Dragon's Song-竜は祈りを捧ぐ

篁 玖月

文字サイズ
小 中 大 特大
39 / 57
慟哭の竜

選び直すために

 最初に戻ってきたのは、音だった。

 遠くで、何かが軋むような――風とも、布擦れともつかない、微かな気配。
 次いで、瞼の裏に差し込む、淡い光。

 ――生きている。

 そう理解するまでに、少し時間がかかった。

 ルフレ・スターレットは、ゆっくりと目を開けた。
 白い天井。高い梁。石造りの壁。
 どこかで嗅いだことのある、清めの香。

 神殿だ、と遅れて思い至る。

 身体は重く、指先に力が入らない。
 痛みはない。ただ――胸の奥が、空洞のように冷えていた。

 夢を見ていた気がする。
 炎。叫び声。黒い光。
 けれど、それらは形を結ぶ前に、霧のように溶けていった。

 代わりに残ったのは「取り返しのつかないことをした」という感覚だけだった。

 どれくらい眠っていたのかは分からない。

 ――心が、先に限界だったのだと。
 誰かに、そう告げられた気がする。

 目覚めたその日から、ルフレは、同じことばかり考えていた。

 ――このまま、守られていていいはずがない。

 * * *

 神殿の一室は、午後の光に満ちていた。
 高い窓から差し込む淡い日差しが、白い石床に、柔らかな影を落としている。

 ルフレは椅子に腰掛け、両手を膝の上で固く握りしめていた。

 向かいの椅子にはノア。
 その隣にレクサス。
 少し離れた位置で、イスズが肘をつき、退屈そうに天井を見上げている。

 沈黙に耐えきれず、ルフレは口を開いた。

「……ボク」

 声が、思ったよりも小さくなった。

「ボク、この国で……働きたいです」

 言葉を選びながら、必死に続ける。

「掃除でも、運びでも、なんでも……。ボクがやったこと、全部……取り返せないって、分かってます。でも……」

 視線が落ちる。
 卓の上、オルゴールの、触れられない蓋の上へ。

「……償いたいんです」

 その瞬間、間髪入れずに声が飛んだ。

「ダメー」

 あまりに軽い即答だった。

 ルフレが顔を上げる。
 イスズは、何事もなかったかのように欠伸を噛み殺している。

「……え?」

「だから、ダメ」

 今度ははっきりと。
 イスズは視線を下げ、ようやくルフレを見る。

「働くのはね、大人の仕事。アンタはまだ――世界を知らなさすぎる」

「でも……!」

 思わず声を強めると、喉が詰まった。

「ボク、ここで何もしないで守られてるだけなんて……それじゃ……」

 言葉が続かない。
 “許されない”と言いたかった。
 けれど、口に出す勇気がなかった。

 イスズは椅子に深く腰掛け直し、指で卓をとん、と叩く。

「“償いたい”って言葉が先に出るうちはさ」

 少しだけ、声の調子が変わった。

「……まだ、自分の傷を抱えるので精一杯なんだよ」

 ルフレの肩が、びくりと揺れる。

「そもそもさアンタ、子どもでしょ?」

 イスズは、肩をすくめるように続けた。

「そんな状態で働くとか……千年早い」

 少しだけ間を置いて。

「アンタが壊したものはね、汗かいて働いたらチャラ、なんて都合のいいもんじゃない」

 けれど、その言葉には突き放す冷たさはなかった。

「だからまず、勉強」

 イスズは指を立てる。

「字を覚える。歴史を知る。この国が、何を守ってきたのか。何を失って、それでも立ち上がってきたのか」

 唇を噛みしめる。

「……それで」

 震える声で、ルフレは尋ねた。

「それで……ボクは、許されますか」

 一瞬、部屋の空気が張り詰めた。

 イスズは首を傾げ、はっきりと言う。

「さあ?」

 その言葉に、胸が締めつけられる。

「許すかどうかなんて、誰にも決められない。アンタ自身にも、ノアにもね」

 でも、と付け加えて。

「“選び直す力”は、ちゃんと手に入る」

 ノアは黙ったまま、ルフレを見ていた。
 裁くでも、慰めるでもなく、ただ、そこにいる。

 レクサスが静かに口を開く。

 責める声ではなかった。
 それは、止めるための言葉だった。

「君がここにいる理由は、役に立つためじゃない」

 ルフレは、初めてレクサスの目を見る。

「生きるためだ」

 その言葉が、胸に落ちるまで、少し時間がかかった。

 * * *

 ノアは、膝の上に置いた布包みへと視線を落とした。

 神殿の小部屋。
 午後の光はやわらかく、窓の外では、風が木々を揺らしている。

「……これ、ね」

 彼女は布の端に指をかけ、言葉を選ぶように、一度だけ息を吸った。

「ラクティス団長たちが、アストラで復興支援をしていたときに見つけたの」

 向かいの椅子に座るルフレは、何も言わずに聞いている。
 視線は、布包みから外れたままだ。

「詳しい場所までは、聞いてない。ただ……“最初に魔力被害が大きかった村の、廃屋の中”って」

