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3 猫の世界にとびこむ

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銀次郎はパトカーに乗せられ、病院につれていかれた。
ほとんど出歩かなかったので、車が二度ばかり角を曲がったら、もう地理が分からなくなった。
木々の茂る道をぬけ、五、六分ほどで着いた。

かんたんな身体検査をおこなわれた。
血を採られ、注射を打たれた。
なんらかの嫌疑けんぎを持たれたとしても、自分は潔白なので心配はなかった。
やりたいようにどうぞ、と気楽な心境だった。

奇妙な形の模様もようがなに見えるかのテストなど、いろいろやられるのかと覚悟をしていた。
しかし生体検査がすむと、付き添っていた警官と看護師にすぐに個室につれていかれた。

そこのベッドに寝ろと命じられた。
ドアの外の警護係は刑事の八田はったでもうららでもなく、ふつうの警官だった。
その日は、朝から刑事にたたき起こされた。
あれこれ憶測し、木の根元を掘り返したり、久しぶりに忙しかった。
そしてあっという間、ベットに寝かされた。
でも、自分は潔白なので絶対的な安心感があった。

だが、ありえないと思っていてもやはり心配だ。
まちがいなく、マタタビの粉を吸いこんだ。
刑事は笑っていたが、もし万が一、人間が猫になるマタタビだとしたら……心臓がどきどきした。
しかしそれは米田よねだトメさんの妄想もうそうなのだ。

つつましい印象の米田トメさんだった。
そういう嘘をつく人とも思えなかった。
もし本当に米田トメさんの言うとおりだとしたら……。
ぼんやり頭をめぐらす。それはりありえない、と考えなおす。
病院のベットで仰向けに天井を眺め、何度もそれをくりかえす。

考え疲れ、だんだん眠くなる。
じじじじじっと、体のなかで虫が鳴きだす。
病院でいきなり注射をされた。
なんのためなのかは聞かなかった。
注射はたんに眠剤みんざいが入っていただけだったのか……。

じじじというのは薬が五臓六腑ごぞうろっぷに染みこむ音か。
それぞれの臓器の細胞が反応し、騒ぎだしているのか。
気分は悪くない。
じじじじじっていい感じだ。
どこかの世界に吸いこまれていく気分だ。
まさか、朝になったら猫なんかになったりしていないだろうなと、ちょっと心配になる。

中学生のころだった。
カフカという作家の『変身』という小説を読んだ。
主人公が朝、目が覚ます。
硬い甲羅こうらのある背中で、ベットに仰向いていた。
自分の腹と、わらわら動く何本もの細い足が見えた。

銀次郎も、物語の主人公のように自分の腹を見た。
茶と白と黒の三色の毛の虫だってか?
背中も硬い甲羅ではなく、ふんわりした柔らかい毛で……。

あれ? これは猫の手と足じゃないか。
それで動かそうと思うと、自分の意思でふらふらって動くぞ。
それにぐっと力を入れると、指の先からにょきっと尖った爪がでてくる。
明かりに透けて白く光って……。

いつのまにか朝になってる。
カーテンの隙間から陽が射してる。
注射されたあの薬は、すぐ朝になる薬だったなんて……。

いやそうじゃない。柔らかそうなお腹の皮にぞろぞろ毛が生えて。
左右にのびた腕や下半身の太股にも毛が生えている。
手足の指先に力を入れると、にょきっと爪がでてくる。

もしかしたらこれ、猫じゃ……。
わあ、おれ、猫になってるじゃないか。
知らないうちに眠って……。
いや、これはこんなときによく見るお決まりの夢だ。

子供のころから猫と仲良しだったとしても、それとこれは別だろう。
股のあいだから、尻尾が上を向いてのぞいているぞ。
これもほれ、先っぽ曲がれって命令したとたら……
わあ、本当に曲がったあ。
「わあっ」
銀次郎はベッドから転げ落ちた。

意識もしていないのに、四本の足でふわっと着地した。
足の裏に肉球の感覚があった。
音もたてなかった。
それに、今、『わあっ』と叫んだつもりだったが『にやおーう』と大声で鳴いていた。

ガチャンと鍵がはずれた。
閉まっていた個室のドアがいきなり開いた。
外にいた係の警官だ。ドアの隙間からおどろき顔で部屋をのぞかせた。
銀次郎は、隙間から廊下に跳びだした。


両手足をいっぱいにのばした。
入院患者たちがよたよた歩く朝の廊下を、走った。
頭を低くし、四本の足をすばやく動かし、人間の足をよける。
擬古地ぎこちなさはどこにもなかった。
力にあふれ、さっそうとしていい気分だった。

