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13 火傷を負った猫の赤ちゃん
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1
公民館の廊下の床板が、ごとごとと動いた。
ネコババアこと米田トメや銀次郎や八田や鼻黒のじじいなどが、話し合っている座敷部屋の廊下だ。
幅十センチ長さ三十センチほどの羽目板が、がらんとはずれたのだ。
なかから、頭の禿げかかったサバトラの猫が顔をのぞかせた。
全体がぼんやりした柔らかな感じの毛並みで、薄いグレイに薄い黒縞が入っている。
魚の鯖に似た色相いなのでサバトラだ。
「なんだよー、うるじぇーなあ」
眠そうな目をしばたたいた。
口の端からよだれを垂らしそうな声だった。
薄毛の頭をふって、あたりを見回す。
「お父さん」
呼んだのは、ネコババアの米田トメだった。
「ヨボジイ」
鼻黒のじじいも声をあげた。
「ああ、おめえ鼻黒じゃねえかよー。天下の悪党のお前が、こんなとこで、なにしてんだよー」
ヨボジイと呼ばれたサバトラ猫が、言いかえした。
鼻黒は赤茶のサビ猫だったが、通常は鼻黒でとおっている。
「あのお、このたび改心しまして、また日ノ元族のために働くことになりました」
首を長くし、鼻黒はぺこんと頭をさげた。
「お父さん、こちらの三毛猫の高田銀次郎さんと灰猫の八田与吉さんも協力してくれるんです。三毛猫さんは牡ですからとても強いんです。鬼花郷のサビ猫の殺戮隊や公民館の警備隊を一匹でやっつけてくれたんです。人間のときに会ったんですけれど、この人はきっと味方になってくれるって、そのとき私感じたんです」
「それはそれは、どーも。娘が世話になって」
羽目板から首だけだしたサバトラのヨボジイは、銀次郎に顔を向ける。
「トメの知りあいだったなんて、ありがとー。そーだなー、14号棟の庭のツツジの陰で、三毛猫のあなたと灰猫と白猫見たよー。わし、悪いやつらだと思ってマタタビ持って逃げたけど、なーんだ、味方だったのかー」
ヨボジイは娘のトメにたのまれ、14号棟の庭の三本の紅葉の木の下に埋めたマタタビを回収にいったのである。
「お父さん。そんなところから首だけだしてないで、はやくあがってきてください」
「あいよーよっこいしょー」
ヨボジイが、左右に両手をついて這いあがった。
腰に巻いた紐に、半透明の袋が二つくくられていた。
埋められていた、マタタビの粉にちがいなかった。
「お父さん、マタタビ、回収できたんですね?」
「おい、それ、マタタビの袋かよ?」
「ああ、そーだけどよー」
袋のなかには、青い実からできた粉と赤い色の粉が入っているはずだ。
「おおー」
「やった」
「帰れるぞ」
「帰れる、帰れる」
八田と銀次郎が、座敷から飛びこむように廊下に腹這った。
そして顔をつきだし、座っているヨボジイの腰をのぞきこんだ。
今にも袋に手をのばし、なかの粉を確かめそうな勢いだ。
「お父さん、黄色の実の粉はどうしたんですか?」
娘のトメも腰の袋をのぞく。
袋を眺めただけで中味が分かるようだ。
「人が猫になる粉はよー、ここにいる二人がなー、袋ぱあーんて破裂させて、全部ぶちまけたんだとよー。あ、もう一人、かわいい娘がいたそーだけどなー」
今朝、銀次郎たちがマタタビを探しているとき、会話を聞いていたのだ。
「そうだよ、それでおれたちは猫になってしまったんじゃねえか」
八田がとなりで肩をよせる銀次郎に、な、とうなずいて見せる。
「お父さん、もう目が覚めたでしょう。だから、あーあー喋るのやめて、ふつうに話してください。では、今はもう黄色い実の粉がないので、人から猫にはなれないんですね?」
「リビアの政治情勢が悪くて、次はいつ届くか分かんないけど、使いがくるまではないよー。だけど赤いのはたっぷりあるよー。ほとんど使い道がなかったので、公民館の庭の鳥居の下の土にも埋めてあるよー」
「青いのも、ここにあるぞう」
八田が、のぞきこんでいた袋を手の先で突いた。
青い実の粉は猫が人間になれるマタタビだ。
「うららにもマタタビを発見したって、知らせなきゃあ」
銀次郎は、クロにハニトラを仕掛けているうららが心配だった。
右足が無意識のうち、貧乏ゆすりになっている。
「ちょっと失礼します。おうかがいしますが、銀次郎さんたちはいつ人間におもどりになるつもりでしょうか?」
米田トメが心配そうに訊ねた。
「もちろん、こうなったからには奴らをやっつけてからです。そのときは白猫のうららさんも連れて帰りますので」
「ああ、そのときはみんなでいっしょに帰ろうな。すぐシロアシが戻ってくるから、うららがどうしてるかも分かる」
「うららさん、マタタビが見つかったよ。帰れるよおー」
