ノアの声は、思ったよりもまっすぐ出た。
セラが顔を上げる。
「天脈樹を分けていただけるか、風竜にお願いしに行くんです。事情を話して、許してもらえる道があるか確かめましょう」
「ノア……」
「氷竜のことを、風竜たちも知っているかもしれません。もしそうなら、これは私たちだけの問題ではないはずです」
レクサスが静かに息をついた。
迷っている顔ではなかった。もう、段取りを組み始めている顔だった。
「森へ入る者の責任は、僕が負う。今日は確認と交渉のため、少人数で行こう。必要な素材を確かめて、風竜が許してくれるなら、改めて搬出班を編成する」
セラは図面を握ったまま、ホークを見た。
「……分かった」
彼女は小さく笑った。疲れた顔だったが、その目だけはもう前を向いていた。
「机の上で終わらせるより、ずっといい」
折れた翼骨の影が、整備庫の床に長く伸びている。
その日のうちに出発するには、準備が足りなかった。
風竜の棲家は、人の道が通っている場所ではない。地図の上では山脈の一角に印があるだけで、そこから先は飛行艇団の古い航路記録と、竜たちの目撃談を頼るしかなかった。
レクサスはすぐに、机の上へ地図を広げさせた。
「大人数では行かない方がいい。まずは交渉だ。森へ踏み込む前に、風竜にこちらの目的を伝える」
「護衛は?」
近くにいた騎士が問うと、レクサスは少し考えてから首を横に振った。
「最小限にする。武装した集団に見えれば、相手を警戒させるだけだ」
その判断に、ノアも頷いた。
「私も、その方がいいと思います。お願いに行くのに、剣を並べるのは違いますから」
セラは図面を丸め、工具箱の中身を選び直していた。いつもの整備用具ではない。測定器、魔力の流れを見るための細い針、木質を傷つけずに反応だけを確かめる小さな探査具。それから、天脈樹の芯材が本当に使えるかを確かめるための試験板。
「持っていけるのはこれだけ。現地で削ったり切ったりはしない。許可が出るまでは、触るのも最低限」
「セラさん」
ノアが声をかけると、セラは顔を上げた。
「大丈夫。分かってる。相手にとって大事な樹なんでしょ。材料を見る目じゃなくて、預かるものを見る目で行く」
その言葉に、ノアの胸が少しだけ温かくなった。
整備庫の入口では、モコが鞍具をつけられていた。工具箱を固定するための革帯が背に回され、大きな羽は邪魔にならないようにゆるく畳まれている。モコは鼻先で革帯をつつき、不思議そうに喉を鳴らした。
「くるる……」
「ごめんね、モコ。少し荷物をお願いしてもいい?」
「きゅ!」
返事のように鳴いて、モコは前脚を踏み直した。頼られることが嬉しいのか、羽先が少しだけ揺れている。
レクサスはその様子を見て、静かに表情を緩めた。
「出発は昼前にしよう。山に入るなら、日が傾く前に風の流れを見たい」
「分かった」
セラは短く答え、もう一度ホークを見た。
整備庫の中央で、傷だらけの艇体はまだ動かない。けれど、その周りでは人の手が動き、地図が開かれ、荷が整えられていく。
壊れた翼の前で、次の空へ向かう準備だけが、静かに始まっていた。
裂けた船腹を見たセラは、まずホークを整備庫へ移すよう手配した。港の潮風と湿気の中で制御核を開けるわけにはいかない。翼骨を揺らさないよう固定具を増やし、吊り上げる位置を細かく指示し、飛行艇団員たちに制御部へ触れないよう念を押す。
「ここで中を開けたら駄目。整備庫に入れてから見る。固定は五点。翼の根元を揺らさないで。制御核には誰も触らないこと」
「は、はい!」
団員たちが慌ただしく動き出す。
セラはようやく顔を上げた。港に横たわるホークを見て、それから周囲の顔ぶれを見渡す。
「……で、団長は?」
その問いに、近くの団員が少しだけ言葉を選んだ。
