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第五章 悠也の家
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「かえでーこれ使って」
せわしない足音とともに悠也の声が響いてくる。悠也は部屋に顔を出すなり、ん、と俺のほうにタオルを投げてきた。
「ナイスキャッチ」
うおっと声をあげ片手で受け取った俺に、悠也はそう言って笑った。かと思うと今度は瞬時にはっとしたような顔になる。
「あ、お母さんがさ、確かティーパック買ってたんだ!ちょっとキッチン取ってくる。ホットでいいよな」
「いや、それよりお前もふいたほうがいいだろ」
そういった時はすでに遅く、「大丈夫!俺上着かぶってたから」という声とともに、悠也はキッチンへと駆け足で去っていくところだった。
「元気すぎだろ…」
ついこの間まで、小学生だったのかと錯覚しそうになるほど、 体力がありあまっている悠也にあっけにとられてしまう。
俺ははあ、とため息をつきながら、ぐしょぐしょになった髪を乱暴にふいた。手元のタオルからめちゃくちゃ悠也の家の洗剤の匂いがする。抱きしめた時、悠也の服から香るのと同じやつだ、って何考えてるんだろう、と俺は必死に首を振る。
ほんと、落ち着かねぇ…。
「おまたせー!」
一通り体まで拭き終えてびっしょりと濡れた服をぱたぱたと仰ぎながらぼーっとしていると、悠也が今度はお盆を持ってやってきた。
「なんかキッチンにさ、お菓子もちょっとあったからとってきた」
どさっと机におかれた皿の上には、スーパーの駄菓子コーナーによく売っている、個包装のクッキーやチョコレートが乱雑に置かれていた。
「それ、お前の母さんに叱られないか?」
「かえでと一緒に食べたって言えば大丈夫だよ」
悠也は、俺の向かいに座ると同時にクッキーをもぐもぐとほおばりだした。お腹が空いていたようで、一枚食べながらもさらに次はチョコレートを手に取って、口に入れようとしている。
色々と気にするのがアホらしくなってきて、俺もとりあえず紅茶とクッキーをありがたくもらうことにした。
軽く手を合わせて、いただきます、と小さく呟く。喉が渇いていたので、まずはカップを手に取り、ゆっくり噛み締めるように飲むと、ひんやりとした肌に温かさが沁みわたっていく。
「おいひい」
ゴクゴクと勢いよく紅茶を飲み、悠也がぷはーっと息をついた。笑いながら悠也の顔を見ると、口元にチョコレートらしきものがついている。
「悠也」
俺はとんとん、と自分の頬を人差し指で差し示して声をかけた。
「チョコついてる」
「え、 どこ!ここ?」
今度は悠也の左頬(唇が近いせいで、触るのは何となくはばかられる)を指でさして「反対だよ、こっち」と教えるが、俺は自分の顔が赤くなっていないか心配になった。
子どもの頃は、俺がハンカチとかティッシュで悠也の口をごしごし拭いてやったっけ。今は触れるか触れないかの距離で、情けないくらいに呼吸が浅くなっているような気がする。
不意に悠也が、ふふっと笑みをもらしたので俺は戸惑った。
「え、なに」
「なーんかこうやっておやつ食べながら一緒にいるとさぁ、昔思い出すな。よく宿題やろってかえでがうちにきて、結局いっしょだと全然進まねーの」
にししっと悠也が笑って言うので、俺は肩を思いきりどつく。
「はぁ?テスト勉強の時は真面目にやってただろ!…てかそういえばお前、春休みの課題ちゃんとやってるのか?」
悠也がわかりやすく、ぎくりと体を動かす。
「うっ」
俺はあーあ、とわざとらしくため息をついてやる。
「…ほんと変わんねーな、今やるか?」
そう言うと悠也はやや不満げに、俺の方をじっと見てきた。
「ええ~なに、かえでさまは余裕なわけ?」
「まぁお前よりは。終わりはもう見えてるし」
「うう…ずるい」
悠也は悔しそうな顔でぼやいた。
「何がだよ」
机に頬杖をついて、俺はひらひらと手のひらを振るように悠也のほうに差し出した。
