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5 おもらしヨボジイ

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『マタタビ持っていかれてたまるか。おい、ヨボジイ、こらあー』
三毛猫の高田銀次郎は、そう心で叫びながら垣根ぞいに、ツツジのなかを突進した。
人生の一大事だった。
取り返せなかったら人間にもどれないのだ。

猫の眉根まゆねや頬の髭がどんな機能を持っているかを、このとき銀次郎ははじめて知った。
枯れて尖った枝が四方八方からのびているのに、顔面を傷つけるまでもなく頭を上下左右にふり、突進できたのだ。

じじいは体に故障があるらしく、ちびちび小便をもらしていた。
その臭いが点々と続く。
ツツジの垣根は、団地の外側をとおる公道にさえぎられ、そこで途切れた。
小便の臭いは道路を横切っていた。
おもらしの年寄りのくせに逃げ足ははやい。
ヨボジイは銀次郎たちのマタタビに関する会話を盗み聞きし、犯行におよんだのか。それとも、たんに盗みを働いただけなのか。

銀次郎はツツジのやぶから抜け出し、アスファルトの上に跳びおりた。
道路の左手の方向から、ドラ猫合唱隊が唄う日ノ元の歌がかすかに聞こえた。
同時に食物の匂いも流れてきた。
こっちのほうにも餌場があり、サビ猫たちの行進があるようだ。

アスファルトの道に、点々とおしっこが続いていた。
銀次郎は餌の匂いに惑わされず、ヨボジイの後を追った。
五分も歩くと、右側に二街区の建物がならびだした。
建物の外壁の色が、それぞれの街区でちがっている。
二街区は薄茶だ。二街区に沿って道路の匂いが続く。
道をはさんだ反対側が、緑の浅い森になっている。
その森の奥に、銀次郎がつれていかれた病院があった。

道の反対側から、薄い茶に濃い茶の縞模様しまもようのキジトラの猫がやってくる。
長いシッポをぴんと立てた中年の猫だ。
肩をゆらし、すたすたと活気のある歩き方だ。
「こんにちは」
銀次郎が声をかけた。
「こんにちは」
キジトラのシッポ猫は警戒心もなく返事をした。

ふつうであれば、見知らぬ同類が自分の縄張なわばりを歩いていればたちまち喧嘩になる。
だが、日ノ元の猫は他者と争う気概きがいがないようだ。
「ヨボジイを見かけなかったでしょうか?」
銀次郎はシッポ猫に問いかけた。
「ヨボジイ?」
「年寄りで、ちびりのおしっこをもらし、その臭いを残して歩いているんだけど」
銀次郎は鼻先を地面にちかづけ、ふふっと嗅いでみせた。

「ここではそんな年寄り、珍しくないよ。大通りにはいないけど、裏の通路に回ればちょいちょい見かけるよ。小便臭い者もいるな。だけど、ヨボジイってのは知らないね」
「いまさっき、ここを通ったばかりなんだけどなあ」
「あのな、若いの。どこからきたか知らないけど、この臭いは三日も前のものだぜ。お前、鼻おかしのいとちがうか?」
首をのばし、三毛猫の銀次郎の顔をのぞきこもうとする。

三日も前のものだって? 首をちぢこませながら、どこで間違えたのだろうかと銀次郎は考えた。
ツツジの垣根から、このアスファルトの通りに跳びおりたときだと、すぐ気づいた。
ヨボジイは、銀次郎がやってきた真っ直ぐの方向ではなく、右か左に曲ったのだ。
「道、ちがってた。ごめん」
銀次郎は身をひるがえし、アスファルトの通りを駆けだした。

さっきのツツジの垣根が、道路のむこうに見えてきた。
その垣根の根元に、跳びあがった。
急ぎ、腹這うように臭いを探した。
しかし、右を探しても左を探しても見つからなかった。
猫になったばかりなので、まだ嗅覚が活性化していないのか。
鼻を土につけ、けんめいに探る。

