はるばるサムライ 江戸時代の初め、ミャンマー西国の王に仕えた四十人のサムライたち

花丸 京

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5 赤目のマリが七歳になった

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マリが庭を駆けまわっていた。三十メートル四方の中庭である。
マリは、聖母マリアの名前からとった。長い髪をうしろで結い、赤い花柄の着物を着ている。
ダンマ王の護衛隊の副隊長、次郎吉の妻であるおそでが縫った和服である。着物から、むっちりした小さな足をのぞかせ、せわしくすそを乱している。

「はやい、はやい」
妻のサディが廊下に出て、手を叩き、喜んでいる。
サディは、黒髪に、白い野の花のかんざしを飾っている。
マリは、きゃきゃっと声をあげ、いっそう手足を速く動かす。
マリは、ダンマ王とミャンマーの王女の娘との間の子である。
男の子のように逞しい生命力を発揮している。血筋はあらそえぬのか、じっとしているおっとりした気品が漂った。今年で七歳になる。この七年のあいだ、ヤカインの国は穏やかだった。日本人村も平和だった。

船大将の茂七もしちが乗り組んだ又兵衛の船は、マラッカまで出向き、ポルトガルやオランダの船に、綿布、鹿革や鮫皮、そしてルビーなどを売った。
鹿革や鮫皮は、そこから日本にむかうオランダの船に積まれる。
マラッカからの帰途、茂七の船は、支那しな陶磁器とうじき類などを積み、ムラウーで白人の貿易商人に売った。

また、アユタヤでルビーの情報を仕入れた丸顔の八右衛門はちえもんが、三人の部下をつれ、直接ミャンマーのモゴック鉱山にでかけるようになった。
ルビーやサファイアの仕入れは、半月ほどの旅になった。
もちろんヤカインの商人も宝石を仕入れていたが、眼のよい八右衛門が買い付けてくるルビーやサファイアは特別な色とつやと輝きを放ち、利益が大きかった。ルビーなど宝石類の輝きが大好なダンマ王は、献上けんじょうしたルビーを喜んで受け取った。

また、腕に覚えのある者が竹細工などの工芸品を造り、市場で売った。
日本人村は豊かだった。
ムラウーまでの旅の途中で仲間になった、十六名ほどの日本人は、小さいながらみんな家をもった。切支丹や船乗りや元奴隷たちである。
王宮の警護や船で働く水夫や商人、大工、雑貨物を作る職人以外の者は、農園などの雑役で働いた。
そして独身の男は、現地にいた数人の日本人女性や地元の女性を妻にし、それぞれに家族をもった。
日本人村ができると周囲の未開の開墾地に現地人たちが高床式の簡単な家を造り、住みつきだした。そして、日本人村の畑仕事などを手伝うようになった。
人生の大半を争いごとに明け暮れてきた又兵衛たちサムライには、信じられない平穏さだった。

満ち足りた生活に足りないものは、教会だけだった。外国人の町に小さな教会があったが、日本人村に自分たちの協会が欲しかった。
教会の建設は、宗教的な施設になるので、王の承認が必要だった。申請すれば、許可がでるであろことはわかっていた。
だが、又兵衛は慎重だった。王は寛容かんようだが、住民のなかには、白人の宗教に不快を表す者も多かった。


「いずれ、機会をみて教会を造ろう」
又兵衛は、椰子やしの木のある庭を駆け廻るマリの姿をながめながうなづく。王の部屋での警護を終え、帰ってきたばかりだった。
「おとうさん、おかえりなさい」
庭つづきの内門のまえに立った又兵衛の姿を見つけ、マリが走ってきた。
又兵衛は大小の刀の柄を外側にずらし、跳びつくマリを抱きとめた。

マリは日本語や、母親が口にするミャンマー語も、そして地元の人たちのヤカイン語も話した。七歳とは思えぬ利発さだった。
「わたしは、どうして、こうやってはしりたくなってしまうんだろうか? サムライの子だから?又兵衛に抱きつきながら、マリは、大きな瞳を輝かせた。瞳の奥のほうには、小さな点があった。

いくら隠しても、箱入り娘の存在はすこしずつ外に漏れる。
マリが三歳のころ,又兵衛は先手を打ち、めかけの子を育てている、と噂をながした。外に出さず、大事に育てているんだと、れもが納得し、それ以上は詮索しなかった。
みんなは日本人の切支丹きりしたんの頭として妾をもち、子供を産ませたことが恥ずかしいのだと勝手に解釈した。