「ほら、課題みせてみろよ。わかんないとこあったら教えてやるし」
「え、まじで!?」
「雨やむまで勉強会でもしようぜ」
悠也は勢いよくうなずくと、ぱたぱたっと奥の本棚へ向かい、プリントを漁りだした。
「んん、どこだー?あっこれか!」
課題を放置しているのが丸わかりだ。
「この英文がめっちゃ難しくてさあ」
悠也はそう言うと、机にばさっとプリントを置いて俺の隣に座ってきた。悠也は俺が英語を得意だったこと、覚えているんだろうか。
「あー、みせて」
さっと目を通し「どこがわかんねぇの」と一つ一つ聞きながら、丁寧に解説する。受験勉強を放課後の空き教室で一緒にやっていた、あの時みたいに。
窓の外の雨風がさっきより徐々に弱まっていくのを感じたが、もう少しだけ降っていて欲しいと思った。 ぱらぱらと響き渡る雨音に耳を傾け、このまま今はまだやまなければいい、と願ってしまった。
「わかった!」
悠也が顔を輝かせ問題を解き始めている間に、俺も自分の課題をやることにする。
スマートフォンの画面をスクロールしていると、悠也がすかさず俺の手元を興味深そうに見てきた。
「かえで、携帯で課題やってるんだ?」
「まあそのほうが、メモとかしやすいし。それよりお前は自分の課題に集中しろよ」
俺がそう言うと、悠也は「はーい」とおとなしくプリントに向き合い始めた。
少しの間、静かにペンを走らせる音だけが続いたが、しばらくするとまた悠也は集中力が切れたようで、手が止まる時間が増えてきた。
「もうあきたのか?」
俺が携帯を操作しながら聞くと、悠也は「んー」と生返事しながら口をとがらせ、ペンを机に転がす。俺は文字を打つ手は止めずに「 真面目にやれよ」と悠也に声をかけた。
悠也には偉そうに言ったものの、正直遊んだ後だからか俺の集中力も途切れていて、ついため息を吐いてしまう。数式が全然頭に入ってこない。
「なになに、かえで頭良さそーなのやってる!」
悠也が俺の携帯を覗きこんできたのと、俺が顔をあげたのはほぼ同時で、息のかかるほど悠也の顔が近づいたことに動揺する。
違う、こんなの昔と別に何も変わってない。意識するようなことなんかじゃない。
でも、悠也のまだ雨でしめった無防備な肌が、俺の腕にぺたり、と触れてしまった瞬間、どくん、と体内の血の巡る音がした。
「あ!わり、まだ腕ちょっとぬれてたかも」
床に放りだしたままだったタオルを無造作にとり腕を拭く悠也の横顔は、はっと息を呑むほどに綺麗だった。
「悠也」
熱を帯びた俺の声が、しんと部屋に響いていく。
タオルを横に置いた悠也が、やさしい顔で俺の方をぱっと振り向いた。「ん?」とちょっと笑いながら、小さく首を傾げる悠也をみて、ごくりと唾を呑む自分の音が、耳元に煩わしく響く。
「かえで?」
微笑みながら問うその顔をみたら、胸がきゅうっとして、俺はたまらず心臓をかきむしられるように、悠也に触れたくなってしまった。
ゆっくり手を伸ばす。
俺より小さなそのてのひらを、包みこむように、震えそうになりながらも指先を握った。冷え切った俺の皮膚に、悠也の熱のこもった肌とが交わっていく。
そっと手を繋ぎ、指を絡めた。繋いだ指先を一本一本確かめるように、きゅっと触れてみる。
ああ、もっと触れていたい。 本当に好きで、弾けてしまいそうだ。
とん、と俺の小指と悠也の小指の先が触れていく。胸に激しい痛みが突き上げるように、悠也のことがすきだと思った。このままずっとそばにいたい。
「え、と」
身を固くした悠也の声音にどきりとする。曖昧に微笑みながら悠也の指先が戸惑ったように握り返されるのを、俺は無理やりふりほどいた。
「悪い」
悠也は、懸命にかぶりを振る。
「何で謝るんだよ」
だって、と続けようとすると悠也は必死に身をのりだしてきた。
「いやじゃないよ、俺はっ」
「でも!」
俺は悠也の声を鋭くさえぎった。
「…もう、しないから」
顔を背け、悠也から体を離す。悠也がためらうように一瞬何かを言いかけ、口を閉じた。
