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5 赤い宝石は武志兄さんからの贈り物
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1
服部は群れたがる人間ではなかった。
いつも一人で動いていた。
それでも火葬場には五、六人の男がついてきた。
お骨を抱えてバラックの家に帰ってきて、部屋の隅の箱の上に置いた。
かのんは泣くことも忘れていた。死は日常だった。
まわりの人たちも、死に対して馴れきっていた。
落ちついた乾いた目で、一人の若者の死を認めようとしていた。
お骨に線香をあげ、煙と香りが外にながれた。
さらに何人かの露店の業者がやってきた。
線香をあげる弔問者のなかには、大家さん夫婦もいた。
銀座にでてきてバラックをのぞいたとき、服部の葬儀にぶつかったのだ。
「かのんさん、一人でだいじょうぶですか?」
大家さんの奥さんがきいた。
夫婦は、似たような瓜実顔をしていた。二人とも日本舞踊の師匠だった。
かのんは、お骨の置かれた木箱のとなりに小さくうなだれ、正座をしていた。
「あたしたちは、そろそろ田舎からこっちにでてこようかと思っていたところなんだ」
旦那がいった。
田舎といっても、東京と埼玉の境を流れる荒川のむこうにあった。
「お兄さんがこんなんなってすぐになんだけど、もしまだなにも決めていないのなら、あたしたち夫婦がお兄さんの部屋を使わせてもらってもいいかな」
きたときから考えていたようだった。
かのんも頭の隅で、これから一人でどうしたらいいかと思案をしていたところだった。
一人ではぶっそうだった。店番をしていると、色目どころか、手を握って言い寄る男もでてきた。
かのんは、もう十七歳をとっくに過ぎていた。
「でも、配給はほとんどありませんし、食べ物が……」
ありません、といおうとしたかのんを、大家さんの旦那さんがさえぎった。
「そのことなら心配いりません。いままであたしたちは、これの実家に疎開していたんでね。これの実家は百姓家です。リヤカーを牽いて、ちょっといってくれば三人の食い扶持くらいはなんとかなります」
これ、というのは奥さんのことである。
柳腰の旦那が、額に汗をかいてリヤカーを牽いている姿が、かのんには想像できなかった。
夫婦は奥さんの実家の田舎で、踊りを教えているという。
都会の人たちの買出しで、俄か金持ちになった百姓家のおかみさんやばあさんが生徒である。
「今日からでも、どうぞお使いください」
かのんは、こっくりうなずいた。
大家さんとは、どんぐりさんのお父さんの代からの付き合いである。
「じゃあ、息子たちの帰りを、ここでまたせてもらいます。よろしくおねがいします」
旦那さんも、あらたまった口調で告げた。
夫婦には三人の息子がいた。
だが、長男は支邦大陸で戦死し、次男はフィリピン、三男はビルマ方面にでむいたままだった。
踊りを踊って気楽でいいなと思っていたが、そうでもなかった。
夫婦で首を長くし、息子たちの帰りをまっていたのだ。
翌朝、夫婦はどこからかリヤカーを借りてきた。
「じゃあいってきます」
旦那さんが梶棒を引き、奥さんが後ろについて出発した。
まだ空のリヤカーなのに、柳腰の旦那さんの牽く舵が、ゆらゆらと左右に揺れていた。
2
大家さん夫婦がでかけた後だった。
白い背広にソフト帽を目深に被ったジョーがやってきた。
界隈の花売りの元締めのだ。
「ねえちゃん、とんだ災難だったな。線香あげさせてやってください」
ジョーは、線香をあげ、南無阿弥陀仏を唱えた。
「おれが花を卸してやるからここで売ったらどうだ」
仏壇から顔をあげるなり、提案してきた。
ジョーは昔から江戸川の栽培農家から花を仕入れ、銀座で売っていたのだ。
農家はガラスのハウスを建て、そこで西洋の花などを育て、ジョーに専門に卸していたのだ。
「ありがとうございます。助かります。でもいいんでしょうか?」
「昼まえに、うちからこっちに花屋の荷馬車まわすからな。おめえは放っておけねんだよ。観音様みたいで可愛いし。つらくっても明るく生きなよ。りんごの歌みたくな」
玄関の靴をはき、ソフト帽をかぶりながらジョーが真面目顔で告げた。
ジョーは、りんごの歌を唄っている歌手が、並木路子という名前だと教えてくれた。
並木路子は、三月の東京大空襲で、お母さんと一緒に隅田川に飛びこみ、自分だけがかろうじて生き残った経験の持ち主であるとも、話してくれた。
「思いだすと辛いから、並木路子は、ああやって精いっぱい明るく唄ってんのさ」
本人にきいてきたようにいった。
ことによったら、銀座のどこかの舞台に出演した本人に、直接きいたのかもしれない。
ジョーのいうとおり、昼まえに荷台を牽いた馬車がやってきた。
ひろい荷台の木の床には、草花の青い葉が散っていた。