銀次郎が、勝手にうららに呼びかける。
「気が強いし、利口だからうまくやってるさ。おれの部下だものな」
銀次郎と八田の二人が、気勢をあげようと握った拳固をガチンコさせる。
公民館の前庭のほうからも歓声があがる。続いて演説だ。
「いいか、みんな。地上最大の悪人である鼻黒のじじいが、みんなの総意の首吊りの刑をまぬがれ、奇跡的に心を入れかえた。我々は、拾った財布を届ける正直でおとなしいお人好しだけの日ノ元族ではない。黙ってちゃだめだ。声をだせ。勇気をだせ。戦うんだ。勝負だ。鬼花郷のサビ猫をやっつけろ。奇跡をおこせー」
「にやわーっ」
歓声があがった。
鼻黒のじじいは、褒められているのか貶されているのか判断がつかなかった。
しかし現在、ここにいる日ノ元族の猫は、怖くてボロを被っているような状態ではなかった。
「やつらは偉大なる鬼花郷帝国の復活だなんて言ってるがあー、笑わせるんじゃなーい。鬼花郷族が帝国なんて築いたことはなーい。帝国は他の異国人のモモンガル族がつくったー。その百戦錬磨のモモンガル帝国軍はまだ海岸があったときの日ノ元郷を手に入れようと五千艘もの軍艦で海から攻めてきたがあー」
どうやら、こんな歴史的な話ができるところから、スピーカーはここにきたときに、初めて会った茶白のマダラのようだった。
「なんと日ノ元族はー世界を制覇し、連戦連勝のモモンガル帝国軍と正々堂々と戦い、勝ったのだあー。神風が吹いたなんて言ってるがあ、確かに台風はあったけど、台風はほとんど関係なーい。日ノ元族わあ、戦略練って真っ向から戦い、堂々と勝ったのだあー。日ノ元軍は、ほんとに強くて勇敢なのだあー」
「そうだ、そうだ」
「だまってちゃだめだ」
「みんなでやるんだー」
「力をあわせろー」
「わー、わー」
「にやーおおーん」
「ぎゃんぎゃん、わー」
「やるぞー、おー」
そして、日ノ元の歌がはじまった。
🎵朝日がのぼる日ノ元で
永久に育めわが民よ
古き教え尊びて
己の栄華を求むるなかれ
神の御国のわが祖国
2
シロアシが、廃業した銀行の建物からもどってきた。
外はもうとっぷり暮れている。
「緊急行動法が発令された」
廊下に滑りこんできて、開口いちばんそう告げた。
演説でみんなをリードしていたマダラもいる。
地上最大の悪人だった、日ノ元のサビ猫の鼻黒のじじいもいる。
女王の侍女だった、ネコババアの米田トメもいる。
その父親であり、耄碌のふりをして日ノ元を陰で支え、トメを育ててきたヨボジイもいる。
そして主だった日ノ元の仲間たちと、牡の三毛猫の銀次郎、七千代署の刑事、灰猫の八田だ。
うららはどうしてた? と口まででかかったが、銀次郎はひかえた。
全体に関する重要事項のほうが先である。
「降伏の式典には応じたのか?」
「はい、応じました」
やったあ、と一堂が声をあげる。
「だけど、緊急行動法の発令だぞ」
「日ノ元団地に住むサビ猫に実行されたら、日ノ元郷は大混乱になる」
「あちこちで、いっせい蜂起だからな」
「住民のなかに、大勢のテロリストが送りこまれているってことだからな」
「でもな、テロリストのほとんどが鬼花郷の娘だから分かりやすい」
「いや、日ノ元の亭主を追いだしたり、やっつけたりして後釜についた鬼花郷のサビ猫の牡もあちこちにいるぞ」
「そいつらは多分、臨時の殺戮隊としてにわかに出現したサビ猫だろう。それだったら一部だけど、おれがやっつけた」
銀次郎は、棟のベランダからばらばらとこぼれ落ちてきた、サビ猫たちを思いだした。
「日ノ元の猫はすごく弱いと聞いていたのに、ものすごく強いじゃないかって。それで完全にびびってしまった。だから新しい殺戮隊が出動したときは、二街区に勇志の防戦ラインを敷いて、徹底抗戦の姿勢を見せるんだ。そして多少の犠牲者を覚悟に、突撃隊を組んで何匹かを血祭りにあげてやれば、百八十の殺戮隊といえども、まちがいなく逃げだす。だから今は集中し、エサバー出身のセクシーなサビ猫の行為を防ぐとともに、いっしょに暮している日ノ元族の牡猫を救うんだ」
鼻黒のじじいが、本気で言いだす。
エサバーで、何人もの女性を団地に送り込んだ張本人だ。
殺戮隊を指揮していた責任者としての提案だ。
「やつらは、陽動作戦を決行しようとしている。日ノ元郷に混乱状態をつくりだし、まとまりを失わせ、その隙に攻め、あるいは言うことを聞かせ、リーダーとおぼしき者を買収し、そいつを使って住民をコントロールしようとしている。だけど、そんなことはさせるな」
少し前まで敵として活躍していた鼻黒じじいは、どうやら本気の本気で心を入れ替えたようだった。
「みなさん。三街区から四街区の者は、鼻黒のじじいとともにテロリスト殲滅の作戦を即座に開始しましょう。ただし気をつけてください。鬼花郷からきたサビ猫がすべて敵とは限りません。みなさんとふつうに暮らそうとしている者もたくさんおります」