しばらくして悠也がふっと小さくため息をもらす。
「…俺ってやっぱだめだなぁ」
ふにゃっと力なく微笑んだ。
「ごめんな」
困ったような顔でそうつぶやくから、胸がつきりと痛んだ。なんて返したらいいのかわからない。俺のせいだ。
ふいに扉の開く音がして、玄関から声がした。
「ただいまー」
悠也がびっくりしたように立ち上がる。
「え、お母さん、帰り早くない?」
「今日スーパーの特売日よ!そんなの早く仕事あがるに決まってるじゃない、悠也こそ今日は家にいたの?」
軽快な足音がたんたん、と慌ただしく響いた。
「さっきまで雨すごかったから、結構濡れちゃった」
悠也の母がそう言いながら、部屋に顔を出した。
「あれ?え、楓くん!?きてたの!久しぶり。大きくなったね」
嬉しそうに悠也の母が俺に笑いかけて、矢継ぎ早に話してくる。俺は落ち着かず首に手をあてて、ぺこりとおじぎをした。
「あー、はい。ご無沙汰してます」
「あ!そうだ、おやつ!プリン買ってきたから、よかったら一緒に食べない?楓くんもたしかすきだったよね」
笑顔でごそごそとレジ袋からプリンを取り出そうとするのを、俺は急いで遮った。
「いえ、もう帰るんで。大丈夫です」
「かえで、あのさ、送ってく」
悠也がバタバタと立ち上がり支度をしようとしたが、それにも首を振る。
「いや、いいよ。家近いし。てかお前宿題まだ結構残ってんだろ」
からかうように口の端で笑いながらそういうと、悠也の母は、
「そうそう。この子ちっとも勉強しないから、楓くんもっと言ってやってー」
と笑いながら言った。
悠也がむう、と口をとがらせ母親に文句を言っている間に、俺は荷物をまとめ「じゃあな」と足早に玄関に向かう。
「お邪魔しました」
「今度はゆっくり遊びに来てね。あ、傘使って」
「いえ、家すぐそこですから」
俺は急いで悠也の母に手を振りながら断り、「大丈夫です」と早口につぶやいた。
悠也の表情をみないように、俯いたまま会釈をして逃げるように扉を閉めた。
先ほどの豪雨が嘘みたいに、今はまばらに遠慮がちな音を立てる雨に、さっきすぐに帰ればよかったと思った。
せわしない足音とともに悠也の声が響いてくる。悠也は部屋に顔を出すなり、ん、と俺のほうにタオルを投げてきた。
「ナイスキャッチ」
うおっと声をあげ片手で受け取った俺に、悠也はそう言って笑った。かと思うと今度は瞬時にはっとしたような顔になる。
「あ、お母さんがさ、確かティーパック買ってたんだ!ちょっとキッチン取ってくる。ホットでいいよな」
「いや、それよりお前もふいたほうがいいだろ」
そういった時はすでに遅く、「大丈夫!俺上着かぶってたから」という声とともに、悠也はキッチンへと駆け足で去っていくところだった。
「元気すぎだろ…」
ついこの間まで、小学生だったのかと錯覚しそうになるほど、 体力がありあまっている悠也にあっけにとられてしまう。
俺ははあ、とため息をつきながら、ぐしょぐしょになった髪を乱暴にふいた。手元のタオルからめちゃくちゃ悠也の家の洗剤の匂いがする。抱きしめた時、悠也の服から香るのと同じやつだ、って何考えてるんだろう、と俺は必死に首を振る。
ほんと、落ち着かねぇ…。
「おまたせー!」
一通り体まで拭き終えてびっしょりと濡れた服をぱたぱたと仰ぎながらぼーっとしていると、悠也が今度はお盆を持ってやってきた。
「なんかキッチンにさ、お菓子もちょっとあったからとってきた」
どさっと机におかれた皿の上には、スーパーの駄菓子コーナーによく売っている、個包装のクッキーやチョコレートが乱雑に置かれていた。
「それ、お前の母さんに叱られないか?」
「かえでと一緒に食べたって言えば大丈夫だよ」
悠也は、俺の向かいに座ると同時にクッキーをもぐもぐとほおばりだした。お腹が空いていたようで、一枚食べながらもさらに次はチョコレートを手に取って、口に入れようとしている。
色々と気にするのがアホらしくなってきて、俺もとりあえず紅茶とクッキーをありがたくもらうことにした。