実は又兵衛は、一時の感情にとらわれ、マリを育てた危惧きぐにつきまとわれていた。
下手をしたら、一族の運命を左右するかもしれなかったのだ。
しかし可愛いマリを、いまさら自らの手でほうむり去るような真似はできない。
又兵衛が受けとったとき、赤子はすでに窒息ちっそくさせられていた。チョチョは自分の手で赤子の命を絶ち、それを又兵衛にわたしたのだ。

まさか息を吹き返したなどと、呪術師じゅじゅつしのチョチョもダンマ王に考えてもいないだろう。心配することはない、安心していいのだ──。
とは言うものの、マリの姿を目にするとき、又兵衛は喜びの陰にひそむ緊張を強いられた。

しかし、ちょっとした異変を又兵衛は感じとっていた。
昨日と一昨日、家の外の通りで、見知らぬ同じ人間に二度、出遭った。
昼間、日本人村への人の出入りは自由だ。もの珍し気にうろつく者も時々見かける。
いまさっき帰宅したとき、門を入って玄関にむかおうとした又兵衛の背後の通りを、人がとおりすぎた。
その者が放つ、針のような気配。長年、白刃をかざし、生か死を賭してきた者の感受性が反応したのだ。
だが、過剰反応かもしれなかった。

「やはり見捨ててはおけぬ……マリ、ちょっとまっていろ」
又兵衛は、抱えていたマリをおろした。
妻のサディが、草履をはいて庭を横切ってこようとしていた。
「サディ、ちょっと用を思いだした。すぐにもどる」
そういって又兵衛は庭を横切り、内門の引き戸を開けた。
横口から玄関を通り抜け、門番に一言声をかける。
村の通りに出た。

日本人村は竹垣が巡らされている。
村のなかで土壁に囲われている家は、頭の又兵衛の屋敷だけだった。
男は、土塀の日陰に腰をおろしていた。
腰巻にえりなしの上着だ。まだ若く、たくましそうだった。ここ何日かで見かけた男だ。
又兵衛は部下を呼ぼうかと一瞬迷った。だが、一人で対応することにした。

マリの秘密は、妻のサディも、副隊長の次郎吉も、身近な部下も知らない。
みんな、又兵衛が密かに囲っているめかけの子だと思っている。又兵衛が自分から言いださないかぎり、マリはお頭様かしらの娘なのだ。

男はあきらかに素人しろうとだった。さっきすれ違った又兵衛がちかづいても、反応を示さなかった。なにかを聴き取るかのごとく、しゃがんだ姿勢で耳を澄ましていた。
又兵衛は男の横まできて、歩む方向を急に変えた。同時に小刀に手をかけた。
小刀を手に、目の前に迫ったサムライに、男はあんと口を開けた。
人目につかぬよう又兵衛はからだを寄せ、男の喉に白刃を突きつけた。

「だれに頼まれた」
まさか後宮に住む、呪術師のチョチョではあるまい。
又兵衛は、赤子を預かったときの、重苦しい沈黙の場面を思いだした。
「なにをですか?」
開いていた男の口がさらに大きくなった。
「なにを頼まれた」
この男……勘違かんちがいいかもしれないと一瞬、思った。

「知らない男だ。金をもらった」
が、男はあっさり答え、喉に突きつけられた白刃をじっと見た。
「ほう……それで、なにが知りたいんだ」
「この家に、小さな女の子がいるかどうかだ。この目でたしかめたかった」
男は、なんの躊躇ちゅちょもなくしゃべった。

又兵衛は抜いた小刀を腰のさやにもどした。
なんだ、そんなことか、という所作のつもりだった。
「それで、おまえの答えはどうなんだ」
「たしかに女の子がいる。笑い声が聞こえた」
男は手の甲で首筋の汗を拭った。
「わたしの大事な一人娘だ。大きくなるまでは外に出さない。妾に産ませた子だ。娘が大きくなって婿むこをとったら、その男があとを継ぐ。外にはださないが、娘は秘密でもなんでもない」

