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1 赤目の赤ん坊が生まれた
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1
1616年、一隻の貿易船がインド・バングラデシュにちかいミャンマー西域のカラダン川をさかのぼっていた。
ベンガル湾の河口から一日ほどの距離に、ラカイン王国の国際貿易港があった。
ポルトガル人やオランダ人たちは、そこを東洋のベニスと呼んでいた。
その貿易船には、四十人のサムライたちが乗っていた。
大阪、夏の陣で、徳川の軍と戦って敗れた九州の切支丹武士の一団である。
サムライたちは、日本での果てしない戦いで故郷を失い、親や家族を失っていた。
敗戦した豊臣側の武将に率いられ、サムライたちは、新たな平和な地を求めていた。
茶色の流れがうねってつづくカラダン川。
その河口は、広々とした穀倉地帯であった。
所どころ、岸辺にせりだすようにそびえている丘。そこには、金色のパゴダ(仏塔)の尖塔が、誇らしげに青空を裂いて光っていた。
岸辺に散在する村々は、ほとんどがあばら家でである。
しかし農民たちは、のんびりと日々を満喫しているように見えた。
サムライたちは甲板に出て、まだ見ぬラカイン王国の都、ムラウーにときめきと期待をこめ、大きく息を吐いた。
戦国の時代をかろうじて生きぬき、未知のパライソ(楽園)を求めての長い長い旅だった。
それから五年──。
2
ダンマ王は、王の間の玉座でその時をまっていた。
もう一時間ちかく、知らせがなかった。
なにかがあったに違いないという不吉な予感で、王は筋のとおった鼻に皺をよせ、苛立っていた。王の脇には、総理大臣のジッタが控えていた。父のミンヤザ王の代から仕えている大柄の坊主頭の男だ。
閣議のときは大勢の大臣でにぎわう王の間も、いまはジッタ一人である。
大理石のひろい床が、二人の男の沈黙をひんやり受けとめていた。
そしてその二人の背後の壁際には、護衛隊の副隊長、次郎吉が立っていた。玉座からは十五歩ばかり離れた位置である。いつもの任務であり、着物姿である。腰の長刀を鞘ごと抜き、柄を上に、杖のように立てている。
風取り窓からは、外の睡蓮の池の柔らかな陽光が反射し、ルビーやサファイアを埋めた漆喰の天井にさまざまな光の波紋を描いていた。
王の間の入り口に、人影が差した。王の心の不安をあおるように足音がなかった。
後宮の女官であり、王室お抱えの呪術師でもあるチョチョだった。
頬骨の張った顔に、吊り上った目が鋭い。王の従者の案内もなにもない。
チョチョは王の信頼を得ている身内に等しい人間だった。
チョチョは玉座のまえまできてうやうやしく頭を下げると、腰を折った姿勢のままさらに歩み寄った。
「お生まれになりました」
薄い唇から言葉がもれた。
玉座に背をもたせかけたダンマ王の、金糸の刺繍の上着の肩が、かすかに動いた。
「なにがあった?」
「目が赤いです」
「目が赤いだと?」
王は眉をあげ、チョチョを睨んだ。
チョチョも骨ばった頬で王を見返した。
「病気などではありません。ときどき皮膚の白い子が生まれますが、それと同じです。でも、赤い目は不吉のあらわれです」
チョチョは小さく溜息をつき、虚空に目を移した。まるで、不吉の根源の片棒である王から視線をそらすかのようだった。
が、すぐにまた視線をもどし、王の耳元でささやいた。
「即刻抹殺すべきです。そうしないと、王が滅びます」
チョチョは躊躇なくつぶやいた。
「わたしが滅びる?」
男盛りの王の眼が鈍く光った。
「あの子が大きくなったとき、王に大きな災いを……」
か細い声だったが、一言一言、はっきりしていた。