軽く手を合わせて、いただきます、と小さく呟く。喉が渇いていたので、まずはカップを手に取り、ゆっくり噛み締めるように飲むと、ひんやりとした肌に温かさが沁みわたっていく。
「おいひい」
ゴクゴクと勢いよく紅茶を飲み、悠也がぷはーっと息をついた。笑いながら悠也の顔を見ると、口元にチョコレートらしきものがついている。
「悠也」
俺はとんとん、と自分の頬を人差し指で差し示して声をかけた。
「チョコついてる」
「え、 どこ!ここ?」
今度は悠也の左頬(唇が近いせいで、触るのは何となくはばかられる)を指でさして「反対だよ、こっち」と教えるが、俺は自分の顔が赤くなっていないか心配になった。
子どもの頃は、俺がハンカチとかティッシュで悠也の口をごしごし拭いてやったっけ。今は触れるか触れないかの距離で、情けないくらいに呼吸が浅くなっているような気がする。
不意に悠也が、ふふっと笑みをもらしたので俺は戸惑った。
「え、なに」
「なーんかこうやっておやつ食べながら一緒にいるとさぁ、昔思い出すな。よく宿題やろってかえでがうちにきて、結局いっしょだと全然進まねーの」
にししっと悠也が笑って言うので、俺は肩を思いきりどつく。
「はぁ?テスト勉強の時は真面目にやってただろ!…てかそういえばお前、春休みの課題ちゃんとやってるのか?」
悠也がわかりやすく、ぎくりと体を動かす。
「うっ」
俺はあーあ、とわざとらしくため息をついてやる。
「…ほんと変わんねーな、今やるか?」
そう言うと悠也はやや不満げに、俺の方をじっと見てきた。
「ええ~なに、かえでさまは余裕なわけ?」
「まぁお前よりは。終わりはもう見えてるし」
「うう…ずるい」
悠也は悔しそうな顔でぼやいた。
「何がだよ」
机に頬杖をついて、俺はひらひらと手のひらを振るように悠也のほうに差し出した。
「ほら、課題みせてみろよ。わかんないとこあったら教えてやるし」
「え、まじで!?」
「雨やむまで勉強会でもしようぜ」
悠也は勢いよくうなずくと、ぱたぱたっと奥の本棚へ向かい、プリントを漁りだした。
「んん、どこだー?あっこれか!」
課題を放置しているのが丸わかりだ。
「この英文がめっちゃ難しくてさあ」
悠也はそう言うと、机にばさっとプリントを置いて俺の隣に座ってきた。悠也は俺が英語を得意だったこと、覚えているんだろうか。
「あー、みせて」
さっと目を通し「どこがわかんねぇの」と一つ一つ聞きながら、丁寧に解説する。受験勉強を放課後の空き教室で一緒にやっていた、あの時みたいに。
窓の外の雨風がさっきより徐々に弱まっていくのを感じたが、もう少しだけ降っていて欲しいと思った。 ぱらぱらと響き渡る雨音に耳を傾け、このまま今はまだやまなければいい、と願ってしまった。
「わかった!」
悠也が顔を輝かせ問題を解き始めている間に、俺も自分の課題をやることにする。
スマートフォンの画面をスクロールしていると、悠也がすかさず俺の手元を興味深そうに見てきた。
「かえで、携帯で課題やってるんだ?」
「まあそのほうが、メモとかしやすいし。それよりお前は自分の課題に集中しろよ」
俺がそう言うと、悠也は「はーい」とおとなしくプリントに向き合い始めた。
少しの間、静かにペンを走らせる音だけが続いたが、しばらくするとまた悠也は集中力が切れたようで、手が止まる時間が増えてきた。
「もうあきたのか?」
俺が携帯を操作しながら聞くと、悠也は「んー」と生返事しながら口をとがらせ、ペンを机に転がす。俺は文字を打つ手は止めずに「 真面目にやれよ」と悠也に声をかけた。
悠也には偉そうに言ったものの、正直遊んだ後だからか俺の集中力も途切れていて、ついため息を吐いてしまう。数式が全然頭に入ってこない。
「なになに、かえで頭良さそーなのやってる!」
悠也が俺の携帯を覗きこんできたのと、俺が顔をあげたのはほぼ同時で、息のかかるほど悠也の顔が近づいたことに動揺する。
違う、こんなの昔と別に何も変わってない。意識するようなことなんかじゃない。
