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1 空から手紙が降ってきた

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梨畑なしばたけをつっきって、真っ白なアスファルトの道がのびてきた。
一直線の舗装ほそう道路は、棚状たなじょうに枝をひろげた梨の木を五、六本残したむこう側まできて止まった。
それまでせわしなく動きまわっていたブルトーザーやトラック、白や黄色のヘルメットを被った男たちの姿がどこかに消え、あたりは静寂せいじゃくにつつまれた。

すでに老人ホームは立ち退きがきまっていた。
すこしはなれた森のなかへ移転するのだ。だが、建築工事が遅れていた。
梨畑をきりひらいて造られた新しい舗装道路。
その上に、真夏の青い空がひろがっていた。
遠くに、入道雲が三つ。大きなこぶをふくらませ、地上から湧きたっていた。
せみの声がきこえていた。

青空にかすかな爆音がこだました。
大型の双発エンジンの飛行機だ。
入道雲すれすれに太い銀色の胴体を光らせている。
つばさを傾けながら旋回しようとしていた。近くの自衛隊の航空基地の練習機だった。
空は高かった。

『かのん』さんは老人ホームのロビーで車椅子に座っていた。
子供の頃から、ずっとおかっぱ頭だ。
髪の毛が薄く、ふんわりと柔らかだった。
頬がふっくらしてなめらかで、いつも観音様のように明るい笑みをうかべ、微笑んでいた。
だから、『かんのんさま』みたいだから『かのん』というあだ名がついた。


ロビーには大きな窓があった。
てんてんは目を凝らした。
大型の飛行機にむかい、下方から小さな黒い影が舞いあがった。
小型機なのか。鳥なのか。

空襲警報くうしゅうけいほうが鳴っていた。
夜の帝都ていと上空に、アメリカの巨大爆撃機ばくげききB-29ビーにじゅうくが侵入してきたのだ。
ラジオ警報によれば、編隊ではなく、たった一機だという。
「やつらは嫌がらせをしているのさ」
「神経戦ていうやつだな」
一昨日の昼も、昨夜も、一機だけで侵入してきた。

防空壕に避難してきた隣家の歯医者さん。そして出版社に勤めているかのんのお父さん。二人が互いの近眼の眼鏡を光らせ、話しをしていた。
敵は、編隊でないときは一機で、一機でないときは編隊でやってくる。
四六時中、世界一の大都市、東京の上空に侵入し、爆弾を落としていく。
いつ自分のところに落ちてくるか。住民たちは絶え間ない不安感に苛まれた。
それが作戦なのだという。
途切れない空襲警報だ。
東京の住民はアメリカの作戦どおり、くたびれきっていた。

その日は真昼の空襲警報だった。
かのんのお父さんは八重洲やえすの会社まで仕事にいっていた。
お母さんは用事ででかけていた。
隣の歯医者さんの松井さんは医院が銀座にあり、ご主人も奥さんもそっちにいっていた。
かのんはたった一人、隣家と共同で造った防空壕ぼうくうごうにいた。

町にこだます空襲警報。飛行機の爆音が遠くに轟く。
するとその警報と爆音をついて、叫び声がきこえた。
かのんは防空壕のなかで耳をそばだてた。
人の声は、がんばれー、といっていた。
かのんは身をかたくし、耳を澄ました。
「がんばれー」
「がんばれー」
たしかにそういっていた。
しかもその声が、一人、二人、三人と重なっていった。

かのんは、防空壕から這いだし、空を見上げた。
巨大飛行機が飛んでいた。
恐怖のB-29だった。
巨大飛行機は翼のエンジンを唸らせ、まっすぐにてんてんの住む深川のほうにむかっていた。高度はかなりあった。
そのB-29に、低空を飛んでいた一機の戦闘機が、下方30度くらいの方向から、いましも一直線につっこんでいこうとしていた。

がんばれーの声援は、その戦闘機にむかっておこっていたのだ。
爆撃でやられるかもしれない危険を忘れ、戦闘機を発見した住民たちが、思わず歓声をあげていた。
小さな豆粒のような飛行機の両翼に、赤い丸が見えた。日の丸である。
飛燕ひえん
244によんよん戦隊……」
「どんぐりさん……」
かのんは三度息を飲み、つぶやいた。

襟章えりしょう赤星あかぼし一つの十九歳の下士官かしかんだ。
松井一郎伍長殿になったどんぐりさん。二ヶ月ぶりの休暇でもどった。
そのとき、かのんにこうにいった。
「もし敵の侵入する高度、進路がわかれば、こっちも一発必殺の対応ができる。いいか、こうだろう……」
左手を水平にあげ、下にかまえた右手の平を斜め上に直進させる。そして手先から左手にぶつけていった。
「敵の線とこっちの線が、こうやって交差できれば目的が達成できるってわけだ」
自分ならできる、自分はそうするんだ、といっているようにきこえた。
「な?」
かのんを説得するかのごとき、どんぐりさんのいたずらっぽい目だ。、
でも、いつになく真剣だった。