そう告げたのは、女王の侍女として働いていたネコババアの米田トメだった。
口調には、女王が不在の今、代わって日ノ元郷を主導し、救わねばという決意が現れていた。
「五街区から六街区の者は、この公民館で式典にだす料理や飲み物を用意してください。七街区と八街区の者は、マダラ猫のもとで公民館の警備を担当してください。いちはやく情報を聞きつけ、団地の外から駆けつけてくれた日ノ元郷の方はこのグループに入ってください」
さらに米田トメはこんなことを言いだした。
「みなさん、日ノ元団地には鬼花郷からきた牡猫も潜入していますが、かねてより私は、連中の居所をチエックしておきました。リストがありますので、腕に自信のある勇敢な者は、臨時に特別緊急隊を組みますので集まってください」
日ノ元の猫たちはあわてるようすもなく、いっせいに動きだした。
3
「鼻黒隊はこっちだ。こっちに集まれえー、すぐ出発するぞー」
庭にでた鼻黒のじじいが片手を掲げ、該当者を呼び集めている。
見た目より若い鼻黒のじじいは、テロ行為に走るかも知れない鬼花郷の女性を自ら始末しにいくつもりだ。
「いいかみんな。若くてぴちぴちの美人ばかりだけど、その気になっちゃ駄目だ。ちょっとでも油断しているとやられぞ。容赦しない覚悟で対応すんだ」
鼻黒は、注意を与えようとしている。
「公民館の警備隊はこっちだ。玄関に集まれー。鬼花郷のやつらが攻めてきても一歩も引くな。戦え。日ノ元の新しい歴史をつくるぞー」
マダラの声だった。インテリくさい男だったが、体を張って闘争する覚悟のようだ。
「酒はよ―、ここはもともと神様を奉る日ノ元神社だったから、寄り合いのために幾らでもあるよー。それで料理はよー、公民館の倉庫に地域の地震用の食料備蓄があるから、それを使うぞー。飲み物や食べ物に赤いの仕込むからおいしいよー。赤くても、溶けたら色はつかないから大丈夫だよー。料理の得意な者、集まれー。つまみ食いすると死んじゃうからなー」
ヨボジイは、サバトラのぼんやりした体毛と共に、半分惚けながら米田トメを指導し、また父親として日ノ元郷を憂いながら生き延びてきたじじいである。
「鬼花郷から招集されたサビ猫の殺戮隊が、どんなようすなのか気になる」
招集された殺戮隊を、自分の目で確かめてこようと銀次郎がシロアシと共に庭にでようとした。
すると、ちょっと待ちなさいと米田トメがとめた。
「密かに緊急行動法を発令もしたが、全面降伏の知らせで連中はすっかり舞いあがり、勝者の気分で酒盛りをしているでしょう。食事を作って配っているボランテアの佐江子さんや植松さんにたのみ、公民館に備蓄してあった酒を有志のみなさんといっしょに運んでもらいました。すこし前に私が二人にお願いしたんです。いちはやく祝杯気分を味わってもらい、志気を削いでおく作戦です。どうでしょうシロアシさん」
今や日ノ元側に完全に寝返ったシロアシは、日ノ元猫族の決起の歓声を心配そうに耳にしながら応える。
「酒などめったに飲めない隊員たちに、効き目ばっちりですね。とにかく日ノ元の全面降伏で抵抗はゼロ、あとは管理事務所前の広場で宴会を用意し、大喜び組のサービスで応対いたしますので、と重ねてクロに伝えます」
「緊急行動法はとめられないのか」
灰猫の八田がシロアシに聞く。
「クロにうまいこと言いたいけれど、緊急行動法の発令はあそこにいる猫語を話す異国人とクロが話しているのを屏風の陰に忍び寄って私が聞いていたのです。なぜそんなことを知っている、あのとき部屋にいたのは、俺たちの会話が聞こえないはずの席にいたお前だけだ、お前はスパイだな、とばれてしまいます」
「それならテロのサビ猫の女を捕まえて、そいつが喋ったことにしたらどうだ」
銀次郎の提案だ。
「ちかくにサビ猫の女と暮らす日ノ元の牡がいるだろうから、鼻黒のじじいにつれてきてもらおう。いま猫語を話す異国人と言ったけど、ここにいて逃げだしたやつか?」
八田が応じる。
「そうです。あいつ、廃業銀行の臨時本部まで逃げ帰って全面降伏の知らせを聞いて嬉しくなり『わたしの名前、ニャンコ・イビリヤーノ、イタリア人あるな』なんて、冗談ほざいて楽しんでいたけど、あいつが鬼花郷に住む異国人のリーダーです。もちろんサビ猫たちは完全に家来です。日ノ元郷を異国人が支配する鬼花郷の領地にしたら、自分の天下がくると浮き浮きしてました」
「ニャンコ・イビリヤーノは式典に参加するんだろうな」
「もちろんです。酒と料理って聞いて、その気です。けっこう食い意地張ってます」
「やつら、宴会で毒盛られるんじゃないかって疑わないのか?」
当然警戒するはずだと八田が問う。