するとさっきのキジトラ猫が、長いシッポを立ててやってきた。
おい、と下のアスファルトから、垣根の上の銀次郎に声をかけた。
「ヨボジイとやらに、一杯食わされたんじゃないのか。小便の臭いはかすかだけど、そっちの反対側から流れてきているぜ」
シッポ猫は顔をあげ、そっちの方向に鼻をひくつかせた。
相変わらず立てた長いシッポの先で、くるくる楽しそうに円を描く。

反対方向には七千代署ななちよしょのベテランの刑事、八田がむかっている。
刑事だけあって、銀次郎よりも勘は鋭い。追跡もプロだ。
自分も今からそっちにいき、八田はったを手助けしようかと思った。
だがその前に、キジ猫のぴんと立てているシッポについて聞いてみる気になった。

「教えてくれてありがとう。それで、さっきからぴん立ちさせて、ぐるぐる動いてるそのシッポ、なにかいいことでもあったのか?」
「おれのシッポ? あれえ?」
シッポ猫は言われてふりむき、空にのびた自分のシッポを見あげた。
「あれま、意識してないのに、ぴん立ちして勝手に動いていやがらあ」
嬉しそうな声をあげた。

「おいおい、おれのシッポ、どうしたよ。いひひひ」
笑いだした。
「なんでシッポが、そうやって動くのかが聞きたいんだけどな」
「なんでって、嬉しいからだろ。こういうの、猫の常識だろうが」
「うん。だからなんでそんなに嬉しいんだよ」
「おれに彼女ができたんだよ。可愛いし、色っぽいし、今にも妊娠しそうにセクシー。いい女だよー。ふひひひ、うれしいなあ」

猫のくせに、下あごをつきだすように笑う。
体をひねって嬉しがるその隙に、ちらっと後ろを見るとみごとに去勢されている。
「あのなシッポ猫。玉抜かれるけど、それでもその気あるのか?」
「いつでもその気はある。今日はこれからひと眠りし、お勤め明けのあの娘と会うんだよ。それでどうなるか分かるだろう。うひひひ」
舞いあがって、後ろ足をふみふみしている。もちろんシッポもくるくる動いている。

「お勤め明けって、その彼女、どこにお勤めしているの?」
「この先を行った二街区と一街区の境目あたりの道路の端に、自動販売機がある。その裏にエサバーがあって、そこで働いてんだ」
「エサバー? 餌場えさばのこと?」
「そうとも呼ぶかなあ。二十四時間営業で、三年ほど前にできたそうだ」
ふみふみを続け、せわしなく体とシッポを揺らす。

「その娘、鈴々れいれいちゃんて言うんだけど……あのな、そこに行って鈴々ちゃんにチャチ入れたってだめだよ。おれにぞっこんなんだから」
職業柄、鈴々ちゃんがなにを告げたのか知らないが、白黒はどうやら女性にまったく免疫めんえきのないおすのようだった。

「そのバーの鈴々ちゃん、なんて言ったの?」
念のため、聞いてみた。
「いっしょに暮らそうって。あなたを一目見たとき胸がどきどきして、ああ、この人だなと思ったって。この人って、おれのことだぜ」
それって営業用の常套句じょうとうくだよ、と教えたくなったが、次の一言で反対方向の八田を追うのをやめ、そっちを探ぐることにした。

「そこは暇をもてあました年寄りが、ふらっと寄る場所でもあるから、ヨボジイのこと知ってる者がいるかもしれないし、ひょっとしたら本人がきているかもしれないな」
シッポ猫はそうつけ足し、立てたシッポの先をくるくる回す。
「エサバーはこの道、まっすぐだよ。自動販売機の裏側にある」
そっちに行ってみよう、と三毛猫の銀次郎は即座に決心し、垣根から下の公道に跳びおりた。
                5章了

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