ジョーは銀座界隈のバー、キャバレー、最近はやりのクラブ、そして街頭の花売り娘などに荷台いっぱいに積んできた花を卸していた。
御者の馬方は、自分の尻のうしろにひとかたまりになっていた花を、かのんにわたしてくれた。
「今日は、これっぽっちだけど、ようすを見て増やしていくようにって、いわれてるからな」
首に手拭を巻いた無精髭の馬方は、ジョーの伝言をかのんに告げた。
「ありがとうございます」
花作りの農家の人が育てた本物の菊や薔薇が、自分の店にならんだ。
売らずにとっておきたいほど、きれいだった。
だが、PX帰りのアメリカ人に気に入られ、たちまち売り切れた。
アメリカ人のなかには『ホウモンギ』ということばを覚え、趣味で集めている者もいた。着物の伝統的なデザインの良さを理解しているのだ。
「こんどくるときまで、用意しておいてくれないだろうか」
多少英語が話せるようになったかのんに告げていく者がいた。
ときどき食べ物と交換するために、訪問着をもってくる者がいた。
だが、うまい具合に手に入れられるかどうか、それはわからなかった。
体力に似合わず、大家さん夫婦は、売るほどの食料を仕入れてきた。
そしてかのんの話をきいた夫婦は、ホウモンギの古着を何枚も集めてきてくれた。
3
一息ついたとき、かのんは服部が恋しくなり、最後に寄ったという八丁目の未亡人の家にいってみた。
道は、三丁目から新橋の方向にまっすぐだった。
八丁目の掘割の川沿いには、バラックがならんでいた。
すべて女たちの家だった。集まって住んでいるのである。
噂にきいてはいたが、かのんは服部のお得意の家が、娼婦たちの巣窟だとは知らなかった。
かのんは服部の名前をだし、特攻未亡人の家を探しあてた。
とにかく、どんな話をしたのか、ただそれだけが知りたかった。
特攻未亡人は、娼婦のボスだった。
服部が建てたというそのバラックの家には、十人ほどの若い女がいた。
家の隅には服部が売ったとおぼしき俵が立てて置かれていた。
ボスは裾の長いスカートを太股までめくり、丸椅子に腰をおろしていた。
太股には、特攻をあらわしているのか、三つの桜の花の刺青が彫られていた。
まだ二十三、四歳の若さだった
未亡人は、猫のような目で、かのんを見つめた。
「わたしはサクラのマキっていうんだよ。服部さんの妹さんなら知ってるよ。あんた、かのんていう名前だろう。ほんとうに観音様みたいな優しい顔してるねえ。いつも話してたかy。だけど、服部はちかごろちっとも顔をださないじゃないか。米はいいから、なにかほかの食べ物もってきなっていいな」
「もう、服部はいないんです。死んだんです。ここで米を売った帰り道、強盗にピストルで撃たれ、荷物も金も奪われました」
「死んだ?」
サクラのマキさんは首をのばし、剃り落とした薄い眉をしかめた。
そうかい、としばらくして肩の力を抜き、つぶやくようにいった。
「それであんたは、食えなくなって、噂にきいていたここにやってきたっていうのかい?」
まわりにいた若い女たちが、かのんに視線を集めた。
そこにいる娘は、みんな身寄りがない。
上野にも有楽町にも新橋にも、たくさんの娘がいた。
かのんだって服部とめぐりあえなかったら、彼女たちの仲間になっていたかも知れない。
「あんた、いくつだい?」
「十七です」
「ちょうどいい歳だね。うちにも十七の娘が三人いるよ」
「ちがうんです。わたしは服部が、ここで最後にどんな話をしたのか、ただそれを知りたくてきたんです」
「最後にどんな話?」
サクラのマキさんは、太股に置いた手を上下になでさすり、ちょっと考えた。
「そうだ、特攻は犬死じゃないって、怒ってたよ」
そういいながら、サクラのマキさんは腕を組んだ。
「あいつね、わたしが、特攻隊は犬死だった、っていったら怒ったんだよ」
そういって、きらきら光る目で、かのんを見つめた。
かのんは特攻隊が犬死だったかどうかんなんて、考えたこともなかった。
でも、結局日本は負けてしまった。
そしていまわかっているのは、負けてみれば圧倒的な負けだった、というみじめなほどの現実だった。
戦争のさなかには、もろもろのできごとが勝利にむかっているのかという疑問が、頭をかすめないでもなかった。
B-29が頭上を飛びまわるその隙をつき、町会長を中心に町の婦女子たちが集まり、校庭で竹槍の訓練をしていた。
こんな戦国時代のような真似をしていて、ほんとうに勝てるんだろうか、と疑問をもった。だが、そんな一言はだれも口にしなかった。
服部も、ときどきそのへんについて自分の意見をいっていた。
「日本は真珠湾攻撃から半年もしないうち、決定的な負けになっていた。アメリカははじめから勝つ気で戦争をしていたんだ。B-29なんか、設計から考えても三年や四年でできるものじゃない。あらかじめ、長距離を飛んでいって日本を爆撃するという意図が前からあったんだ。物量から見たって、アメリカの勝利は明白だった。なんで真珠湾なんかに攻撃仕掛け、わざわざアメリカと戦争したんだろう。ふしぎだよなあ」