空襲警報が鳴り響く東京の空。
どんぐりさんが説明したとおりの光景だ。
それが、いま、かのんの見ている上空で展開されていた。
銀色に輝く巨大なB-29にむかって、豆粒の戦闘機がつっこもうとしている。
どんどん近づく。
水平直線と下方30度の直線が、いまにも交差しようとしていた。

銀色の翼の陰に、豆粒の戦闘機が隠れた。
B-29の左の翼が、閃光せんこうを放った。
翼からふうっと煙がこぼれた。
B-29は、ぐらりとゆれた。
そしてレールからはずれた電車のごとく、がくんと速度を落とした。
わずかに向きを変え、東京湾の方向に飛び去ろうとする。
翼から吐きだされた煙が、太く濃くなった。

「やった。やった」
「ばんざあーい」
「ばんざあーい」
あちこちから歓声があがった。
豆粒の日本の戦闘機は、どこに消えたのか──。
青い空のどこにも見当たらなかった。
巨大飛行機のB-29のなかにのめりこんでしまったのか。
あるいは、体当たりの瞬間、粉々にくだけ、空中に飛散してしまったのか──。

どこを探しても、そこには高い空があるだけだった。
B-29が残していった煙が、灰色の帯になって漂っているばかりだ。
「どんぐりさん……ほんとうに……あなただったんですか」
「どんぐりさん……どんぐりさん」
十六歳のてんてんは、薄い髪のおかっぱ頭をふりあおいだ。
頭上の青い空に、目を凝らした。


自衛隊の練習機は、入道雲の右側の方向に飛んでいった。
小型機だったのか、鳥だったのか。
小さな影は、青空のどこかに消えてしまった。
てんてんは、老人ホームのロビーの車椅子に座って窓を見あげていた。
クマゼミが鳴いていた。
かのんはおかっぱの頭を動かさず、空中の一点に目を凝らした。

青い空から、点のようなものが落ちてきたのだ。
太陽の光を浴び、風に乗って左右にひるがえった。
かのんは両手を合わせ、息を飲んだ。
点は、落下しながら震え、大きくなった。
一枚の紙だった。
ゆっくり右に左に舞う。かのんをじらせる。
まるで、悪戯いたずら好きのどんぐりさんの仕業しわざのようだ。
一枚の紙は老人ホームの窓を目指し、落ちてきた。
そして最後に、窓ガラスにぴたりと貼りついた。
そこには、文字が書かれていた。てんてんにはそれが見えた。
かのんは声にだし、文字を読んだ。

『かのんさんへ お父さんへお母さんへ そして皆様へ
私は本日出撃いたします。
話していたように、見事に体当たりを果たし、敵機を撃墜いたします。
名誉ある一瞬です。自分を今日まで育ててくれた皆様のお陰です。
かのんさん、お父さんお母さん、かのんさんのお父さんお母さん、
私を一人前の操縦士そうじゅうしに育ててくれた多くの方々、
飛行第244戦隊の皆様方、
私をきびしく指導してくれた小林戦隊長殿、
私はこの日この時を、どんなに心待ちにしていたことでしょうか。
いまこうして、無事に御国のために尽くせることを、
皆々様方に深く感謝いたしております。
かのんさんもきっと、本日の私の活躍を目の当たりにすると思います。
私は誇りでいっぱいです。
私は本日、遠くへいってしまいますが、
かのんさん、あなたのことはいつまでも忘れません。
でも、どんなに遠くへいっても、
私はかのんさんの心の中にいます。
約束どおり、いつかあなたを迎えにいくでしょう。
私を忘れず、そのときを待っていてください。
私の分まで長生きしてください。
さようなら。
昭和二十年三月八日、どんぐりこと、飛行第244戦隊 松井一郎伍長 』

かのんは、車椅子に座ったままふりかえり、看護師を呼んだ。
「いまあそこに紙が落ちてきて、窓のところについているでしょう。あれを取ってきてくださいな」
白い前掛けをつけた若い看護師は、おかっぱ頭のかのんさんが指さす正面の窓に目をむけた。
ガラスをとおし、青い空と雲が見えるだけだった。
紙などどこにもなかった。
ただ、青桐あおぎりの大きな葉が、太陽に照らされていた。
白く光り、窓のさんにひっかかっていた。
                   ●1章終
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