 ノアは、そこで少しだけ言葉を止め、そっと布をめくる。

 現れたのは、淡い茶色の毛皮だった。
 一部には焼け焦げた痕。

「……これを見たとき」

 ノアは視線を落としたまま、続ける。

「理由は分からないけど……なんとなく、気になって……」

 ルフレの喉が、小さく鳴った。

「――もしかして、って思ったの。……君と、関係あるんじゃないかって」

 少し間を置いて、ノアは言葉を足す。

「ラクティス団長もね。……狼にしては、大きすぎるって」

 部屋の中に、静寂が落ちる。

 ルフレは毛皮を見つめていた。
 けれど、すぐには手を伸ばさない。

 まるで、触れた瞬間に“確信してしまうこと”を恐れているかのように。

 しばらくして――覚悟を決めるように、震える手が伸びた。

 指先が毛皮に触れた瞬間、言葉が消えた。
 それから、掠れた声が零れる。

「……間違いない。……母さん、だ」

 それは、推測ではなく確信だった。

 冬の日の、あの温もり。眠る前に嗅いだ匂い。
 そして――最期の日、目の前で倒れた背中。

「……ここに……あったんだ……」

 声は、絞り出すようだった。

 ノアは、何も言えなかった。
 慰めも、言葉も、ここでは違う。

 ただ、少し距離を詰めて、同じ空間にいることを選ぶ。

 やがて、ルフレがぽつりと言った。

「……母さんを殺した人間は、許せない」

 その言葉には、嘘がなかった。

 同時に――その怒りを理由に、自分が何を選んだのかを、ルフレは、忘れてはいなかった。

 その選択をしてから、いつの間にか、彼の傍には、いつも彼女がいた。

 怒りを否定しなかった。
 悲しみを、弱さだとも言わなかった。

「許せないなら、それでいい」

 そう言って、寄り添った。

 その優しさが、救いだったのか、罠だったのか。
 今も、はっきりとは言えない。

 ただ一つ確かなのは――あのとき、彼女は確かに、同じ傷を抱えた者として、ルフレを見ていたということだった。

「……でも」

 小さく息を吸い、

「母さんを……見つけてきてくれて……ありがとう」

 ノアは、静かに頷いた。

 それ以上の答えは、必要なかった。

 * * *

 弔いは、ひっそりと行われた。

 神殿の裏手。
 人目につかない、小さな庭。

 石の根元に、淡い茶色の毛皮の一部が供えられる。

 すべてを土に返すことはしなかった。

 それが、失われたものを忘れないためなのか。
 それとも――生きていくためなのか。

 その違いを、ルフレは、まだ言葉にできない。

 祈りは、短かった。

「……ごめん」

 赦してほしいとは、言わなかった。
 許せない気持ちも、消えなかった。

 それでも――立ち上がることだけは、選んだ。

 神殿へ戻る途中、ルフレは足を止め、振り返る。

 ここで学び、字を覚え、歴史を知る。
 この国が、何を守り、何を失ってきたのかを。

 それは、償いではない。
 逃げでもない。

 ――選び直すための、準備だった。
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】私の出産日に初恋の人を選んだ夫、あなたを彼女に返品します 表紙

【完結】私の出産日に初恋の人を選んだ夫、あなたを彼女に返品します

「子供っぽい嫉妬はやめろ」私が命懸けで出産した日、夫のヴィンセント侯爵は初恋の人の所へ行ってしまった。理由を説明して欲しいと言うと、子供っぽい嫉妬をやめろと厳しい声で言われてしまう。しかも初恋の相手がいきなりやってきて「侯爵様は昔から私を命懸けで助けてくれるんです」と悪びれもせずに言い放った。妻よりも初恋相手を優先する夫は必要ないので私は夫を初恋相手へ返品した。すると生まれてから一度も人に頭を下げたことのないヴィンセントが、ボロボロになって私に頭を下げてきて⋯⋯。
恋愛 連載中 長編
文字数 94,149
「君を愛している」と言った公爵様には、奥様がいました 表紙

「君を愛している」と言った公爵様には、奥様がいました

「君を愛している」 そう言って、公爵様は私に微笑んだ。 男爵家の庶子だった私には、その言葉だけで十分だった。 王都に用意された小さな家も、初めて身に纏う美しいドレスも、優しく私の名を呼んでくれる公爵様も。 そして、彼との間に授かったお腹の子どもさえ。 全部、夢のような幸せだった。 だから私は、何も知らなかった。 どうして公爵様は、一度も私を夜会へ連れて行ってくれなかったのか。 どうして使用人達が、時折、言葉を飲み込むような顔をしていたのか。 知ろうともしなかった。 幸せな夢から目を逸らさないために。 これは、夢から目覚めた一人の少女が、自らの無知と向き合う物語。 そして、祈ることしかできなかった、私の物語。
恋愛 連載中 長編
文字数 112,791
去りし令嬢の、その後の静けさ 表紙

