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6 お色気バーの百恵ちゃん

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シッポ猫が言ったとおり、公道に沿った雑木の斜面がえぐるように凹んでいた。
そこに、赤色のコカ・コーラの自動販売機がならんでいる。
どこか空気がざわつき、猫の気配がする。

車に注意し、アスファルトの道路を横切った。
忍び足で、そっと裏をのぞいてみる。
幅二メートル長さ三メートルほどのスペースがあり、四匹のサビ猫が尻を地面につけ、しゃがんでいた。

まちがいなく営業中だった。
ここはどうやら、外部からきて住み着いたサビ猫たちが営業している店のようだった。
これから太陽が勢いを増す、午前十時を過ぎたばかりだ。

入口の草の上には、二匹の猫があごを地面につけるように腹這っている。
二匹とも年寄り猫だ。
手前の猫は、赤茶のサビ猫である。
日ノ元にもサビ猫はいるが、鬼花郷おにはなごうの黒っぽい毛色とちがい、色が明るい。

まさかヨボジイではと目を凝らし、銀次郎は手前の赤茶のサビ猫にちかづいた。
ぷーんと、心地よいアルコールの匂いがした。
「もしもし、もしもし」
肩口をのぞき、ささやいた。
鼻の先が黒い。むむっと声がもれ、ずずっと両足が動いた。
「もしかしたら、あなたはヨボジイじゃないでしょうか?」
単刀直入たんとうちょくにゅうに訊ねた。
返事はない。

吐瀉物としゃぶつの甘酸っぱいアルコールの匂いがする。
そのむこうの茶色の一匹は、グウスウといびきをかいている。
うつ伏せになった頭部の片耳が千切れ、半分になっている。
二匹ともすでにできあがり、夢のなかのようだった。
「もしもし、もしかしたらヨボジイのこと知りませんか。もしもし……」
片耳のほうにも声をかけてみた。
ぴくりと手先が動いたような気がしたが、やはり反応はない。


「あら、いらっしゃーあい」
三毛猫の銀次郎に気づき、エサバーの二匹のサビ猫がふりむいた。
二匹の甘ったるい声が、二重奏にじゅうそうで響く。
黒毛とオレンジの細かい毛が、ランダムに入り混じっている。
全体は黒かったが、つやがあり、目がぱっちりしてかわいい。
スタイルも細身で、すっきりしている。

三毛猫の銀次郎はおどろいた。
管理事務所の前のばち広場にいたとき、無言で自分たちを睨んでいたドラ猫合唱隊のサビ猫とは大ちがいだ。
まず、きれいに光る親しみのある瞳。
その目で、銀次郎を見つめる。
小首をかしげ、微笑ほほえむむ。
ドラ猫合唱隊からは考えられない、鬼花郷のサビ猫のふるまいだ。

自動販売機の裏の猫たちの前には、底の浅い皿と深い皿が二つづつ、合計四つならんでいる。
底の浅い皿のほうには、魚の干物など何種類かのツマミが盛られている。
深皿のほうには、液体が注がれ、販売機のモーターの振動で表面に小波が立っている。

「お兄さん、いらっしゃい。今日はじめて?」
二匹のサビ猫のうち、手前の一匹が笑顔をつくりなおし、話しかけてきた。
鈴々れいれいちゃんというひと、いる?」
銀次郎は、シッポ猫に教わった名前を口にしてみた。

「まあ、鈴々のこと好きなの? でも鈴々はもう決まった相手ができたので、その人のところに行くため、さっきお店退けちゃったの。だからもういないんだけど。あたしじゃだめ? あたし百恵ももえって言うの。そんなところにいないで、もっとこっちにきなさいよ」
百恵は、相手にしていた客の二匹に挨拶をし、三毛猫の銀次郎を手招きする。
客の二匹は、じじいではなく、中年の日ノ元の猫だった。

なんだろうここは、と銀次郎は興味津々きょうみしんしん、ヨボジイの件を忘れかけた。
百恵に誘われるように、地面に張りつくオオバコの葉を踏んでちかづいた。
「さ、どうぞ、ここに腰おろしてちょうだい」
百恵は、自分のとなりの草の上を、とんとんと手で示す。
その手つきも、なんだか色っぽい。
銀次郎がその場所に腰をおろすと、百恵は腰をずらして体をよせ、暖かく密着してきた。 

百恵のとなりに、ホステスの茶毛のサビ猫美人。
そのむこう側に、二匹の日ノ元猫の客がいる。
百恵は、座ったばかりの銀次郎の腕にしがみつく。
ホルモンの香りを匂わせ、まるで盛りがついているかのようだった。
二十四時間営業のエサバーだと、シッポ猫は言った。
それにしても、かなり熱いデイタイムの接客態度である。