しゃべりながら、その知らない男とやらの正体を探らねば、と当然のごとく考えた。
「おまえに頼み事をしたその男は、いまどこにいる。仲間はいるのか。娘をさらってこのわたしから身代金を取ろうとしているのか」
「おれは金を貰っただけだ。詳しいことは知らない。だが、おれに金をくれた男は、波止場のはずれの古い見張り小屋でおれの報告をまっている」
「一人か、仲間といっしょか?」
「一人です」


見張り小屋には以前、川の上り下りの船を確認する役人が出張していた。
が、場所がほかに移り、いまは廃墟はいきょだ。
「おまえはここでどんな仕事をしている。家はどこだ」
男は人足町に住んでいた。船の荷物を扱う労働者たちの家が、王宮内の市民の町とは別に波止場の隅にならんでいる。住民はすべて地元の人たちだ。

「その男はきっと人攫ひとさらいいを企んでいる。わたしから大金をせしめようという魂胆こんたんだ」
へえ、と人足はうなずいた。力仕事をこなす荷沖人のごとく、腕にりゅうとした筋肉をのぞかせていた。頼まれた仕事をやっているだけの、ごく単純な男のようだった。
「捕まえてらしめなければならない。そいつはどこの者だ?」
「この土地の人間ではないような気がする」
人足は、他人ひとに知らない道を聞かれたように首を傾げた。

背後に後宮の呪術師、チョチョがいて自分が疑われているのか。
王に対する不忠実が露出すれば、ただではすまない。
部下にこの男を消せ、と命じればたちまち任務をこなしてくれる。
そして、又兵衛が語らないかぎり、彼らはなにも聞こうとしない。

部下は巻き込まず、もしものときは自分が腹を切れば済むようにしておくのだ。
戦乱の果てに、ようやくたどり着いた安泰あんたいの地である。
以前、王の護衛隊の隊長として、王に対する不穏分子ふおんぶんしを探りだした経験がある。不穏分子は殺さなければならなかった。
物見の役は、外国にいてもつづいた。王のためだけではない。自分たちの身を守るためでもある。
情報収集は大事な仕事だ。
やらなければならなかった。やるからには、迅速じんそくに人知れずにである。

「おい、その場所にわたしをつれていけ」
又兵衛はふところから金をだし、男に押しつけ
人足と一緒にいくのは、同時にその男を始末したかったからだ。

人足は依頼された男に報告するだけではなく、いろいろ喋るだろう。
「王室の護衛隊長に家には、内緒で育てている子がいる……」
そんなふうに、あちこちで口にする。
謎めいた言い方は人々の憶測をかきたてる。

これを機会に、マリの噂を自分から積極的に町にまくべきである、と又兵衛は感じた。たとえば市場でマリの買い物をし、めかけが産んだ娘だと自慢話をするのだ。
妾は、ここでは力のある男に備わった当然の象徴である。噂が行き届いた数日後、娘の手を引、太陽を堂々と浴びて町を歩く。
人々はマリを又兵衛の娘と信じる。そして娘の秘密はなくなる。
ただし、マリを暗い場所には、立たせられない。

人足と又兵衛は、カラダン川の渡しの舟に乗った。
川を渡り、王宮に通じる道を左に見、外国人の町のまえを通りすぎた。
人足の家がならび、そのむこうに倉庫の棟がつづいている。
倉庫の棟から先は、まばらに椰子が生えている。

川岸が肘のように突き出た場所に、竹の見張り小屋があった。半分家を崩しながらも、屋根にはやぐらが建っていた。
「あそこに眠っている」
男は指さした。
「いいか、まってろよ。礼はたんまりするからな」

「おーい」
人足が声をかけた。
崩れた壁の向こうの床から、人がむっくり頭をもたげた。
が、そこにいるサムライの姿を目にするや、稲妻いなづまを浴びたように跳び起きた。
又兵衛は小屋に踏みこんだ。男はすでに剣を抜いていた。

できれば相手から情報を引き出したかった。
が、その余裕はなかった。サムライの姿を目の前にし、男が猛然もうぜんと襲いかかってきた。
生か死か、どちらかを選ばねばならなかった。
隙を見、又兵衛が踏みこむ。相手を殺すため、自らが生き残るため、刀を振ってきた。
男は一刀のもと、袈裟けさ斬りで絶命した。

又兵衛は人足を呼んだ。人足は、ふるえながら小屋の奥に歩んできた。
「この男か」
そして腰をかがめ、おびえた目をまばたきながら死体を覗いた。
「はい」
「どこの者だ」
「どこの者かはわかりません」
「悪さをする流れ者か?」
「もしかしたら」
「ほかに何か知ってるか」
「いいえ、なにも」