チョチョは、後宮の女官である。同時に、ダンマ王の父親の代から仕えている呪術師でもあった。
地震や旱魃や洪水、そしてミャンマー族との戦争の勝利や、多くのヨーロッパ人たちの訪来を言い当てていた。
先代のミンヤザ王が亡くなり、息子のダンマ王があとを継いだ。七年前である。
「わたしが死ぬというのか……」
ダンマ王は、南国の民族としては珍しく、鼻も高く、眼もくっきりと大きい。その顔がゆがんだ。
「いいえ、あの子が王を殺すというわけではありません。あの子が死をもたらすという意味です」
チョチョはまた虚空に目を据え、薄い唇を引き結んだ。
ダンマ王は言葉を詰まらせ、王座の横に立っていた総理大臣、ジッタに顔をむけた。
胸を反らし、肩幅のひろい坊主頭のジッタが神妙な顔でうなずいた。
「護衛隊の隊長、又兵衛にやらせましょう」
ジッタの頭に、すぐ又兵衛の名が閃いたようだった。
又兵衛は忠実である。そして確実に任務をこなす。
サムライたちは自ら船を仕立て、カラダン川をさかのぼってきた。シリアム(ヤンゴン)から、ベンガルの海をこえきた。
ミャンマーの小都市、シリアムは、ラカイン国の飛び地領だった。
又兵衛はシリアムの副知事にラカイン王国の首都、ムラウーにいくよう勧められた。国は豊かで平和で、寛大な王はサムライたちを暖かく迎えるだろう、と言ってくれた。もちろん、サムライたちについて、手紙で報告をしたうえでの話である。
白人たちの船は珍しくなかった。積極的に貿易をおこない、チョチョの予言どおり、ラカインの国を豊かにした。だが、日本の船は珍しかった。しかも、いままで見たこともない、又兵衛を頭とする四十人のサムライたちが乗っていたのである。
いつしか東の国から異人が現れ、王を守るだろうと、これもチョチョが予言していた。
呪術師のチョチョはさらに告げる。
「後宮の母親は追放すべきです」
ラカインのミンヤザ王は、乱をおこしたミャンマーの新王に援軍の派遣を 依頼された。そして戦いに勝利した証として小都市シリアムを手に入れ、ミャンマー旧王の妃と幼い娘を白象に乗せ、自国につれ帰った。
その娘がラカイン王の後宮で大きくなり、ミンヤザ王の後を継いだダンマ王の子を身籠ったのである。
旧ミャンマー王の血を引くその子は特別だった。ダンマ王は生まれてくる赤子を待ち望んでいたが、生まれるという報告があってからずいぶん時間がたっていた。
現れたのは赤子を抱いた女官ではなく、呪術師のチョチョだった。
ダンマ王には言葉がなかった。逆らう気持ちもなかった。
チョチョはそれだけを告げ、背をむけた。
「次郎吉、又兵衛を呼んでこい」
総理大臣のジッタがふりかえり、太い声で命じた。
王の部屋の周囲には、十名ほどのサムライたちが任務についていた。
だが、王の部屋で護衛しているのは、副隊長の次郎吉だけである。
腰に刀を差した束髪の次郎吉が、ジッタのまえでかしこまった。チョチョやジッタの会話は次郎吉の耳にも届くが、知った内容は決して口にしなかった。
「はい。又兵衛を呼んでまいります」
足音が回廊を遠ざかった。
水鳥がきききと鳴き、羽ばたいた。
王宮には濠がめぐらされ、水草が色とりどりの花を咲かせていた。
王宮のサムライ護衛隊は十名ずつ、四組に別れていた。
四十人は、ムラウーに辿り着いたときの着物姿で、腰に大小の刀を差し、髪を後ろに束ねた束髪である。
実は、そのほかにも日本人村には、十五人ほどの日本人がいた。そのうちの七人は女性だった。全員がなんと、白人商人の手により、この地に売られた奴隷であった。
3
前田又兵衛は、日本人村の頭であり、四十人のサムライ護衛隊の隊長でもある。
呼び出された又兵衛は、ダンマ王と総理大臣のジッタから用件を告げられた。