「一杯どうぞ。おつまみは煮干しにたらいわし干物ひもの、それにスルメ。お好きなものを召しあがれ」
銀次郎はとりあえず、丸干しの小魚を一匹、口に入れた。
ポキポキパキパキと前歯で噛み、奥歯で砕いて喉に送りこむ。
「お酒どう? 自由に呑んでちょうだい」
百恵の前のアルミホイルの深皿に、なみなみと酒が汲まれている。
いい匂いがぷーんと漂う。

「はいこれでどうぞ」
百恵は銀次郎にしなだれかかり、ストローを差しだした。
同時に、ふうっと耳元に息を吹きかけてくる。
アルコールの匂いと甘美かんびな化粧水の香りが頬をなでる。
よく見ると、二匹の先客もストローを二本の爪のあいだに挟んでいる。

「ねえ。ここ初めてでしょう。お名前おしえて」
「銀次郎」
つい、ほんとうの名前を告げた。
ちょっと緊張しているせいもあった。
「誰にここのエサバーおそわったの?」
「さっき、その先の道で会った長いシッポの猫にだけど。鈴々れいれいさんといい仲になったって喜んでた」
「そう、鈴々ちゃんはそのシッポ猫さんといい仲になったので、きっといっしょに暮らすようになるでしょうね」
なんでもないことのように、宣言する。

「どうしてそんなこと、分かるの?」
「あら、ここのエサバーはそれが売りなんだもの。男は女と仲良くなったら、すぐにでもネンゴロになりたいでしょう。ここはその願いを叶えるバーなんだからさ。あたし、あなた気に入ったけど、どう?」
いきなり太股をつねられた。いくらなんでも早すぎだ。

「あたし、あなたがあっちの方からてくてく歩いてくるの、さっきコカ・コーラの自動販売機の陰から見てたの。いい男だ、もしエサバーの客なら、あたしの理想の男になるって」
「それでそうなったときには、このバーに幾らか払うんですか?」
「やだ、お金なんていらないんだってば。ここは出会いが目的のバーだから、気が合えば自然に同棲どうせいしていっしょに暮らしていいことになってるの。銀次郎さん、あなた何街区に住んでるの? 独身?」

「三街区、独身だけど」
聞かれ、ついまた事実を答えた。
「三街区、独身……さいこー」
両手を胸にあて、百恵は一オクターブ高い声で喜んだ。
まだ会ったばかりなのに、話が勝手に進む。


「あのさ、鈴々さんが行っちゃって、もし百恵さんもいなくなったら、ここに一人しか残らないし、そのホステスさんも気に入った相手ができたら、エサバーに女の人いなくなっちゃうけど、その時はどうすんの?」
「だいじょぶ、だいじょぶ」
百恵は肩をくんとあげ、楽しそうに首をふった。
銀次郎はなにが大丈夫なのかと、百恵のつぎの言葉をまった。
「だって、このお仕事の希望者いっぱいいるもの。いい男さがして家庭持つのみんな夢見てんのよ。ほら鈴々ちゃんの代わり、さっそくやってきたわ」

やはりサビ猫だったが、長距離ランナーのごとく肢体したいがすらりとしていた。
それにちかちか光る大きな目で、顎の線がきれいだった。
顔立ちも整っている。
音もなく銀次郎たちの後ろをとおり、二匹の客の向こう側にしゃがんだ。
そして、さっそく笑顔で自分の名前を名乗り、挨拶をした。

「あのね、いい男みつけて家庭持つのが夢なんだろうけど、日ノ元団地の猫はあれだよ。管理事務所や自治会の決まりで、男はみんな去勢きょせいされてんだよ。もちろん女もだけどね。どういう意味か分るね」
「赤ちゃん、生まれなーい」
うなずいて百恵が答える。

「子供ができなかったら、家族はつくれないだろう?」 
銀次郎は、百恵の前の皿にストローをのばし、酒を吸った。
しゅっと舌に液体がこぼれてきて、口の中に果実のアルコールがあふれた。
「二匹だけでも夫婦なんだから、家庭でしょう。家族だったら故郷にいるあたしの身内、いくらでも連れてくるし」

なんでもないことのように、すらりと答える。
なるほど、そういうことかと感心しかけたが、なにかが引っ掛かった。
「ここのホステスさん、いままで何匹くらいがねんごろになって、団地に住んでるの?」
「そうね、知っているだけでも五十匹はいるね」
その数におどろいたが、百恵はだから何よという顔だ。

「でも、あたしたちの仲間があちこちに住み着いてるって感じだけど、まだ主に二街区までで八街区までに手が届かないの。ねえ、三毛猫の銀次郎さん、ねんごろになって、あたしも三街区に住まわせてよ。ねえ、ねえ、ねえ、いいでしょう」
百恵はからだを揺らし、すっと左手をのばしてきた。
「おいおい、変なところに手えつっこむな、わ、やめろ。さわるな」
「あらあ、なあに? くりくりしたこの丸いの。二つもある」
「握るな、力入れるな」
百恵の手をあわてて払いのける。ばかやろ、と怒鳴りたかったがこらえた。