再び、又兵衛の剣がひらっめいた。
二つの遺体が転がった。
襲いかかってきた男の懐を探ってみた。布に包まれた金と、汗を拭く手拭がでてきたきりだ。
どこかに宿をとっているのか、小屋のなかに荷物らしきものはなかった。
その男もだれかに頼まれ、そこにやってきただけなのかと憶測した。

辺りに人影はない。急がなければならなかった。
床は、いだ太い竹でできていた。床をめくり、剥いだ竹をすきにし、穴を掘った。        
掘った穴に二人の死体を投げこみ、土をかぶせた。汗が噴き出した。
返り血と泥をあびた衣服とからだを川で洗った。
裸になり、衣服を草の上に干すと、ふたたび小屋にもどった。

又兵衛は、半ば崩れながら建っている小屋の上のやぐらに登った。
櫓は椰子の葉陰になっていた。ふんどしいっちょうのからだに、川風が心地よかった。
又兵衛は、櫓の上の日陰で衣服の乾くのをまった。

カラダン川の茶色の帯状の流れが、下流の広大な穀倉こくそう地帯をうるおす。
川は終点のベンガル湾に注がれる。
男が何者であったのかは、わからない。斬り合いをしながら、何者か、という問いかけもできなかった。
相手を殺さなければ、自分がやられた。何度も経験した殺し合いの瞬間だった。すこしでもひるめば、自分がやられるのだ。

人足も巻き込まなければならなかった。心苦しかった。
生ぬるい物見だった。これはダンマ王でも呪術師のチョチョでもないだろう。
やり方が安易すぎる。
単純に日本人村の頭の娘を狙った人攫ひとさらいとしか考えられなかった。


外国人町の外側にひろがる港には、各国の外国船が停泊していた。
ポルトガル、オランダ、スペイン、イギリス、フランス、そしてマレーやインド商人の船などである。
又兵衛は半月ほどまえ、そのなかのオランダ船の水夫の話を思いだした。

又兵衛の部下がその聞きつけ、本人に又兵衛の屋敷まできてもらった。そして、集まったみんなに詳しく話してもらった。
オランダ人の水夫によれば、武装した日本人が高山国たかやまこく(台湾)を攻めたという。もう、十年以上も前の話である。
高山国は、長崎代官の命令で、又兵衛たちが征服しようとしていた国だ。

勇ましく攻めた日本人たちだったが、高山国の蛮族ばんぞくは強かった。
日本人たちはたちまち追い詰められ、逆襲された。そのときのサムライの大将の名前が、カモンサマだった。
カモンサマは、あきらかに明石掃部あかしかもんであり、又兵衛が仕えていた殿様である。
最後は全員が追い詰められ、滅ぼされた。

何隻が高山国に着いたのか、そして兵力はどのくらいだったのか。
とにかく、たいした数ではなかったらしい。
サムライたちは、全員が討ち死にしたという。
あの嵐のなか、十三隻の船のうちの何隻かが高山国に着いたのである。
又兵衛の殿様、明石掃部とその部下たちの乗った五番船も、そのうちの一隻だった。

オランダ人の水夫は、オランダ船が島の端の港に寄ったとき、その話を聞いたという。
「殿様はパライソ(楽園)を求め、討ち死になされたのだ……」
又兵衛は、きらめくカラダン川の川面にむかってつぶやいた。
悲しく辛い、試練ばかりの一生を垣間見た気がした。

風が吹き、椰子の葉がゆれた。
眼下の草の上にならべた衣服が、ゆらりとうごめいた。
又兵衛は、やぐらからおりた。
乾いた衣服をつけ、帯をしめ、刀を腰に差した。
又兵衛は廃墟はいきょの見張り小屋をあとにした。

外門から王宮にむかう道に入り、すぐ左に曲がった。
市場だった。ムラウーの主な市民は王宮の建物の裏側に住んでいた。
市民の数は二十万ほどである。かなりの規模だった。 
王宮の正門はそちら側にあり、民家の連なりの背後の丘に城壁がひろがっている。