「やつら偉いさんは、完全に日ノ元族を舐めきっています。部下にもその考えは行き渡っています。なんの抵抗もできない気弱な猫族、というのが常識なんです。一匹のスーパーマンなんて言っても、勢力などとは考えていません。郷の境で訓練中だった殺戮隊百八十名を急遽呼びよせたので、すっかり安心しています。とにかく今までもずっと無抵抗だった日ノ元族が、なんらかの行動をおこすなんてあり得ないんです」
「なるほど、式典と宴会が楽しみだな」
全員が静かに笑った。
「ところでシロアシ、うららだけど、どうしてる?」
銀次郎はやっと、うららについて問いかけた。
うららに恋しているシロアシの反応も確かめたかった。
「うららさん、とにかくモテモテですね。美人だし、鬼花郷のサビ猫にはない色っぽさがあって、みんな憧れちゃうんです。合唱隊の隊長であり、鬼花郷から派遣されたクロにうららさんのどこがいいんですか、と聞いたら、なんて答えたと思いますか?」
知るか、と言いたいところをこらえ、なにかなあと銀次郎はとぼけた。
「あのね、うららさんの真っ白なお腹なんだって。真っ白なお腹にオデコひっつけて、うりうりうりってやったときの感じ、最高なんだそうです。それでそのお腹に小さな丸い赤い痣があって、それが可愛くってチュウしようとしたら猫パンチ食らったって。あのちょっと恐い横広がりのでかい顔で、楽しそうに話すんだな。それで、この可愛い痣はなんだって聞いたんだって。そうしたらうららさんが、赤ん坊の時の自動車事故でできた火傷の跡だって答えたんだそうです」
うらら、どこまでやらせてんだよ。
それにしてもシロアシ、おまえもうららに惚れてスパイやってんだろ。
嫉かねえのかよと、問いかけたかった。
が、結構冷静だ。そればかりか、さらにこうも告げたのである。
「陰のボスの片耳のじじいも、うららさんのハニトラに引っ掛かったみたいで、でれでれしてましたけど」
まいったなあ、と銀次郎が声をあげそうになったとき、ネコババアの米田トメがきびしい口調で問いかけた。
4
「おなかの赤痣は、赤ん坊のときの車の事故でできたですって?」
いつも落ち着き、表情をくずさない米田トメが、唇を震わせている。
「白猫の春野うららさんが、そう言ってたんですか? それは確かですか?」
「はい、自分がこの耳で聞きました」
「八田刑事さん。春野うららさんはあなたの部下だとおっしゃいましたね。うららさんは、どこの生まれでご両親はどんな人だったとかって、聞いたことはありますか?」
「履歴書は見たことないけど、あの子は確か施設育ちでね。だけど警察学校でも交番勤務でも刑事になるための刑事講習でも、優等生だった」
うららについて八田は、いつも嬉しそうに応じる。
「両親については、なにか話したことありましたか?」
改まってなんだろうと、八田が金色の目をぱちくりさせながら続ける。
「それなんだけど、あの子は可哀そうに、実はお母さんは赤ちゃんポストなんだそうでね。だけどうららは、引き取られた施設でも可愛がられ、ある日、施設の寮母さんがそっと教えてくれたのは、いつの間にかメモはなくなってしまったけど、書かれていた内容はこんなふうだった、と話してくれたそうです。『あなたを拾ったそのお母さんは、子供ができないという理由で離婚されたばかりのとき、たまたま車が燃える交通事故の現場をとおりかかり、路肩の草むらに布でくるまれた赤ちゃんを発見した。とっさに自分のものにしようと、そのまま抱いて帰った」
八田は、金壺眼に涙をにじませている。
「赤ちゃんは火の粉で焦げ、布に穴が開き、胸に火傷を負っていたが、医者にも診せず、どうやら市販の塗り薬で治した。けれど、働きながら内緒で一人で育てることができないのと、もし役所や警察に届けたりしたら自分が人攫いの犯罪者になるかもしれないという怖さから、赤ちゃんポストに頼ることにした。ごめんなさい赤ちゃん』と、そんなふうに書かれたメモを残し、たぶん泣きながら別れた。施設でもそのメモをもとに、交通事故の件などから赤ちゃんポストに預けた女性を内密で探したかったのですが、そんな行為は禁止でしたので、あきらめたそうです。それらの事情を知らされたうららは、車の事故で天国に行ったお母さんは安泰だけど、自分を育てようとがんばったが、ポストに入れざるを得なかったお母さんが可哀そうだと、涙ぐんでなあ。気の強いところもあるけど、やさしい子だよ」
「あああ、まちがいない。女王様の赤ちゃんだ。おおおー」
ネコババアの米田トメが叫び、にゃおおおうと鳴いた。
同時に、となりの部屋で話を聞いていたらしいヨボジイが、おぼつかない手つきでフライパンを持ったまま戸を開け、飛びだしてきた。
そしてネコババアの横に座り、いっしょに泣きだした。
「こんなとき、こんなところで、こんなふうに見つかるなんて」
「この偶然は、神様が仕組んだんだよー。運命だったんだよー」
「にゃうううううー」