百恵は、細めた目で銀次郎の顔をのぞき、にい~と笑う。
「あなた日ノ元の猫で、しかも三毛猫だよ。それなのに付けてはいけないもの、二つもあるじゃないの。噂では、牡の三毛猫は最強だっていうけど、なにが最強なの?」
最強をどう解釈したのか、銀次郎を見つめる百恵の目がぽっと赤らんだ。

「ねえ、そこの後ろにセイタカアワダチソウの藪があるでしょう。そっちに、ちょっと行って試してみない? ねえ、いいでしょう。ちょっと試すくらいなら減らないしさ、ねえ」
密着した体で、ぐいぐいと腰をおしつけてくる。


銀次郎は自分が三毛の牡で、最強の力とやらを持っていると前にも言われた。
実は、最強の意味がよく分からなかった。
そっちの話ならいい機会だから、後ろの藪で試してみようかという気持ちがちらっと頭をかすめる。

が、餌やりのボランティアのおばさんに『子猫が見たいから、白猫に赤ちゃんを産ませてね』と言われたことと、刑事になりたてらしい若い白猫の春野うららの澄んだ空色の瞳が重なった。
それで、自分でもよく分からなかったが、藪の陰で試すのはやめたほうがいいと判断した。

「試してみようよ、ねえ。みんなそうしてんのよ。日ノ元の牡の三毛の赤ちゃん、身籠みごもってみたいわあ。ここにお勤めしてる娘、誰も牡の三毛との経験ないの。その前にちょっと注意しておくけど、そこの藪のなかでは、どんなにハイになっても、ニギャーンなんて絶好調の雄叫びあがないでね。すごい感動があっても、ぐっと堪えるのよ。あなたならできるでしょう?」
百恵は、妙な言い方でけんめいに説得しようとする。

「おれ、独身って言ったけど、決まっている白猫の相手がいて、その娘に子供を産ませなければならないんだよ。ある人との約束もあってな。貴重品はその白猫にしか使えないんだ。それが条件で去勢をまぬがれたんだよ。百恵さんも日ノ元団地に住んでるみたいだけど、手術はしてないの?」
百恵には、まったく去勢の気配がなかった。

「手術? そんなの聞いたことないわ。みんなやってんの?」
「日ノ元団地に住む猫は、野良も家猫もそれが条件で住む自由が許されてるんだけどな」
へーっと百恵はおどろいた。
「そんなことされるの分かったら、逃げればいいのに、なんでおとなしく去勢なんかされてんの?」
肩をそびやかせた。

「日ノ元郷地域一帯に住む猫は、古い時代からここに住んでいて離れられないんだよ。でもあなたたちは外からきて団地に住んでいるようだけど、去勢しなくてもいいのかなあ?」
「知らないわ、そんなこと。そんなの、無視すればいいだけの話じゃない」
堂々とした態度だった。

「ついでにちょっと聞くけど、日ノ元の生まれではないあなたたちサビ猫は、どこからきたの?」
さっきから気になっていた。

「となりの鬼花郷団地」
「それで今は、日ノ元のどこに住んでいるの?」
「日ノ元団地の一街区だよ」
「一街区はサビ猫が多いの?」
「ほとんどね。以前は日ノ元の猫もいたけど、みんな引っ越したって」
「どうして引っ越したの?」
「さあ……」
百恵は、まじめな顔で首をかしげた。

「そうだ、それからね、ここの皿とか酒とかオツマミってどうやって揃えたの。みんなで運ぶとしても、いろいろ大変だろ」
「あーら、あんた何も知らないのね。一街区の団地にはサビ猫だけじゃなくって、鬼花郷おにはなごうからきた異国人もたくさん住んでんのよ。その人たちのなかに係りの人がいて、用意してくれるんだもん。あそこにいる人たち、あたしたちの面倒よく見てくれるんだよ」
「鬼花郷からきた人が用意してくれるって? どうして?」
「さあ……」
再び百恵は首をかしげた。

すると話をする二匹の背後に、黒い影がかぶさった。
「おい、余計なこと、べらべらしゃべるんじゃねえ」
銀次郎が首をひねってあおぐと、片耳の千切れた年寄りのサビ猫が目を光らせていた。
さっき見せていた背中は茶色だったが、表側はサビの毛おおわれていた。半サビの猫だった。

ちらり視線を横にむけると、草の上に寝ていた二匹が消えている。
空気がぴんと張りつめ、楽しそうなエサバーがしんとなった。
「じゃあ、今日はこれで失礼するよ」
三毛猫の銀次郎は殺気だつ空気を感じ、あわてて腰をあげた。
百恵に、ヨボジイについて聞くことも忘れていた。
               6章了

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