首をかしげ、エンジニアらしきもののいいかたをした。
しかし、特攻隊が犬死だったかどうかなどの感想は、口にしなかった。
「サクラのマキさんは、どうして特攻隊が犬死だった、と思うんですか?」
かのんはきいてみた。
サクラのマキさんはちょっと背筋をのばし、きゅっと唇を噛んだ。
「こういう話は、もうあんまりな口にしたくないんだけど、あんた真剣そうだから答えてやるさ。わたしの旦那はね、特攻隊の隊長で中尉だったんだよ。仲がよかったからいろいろなことを気楽に語ってくれた」
まわりに集まった女たちが、だまってきいていた。
「あの人は、フィリピンのマバラカットから飛び立って、レイテに散った。はるばるわたし宛に、日本に帰る友人に手紙を託してきた。戦艦に体当たりするってね。いってくるって、笑顔の写真同封してさ。結局、レイテ島の戦いは日本が負け、島はアメリカ軍に取られてしまった」
サクラのマキさんは、太股に置いた手をぱんぱんと叩いた。
太股の内側に刻んだ白い肌がふるえ、サクラの花びらもふるえた。
「予科練帰りのお兄さんが、航空服着て愚連隊になってそこらで暴れまわっているだろう。特攻で行くつもりですっかりその気になって覚悟をしてたら、戦争おわりーいって突然いわれ、ほんとに終わっちゃった。故国のためだと必死に自分にいいきかせ、ようやくその気になったのに、なんだいって──。怒りのもっていきようがないんだよ。先にいってしまった戦友にだって、なんていっていいかわからない。同時に戦争が終わってみたら、あの戦争のばかばかしさみたいなものが、堰を切ったように押し寄せてきた。ばかやろーって叫んでも、だれにむかって叫んでんだか、本人にもよくわからないんだよ」
「鬼畜米英からだが、いまじゃカムカムエブリボデイだもの」
長い髪をリボン巻きにした一人が口をはさんだ。
「くやしいんだよ、わたしは。あの人をむざむざ特攻にとられてさ。服部が死んじゃったら一人でどうすんだい?」
いきなり思いだすように、かのんに聞いてきた。
「花を売ります」
かのんがとっさに答えた。
「花売り娘か」
「そんなもの売らないで、からだを売んな」
「あたしたちは、御国のためにもなってんだよ。銀座界隈のなんとか商業連合会とかの偉い人がきて、GIを相手にしているあなたがたがいるから、一般の娘さんが安心して暮らしていける。あなた方フ女子挺身隊女子挺身隊《ふじょしていしんたい》だ、なんてみんを集めて挨拶していきやがった。大真面目な顔してね」
「サクラのマキさん、あなたの旦那さんはほんとうに特攻でいってしまったんですか。その瞬間をだれか見ていたんですか」
サクラのマキさんは、この娘はなにをききたいんだろうという目で、かのんを見かえした。
「一ヶ月後に、東京で戦死通知をもらったよ」
「でもレイテは南の海だったんでしょう。もしかしたら、エンジンの不調でどこかの島に不時着してるってこともあるでしょう?」
「あんた、特攻の女房みたいな言い方をするじゃないか。特攻の女房には、もしかしたらって、そんなふうに考える者がいるんだよ。ありえないけどさ。でもほんとうにひょっこり帰ってきたらうれしいね。あの人なら、こんな仕事をしているわたしを見ても、仕方ないだろうっていって怒らないと思うな。ああ、ほんとうに帰ってこないかなあ。会いたいなあ」
サクラのマキさんは刺青のある白い股をひろげたまま、顎をのけ反らせ、天を仰いだ。
4
ジョーは約束を守ってくれた。
毎日、花を積んだ馬車がきて、いろいろな花を卸してくれた。
無精髭の馬方は金次郎といって、花を育てている農場の主だった。
「あなたは花屋にむいている」
金次郎は、花を抱え、観音様みたいな頬で微笑むかのんを見、そういった。
かのんは花に囲まれたとき、幸せな気分になった。
ガラスの温室ハウスで育ったという薔薇や季節はずれのチューリップや向日葵、そして自然の畑で咲いたコスモスが寂しげでいとおしかった。
いろんな花に囲まれていると、お父さんやお母さんやどんぐりさんやどんぐりさんのお父さんやお母さん、みんなと一緒にいる幸せな気分になった。
服部が作ってくれた平台の上に、水の入ったバケツを五つほどならべ、花を入れる。小さな花園のように台の上に花が盛りあがる。
花屋と呼べるような規模ではなかった。
それでも銀座界隈で唯一の花の店だった。
PX帰りのアメリカ人ばかりではなく、日本人たちも買っていった。
焼け出された灰色の世界で必死に生きてきた人たちの心を、花がほっとさせていたのだ。
花の台のとなりには、GIやアメリカ人用に和服が、茣蓙の上に畳んでならべられていた。
こっちはお客さんがくると、大家さん夫婦が手伝ってくれた。