ぼさぼさの髪も鼻毛も、きりっとした顔立ちのなかに消えていた。
不精ぶしょうの跡形もない。なんだか猫も悪くないなと感嘆したくらいだ。
「こら、まて、野良猫」
誰かにそう呼ばれたような気がした。
しかし、自分は野良のつもりなどではなかったので、無視した。

階段を一気に、四階から一階まで、飛ぶように駆けおりる。
やっほーと叫びたいくらい元気だ。
広いガラス張りの玄関を斜めに横切る。
人の足もとをすり抜け、表にでる。

全身がぱっと明るい陽につつまれた。
庭をつっきり、門をくぐるとアスファルトの道だった。
迷わず左に曲がって、まっすぐ走った。

これは絶対に夢だ。
でも知らないはずの道なのに、分かった気分で走ってる。
おれは家に帰るんだ。団地の自分の部屋にもどるんだ。
団地はこっちの方だと、勝手に感じてる。
遠くに捨てられた猫が、家に帰ってくる話をよく聞いた。
そうなのだ。猫には生まれついての帰省本能きせいほんのうがあるんだ。

帰ったら、あの紅葉もみじの木の下をもう一度堀ってみよう。
それで、もっと深く埋まっている他のマタタビを……。
ちょっとまてよ。マタタビと口にしたとき、切ないものが胸にこみあげてきた。
それで、全身をぐぐっと熱くうずかせた。
これは夢のはずなのに、胸が鼓動を打ってる。
足裏の肉球にくきゅう、がしっかりアスファルトをとらえている。

やばい、おれはほんとうに猫になってるじゃないっか。
ネコババア、嘘なんかついていなかったようだぞ。
ネコババアは三種類の効能があると言っていた。
昨日の瓶のなかには、人間が猫になる種類が入っていたのか。
その袋が入っていたびんは、芝をどけたらすぐにでてきた。
だからもっと深くを掘ったら、人間にもどれるマタタビが埋まっているはずだ。

これは現実だろうか。
おれは本当に猫になったのだろうか。
もしそうだとしたら、おれは……。
銀次郎はえめぐらそうとしながら走っていた。
すると、ごーっと音をたて、車がすれすれをとおった。
からだの毛がぶわっとなびいた。
一瞬、隠遁生活いんとんせいかつを乱されたような気がし、怒鳴った。
「ばかやろ、あぶねえじゃねえか」

が、すぐに我にかえった。
道路の真ん中を走っているのは自分のほうなのだ。
背後からまた車がきた。
あわてて道の端に駈け寄った。
するとそこに一匹の三毛猫がいた。

顔は薄い茶色で、額に縦の黒い筋が三本。
左耳が黒い。鼻先から口にかけ、白毛が三角のかたちに胸まで広がっている。
全身に茶と白と黒毛がばらばらに混じっている。
目は薄緑だ。
ようするに、どこにでもいる普通の三毛猫だ

とたんに敵意が湧いた。
咽からふーっと威嚇いかくの気が吐きでた。
相手もこっちを睨んでいる。
自分と同じように背中を丸めている。
と、ぶぶぶと音がした。
目の前の風景がぐらっと動いた。
停まっていた車が走りだしたのだ。

同時に三毛猫の姿も消えた。
車の背後にならぶ、街路樹のプラタナスの幹が斑模様まだらもようを見せた。
車のボデイに映っていたのは、自分自身だったのだ。
「おれは茶と白と黒の毛の三毛猫になってる。
しかも、さっきからむずっとしていたので、頭をさげ、両腕のあいだからうしろを覗いてみると、股間に、ぷっくらした二つの玉が付いていたのだ。


おれは三毛猫の牡になっていやがったのだ。
猫になったときから気が高揚こうようし、力あふれる感じなのはこのせいか。
三毛の牡は遺伝子的にも貴重だと言われていて珍しい。
船なんかに乗ったら、お守りにもなって大事にされる。
殿様扱いで牝猫にも持てて……おっと、そんなことじゃない。
はやいとこ紅葉の木の下を掘って人間にもどるんだ。急げ。

プラタナスの木立の路肩に沿って、三毛猫の銀次郎の足が勝手に動く。
右に曲がり、左に曲がり、十字路をつっきる。
まちがいなく、猫の帰省きせい本能だ。       
ふいに木立が切れ、坂の上に立った。
眼下に、団地の建物がならんでいた。

そうだったのだ。病院は団地の丘の上の森のなかにあった。
その病院から団地にもどってきたのだ。
銀次郎は走って坂をくだり、団地の敷地に入った。
公道が団地を囲むようにぐるっと走っている。
その一角に、見覚えのあるタワーがあった。
そこの道の反対側の路を入っていけば三街区だ。