去りし令嬢の、その後の静けさ

声を荒げることも、言い返すこともなく、 彼女はただ静かに、その家を去った。 残された者が気づくのは、いつも後になってから。 ——彼女が毎日していた、名もない献身の重さに。 婚約者の、夫の、家族の「当たり前」を支えていた手が消えたとき、 失われたものの輪郭が、ようやく見えてくる。 ざまぁを声高に描かない。すれ違いと、後悔と、再会の余韻で読ませる。 静かな情がじんわり効く、一話完結の短編集。 ※S01「捨てられ令嬢」のアルファポリス最適化分割。 ※アルファ読者向け:関係性・感情の機微・余韻を最優先。
ファンタジー 連載中 長編
文字数 9,573
【完結】捨てられた侯爵夫人の日記 表紙

【完結】捨てられた侯爵夫人の日記

十五歳で侯爵家に嫁いだイベリス。 夫ハイドランジアは、愛人と別邸に住み、三年の月日が経った。 白い結婚による婚姻不履行が間近に迫る中、イベリスは、高熱を出して記憶を失う。 戻ってきた夫は、妻に仕える侍女アリッサムから、いない月日の間書き綴られた日記を手渡される。 そこには、出会った日から自分を恋しいと思ってくれていた少女の思いの丈が詰まっていた。 十八歳になり、美しく成長した妻を前に、ハイドランジアは、心が揺らぐ。 自分への恋心を忘れてしまったとしても、これ程までに思ってくれていたのなら、また、愛を育めるのではないのか? 様々な人間の思いが交錯し、物語は、思わぬ方向へと進んでいく。
恋愛 完結 短編
文字数 13,157
【完結】毎夜、幼馴染の元へ通う夫へ。完璧な妻の仮面は返上いたします 表紙

【完結】毎夜、幼馴染の元へ通う夫へ。完璧な妻の仮面は返上いたします

【祝】HOTランキングランクイン!たくさんの応援ありがとうございます! 社交界で「理想の夫婦」と称えられるグランヴェル伯爵夫妻。だが実態は、毎夜幼馴染の愛人の元へ通う夫レオナルドと、一人冷たいベッドで眠るアメリアの「白い結婚」だった。 愛人に金品を貢ぎ、妻を「冷たい飾り」と見下す夫。しかし彼は知らなかった。己が誇る「優秀な領地経営」を担っていたのが、アメリアの頭脳だったことを――。 限界を迎えたアメリアの知的な罠が弾ける時、偽りの夫と愛人に完膚なきまでの絶望が襲いかかる! ※ハッピーエンド保障 ※全5話完結しました
恋愛 完結 短編
文字数 10,963
【完結】番なんて信じません!と逃げ出した侍女ですが、氷の黒豹辺境伯様が離してくれません 表紙

【完結】番なんて信じません!と逃げ出した侍女ですが、氷の黒豹辺境伯様が離してくれません

番なんて、人間から自由を奪う言い訳だ。 母を「番」として奪われた侍女ミレイは、匂いを隠して北の辺境伯邸で働いていた。 けれど薬草が切れた夜、屋敷の主「氷の黒豹」ゼルキウスに見つかってしまう。 「見つけた。……もう、二度と離さない」 逃げても逃げても、静かに、甘く追い詰めてくる黒豹辺境伯。 それでも彼は、決して無理に奪わない。「選ぶのは、お前だ」 番を信じない侍女が、自分の意思で愛を選ぶまでの溺愛ロマンス。 全17話、完結済み。 ※この作品は、外部サイトでも掲載しております。
恋愛 完結 長編
文字数 41,562
【完結】赤ちゃんが生まれたら殺されるようです 表紙

【完結】赤ちゃんが生まれたら殺されるようです

もうすぐ赤ちゃんが生まれる。 ドレスの上から、ふくらんだお腹をなでる。 「はやく出ておいで。私の赤ちゃん」 ある日、アリシアは見てしまう。 夫が、ベッドの上で、メイドと口づけをしているのを! 「どうして、メイドのお腹にも、赤ちゃんがいるの?!」 「赤ちゃんが生まれたら、私は殺されるの?」 夫とメイドは、アリシアの殺害を計画していた。 自分たちの子供を跡継ぎにして、辺境伯家を乗っ取ろうとしているのだ。 ドラゴンの力で、前世の記憶を取り戻したアリシアは、自由を手に入れるために裁判で戦う。 ※1話と2話は短編版と内容は同じですが、設定を少し変えています。
恋愛 完結 長編
文字数 102,443
五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~ 表紙

五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~

「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」 大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。 生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。 しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。 「すまない。私は父としての責任を果たす」 かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。 だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。 これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。
恋愛 完結 長編
文字数 53,978