「城に戻られています。腕を折っていますが、命に別状はありません」
「腕?」
セラの声が一段低くなった。
「はい。ただ、歩ける程度にはお元気で……その、すでに報告書を確認するとおっしゃって」
「馬鹿なの?」
あまりにも平坦な声だったので、団員は返事に詰まった。
セラは短く息を吐き、もう一度ホークを見た。
「ホークは夜のうちに整備庫へ。私は一度、城に戻る。明日の朝、私が見る」
その言い方は落ち着いていた。けれどノア・ライトエースには、セラの指先が一瞬だけ強く握られたのが見えた。
* * *
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片腕を吊ったまま、机の上に広げた報告書へ目を通している。寝台の脇には医務官が置いていったらしい薬瓶が並び、そのどれにもほとんど手をつけた様子がなかった。
「……休めって言われなかった?」
セラが言うと、ラクティスは顔を上げ、いつもの調子で笑った。
「腕を折っただけだ。目と口は無事だぜ」
「そういうところ」
「怒ってる?」
「まだ。明日のホーク次第」
「そりゃ怖いな」
軽口を叩く顔色は、いつもより少し悪かった。セラは何も言わず、吊られた腕の固定を見た。
「無茶した?」
「団長として必要な分だけな」
「じゃあ、次からその必要な分を減らす方法を考える」
ラクティスは少しだけ目を細めた。
「頼もしいな、俺の機関士長は」
「怪我人は黙って休む」
「へいへい」
セラは溜息をついた。けれどその声は、怒りきれていなかった。
――ホークが王都港の整備庫へ運び込まれたのは、夜明け前だった。
裂けた翼骨。歪んだ制御軸。外装に走った、蜘蛛の糸みたいな細い亀裂。
飛ぶために作られた艇体が地上で動けずにいる姿は、空から無理やり引き剥がされた生き物のように見えた。
セラは、しばらく何も言わなかった。
けれど、立ち尽くしていたわけではない。
その手はもう工具を選んでいた。指先は傷の深さを測り、耳は軸の歪みを拾い、目は壊れた場所ではなく、まだ生きている場所を探している。
ノアは、その背を見つめていた。
整備庫の空気は冷えている。夜明け前の石床に残った冷気が、靴底からじわりと上がってきた。
その中で、セラの手つきだけが妙に温かく見えた。
「……直せる?」
レクサス・アルファードが静かに問う。
セラはホークの翼の付け根から顔を上げた。額にかかった髪を手の甲で払う。その指先には黒い煤と、淡い銀の粉がついていた。
「形だけなら、直せる。飛ばすだけならね」
ノアの胸が、きゅっと強張った。
“飛ばすだけなら”。
その言い方が、セラらしくて、少しだけ怖かった。
セラは工具を置き、制御核の覆いを開いた。内部は、急激な冷気に晒されて白く脆くなっていた。
「でも、同じことが起きたらまた折れる」
整備庫の中に、重い沈黙が落ちた。
セラは腰の工具袋から、一枚の紙を取り出した。角は擦れ、折り目には何度も開かれた跡がある。
図面だった。
ホークの翼骨、補助軸、制御核の周辺構造。余白には細かな計算と、いくつもの素材名がびっしり書き込まれている。
「セラさん、それ……」
「妹の手伝いで実家に戻ってる間、少しずつ考えてたの」
セラは紙の端を指で整えた。
「湯を沸かしてる時も、布を干してる時も、頭のどこかでずっとホークのこと考えてた。竜のそばを飛んでも、風や魔力の乱れに振り回されない方法はないかって」
彼女は、裂けた翼骨を見た。
「で、今出せる中で一番いい案がこれ」
図面の中央に、見慣れない文字があった。
天脈樹。
「てんみゃくじゅ……?」
ノアが読み上げると、セラは小さく頷いた。
「風竜の棲家に生える樹よ。風竜の羽ばたきと魔力を長い年月受けて育つ。軽くて、しなやかで、外から流れ込む魔力を散らせる」