銀次郎は三街区の路を、独身者用の十五号棟を目指した。
すぐ、十五号棟にたどり着いた。
ベランダに跳びあがり、肩を戸に押し当て、横にスライドさせた。
すっと開いた。やはり戸締りができていなかった。
なかに入ると、まさしく自分の部屋だった。
うれしかった。

腹が減っていたので、座敷テーブルの上に置いてあったかりん糖の袋を爪でやぶった。
猫がかりん糖を食うのかなと思った瞬間、気持ち悪くなり、吐きだした。
とにかく紅葉の木の下を掘りかえし、猫が人間になるマタタビを見つけるのだ。
自分の家で一安心し、座布団の上に転がっている場合ではなかった。

三毛猫の銀次郎は、ベランダから庭に跳びおりた。
猫の視点になった庭はひろびろとしていた。
空に枝をのばした三本の紅葉が、斜面にかぶさるようにならんでいる。
正面から朝の太陽が射し、まぶしい。
だが、すぐに上空から照るようになる。
そこを縄張なわばりりにしている茶白のマダラ猫もまだいない。

芝の上をゆっくり歩き、斜面を登る。
紅葉の木の根元には、出刃包丁が白い刃を見せ、転がっている。
昨日使ったものだ。芝がめくれ、凹みができ、まわりに土が散っている。
さっそく手をのばしたが、猫の手で出刃包丁の柄は握れない。
それならばと両手の先に力を入れ、十本の爪を露出させた。

米田トメさんは、三種類のマタタビが埋まっているとはっきり話してくれた。
今、自分に必要なものは人間にもどるマタタビだ。
銀次郎は、真ん中の紅葉の木の根元に這いつくばった。
頭をさげ、薄緑の目を見開いた。前足を交互に動かし、土を掻きはじめた。

ぱぱぱぱっとうまく土がはじける。見事なものである。
やっぱり自分は猫になったのだな、とあらためて思いなおす。
その気になり、一気に土を掘りかえす。

だが猫の爪は、かしゃりとも瓶らしき器をこすらない。
もっと深くだ、と両手を必死に動かす。
掘った土が、左右の縁の外に積みあがる。
もう上半身が穴にのめりかけている。 

すると背後のツツジの垣根のほうから声がした。
「おい……おい、そこの三毛猫」
自分のことかと手をとめ、顔をあげた。
ふり向くと、ツツジの茂みのなかに二匹の猫の影があった。
大きいのと小柄な猫だ。大きな体のほうは灰色で、小柄のほうは白だ。

灰色の大きなほうが、そろりとツツジの垣根からでてきた。
「お前、もしかしたら高田銀次郎じゃねえのか?」
「ええっ?」
それは、猫が尻尾を踏まれたときの『にぎゃ』というような声だった。
そうなのだ。あのとき、粉を吸いこんだのは自分だけではなかったのだ。
銀次郎は、いっしょにマタタビの粉を吸いこんだ二人の刑事の存在をすっかり忘れていた。

「もしや七千代署の八田刑事さん」
「そうだ。おれは七千代署の八田与吉だ。お前ほんとに高田銀次郎か?」
「はい、高田銀次郎です。まちがいありませんけど」
「ばかやろ。こんなことになるって、なんでもっとはっきり言わなかったんだよ」
答えた銀次郎に目をむき、いきなり怒鳴った。
「言いましたよ。でも刑事さん、信じなかったじゃないですか」
銀次郎も言いかえす。
ぐぶっと、唸り声のような溜息をつく八田刑事。
「まいったなあ」
三毛猫の銀次郎と灰猫の八田刑事の二匹が目を合わせ、同時に声をそろえた。

「朝おきたら猫語を話す猫になってやがった。マタタビの話、ほんとだったのかよ」
しばたたく灰猫の目は、黄色というか金色にちかかった。
灰猫の後ろにもう一匹、小柄な白猫がいた。
新米刑事の春野うららだった。

こっちは若い女性にふさわしく、白い体に明るい空色の目だ。
「どういうこと? こんなのってある訳ないのに、どうしてあるのよ」
茂みからでてくるなり、声高に訴えた。
半分泣き顔である。それはそうだろう、目覚めたら猫になっていたなんて、おどろかない訳がない。

「おい、昨夜の話だと、人間にもどれるマタタビがあんだよな。どこにあんだ?」
灰猫の八田刑事の金色の目は、半分怒り、半分は途惑いでいっぱいだ。
「だからここを掘って探してるところなんです。おれだって、朝おきてびっくりしてんです。背中に甲羅こうらのある虫でなくてよかったです」
一言つけ足したが、八田にもうららにも分からなかった。

