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7 おれはスーパー三毛猫だ

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ひっくり返っていた年寄り猫は、酔ったふりをした監視員のようだった。
三毛猫の銀次郎は、コカ・コーラの赤い自動販売機の裏から逃げだした。
表の道路にでると、もう一匹の鼻の先が黒い赤茶のサビ猫がそこにいた。
銀次郎を睨みつけている。

エサバーにとって、好ましくない客は追い払う、とその目が告げていた。
ヨボジイについて聞こうとしたり、百恵ももえにいろいろ質問したりしていたことが、片耳や鼻黒はなぐろには好ましくなかったようだ。

銀次郎は三街区にもどるつもりだった。
道をふさがれていたので、そのまま二街区と一街区のあいだの通路にむかった。
ヨボジイを追っていった八田はった刑事と、なりたての女性刑事の春野はるのうららはどうしているのか。

とりあえず銀次郎は、ぐるうっと団地のなかの路をまわって三街区にもどるつもりだった。
ちらり背後のエサバーのほうに目をやると、さっきの鼻黒のジジイが立ちすくむように遠くから睨んでいた。

銀次郎が人間でいるときに知っているサビ猫は、小柄なからだで従順じゅうじゅうんでおとなしく、よく人になついた。
だが、ここで見かけるサビ猫の牡は、体躯たいくも大きかった。
合唱隊を組んで、大声で歌を唄うほど活発だ。
また真昼のエサバーでは、サビ猫のホステスたちが、客の日ノ元の猫といい仲になろうとけんめいだった。
日ノ元の猫とねんごろになるのが、エサバーのホステスの目的だと、百恵は語った。

猫の世界に飛びこんでから、まだ半日だ。
それでも『猫も歩けば棒に当たる』で、いいことなのか悪いことなのか、いろいろあったような気がした。
とぼとぼ歩きながら、三毛猫の銀次郎は『わたし実は猫なんです』と告白したネコババアを思いだした。
もしかして団地の部屋で干乾びていたのは、ネコババアではなかったのではないか。
もしネコババアが、なにかの事情でこっちの世界にきていれば、ばったりって、すぐにでも人間にもどれるのになあ、とため息がでた。

だが、そんな願望より、早いところヨボジイを探しだそう。マタタビを取り戻そう、と足を急かした。
ふり返ると、まだ鼻黒が銀次郎を見張っていた。
その視線から、逃れるように歩く。
右に、二街区の薄茶色の建物がならんでいる。
左側は、一街区の灰色の建物だ。

境になった路を、三街区にもどろうと右に曲がったとき、雑多な臭いと騒音におそわれた。
不衛生な空気とともに、ざわめく人間の大人や子供たちの声がした。
銀次郎は足を止めた。

銀次郎は、買い物以外の外出はほとんどしなかった。
年寄りたちが多く住む静かなこの団地では、その騒音が珍しい現象に思えた。
あたりを見回した。いつもと変わらぬ景色である。
いや、前方ではない。後方からの風に乘ってやってくる、臭いと音だ。

どうしようかと、迷った。
三街区の自分の家に、一刻も早くもどりたかった。
しかし、路の奥の雑多な気配が、自分を呼んでいるような気がした。
そこは、二街区のはずれである。
通路が二街区から団地内の周回道路をはさんで、一街区へとつうじている。
周回道路を横切り、一街区の通路に入ってみた。

散っている白いゴミが、目についた。
点々と奥に続き、風にゆらめいている。
コロッケなどを買ったときに入れてくれる、白い小さな三角の袋だ。
風に吹かれ、路面をすべっている。

左右のゴミ出し場には、収集日でもないのにゴミ袋が山になっている。
さらに進むと、古いテレビやビンカンや衣類などが、裂けたゴミ袋とともに放りだされている。
金属と食べ物の臭いが、ごちゃになってあたりに漂う。
どこかでようすを覗っているのか、三街区では見かけないカラスが、カアカアうるさい。

一街区の棟のベランダには、日差しを浴びた人影があちこちにあった。
大工仕事でもしているのか、トンカントンカンと音もする。
お家カラオケで唄っている者もいる。
メロデイーも歌詞もはじめて聞く異国のものだ。

子供の泣き声と犬の鳴き声。
夫婦喧嘩なのか、男と女の怒鳴り声。
ただし、これも異国語で意味不明。
手摺てすりにひろげられた布団、色とりどりの洗濯物。
見わたす一街区のすべてが別天地だった。

通路のむこうの芝に、一人、二人、三人、四人、と母親たちの姿。
そして、きゃっきゃっと子供たちの叫び声。
芝生の庭に、砂石の敷かれたポケットパーク設けられている。
中央にブランコがあり、その手前に二本のベンチが据えられている。
そこに数人の男がいた。
男たちはベンチに座らず、地面に段ボールを敷いていた。
タバコを吸い、缶や小瓶こびんをならべ、酒を飲んでいた。