以前、夫婦は松井歯科医院の裏に日本家屋を建てて住んでいた。
しかし、家は戦災で焼け、いまもそのままである。
土地もちの素封家で、財産は焼けるまえに奥さんの実家に預けてあった。
息子が帰ったら家を建てたい、が口癖だった。
だが、残っている二人の息子は、いつまでたっても復員してこなかった。
夫婦は踊りの師匠さんだけあって、着物には詳しかった。
いい物を知っていたので、アメリカ人もいい物を知っている金持ちのアメリカ人の客がついた。
そのなかには、GHQで仕事をしている将校もいた。
当然、通訳はかのんである。毎日英語を話し、同時に勉強もしていたので、あっというま、英語が上達した。
GHQの将校はジェームスといった。
ジェームスは二十五、六で若かったが、空軍の大尉だった。
大尉はかのんに興味をもった。
一見、陽気で楽しげだが、日本人を馬鹿にしている低脳のGIたちとはちがい、いつも落ち着いていた。
かのんを誘ったときも、強引な真似は見せなかった。
NOといったら、そのうちね、とやんわり退いた。
ジェームス大尉は、首から金のネックレスをかけていた。
そのネックレスには、赤い小さなものがぶらさがっていた。
「これは母親からプレゼントされたお守りのルビーだ」
かのんの視線に気づいたジェームス大尉が説明した。
「ダイヤモンドよりも高いものなのですか?」
「ダイヤモンドよりも高いよ」
ジェームス大尉は答えた。
ジェームス大尉が帰ると、かのんは自分の部屋の服部のお骨の前に立った。
四角い箱に入った服部のお骨のすぐ横に、紙のお捻りが置かれていた。
なかには、サクラのマキさんと、米一俵で交換した一粒の宝石が入っていた。
死の直前、息絶え絶えに、服部がかのんに差しだしたものだった。
服部はそれをルビーだといった。
かのんは、藁半紙の包みを左掌のうえに置き、そっと開けてみた。
真っ赤な楕円形の石がでてきた。
透明な血がへばりついているかのようだった。
かのんの細い小指の先にも満たない、裸の石だ。
かのんは台所のバケツの水を柄杓で汲み、宝石にぽたぽた垂らしてみた。
血は滲まなかった。
かのんはルビーを指にはさみ、出入り口から太陽に透かしてみた。
透きとおった真っ赤な色だった。
「武志兄さんの神聖な血がしみこんでいる」
かのんはつぶやいた。
もし、この石がダイヤモンドよりも高いものなら、これを売って店を建てよう。
そうすれば武志兄さんのことも、いつまでも忘れられないでいられる──
5
かのんは、そんな小さな石で店が建つかどうかなど、なにもわかっていなかった。
だれに頼んだらいいのか、と考えたとき、白い背広の花売りのジョーを思いだした。
店番を大家さんに頼み、かのんは有楽町のジョーの事務所を訪ねた。
ジョーは革張りの大きな椅子にのけぞり、目を閉じてレコードを聴いていた。
りんごの歌だった。
女子事務員が声をかけると、ぱっちり目を開けた。
そしてそこに立っているかのんの姿に、おっ、とおどろき声をあげた。
「めずらしいなあ。よくきたなあ」
いつ話しても、かのんには白人の顔の日本語がしっくりこなかった。
かのんは、まず、花の仕入れの礼をいった。
そうしてから、提げていた小物入れからハンカチに包んだルビーをだした。
服部が死ぬときにくれたものだと説明した。
「これを売りたいんです」
「ほー」
ジョーはルビーをうけとり、指にはさんで透かし見た。
「おれにはわからねえけど、なるほどこりゃあ、血の色だな。まあ、まかしときな。宝石を扱っている男を知っているから、きいてみてやるさ。これ、高いものなのか?」
「わかりません。もしかしたら、ただの赤い石かもしれませんけど、進駐軍の将校さんにきいたら、ルビーはダイヤモンドより高いっていってました」
おい、とジョーは女事務員に声をかけた。レコードが終わったのである。
ふたたび軽快な前奏がはじまり、明るいメロディがながれた。
三日後、ジョーがバックをもって現れた。
ソフト帽を被った頭をちょっと下げてバラックのなかに入ってきた。
「おどろくな」
挨拶もなく、いきなり大きく目を見開いた。
バックの口を開け、逆さにすると、中身がぼとぼとと畳みの上にこぼれた。
札束だった。
「ほんとにあれは血の色なんだとよ。ただし鳩の血だ。ピジョンブラッドといって、ビルマの険しい山のなかでしか採れんもので、しかも二カラットもあったそうだ」
なにがあっても他人事のようにすましているジョーが、すこし興奮していた。
「さあ、これ、どうする」
「店をつくります」
かのんは即座に答えた。
「これは武志兄さんからの贈り物です。それに、いくらあるか知らないけど、半分はもとの持ち主のサクラのマキさんにかえします」
八丁目の堀端に建ちならぶバラックを、かのんは思いだした。
●5章終