レクサスが図面を覗き込んだ。
「それを翼骨に使うんだね」
「うん。ホークの骨に天脈樹の芯材を組めば、急旋回の負荷も、冷気や魔力干渉も今より逃がせる。制御部の補助軸にも使える」
そこで、セラは言葉を切った。
続きを言いづらそうに、ほんの少しだけ唇を結ぶ。
「ただし、場所が問題。人里からかなり離れた風竜の棲家にあるものよ。風竜にとっても大事な樹だし、人間が『ください』って頼んで、「はいどうぞ」って分けてもらえるようなものじゃない」
整備庫から、工具の音が消えた。
「話してみましょう」
ノアの声は、思ったよりもまっすぐ出た。
セラが顔を上げる。
「天脈樹を分けていただけるか、風竜にお願いしに行くんです。事情を話して、許してもらえる道があるか確かめましょう」
「ノア……」
「氷竜のことを、風竜たちも知っているかもしれません。もしそうなら、これは私たちだけの問題ではないはずです」
レクサスが静かに息をついた。
迷っている顔ではなかった。もう、段取りを組み始めている顔だった。
「森へ入る者の責任は、僕が負う。今日は確認と交渉のため、少人数で行こう。必要な素材を確かめて、風竜が許してくれるなら、改めて搬出班を編成する」
セラは図面を握ったまま、ホークを見た。
「……分かった」
彼女は小さく笑った。疲れた顔だったが、その目だけはもう前を向いていた。
「机の上で終わらせるより、ずっといい」
折れた翼骨の影が、整備庫の床に長く伸びている。
その日のうちに出発するには、準備が足りなかった。
風竜の棲家は、人の道が通っている場所ではない。地図の上では山脈の一角に印があるだけで、そこから先は飛行艇団の古い航路記録と、竜たちの目撃談を頼るしかなかった。
レクサスはすぐに、机の上へ地図を広げさせた。
「大人数では行かない方がいい。まずは交渉だ。森へ踏み込む前に、風竜にこちらの目的を伝える」
「護衛は?」
近くにいた騎士が問うと、レクサスは少し考えてから首を横に振った。
「最小限にする。武装した集団に見えれば、相手を警戒させるだけだ」
その判断に、ノアも頷いた。
「私も、その方がいいと思います。お願いに行くのに、剣を並べるのは違いますから」
セラは図面を丸め、工具箱の中身を選び直していた。いつもの整備用具ではない。測定器、魔力の流れを見るための細い針、木質を傷つけずに反応だけを確かめる小さな探査具。それから、天脈樹の芯材が本当に使えるかを確かめるための試験板。
「持っていけるのはこれだけ。現地で削ったり切ったりはしない。許可が出るまでは、触るのも最低限」
「セラさん」
ノアが声をかけると、セラは顔を上げた。
「大丈夫。分かってる。相手にとって大事な樹なんでしょ。材料を見る目じゃなくて、預かるものを見る目で行く」
その言葉に、ノアの胸が少しだけ温かくなった。
整備庫の入口では、モコが鞍具をつけられていた。工具箱を固定するための革帯が背に回され、大きな羽は邪魔にならないようにゆるく畳まれている。モコは鼻先で革帯をつつき、不思議そうに喉を鳴らした。
「くるる……」
「ごめんね、モコ。少し荷物をお願いしてもいい?」
「きゅ!」
返事のように鳴いて、モコは前脚を踏み直した。頼られることが嬉しいのか、羽先が少しだけ揺れている。
レクサスはその様子を見て、静かに表情を緩めた。
「出発は昼前にしよう。山に入るなら、日が傾く前に風の流れを見たい」
「分かった」
セラは短く答え、もう一度ホークを見た。
整備庫の中央で、傷だらけの艇体はまだ動かない。けれど、その周りでは人の手が動き、地図が開かれ、荷が整えられていく。
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