「にゃおおおおおー」
声をあげ、なおもそろって泣いた。
13話了
8317
公民館の廊下の床板が、ごとごとと動いた。
ネコババアこと米田トメや銀次郎や八田や鼻黒のじじいなどが、話し合っている座敷部屋の廊下だ。
幅十センチ長さ三十センチほどの羽目板が、がらんとはずれたのだ。
なかから、頭の禿げかかったサバトラの猫が顔をのぞかせた。
全体がぼんやりした柔らかな感じの毛並みで、薄いグレイに薄い黒縞が入っている。
魚の鯖に似た色相いなのでサバトラだ。
「なんだよー、うるじぇーなあ」
眠そうな目をしばたたいた。
口の端からよだれを垂らしそうな声だった。
薄毛の頭をふって、あたりを見回す。
「お父さん」
呼んだのは、ネコババアの米田トメだった。
「ヨボジイ」
鼻黒のじじいも声をあげた。
「ああ、おめえ鼻黒じゃねえかよー。天下の悪党のお前が、こんなとこで、なにしてんだよー」
ヨボジイと呼ばれたサバトラ猫が、言いかえした。
鼻黒は赤茶のサビ猫だったが、通常は鼻黒でとおっている。
「あのお、このたび改心しまして、また日ノ元族のために働くことになりました」
首を長くし、鼻黒はぺこんと頭をさげた。
「お父さん、こちらの三毛猫の高田銀次郎さんと灰猫の八田与吉さんも協力してくれるんです。三毛猫さんは牡ですからとても強いんです。鬼花郷のサビ猫の殺戮隊や公民館の警備隊を一匹でやっつけてくれたんです。人間のときに会ったんですけれど、この人はきっと味方になってくれるって、そのとき私感じたんです」
「それはそれは、どーも。娘が世話になって」
羽目板から首だけだしたサバトラのヨボジイは、銀次郎に顔を向ける。
「トメの知りあいだったなんて、ありがとー。そーだなー、14号棟の庭のツツジの陰で、三毛猫のあなたと灰猫と白猫見たよー。わし、悪いやつらだと思ってマタタビ持って逃げたけど、なーんだ、味方だったのかー」
ヨボジイは娘のトメにたのまれ、14号棟の庭の三本の紅葉の木の下に埋めたマタタビを回収にいったのである。
「お父さん。そんなところから首だけだしてないで、はやくあがってきてください」
「あいよーよっこいしょー」
ヨボジイが、左右に両手をついて這いあがった。
腰に巻いた紐に、半透明の袋が二つくくられていた。
埋められていた、マタタビの粉にちがいなかった。
「お父さん、マタタビ、回収できたんですね?」
「おい、それ、マタタビの袋かよ?」
「ああ、そーだけどよー」
袋のなかには、青い実からできた粉と赤い色の粉が入っているはずだ。
「おおー」
「やった」
「帰れるぞ」
「帰れる、帰れる」
八田と銀次郎が、座敷から飛びこむように廊下に腹這った。
そして顔をつきだし、座っているヨボジイの腰をのぞきこんだ。
今にも袋に手をのばし、なかの粉を確かめそうな勢いだ。
「お父さん、黄色の実の粉はどうしたんですか?」
娘のトメも腰の袋をのぞく。
袋を眺めただけで中味が分かるようだ。
「人が猫になる粉はよー、ここにいる二人がなー、袋ぱあーんて破裂させて、全部ぶちまけたんだとよー。あ、もう一人、かわいい娘がいたそーだけどなー」
今朝、銀次郎たちがマタタビを探しているとき、会話を聞いていたのだ。
「そうだよ、それでおれたちは猫になってしまったんじゃねえか」
八田がとなりで肩をよせる銀次郎に、な、とうなずいて見せる。
「お父さん、もう目が覚めたでしょう。だから、あーあー喋るのやめて、ふつうに話してください。では、今はもう黄色い実の粉がないので、人から猫にはなれないんですね?」
「リビアの政治情勢が悪くて、次はいつ届くか分かんないけど、使いがくるまではないよー。だけど赤いのはたっぷりあるよー。ほとんど使い道がなかったので、公民館の庭の鳥居の下の土にも埋めてあるよー」
「青いのも、ここにあるぞう」
八田が、のぞきこんでいた袋を手の先で突いた。
青い実の粉は猫が人間になれるマタタビだ。
「うららにもマタタビを発見したって、知らせなきゃあ」
銀次郎は、クロにハニトラを仕掛けているうららが心配だった。
右足が無意識のうち、貧乏ゆすりになっている。
「ちょっと失礼します。おうかがいしますが、銀次郎さんたちはいつ人間におもどりになるつもりでしょうか?」
米田トメが心配そうに訊ねた。
「もちろん、こうなったからには奴らをやっつけてからです。そのときは白猫のうららさんも連れて帰りますので」
「ああ、そのときはみんなでいっしょに帰ろうな。すぐシロアシが戻ってくるから、うららがどうしてるかも分かる」
「うららさん、マタタビが見つかったよ。帰れるよおー」
銀次郎が、勝手にうららに呼びかける。
「気が強いし、利口だからうまくやってるさ。おれの部下だものな」
銀次郎と八田の二人が、気勢をあげようと握った拳固をガチンコさせる。