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服部は群れたがる人間ではなかった。
いつも一人で動いていた。
それでも火葬場には五、六人の男がついてきた。
お骨を抱えてバラックの家に帰ってきて、部屋の隅の箱の上に置いた。
かのんは泣くことも忘れていた。死は日常だった。
まわりの人たちも、死に対して馴れきっていた。
落ちついた乾いた目で、一人の若者の死を認めようとしていた。
お骨に線香をあげ、煙と香りが外にながれた。
さらに何人かの露店の業者がやってきた。
線香をあげる弔問者のなかには、大家さん夫婦もいた。
銀座にでてきてバラックをのぞいたとき、服部の葬儀にぶつかったのだ。
「かのんさん、一人でだいじょうぶですか?」
大家さんの奥さんがきいた。
夫婦は、似たような瓜実顔をしていた。二人とも日本舞踊の師匠だった。
かのんは、お骨の置かれた木箱のとなりに小さくうなだれ、正座をしていた。
「あたしたちは、そろそろ田舎からこっちにでてこようかと思っていたところなんだ」
旦那がいった。
田舎といっても、東京と埼玉の境を流れる荒川のむこうにあった。
「お兄さんがこんなんなってすぐになんだけど、もしまだなにも決めていないのなら、あたしたち夫婦がお兄さんの部屋を使わせてもらってもいいかな」
きたときから考えていたようだった。
かのんも頭の隅で、これから一人でどうしたらいいかと思案をしていたところだった。
一人ではぶっそうだった。店番をしていると、色目どころか、手を握って言い寄る男もでてきた。
かのんは、もう十七歳をとっくに過ぎていた。
「でも、配給はほとんどありませんし、食べ物が……」
ありません、といおうとしたかのんを、大家さんの旦那さんがさえぎった。
「そのことなら心配いりません。いままであたしたちは、これの実家に疎開していたんでね。これの実家は百姓家です。リヤカーを牽いて、ちょっといってくれば三人の食い扶持くらいはなんとかなります」
これ、というのは奥さんのことである。
柳腰の旦那が、額に汗をかいてリヤカーを牽いている姿が、かのんには想像できなかった。
夫婦は奥さんの実家の田舎で、踊りを教えているという。
都会の人たちの買出しで、俄か金持ちになった百姓家のおかみさんやばあさんが生徒である。
「今日からでも、どうぞお使いください」
かのんは、こっくりうなずいた。
大家さんとは、どんぐりさんのお父さんの代からの付き合いである。
「じゃあ、息子たちの帰りを、ここでまたせてもらいます。よろしくおねがいします」
旦那さんも、あらたまった口調で告げた。
夫婦には三人の息子がいた。
だが、長男は支邦大陸で戦死し、次男はフィリピン、三男はビルマ方面にでむいたままだった。
踊りを踊って気楽でいいなと思っていたが、そうでもなかった。
夫婦で首を長くし、息子たちの帰りをまっていたのだ。
翌朝、夫婦はどこからかリヤカーを借りてきた。
「じゃあいってきます」
旦那さんが梶棒を引き、奥さんが後ろについて出発した。
まだ空のリヤカーなのに、柳腰の旦那さんの牽く舵が、ゆらゆらと左右に揺れていた。
2
大家さん夫婦がでかけた後だった。
白い背広にソフト帽を目深に被ったジョーがやってきた。
界隈の花売りの元締めのだ。
「ねえちゃん、とんだ災難だったな。線香あげさせてやってください」
ジョーは、線香をあげ、南無阿弥陀仏を唱えた。
「おれが花を卸してやるからここで売ったらどうだ」
仏壇から顔をあげるなり、提案してきた。
ジョーは昔から江戸川の栽培農家から花を仕入れ、銀座で売っていたのだ。
農家はガラスのハウスを建て、そこで西洋の花などを育て、ジョーに専門に卸していたのだ。
「ありがとうございます。助かります。でもいいんでしょうか?」
「昼まえに、うちからこっちに花屋の荷馬車まわすからな。おめえは放っておけねんだよ。観音様みたいで可愛いし。つらくっても明るく生きなよ。りんごの歌みたくな」
玄関の靴をはき、ソフト帽をかぶりながらジョーが真面目顔で告げた。
ジョーは、りんごの歌を唄っている歌手が、並木路子という名前だと教えてくれた。
並木路子は、三月の東京大空襲で、お母さんと一緒に隅田川に飛びこみ、自分だけがかろうじて生き残った経験の持ち主であるとも、話してくれた。
「思いだすと辛いから、並木路子は、ああやって精いっぱい明るく唄ってんのさ」
本人にきいてきたようにいった。
ことによったら、銀座のどこかの舞台に出演した本人に、直接きいたのかもしれない。
ジョーのいうとおり、昼まえに荷台を牽いた馬車がやってきた。
ひろい荷台の木の床には、草花の青い葉が散っていた。
ジョーは銀座界隈のバー、キャバレー、最近はやりのクラブ、そして街頭の花売り娘などに荷台いっぱいに積んできた花を卸していた。