でも、悠也のまだ雨でしめった無防備な肌が、俺の腕にぺたり、と触れてしまった瞬間、どくん、と体内の血の巡る音がした。
「あ!わり、まだ腕ちょっとぬれてたかも」
床に放りだしたままだったタオルを無造作にとり腕を拭く悠也の横顔は、はっと息を呑むほどに綺麗だった。
「悠也」
熱を帯びた俺の声が、しんと部屋に響いていく。
タオルを横に置いた悠也が、やさしい顔で俺の方をぱっと振り向いた。「ん?」とちょっと笑いながら、小さく首を傾げる悠也をみて、ごくりと唾を呑む自分の音が、耳元に煩わしく響く。
「かえで?」
微笑みながら問うその顔をみたら、胸がきゅうっとして、俺はたまらず心臓をかきむしられるように、悠也に触れたくなってしまった。
ゆっくり手を伸ばす。
俺より小さなそのてのひらを、包みこむように、震えそうになりながらも指先を握った。冷え切った俺の皮膚に、悠也の熱のこもった肌とが交わっていく。
そっと手を繋ぎ、指を絡めた。繋いだ指先を一本一本確かめるように、きゅっと触れてみる。
ああ、もっと触れていたい。 本当に好きで、弾けてしまいそうだ。
とん、と俺の小指と悠也の小指の先が触れていく。胸に激しい痛みが突き上げるように、悠也のことがすきだと思った。このままずっとそばにいたい。
「え、と」
身を固くした悠也の声音にどきりとする。曖昧に微笑みながら悠也の指先が戸惑ったように握り返されるのを、俺は無理やりふりほどいた。
「悪い」
悠也は、懸命にかぶりを振る。
「何で謝るんだよ」
だって、と続けようとすると悠也は必死に身をのりだしてきた。
「いやじゃないよ、俺はっ」
「でも!」
俺は悠也の声を鋭くさえぎった。
「…もう、しないから」
顔を背け、悠也から体を離す。悠也がためらうように一瞬何かを言いかけ、口を閉じた。
しばらくして悠也がふっと小さくため息をもらす。
「…俺ってやっぱだめだなぁ」
ふにゃっと力なく微笑んだ。
「ごめんな」
困ったような顔でそうつぶやくから、胸がつきりと痛んだ。なんて返したらいいのかわからない。俺のせいだ。
ふいに扉の開く音がして、玄関から声がした。
「ただいまー」
悠也がびっくりしたように立ち上がる。
「え、お母さん、帰り早くない?」
「今日スーパーの特売日よ!そんなの早く仕事あがるに決まってるじゃない、悠也こそ今日は家にいたの?」
軽快な足音がたんたん、と慌ただしく響いた。
「さっきまで雨すごかったから、結構濡れちゃった」
悠也の母がそう言いながら、部屋に顔を出した。
「あれ?え、楓くん!?きてたの!久しぶり。大きくなったね」
嬉しそうに悠也の母が俺に笑いかけて、矢継ぎ早に話してくる。俺は落ち着かず首に手をあてて、ぺこりとおじぎをした。
「あー、はい。ご無沙汰してます」
「あ!そうだ、おやつ!プリン買ってきたから、よかったら一緒に食べない?楓くんもたしかすきだったよね」
笑顔でごそごそとレジ袋からプリンを取り出そうとするのを、俺は急いで遮った。
「いえ、もう帰るんで。大丈夫です」
「かえで、あのさ、送ってく」
悠也がバタバタと立ち上がり支度をしようとしたが、それにも首を振る。
「いや、いいよ。家近いし。てかお前宿題まだ結構残ってんだろ」
からかうように口の端で笑いながらそういうと、悠也の母は、
「そうそう。この子ちっとも勉強しないから、楓くんもっと言ってやってー」
と笑いながら言った。
悠也がむう、と口をとがらせ母親に文句を言っている間に、俺は荷物をまとめ「じゃあな」と足早に玄関に向かう。
「お邪魔しました」
「今度はゆっくり遊びに来てね。あ、傘使って」
「いえ、家すぐそこですから」
俺は急いで悠也の母に手を振りながら断り、「大丈夫です」と早口につぶやいた。
悠也の表情をみないように、俯いたまま会釈をして逃げるように扉を閉めた。
先ほどの豪雨が嘘みたいに、今はまばらに遠慮がちな音を立てる雨に、さっきすぐに帰ればよかったと思った。
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