公民館の前庭のほうからも歓声があがる。続いて演説だ。
「いいか、みんな。地上最大の悪人である鼻黒のじじいが、みんなの総意の首吊りの刑をまぬがれ、奇跡的に心を入れかえた。我々は、拾った財布を届ける正直でおとなしいお人好しだけの日ノ元族ではない。黙ってちゃだめだ。声をだせ。勇気をだせ。戦うんだ。勝負だ。鬼花郷のサビ猫をやっつけろ。奇跡をおこせー」
「にやわーっ」
歓声があがった。
鼻黒のじじいは、褒められているのか貶されているのか判断がつかなかった。
しかし現在、ここにいる日ノ元族の猫は、怖くてボロを被っているような状態ではなかった。
「やつらは偉大なる鬼花郷帝国の復活だなんて言ってるがあー、笑わせるんじゃなーい。鬼花郷族が帝国なんて築いたことはなーい。帝国は他の異国人のモモンガル族がつくったー。その百戦錬磨のモモンガル帝国軍はまだ海岸があったときの日ノ元郷を手に入れようと五千艘もの軍艦で海から攻めてきたがあー」
どうやら、こんな歴史的な話ができるところから、スピーカーはここにきたときに、初めて会った茶白のマダラのようだった。
「なんと日ノ元族はー世界を制覇し、連戦連勝のモモンガル帝国軍と正々堂々と戦い、勝ったのだあー。神風が吹いたなんて言ってるがあ、確かに台風はあったけど、台風はほとんど関係なーい。日ノ元族わあ、戦略練って真っ向から戦い、堂々と勝ったのだあー。日ノ元軍は、ほんとに強くて勇敢なのだあー」
「そうだ、そうだ」
「だまってちゃだめだ」
「みんなでやるんだー」
「力をあわせろー」
「わー、わー」
「にやーおおーん」
「ぎゃんぎゃん、わー」
「やるぞー、おー」
そして、日ノ元の歌がはじまった。
🎵朝日がのぼる日ノ元で
永久に育めわが民よ
古き教え尊びて
己の栄華を求むるなかれ
神の御国のわが祖国
2
シロアシが、廃業した銀行の建物からもどってきた。
外はもうとっぷり暮れている。
「緊急行動法が発令された」
廊下に滑りこんできて、開口いちばんそう告げた。
演説でみんなをリードしていたマダラもいる。
地上最大の悪人だった、日ノ元のサビ猫の鼻黒のじじいもいる。
女王の侍女だった、ネコババアの米田トメもいる。
その父親であり、耄碌のふりをして日ノ元を陰で支え、トメを育ててきたヨボジイもいる。
そして主だった日ノ元の仲間たちと、牡の三毛猫の銀次郎、七千代署の刑事、灰猫の八田だ。
うららはどうしてた? と口まででかかったが、銀次郎はひかえた。
全体に関する重要事項のほうが先である。
「降伏の式典には応じたのか?」
「はい、応じました」
やったあ、と一堂が声をあげる。
「だけど、緊急行動法の発令だぞ」
「日ノ元団地に住むサビ猫に実行されたら、日ノ元郷は大混乱になる」
「あちこちで、いっせい蜂起だからな」
「住民のなかに、大勢のテロリストが送りこまれているってことだからな」
「でもな、テロリストのほとんどが鬼花郷の娘だから分かりやすい」
「いや、日ノ元の亭主を追いだしたり、やっつけたりして後釜についた鬼花郷のサビ猫の牡もあちこちにいるぞ」
「そいつらは多分、臨時の殺戮隊としてにわかに出現したサビ猫だろう。それだったら一部だけど、おれがやっつけた」
銀次郎は、棟のベランダからばらばらとこぼれ落ちてきた、サビ猫たちを思いだした。
「日ノ元の猫はすごく弱いと聞いていたのに、ものすごく強いじゃないかって。それで完全にびびってしまった。だから新しい殺戮隊が出動したときは、二街区に勇志の防戦ラインを敷いて、徹底抗戦の姿勢を見せるんだ。そして多少の犠牲者を覚悟に、突撃隊を組んで何匹かを血祭りにあげてやれば、百八十の殺戮隊といえども、まちがいなく逃げだす。だから今は集中し、エサバー出身のセクシーなサビ猫の行為を防ぐとともに、いっしょに暮している日ノ元族の牡猫を救うんだ」
鼻黒のじじいが、本気で言いだす。
エサバーで、何人もの女性を団地に送り込んだ張本人だ。
殺戮隊を指揮していた責任者としての提案だ。
「やつらは、陽動作戦を決行しようとしている。日ノ元郷に混乱状態をつくりだし、まとまりを失わせ、その隙に攻め、あるいは言うことを聞かせ、リーダーとおぼしき者を買収し、そいつを使って住民をコントロールしようとしている。だけど、そんなことはさせるな」
少し前まで敵として活躍していた鼻黒じじいは、どうやら本気の本気で心を入れ替えたようだった。
「みなさん。三街区から四街区の者は、鼻黒のじじいとともにテロリスト殲滅の作戦を即座に開始しましょう。ただし気をつけてください。鬼花郷からきたサビ猫がすべて敵とは限りません。みなさんとふつうに暮らそうとしている者もたくさんおります」
そう告げたのは、女王の侍女として働いていたネコババアの米田トメだった。
口調には、女王が不在の今、代わって日ノ元郷を主導し、救わねばという決意が現れていた。