御者の馬方は、自分の尻のうしろにひとかたまりになっていた花を、かのんにわたしてくれた。
「今日は、これっぽっちだけど、ようすを見て増やしていくようにって、いわれてるからな」
首に手拭を巻いた無精髭の馬方は、ジョーの伝言をかのんに告げた。
「ありがとうございます」
花作りの農家の人が育てた本物の菊や薔薇が、自分の店にならんだ。
売らずにとっておきたいほど、きれいだった。
だが、PX帰りのアメリカ人に気に入られ、たちまち売り切れた。
アメリカ人のなかには『ホウモンギ』ということばを覚え、趣味で集めている者もいた。着物の伝統的なデザインの良さを理解しているのだ。
「こんどくるときまで、用意しておいてくれないだろうか」
多少英語が話せるようになったかのんに告げていく者がいた。
ときどき食べ物と交換するために、訪問着をもってくる者がいた。
だが、うまい具合に手に入れられるかどうか、それはわからなかった。
体力に似合わず、大家さん夫婦は、売るほどの食料を仕入れてきた。
そしてかのんの話をきいた夫婦は、ホウモンギの古着を何枚も集めてきてくれた。
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一息ついたとき、かのんは服部が恋しくなり、最後に寄ったという八丁目の未亡人の家にいってみた。
道は、三丁目から新橋の方向にまっすぐだった。
八丁目の掘割の川沿いには、バラックがならんでいた。
すべて女たちの家だった。集まって住んでいるのである。
噂にきいてはいたが、かのんは服部のお得意の家が、娼婦たちの巣窟だとは知らなかった。
かのんは服部の名前をだし、特攻未亡人の家を探しあてた。
とにかく、どんな話をしたのか、ただそれだけが知りたかった。
特攻未亡人は、娼婦のボスだった。
服部が建てたというそのバラックの家には、十人ほどの若い女がいた。
家の隅には服部が売ったとおぼしき俵が立てて置かれていた。
ボスは裾の長いスカートを太股までめくり、丸椅子に腰をおろしていた。
太股には、特攻をあらわしているのか、三つの桜の花の刺青が彫られていた。
まだ二十三、四歳の若さだった
未亡人は、猫のような目で、かのんを見つめた。
「わたしはサクラのマキっていうんだよ。服部さんの妹さんなら知ってるよ。あんた、かのんていう名前だろう。ほんとうに観音様みたいな優しい顔してるねえ。いつも話してたかy。だけど、服部はちかごろちっとも顔をださないじゃないか。米はいいから、なにかほかの食べ物もってきなっていいな」
「もう、服部はいないんです。死んだんです。ここで米を売った帰り道、強盗にピストルで撃たれ、荷物も金も奪われました」
「死んだ?」
サクラのマキさんは首をのばし、剃り落とした薄い眉をしかめた。
そうかい、としばらくして肩の力を抜き、つぶやくようにいった。
「それであんたは、食えなくなって、噂にきいていたここにやってきたっていうのかい?」
まわりにいた若い女たちが、かのんに視線を集めた。
そこにいる娘は、みんな身寄りがない。
上野にも有楽町にも新橋にも、たくさんの娘がいた。
かのんだって服部とめぐりあえなかったら、彼女たちの仲間になっていたかも知れない。
「あんた、いくつだい?」
「十七です」
「ちょうどいい歳だね。うちにも十七の娘が三人いるよ」
「ちがうんです。わたしは服部が、ここで最後にどんな話をしたのか、ただそれを知りたくてきたんです」
「最後にどんな話?」
サクラのマキさんは、太股に置いた手を上下になでさすり、ちょっと考えた。
「そうだ、特攻は犬死じゃないって、怒ってたよ」
そういいながら、サクラのマキさんは腕を組んだ。
「あいつね、わたしが、特攻隊は犬死だった、っていったら怒ったんだよ」
そういって、きらきら光る目で、かのんを見つめた。
かのんは特攻隊が犬死だったかどうかんなんて、考えたこともなかった。
でも、結局日本は負けてしまった。
そしていまわかっているのは、負けてみれば圧倒的な負けだった、というみじめなほどの現実だった。
戦争のさなかには、もろもろのできごとが勝利にむかっているのかという疑問が、頭をかすめないでもなかった。
B-29が頭上を飛びまわるその隙をつき、町会長を中心に町の婦女子たちが集まり、校庭で竹槍の訓練をしていた。
こんな戦国時代のような真似をしていて、ほんとうに勝てるんだろうか、と疑問をもった。だが、そんな一言はだれも口にしなかった。
服部も、ときどきそのへんについて自分の意見をいっていた。
「日本は真珠湾攻撃から半年もしないうち、決定的な負けになっていた。アメリカははじめから勝つ気で戦争をしていたんだ。B-29なんか、設計から考えても三年や四年でできるものじゃない。あらかじめ、長距離を飛んでいって日本を爆撃するという意図が前からあったんだ。物量から見たって、アメリカの勝利は明白だった。なんで真珠湾なんかに攻撃仕掛け、わざわざアメリカと戦争したんだろう。ふしぎだよなあ」