市場は人であふれていた。
中央の通路から横路が別れ、横路からさらに路地に別れ、大小の店が軒を連ねていた。
それぞれの路で露天商がむしろや竹製の台の上に品物をひろげ、商いにはげんでいた。
どこも明るい笑い声に満ちていた。人々の話し声は活気にあふれ、手毬のごとく、元気にはずんでいた。
町の市場の賑やかさは、国の豊かさである。
そんな民衆の姿を見ると、シリアムの副知事のセンチョウに誘われ、ラカインの国にきてよかった、と又兵衛は微笑む。

「サムライの親方、こんにちは。お一人ですか」
すぐに声がかかった。だれが眺めてもサムライはサムライである。
サムライが王宮で王の護衛をしている事実を、みんなはよく知っていた。
祭りや法事などで王が外に出たとき、いつも側についているからだ。 

「子供の服をもらおうか。その赤いのがいい」
「お頭様には、お子さんがいらっしゃったんですか」
服屋の主が聞く。
「一人ね。外の女性がわたしの子を産んでくれてね。女の子だ。元気すぎてこまる」
この言い方でいいかなと思いながらも、知らぬうち、笑みがこぼれていた。
「それはそれは。子供は元気がなによりです」

又兵衛は、そんな会話をあちこちで交わした。
つぎは、マリの手を引いてやってくればいいのだ。
ひらひらした子供の衣服や小さな人形などの土産物を、買ったかごに入れたとき、背後が騒がしくなった。

白い衣服に身を包んだ初老の女性だった。
お供の若い女性を三人つれている。細身で、骨ばった顔。くっきり頬骨ほほぼねがでている。小さな目だ。
だが眼光がするどい。後宮の女官であり、呪術師でもあるチョチョだった。
この国で、呪術師は市民にあがめめられている。ましてや、王宮お抱えの呪術師だ。まるで仏陀の出現のごとく人々が手を合わせた。

サムライの姿は目に付く。又兵衛のまえを通りすぎようとしたとき、チョチョの骨ばった顔が横をむいた。
又兵衛はみなと同じように手を合わせた。
瞬間、チョチョがサムライ姿の自分に視線をむけた。
しかしその目の色には、なにも存在していなかった。
チョチョは、赤子の始末を任せた又兵衛を忘れてはいないだろう。
チョチョは、ひきつった顔のまま、供と一緒に王宮むかう道に消えた。

チョチョでないならダンマ王か、それともあのとき側にいた坊主頭の総理大臣、ジッタか。
しかし、それなら自分を呼びつけ、尋問する。『娘は殺せといったはずだ。なぜ育てている』と。
では、だれなのか。
やはり見当がつかなかった。


又兵衛は王宮内の市場の路を、外門を潜ってカラダン川のほうにもどった。
カラダン川の向こう岸から、渡しの小舟がやってきた。船頭は、ずっと同じ男である。
「船頭、ちょっと尋ねるが、さいきん、わたしについていろいろ聞こうとしたやつがいたかね?」
日に焼け、真っ黒けの船頭が、きょとんとした。
「お頭様おかしらさま、なんの話でしょう」
困ったような顔をした。
「いや、いいんだ」
又兵衛は、軽くうなずいた。

左右に椰子の茂る通りに入る。
カラダン川をわたるとき、頭上から照りつける太陽と川面に跳ね返る光でからだが熱くなる。
汗は一瞬のうちに蒸発する。
ここは熱帯の国なのだ。
だから椰子林の道に入ったとき、木陰に吹く風にいつも溜息がでた。
その道を左に曲がると、日本人村だ。
門番が又兵衛の姿を見、八右衛門様たちが帰られました、部屋でお待ちですと告げた。

八右衛門は宝石の買い付けの仕事をしている。 
一ヶ月前に三人の仲間と日本人村を出、ミャンマーの奥にあるモゴック山に近い宝石取引の町、アヴァ(インワ)をめざした。
ルビーやサファイアを仕入れ、もどってきたのである。
外国船にもっていけば、十倍二十倍の値段で売れる。
今回もうまくいったのだろう。上質の宝石が手に入ったら、また王に献上けんじょうする。

又兵衛は籠を左手で抱えている。
廊下にマリと妻のサディがいた。
「お帰りなさい。急に、どこへお行きになったんですか。あれから三時間もたちましたよ」
「用はすんだ。マリ、お土産だ」
市場で買った人形と子供の衣服の入った籠を差しだした。
マリに興味をもっている人間は、どこのだれなんだろう──。
              ●5章了

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