「五街区から六街区の者は、この公民館で式典にだす料理や飲み物を用意してください。七街区と八街区の者は、マダラ猫のもとで公民館の警備を担当してください。いちはやく情報を聞きつけ、団地の外から駆けつけてくれた日ノ元郷の方はこのグループに入ってください」
さらに米田トメはこんなことを言いだした。
「みなさん、日ノ元団地には鬼花郷からきた牡猫も潜入していますが、かねてより私は、連中の居所をチエックしておきました。リストがありますので、腕に自信のある勇敢な者は、臨時に特別緊急隊を組みますので集まってください」
日ノ元の猫たちはあわてるようすもなく、いっせいに動きだした。
3
「鼻黒隊はこっちだ。こっちに集まれえー、すぐ出発するぞー」
庭にでた鼻黒のじじいが片手を掲げ、該当者を呼び集めている。
見た目より若い鼻黒のじじいは、テロ行為に走るかも知れない鬼花郷の女性を自ら始末しにいくつもりだ。
「いいかみんな。若くてぴちぴちの美人ばかりだけど、その気になっちゃ駄目だ。ちょっとでも油断しているとやられぞ。容赦しない覚悟で対応すんだ」
鼻黒は、注意を与えようとしている。
「公民館の警備隊はこっちだ。玄関に集まれー。鬼花郷のやつらが攻めてきても一歩も引くな。戦え。日ノ元の新しい歴史をつくるぞー」
マダラの声だった。インテリくさい男だったが、体を張って闘争する覚悟のようだ。
「酒はよ―、ここはもともと神様を奉る日ノ元神社だったから、寄り合いのために幾らでもあるよー。それで料理はよー、公民館の倉庫に地域の地震用の食料備蓄があるから、それを使うぞー。飲み物や食べ物に赤いの仕込むからおいしいよー。赤くても、溶けたら色はつかないから大丈夫だよー。料理の得意な者、集まれー。つまみ食いすると死んじゃうからなー」
ヨボジイは、サバトラのぼんやりした体毛と共に、半分惚けながら米田トメを指導し、また父親として日ノ元郷を憂いながら生き延びてきたじじいである。
「鬼花郷から招集されたサビ猫の殺戮隊が、どんなようすなのか気になる」
招集された殺戮隊を、自分の目で確かめてこようと銀次郎がシロアシと共に庭にでようとした。
すると、ちょっと待ちなさいと米田トメがとめた。
「密かに緊急行動法を発令もしたが、全面降伏の知らせで連中はすっかり舞いあがり、勝者の気分で酒盛りをしているでしょう。食事を作って配っているボランテアの佐江子さんや植松さんにたのみ、公民館に備蓄してあった酒を有志のみなさんといっしょに運んでもらいました。すこし前に私が二人にお願いしたんです。いちはやく祝杯気分を味わってもらい、志気を削いでおく作戦です。どうでしょうシロアシさん」
今や日ノ元側に完全に寝返ったシロアシは、日ノ元猫族の決起の歓声を心配そうに耳にしながら応える。
「酒などめったに飲めない隊員たちに、効き目ばっちりですね。とにかく日ノ元の全面降伏で抵抗はゼロ、あとは管理事務所前の広場で宴会を用意し、大喜び組のサービスで応対いたしますので、と重ねてクロに伝えます」
「緊急行動法はとめられないのか」
灰猫の八田がシロアシに聞く。
「クロにうまいこと言いたいけれど、緊急行動法の発令はあそこにいる猫語を話す異国人とクロが話しているのを屏風の陰に忍び寄って私が聞いていたのです。なぜそんなことを知っている、あのとき部屋にいたのは、俺たちの会話が聞こえないはずの席にいたお前だけだ、お前はスパイだな、とばれてしまいます」
「それならテロのサビ猫の女を捕まえて、そいつが喋ったことにしたらどうだ」
銀次郎の提案だ。
「ちかくにサビ猫の女と暮らす日ノ元の牡がいるだろうから、鼻黒のじじいにつれてきてもらおう。いま猫語を話す異国人と言ったけど、ここにいて逃げだしたやつか?」
八田が応じる。
「そうです。あいつ、廃業銀行の臨時本部まで逃げ帰って全面降伏の知らせを聞いて嬉しくなり『わたしの名前、ニャンコ・イビリヤーノ、イタリア人あるな』なんて、冗談ほざいて楽しんでいたけど、あいつが鬼花郷に住む異国人のリーダーです。もちろんサビ猫たちは完全に家来です。日ノ元郷を異国人が支配する鬼花郷の領地にしたら、自分の天下がくると浮き浮きしてました」
「ニャンコ・イビリヤーノは式典に参加するんだろうな」
「もちろんです。酒と料理って聞いて、その気です。けっこう食い意地張ってます」
「やつら、宴会で毒盛られるんじゃないかって疑わないのか?」
当然警戒するはずだと八田が問う。
「やつら偉いさんは、完全に日ノ元族を舐めきっています。部下にもその考えは行き渡っています。なんの抵抗もできない気弱な猫族、というのが常識なんです。一匹のスーパーマンなんて言っても、勢力などとは考えていません。郷の境で訓練中だった殺戮隊百八十名を急遽呼びよせたので、すっかり安心しています。とにかく今までもずっと無抵抗だった日ノ元族が、なんらかの行動をおこすなんてあり得ないんです」