首をかしげ、エンジニアらしきもののいいかたをした。
しかし、特攻隊が犬死だったかどうかなどの感想は、口にしなかった。
「サクラのマキさんは、どうして特攻隊が犬死だった、と思うんですか?」
かのんはきいてみた。
サクラのマキさんはちょっと背筋をのばし、きゅっと唇を噛んだ。
「こういう話は、もうあんまりな口にしたくないんだけど、あんた真剣そうだから答えてやるさ。わたしの旦那はね、特攻隊の隊長で中尉だったんだよ。仲がよかったからいろいろなことを気楽に語ってくれた」
まわりに集まった女たちが、だまってきいていた。
「あの人は、フィリピンのマバラカットから飛び立って、レイテに散った。はるばるわたし宛に、日本に帰る友人に手紙を託してきた。戦艦に体当たりするってね。いってくるって、笑顔の写真同封してさ。結局、レイテ島の戦いは日本が負け、島はアメリカ軍に取られてしまった」
サクラのマキさんは、太股に置いた手をぱんぱんと叩いた。
太股の内側に刻んだ白い肌がふるえ、サクラの花びらもふるえた。
「予科練帰りのお兄さんが、航空服着て愚連隊になってそこらで暴れまわっているだろう。特攻で行くつもりですっかりその気になって覚悟をしてたら、戦争おわりーいって突然いわれ、ほんとに終わっちゃった。故国のためだと必死に自分にいいきかせ、ようやくその気になったのに、なんだいって──。怒りのもっていきようがないんだよ。先にいってしまった戦友にだって、なんていっていいかわからない。同時に戦争が終わってみたら、あの戦争のばかばかしさみたいなものが、堰を切ったように押し寄せてきた。ばかやろーって叫んでも、だれにむかって叫んでんだか、本人にもよくわからないんだよ」
「鬼畜米英からだが、いまじゃカムカムエブリボデイだもの」
長い髪をリボン巻きにした一人が口をはさんだ。
「くやしいんだよ、わたしは。あの人をむざむざ特攻にとられてさ。服部が死んじゃったら一人でどうすんだい?」
いきなり思いだすように、かのんに聞いてきた。
「花を売ります」
かのんがとっさに答えた。
「花売り娘か」
「そんなもの売らないで、からだを売んな」
「あたしたちは、御国のためにもなってんだよ。銀座界隈のなんとか商業連合会とかの偉い人がきて、GIを相手にしているあなたがたがいるから、一般の娘さんが安心して暮らしていける。あなた方フ女子挺身隊女子挺身隊《ふじょしていしんたい》だ、なんてみんを集めて挨拶していきやがった。大真面目な顔してね」
「サクラのマキさん、あなたの旦那さんはほんとうに特攻でいってしまったんですか。その瞬間をだれか見ていたんですか」
サクラのマキさんは、この娘はなにをききたいんだろうという目で、かのんを見かえした。
「一ヶ月後に、東京で戦死通知をもらったよ」
「でもレイテは南の海だったんでしょう。もしかしたら、エンジンの不調でどこかの島に不時着してるってこともあるでしょう?」
「あんた、特攻の女房みたいな言い方をするじゃないか。特攻の女房には、もしかしたらって、そんなふうに考える者がいるんだよ。ありえないけどさ。でもほんとうにひょっこり帰ってきたらうれしいね。あの人なら、こんな仕事をしているわたしを見ても、仕方ないだろうっていって怒らないと思うな。ああ、ほんとうに帰ってこないかなあ。会いたいなあ」
サクラのマキさんは刺青のある白い股をひろげたまま、顎をのけ反らせ、天を仰いだ。
4
ジョーは約束を守ってくれた。
毎日、花を積んだ馬車がきて、いろいろな花を卸してくれた。
無精髭の馬方は金次郎といって、花を育てている農場の主だった。
「あなたは花屋にむいている」
金次郎は、花を抱え、観音様みたいな頬で微笑むかのんを見、そういった。
かのんは花に囲まれたとき、幸せな気分になった。
ガラスの温室ハウスで育ったという薔薇や季節はずれのチューリップや向日葵、そして自然の畑で咲いたコスモスが寂しげでいとおしかった。
いろんな花に囲まれていると、お父さんやお母さんやどんぐりさんやどんぐりさんのお父さんやお母さん、みんなと一緒にいる幸せな気分になった。
服部が作ってくれた平台の上に、水の入ったバケツを五つほどならべ、花を入れる。小さな花園のように台の上に花が盛りあがる。
花屋と呼べるような規模ではなかった。
それでも銀座界隈で唯一の花の店だった。
PX帰りのアメリカ人ばかりではなく、日本人たちも買っていった。
焼け出された灰色の世界で必死に生きてきた人たちの心を、花がほっとさせていたのだ。
花の台のとなりには、GIやアメリカ人用に和服が、茣蓙の上に畳んでならべられていた。
こっちはお客さんがくると、大家さん夫婦が手伝ってくれた。
以前、夫婦は松井歯科医院の裏に日本家屋を建てて住んでいた。