「探してるところだと? おい、おい、冗談じゃねえぞ。ばかやろ」
刑事の八田は、見開いた金色の目をくりくりさせる。
「米田トメさんの話ですと、人間にもどれるマタタビがここに埋まっているはずなんです」
「はずなんですって、どこにあんだよ。そもそも肝心のその米田トメは、どこにいったんだよ」

「わたしが推測したとおり、人間が猫のなるマタタビと、死んじゃう赤いマタタビなめて、スマホの写真のような猫になってしまったんじゃないですか? そっちのほうは刑事さんの専門のはずじゃないですか」
「あれえ、お前、本当に知らないって感じの物の言いかたじゃねえかよ」
前足を踏みこみ、ぐいっと睨みつけてくる。

「どういう感じか知りませんけど、とにかく、また人間にもどるんだから、ここに埋まっているはずの残りのマタタビ、いま探しているんです」
「探してるって、もしそのマタタビそこになかったらどうなるの? このまま永遠に猫なんじゃないでしょうね」
うららがうるんだブルーの目をまたたかせる。泣きそうだ。
「そうだ。そのマタタビ、なかったらどうなんだよ」
八田刑事が問いなおす。

「なかったら、日本にはないマタタビなので、リビアという中東の国の山奥に行かなきゃならないらしいんです。米田トメさんがそう言ってました」
「リビアだと?」
「リビアって、アフリカの?」
「エジプト近辺の砂漠の国です」
銀次郎も名前くらいは知っているが、そんな国は地図でしか見たことがない。
「ばかいうな。猫がそんな砂漠の国までいけるかよ。おい、はやく見つけろ」
灰猫の八田は、二、三歩んで首をのばし、掘りかけの穴をのぞいた。

「だいぶ掘ったようだけど、ほんとうにあんのか」
「もうでてくると思います。もうちょっとです」
「それなら手伝ってやる。今日はここの穴、改めて調査する予定でもあったしな」
「わたしも手伝う」

真ん中の紅葉の木の下で三匹が頭をならべ、えいえいえい、と泥を掻きはじめた。
周囲に飛び散った土が、十センチほどに積もる。
だが三匹は手を休めなかった。
なにしろ、そのマタタビが見つからなかったら、猫のままの生涯になってしまうのだ。
夢中だった。
 
午前中の団地は、勤め人が出勤し、建物全体がほっと溜息をついているところだ。
三本の紅葉が生えたその庭にも、いつもの静けさが漂っていた。
が、その日は、どこからともなく団地に住む野良猫たちが現れた。
そして紅葉の木の根元で泥をはねる三匹の猫を、知らぬうち、半円形のかたちで見守っていた。七、八匹もいただろうか。

三毛猫の銀次郎はさっきから気配を感じていた。
しかし、猫になったばかりなので神経がなにを感じてるのかが、分からなかった。
八田とうららが手伝ったので、となりの木の幹の根元が土で隠れるほどになった。
それでもまだなにもでてこなかった。


銀次郎は穴掘りの手をとめ、顔をあげた。
野良猫たちが穴を囲むように、自分たちを見守っていた。
半円形に肩をよせあている。
中央に茶白の猫がいた。茶毛の背中に白のしまが散ったマダラである。
いつもその斜面で日向ぼっこをしているやつだ。

三毛猫の銀次郎も灰猫の八田も白猫のうららも顔をあげ、挨拶もなく猫たちと睨みあった。
ならんだ中央のマダラ猫が口をひらいた。
「あなたたち、三匹そろって、そこでなにをやってんだ」
あたりを仕切っているボスらしく、目が座っている。
銀次郎は、自分たちを半円形でとり囲む猫たちをもう一度見わたした。
猫たちの目は、敵意の色よりも、困惑と警戒の色でいっぱいだった。

「さっきここにネズミがいた」
三毛猫の銀次郎は、とにかくそう答えた。
「ネズミ? 掘ったっていないだろう。もうとっくに逃げてる」
その言葉に、居ならぶ全員がかすかに笑った。

「そもそもあなたたちは何者なんだ。どこからきたんだ」
茶白のマダラ猫は、落ち着いた口調で訊ねた。
他の猫たちが、三匹の闖入者ちんにゅうしゃをじっと観察する。
マダラ猫は仲間から絶対的な信頼を得ているようだった。