「なるほど、式典と宴会が楽しみだな」
全員が静かに笑った。
「ところでシロアシ、うららだけど、どうしてる?」
銀次郎はやっと、うららについて問いかけた。
うららに恋しているシロアシの反応も確かめたかった。
「うららさん、とにかくモテモテですね。美人だし、鬼花郷のサビ猫にはない色っぽさがあって、みんな憧れちゃうんです。合唱隊の隊長であり、鬼花郷から派遣されたクロにうららさんのどこがいいんですか、と聞いたら、なんて答えたと思いますか?」
知るか、と言いたいところをこらえ、なにかなあと銀次郎はとぼけた。
「あのね、うららさんの真っ白なお腹なんだって。真っ白なお腹にオデコひっつけて、うりうりうりってやったときの感じ、最高なんだそうです。それでそのお腹に小さな丸い赤い痣があって、それが可愛くってチュウしようとしたら猫パンチ食らったって。あのちょっと恐い横広がりのでかい顔で、楽しそうに話すんだな。それで、この可愛い痣はなんだって聞いたんだって。そうしたらうららさんが、赤ん坊の時の自動車事故でできた火傷の跡だって答えたんだそうです」
うらら、どこまでやらせてんだよ。
それにしてもシロアシ、おまえもうららに惚れてスパイやってんだろ。
嫉かねえのかよと、問いかけたかった。
が、結構冷静だ。そればかりか、さらにこうも告げたのである。
「陰のボスの片耳のじじいも、うららさんのハニトラに引っ掛かったみたいで、でれでれしてましたけど」
まいったなあ、と銀次郎が声をあげそうになったとき、ネコババアの米田トメがきびしい口調で問いかけた。
4
「おなかの赤痣は、赤ん坊のときの車の事故でできたですって?」
いつも落ち着き、表情をくずさない米田トメが、唇を震わせている。
「白猫の春野うららさんが、そう言ってたんですか? それは確かですか?」
「はい、自分がこの耳で聞きました」
「八田刑事さん。春野うららさんはあなたの部下だとおっしゃいましたね。うららさんは、どこの生まれでご両親はどんな人だったとかって、聞いたことはありますか?」
「履歴書は見たことないけど、あの子は確か施設育ちでね。だけど警察学校でも交番勤務でも刑事になるための刑事講習でも、優等生だった」
うららについて八田は、いつも嬉しそうに応じる。
「両親については、なにか話したことありましたか?」
改まってなんだろうと、八田が金色の目をぱちくりさせながら続ける。
「それなんだけど、あの子は可哀そうに、実はお母さんは赤ちゃんポストなんだそうでね。だけどうららは、引き取られた施設でも可愛がられ、ある日、施設の寮母さんがそっと教えてくれたのは、いつの間にかメモはなくなってしまったけど、書かれていた内容はこんなふうだった、と話してくれたそうです。『あなたを拾ったそのお母さんは、子供ができないという理由で離婚されたばかりのとき、たまたま車が燃える交通事故の現場をとおりかかり、路肩の草むらに布でくるまれた赤ちゃんを発見した。とっさに自分のものにしようと、そのまま抱いて帰った」
八田は、金壺眼に涙をにじませている。
「赤ちゃんは火の粉で焦げ、布に穴が開き、胸に火傷を負っていたが、医者にも診せず、どうやら市販の塗り薬で治した。けれど、働きながら内緒で一人で育てることができないのと、もし役所や警察に届けたりしたら自分が人攫いの犯罪者になるかもしれないという怖さから、赤ちゃんポストに頼ることにした。ごめんなさい赤ちゃん』と、そんなふうに書かれたメモを残し、たぶん泣きながら別れた。施設でもそのメモをもとに、交通事故の件などから赤ちゃんポストに預けた女性を内密で探したかったのですが、そんな行為は禁止でしたので、あきらめたそうです。それらの事情を知らされたうららは、車の事故で天国に行ったお母さんは安泰だけど、自分を育てようとがんばったが、ポストに入れざるを得なかったお母さんが可哀そうだと、涙ぐんでなあ。気の強いところもあるけど、やさしい子だよ」
「あああ、まちがいない。女王様の赤ちゃんだ。おおおー」
ネコババアの米田トメが叫び、にゃおおおうと鳴いた。
同時に、となりの部屋で話を聞いていたらしいヨボジイが、おぼつかない手つきでフライパンを持ったまま戸を開け、飛びだしてきた。
そしてネコババアの横に座り、いっしょに泣きだした。
「こんなとき、こんなところで、こんなふうに見つかるなんて」
「この偶然は、神様が仕組んだんだよー。運命だったんだよー」
「にゃうううううー」
「にゃおおおおおー」
声をあげ、なおもそろって泣いた。
13話了
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