周囲には、食品の包装紙やパックやポリの袋など雑多なゴミが散乱している。
数匹の子猫が、ゴミから餌を漁っていた。
子猫はやはり、サビの黒っぽい毛並みである。

その背後を、三匹の大人のサビ猫がつれだって横切る。
あのドラ猫合唱隊と同じようにからだが大きい。
遠目ではっきりしなかったが、股間にはぷっくらした立派な玉がついている。肩を揺すり、がに股で歩く。
その三匹が、光った目でちらり三毛猫の銀次郎を見た。

昼真からどんな人間が酒を飲んでいるのかと銀次郎は、団地内の小さな公園にちかづいた。交わす会話を聞こうと、耳をそばだてた。
だが、異国語の会話で意味は分からなかった。
立ち止まり、ぼんやりしてしまった。


「おい、こんなところになんの用だ」
背後から、声がかかった。
ふりむくと、赤茶のサビ猫がそこにいた。
エサバーにいた鼻黒である。目が吊っていた。
「道に迷ったので、三街区にもどろうかと」
おどろきを隠し、銀次郎はとっさに答えた。

「ヨボジイのこと、知りたがってたな」
探るように、その目玉がぐりっと動く。
後をつけていたのだ。
背後に、さっき目にした大柄の三匹のサビ猫をしたがえていた。
「お前新顔だろう。そのお前が、なんでヨボジイを知ってる。なんで百恵からいろいろ聞こうとした」
斜め向かいに立ち、ぐっと睨む。

銀次郎は答えられず、黙った。
今朝、猫の世界に飛びこんだばかりだ。
知らないことばかりなので、ついいろいろ聞きたくなる。
どうやら、ヨボジイやエサバーについて知ろうとしたことが、彼らには気になったようだ。こんな場合、プロである刑事の八田とうららならどう答えるのか。

「ヨボジイという人が、ぶるぶる震えながらおしっこちびらせていたから、助けた。三街区と二街区の境の空き地に、しゃがんでいた」
「嘘つくな。あいつはバカを装ってふらふら歩き回っているようだけど、お漏らしなどするようなやつじゃねえ。お前は何者だ?」
鼻黒のサビ猫はそう応じるや、目を光らせ、うぐぐっと声をもらした。
そうして一歩、二歩とにじりより、鼻先を突きつけてきた。

それは、猫の威嚇いかくだった。
猫になったばかりの銀次郎には、その意味がよく分からなかった。
だが、からだがとっさに反応した。
無意識のうち、銀次郎のアッパーぎみの猫パンチが飛んでいた。
しかも意図に反し、強烈だった。

ニギャンと声をあげ、鼻黒は顎をのけぞらせた。
そして、ふわっとからだを浮きあがらせた。
顔をゆがめ、手足を宙でもがかせた。
最後に、ばたんと地面に落ちて、ひっくり返った。
それが銀次郎の目には、スローモーションの光景のように映った。

「わあっ」
おどろいたのは銀次郎のほうだった。
猫はちょっとぐらい高くても、落下時にはぴたっと四本の足で地面を捕らえる。
転がってもがく鼻黒と、知らずに出していた自分の手を銀次郎は見比べた。
鼻黒は銀次郎を睨みつけながら、すぐからだをおこした。
「三毛猫のおすのバカじからなんか出しやがって。いい気になってんじゃねえぞ。おい、こいつをやっつけろ」
背後の三匹に命じた。

バカじから? このおれが? 
三毛の牡だからと言って、いい気になんかなってない。
どういうことだ……。
考えようとしている目の前で、三匹がいっせいに白い歯を剥きだした。
「ぎゃあー」
三匹そろって吠えた。

みんな銀次郎より、一回りも大きい。
鍛えているらしく、肩や腕回りなど、全身の筋肉がりうりしている。
人間であったら、こんな時は即座に観念していただろう。
だが、怖さを感じなかった。
くるならこい、と余裕だった。
そうか、強さってこういうことなのか、よおし、とりきんでみた。

真ん中のいちばん大きなサビ猫が、跳びかかってきた。
目がつり上がっている。
きたな、と銀次郎は腰を落とし、ひらりとかわした。
のめったところを、首の後ろに噛みついた。
首をくわえ、えいっと大きく投げ飛ばした。

「ぎゃーおーん」
そのサビ猫は、体を一回転させた。
両腕をひろげ、腹を見せ、地面にひっくり返った。
「わおーう」
「わおーう」
残りの二匹が頭を上下させ、わめいた。
細身の三毛猫の力におどろき、途惑っていた。