しかし、家は戦災で焼け、いまもそのままである。
土地もちの素封家で、財産は焼けるまえに奥さんの実家に預けてあった。
息子が帰ったら家を建てたい、が口癖だった。
だが、残っている二人の息子は、いつまでたっても復員してこなかった。
夫婦は踊りの師匠さんだけあって、着物には詳しかった。
いい物を知っていたので、アメリカ人もいい物を知っている金持ちのアメリカ人の客がついた。
そのなかには、GHQで仕事をしている将校もいた。
当然、通訳はかのんである。毎日英語を話し、同時に勉強もしていたので、あっというま、英語が上達した。
GHQの将校はジェームスといった。
ジェームスは二十五、六で若かったが、空軍の大尉だった。
大尉はかのんに興味をもった。
一見、陽気で楽しげだが、日本人を馬鹿にしている低脳のGIたちとはちがい、いつも落ち着いていた。
かのんを誘ったときも、強引な真似は見せなかった。
NOといったら、そのうちね、とやんわり退いた。
ジェームス大尉は、首から金のネックレスをかけていた。
そのネックレスには、赤い小さなものがぶらさがっていた。
「これは母親からプレゼントされたお守りのルビーだ」
かのんの視線に気づいたジェームス大尉が説明した。
「ダイヤモンドよりも高いものなのですか?」
「ダイヤモンドよりも高いよ」
ジェームス大尉は答えた。
ジェームス大尉が帰ると、かのんは自分の部屋の服部のお骨の前に立った。
四角い箱に入った服部のお骨のすぐ横に、紙のお捻りが置かれていた。
なかには、サクラのマキさんと、米一俵で交換した一粒の宝石が入っていた。
死の直前、息絶え絶えに、服部がかのんに差しだしたものだった。
服部はそれをルビーだといった。
かのんは、藁半紙の包みを左掌のうえに置き、そっと開けてみた。
真っ赤な楕円形の石がでてきた。
透明な血がへばりついているかのようだった。
かのんの細い小指の先にも満たない、裸の石だ。
かのんは台所のバケツの水を柄杓で汲み、宝石にぽたぽた垂らしてみた。
血は滲まなかった。
かのんはルビーを指にはさみ、出入り口から太陽に透かしてみた。
透きとおった真っ赤な色だった。
「武志兄さんの神聖な血がしみこんでいる」
かのんはつぶやいた。
もし、この石がダイヤモンドよりも高いものなら、これを売って店を建てよう。
そうすれば武志兄さんのことも、いつまでも忘れられないでいられる──
5
かのんは、そんな小さな石で店が建つかどうかなど、なにもわかっていなかった。
だれに頼んだらいいのか、と考えたとき、白い背広の花売りのジョーを思いだした。
店番を大家さんに頼み、かのんは有楽町のジョーの事務所を訪ねた。
ジョーは革張りの大きな椅子にのけぞり、目を閉じてレコードを聴いていた。
りんごの歌だった。
女子事務員が声をかけると、ぱっちり目を開けた。
そしてそこに立っているかのんの姿に、おっ、とおどろき声をあげた。
「めずらしいなあ。よくきたなあ」
いつ話しても、かのんには白人の顔の日本語がしっくりこなかった。
かのんは、まず、花の仕入れの礼をいった。
そうしてから、提げていた小物入れからハンカチに包んだルビーをだした。
服部が死ぬときにくれたものだと説明した。
「これを売りたいんです」
「ほー」
ジョーはルビーをうけとり、指にはさんで透かし見た。
「おれにはわからねえけど、なるほどこりゃあ、血の色だな。まあ、まかしときな。宝石を扱っている男を知っているから、きいてみてやるさ。これ、高いものなのか?」
「わかりません。もしかしたら、ただの赤い石かもしれませんけど、進駐軍の将校さんにきいたら、ルビーはダイヤモンドより高いっていってました」
おい、とジョーは女事務員に声をかけた。レコードが終わったのである。
ふたたび軽快な前奏がはじまり、明るいメロディがながれた。
三日後、ジョーがバックをもって現れた。
ソフト帽を被った頭をちょっと下げてバラックのなかに入ってきた。
「おどろくな」
挨拶もなく、いきなり大きく目を見開いた。
バックの口を開け、逆さにすると、中身がぼとぼとと畳みの上にこぼれた。
札束だった。
「ほんとにあれは血の色なんだとよ。ただし鳩の血だ。ピジョンブラッドといって、ビルマの険しい山のなかでしか採れんもので、しかも二カラットもあったそうだ」
なにがあっても他人事のようにすましているジョーが、すこし興奮していた。
「さあ、これ、どうする」
「店をつくります」
かのんは即座に答えた。
「これは武志兄さんからの贈り物です。それに、いくらあるか知らないけど、半分はもとの持ち主のサクラのマキさんにかえします」
八丁目の堀端に建ちならぶバラックを、かのんは思いだした。
●5章終
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