銀次郎はどう説明するべきかと迷った。
すると銀次郎に助け船をだしたつもりなのか、灰猫の八田刑事が横で応えた。
「俺たちは警察からきた。この団地に用がある」
「警察? なんだ、警察って?」
「決まってるだろ。悪いやつを捕まえるんだ」
「この団地にいるやつか?」
「もちろんそうだ」
するといっせいに、ほおーっと猫たちから溜息がもれた。

「八田さん、あんまり思いつき、喋らないほうがいいですよ」
銀次郎が耳元でつぶやく。
「ここはもう、昨日の私たちの世界ではないんですけど」
肩をならべた白猫のうららも、上司に注意した。
頼りなさそうな若い女刑事だったが、その一言に、猫の世界にきてしまったという覚悟らしきものがうかがえた。

「じゃあ、さっそくだけど、悪そうなやつがいるので捕まえてください」
即座にマダラ猫が提案してきた。
「以前から変なのがあらわれ、団地内をねり歩いていやがる。目的がなんなのか分からないけど、やつらは平和のための活動だなんて言ってるそうだけど、お前らその仲間か?」
「ちがう、ちがう」
仲間ときいて三匹は、そろって首をふった。

「もしかしたら、ここ、平和ではないってことなのか?」
ベランダから眺めたときや団地内のスーパーにいく途中、銀次郎は野良猫を何匹も見かけた。
しかし、争っている猫など一匹もいなかった。
猫たちはのんびりしていていいなあ、とうらやんでいたくらいだ。

「日ノ元郷地域は団地もふくめ、ずっと平和だった。だけどちょっと前にやつらが現れたんだよ」
「やつらってなんだそれ?」
「ここ、猫の世界なんです。八田さん」
八田の問いかけを、うららがまたささやいて止めようとする。

さっきから、自分を見返す茶白のマダラの視線が銀次郎には気になった。
「おれとあなたは、どこかで会ったことがありましたか?」
ベランダにいる銀次郎に、ちらり視線をむけてきたマダラだ。自分を知っているのかと聞いてみた。
「いいえ。でもあなたの目を見た直感ですが、とにかく悪者じゃない。突然あらわれて何者かと怪しんだけど、私たちの敵ではない」
人間のときの銀次郎の記憶はないようだ。

「おい、私たちの敵じゃないって、この団地の猫に敵がいるってことかよ?」
刑事という職業柄なのか、やはり癖がでる。うららはもう止めない。
「悪いやつとか敵とかとはっきりしないが、外部からきた野良のサビ猫がこの団地に住み着いて、地域の決まりを無視したり、公共の場を勝手に占拠したり、日ノ元猫族の悪口をばらまいたり、好き勝手をやってやがる」
マダラ猫は、鼻先にしわをよせる。

「そいつらのおかげで日ノ元団地の平和が乱れ、不安になった」
「そいつらっていうと、一匹じゃねえってことか」
八田刑事が応じる。
「はい、かなりの数がいて、ドラ猫合唱隊と名乗って歌を唄って歩くグループもいて、そいつらも黒と茶の毛をごちゃごちゃに入り混じらせた黒っぽい色のサビ猫で、七、八年前ころから見かけ、ここのところ我が物顔で団地のなかを歩いていやがる」
マダラ猫たちの説明は、敵ではないと判断した新顔の三匹に対する訴えのようにもなった。

「しかも唄ってる歌は、ここの日ノ元郷で古くから伝わっている伝統の歌なんです」
 他の猫も発言する。ドラ猫合唱隊がかなり気になっているようだった。
「唄声にあわせ、周囲をおっかない顔で睨みながら行進しやがるんだよ」
「やつら、ほっぺたが左右にひろくて、ふつうにしてても顔が怖い」
「このまえは旗ふってた」
「月の丸の旗だ。口に棒をくわえてな。人間の子供が捨てたオモチャの旗を拾ったんだ」
 口々に発言する。聞いてみると、いろいろありそうだった。

 平和行進曲も月の丸の旗も、この日ノ元郷に猫が存在するようになってから大切にしてきた日ノ元郷猫族のシンボルなのだそうだ。
旗は滅多に手に入らないので、拾ったりすれば住み家に大事に隠してしまってあるという。また、ここで言う郷は、人間たちの国を表すときの意味で使っている。

行進曲も月の丸の旗も、人と共に生きてきた猫族が人の知恵を真似たものである。
遠い昔、どのように日ノ元郷の猫族に伝わったのかは不明だという。
人間のとき、平和そうに見えた団地の猫の世界になにかが起ころうとしている危機らしきものを銀次郎は感じた。
正確に覚えてはいないが、銀次郎はネコババアの言った言葉をふいに思いだした。
『自分になにかがあったら、きっとあなたが助けてくれる』
                    3章了
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