やるなら今だ、と銀次郎は身をひるがえした。
相手もあわてて身がまえた。
「ぎゃあー」
「ぎゃあー」
二匹の悲鳴があがった。
銀次郎は肩をならべる二匹に、力いっぱい左と右のフックをみまった。
素早いパンチを食らった二匹は、それぞれに右と左に、横向きに吹っ飛んだ。
地面に側頭部を叩きつけ、ふぎゃっと鳴き、気を失った。

背後で見守っていた鼻黒のじじいが、目をぱちくりさせる。あんと口を開けている。
「おめえ、やっぱりただのおすの三毛猫じゃねえ。そうと知ったら、ますます生かしておけねえ。おーい、こいつをやっつけろー」
前歯の抜けた口を開け、らんらんと目を光らせる。
こういうことなら、天が与えてくれた三毛猫の牡の力とやらをじっくり試してやる。
さあこいと銀次郎は薄緑の眼を見開き、身がまえた。

すると、鼻黒の背後の植えこみの陰から、ぞろっと新たなサビ猫が姿を見せた。
いつでも出動できるよう、待機していたのだ。
サビ猫たちは一塊ひとかたまりになり、首を低くかまえた。
そろりと銀次郎にむかってくる。十匹はいる。
やはり、怖さは感じなかった。
おれは牡の三毛猫だけど、いいのかと余裕だった。

「うおー」
今度は一声吠え、銀次郎のほうから先に動いた。
銀次郎は下半身を屈伸くっしんさせ、ジャンプした。
トランポリンの選手のごとく、両手をひろげ、高々と舞った。
すると団地の棟の景色とともに、各階にいるベランダのサビ猫たちの姿が目に映った。

エサバーのホステス、百恵が言った。
団地には、あちこちにサビ猫が住んでいると。
そのサビ猫たちが、鼻黒の声を聞き、反応したのだ。
連中は、空中に浮遊する銀次郎を目で捕らえていた。
その眼光が、建物のベランダでキラキラ輝いた。
銀次郎は、地上と空中とで囲まれているような気がした。

どうすべきかを考える時間は、なかった。
とりあえず、鼻黒のじじいの上に落ちてやろうと、体をもがかせた。
だが、空中での進路変更は不可能だった。
ならばと、肩を寄せあい、牙を剥いている地上の数匹に狙いを定めた。

銀次郎は落下しながら、バランスをとった。
両手足を、わらわらと振った。
爪を立てた左右の手足を伸ばし、直下の四匹の顔面にねらいを定めた。
うまいこと、そのまま落下した。
四匹の額に爪を掛け、引力の勢いのまま着地した。
「ぎゃん、ぐぐうー」
四匹同時のにぶい叫び。

四匹の顔面の皮が半分剥がれ、目が見えなくなった。
にゃぐー、んぐー、うぐー、ぐにゃーと声をそろえた。
他のサビ猫たちは目が見開いた。
息をのんで、動けなくなった。


その隙に銀次郎は、脇の滑り台の上に跳んだ。
さらに砂場のコンクリートの枠、そして庭の芝生の上へと跳び移った。
「ネコ、ケンカ、スゴイヨ」
昼から酒を飲んで、楽しく暮らす異国人の大人たちが騒いだ。
「日ノ元の三毛猫を追えー。逃すなあー。殺せえー」
鼻黒のじじいが、必死に叫ぶ。
殺戮隊さつりくたい、出撃―い」

サツリクタイだって? おどろく暇もなかった。
さっき目撃した、各棟各階にいたサビ猫たちだった。
四本の足を下に向け、いっせいにベランダから飛び降りてきた。
まるで素足の降下隊である。

かなりの数の出動だった。
神様がくれた力を、過信してはいけない。油断は大敵だ。
多数を相手に、どこまで戦えるかはわからない。
いい気になっていては、いけない……。

銀次郎は逃げた。
銀次郎の背後を、殺戮隊が追う。
今度は二十頭以上の勢力だ。
すこし離れたところで、争いを眺めていた四、五匹の日ノ元の猫がいた。
「おい、みんな逃げろ。やられるぞ」
銀次郎は、すれ違いざまに叫んだ。
一街区と二街区の境だ。

道路をわたってふり返った。
見物していた日ノ元猫が、血飛沫ちしぶきをあげていた。
殺戮隊の隊員が首を振ると、なにかがきらりと光った。
ぎゃっとあがる猫の断末魔だんまつま

よく見ると、サビ猫の数匹が刃物を口にしていた。
文字どおりのサツリクタイだった。
賑わっていた団地のポケットパークの周囲が、しんとなった。
               7章了 

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