又兵衛は、ひろい額に真っすぐ横にのびた眉をかすかに寄せ、表情を殺した。
「承知いたしました」
又兵衛は王宮の回廊から、北側の後宮にむかった。
王室の建物から石の渡り廊下をわたると、そこに後宮の門衛が立っていた。
王の用でチョチョに会いにきたと告げると、すぐに石の部屋に案内された。
供もなくチョチが現れ、無言で一抱えの布の包みを又兵衛に渡した。さらりとした手触りの布に包まれ、密やかな暖かさを感じさせる肉塊だった。
チョチョはサムライの又兵衛を睨みつけると、白い衣をひるがし、さっと後宮の奥に消えた 。
王宮は、廻廊状になった四角形の建物だった。同じ四角形の建物が三つ連なり、それぞれの建物と建物は、深い濠と回廊に囲まれている。
王の館がその中心に位置しているのである。
王宮から外に出るためには、警備兵のいる四つの門を潜らなければならなかった。
王宮の外門のまえには、ポルトガル人、オランダ人、イギリス人、フランス人たちの住む町があった。白人たちの家は石や木材を組み合わせ、ラカイン王国の高級役人の家よりも荘重だった。
外国人町に面した湾には、カラダン川の港がひろがっている。
その水面には、低く木々の茂る小島が点在し、蓮の花や数々の水草が花を咲かせている。あでやかな羽の水鳥も、自由に泳ぎまわっている。
湾の外側には外国船が浮き、又兵衛たちの貿易船もそこにあった。
ポルトガル人やオランダ人はこの港の景色を眺め、まるで南国のベニスのようだ、と言った。
前田又兵衛は三十半ばにさしかかっていた。
すこし猫背だったが、落ち着きのあるゆったりとした足取りには、幾多の困難を乗り越えてきた兵の風格があった。中肉中背で、ひろい額に少々神経質そうな顎。顎の先に短く生えた鬚。寡黙さを表すように強く結んだ唇。
門から出て背後をあおぐと、王宮と王宮を挟んでむこうにひろがる住民の町と、手前にひろがる港町を囲うように、丘の上に半円形に石の城壁が連なっていた。城壁の所々には櫓が建ち、緑の地に仏像の姿をあしらったラカイン王国の旗をなびかせている。
又兵衛は背中を丸め、布の包みをそっと抱えた。
ポルトガル人町を左に見、右側にまっすぐ下るとカラダン川の渡しにでる。
渡しの船頭が又兵衛の姿に気づき、敬意の挨拶をしてくる。そして中央の席に座るよう、うながしてくれる。
カラダン川の渡しのその場所は、川幅が狭くなっている。
対岸には椰子が茂り、熱くゆらめく陽光のなかで、濃い葉影を水面に落としている。
川をわたると、桟橋からつづく道が椰子林の間にのびている。
あたりは王宮側とは対照的に、一面が椰子でおおわれている。
日本人村はその椰子林の奥にあった。王の特別のはからいで、土地が与えられていたのだ。日本人たちが、この地に住みたいと願い出たからである。
そこには椰子林を切り開いてできた農園があり、陸稲や野菜やそのほかの穀物が作られ、自給で生活ができた。護衛隊長の又兵衛は、村の自治権を委られ、ひろい敷地のその中央に家をかまえていた。
4
渡しの小舟の中で、又兵衛は腰の大小の刀を脇に置き、身をかがめた。
顎の先に短く伸びた鬚が、布の包みをなでた。小舟が左右にゆれ、漣がたった。そのとき、抱えた楕円形の肉塊がもそりと動いたのだ。
どきっとした。生きている? まさかと蒼ざめた。
なにかの間違い……と又兵衛は、腕のなかの包みを見詰めた。
いや、そんなはずがない……しかし、今、たしかに思いおこしたかのように、もそっと……。
ひょっとして、もし、泣きだしたら……と胸の包を見守った。
だが、又兵衛の危惧を推し測るように、赤子は声をあげなかった。
その代わりもう一度、ぐいと足を突っ張った。
それはまるで、己の運命に抵抗しているかのごとく力強かった。
又兵衛の胸の鼓動が高まった。
舟をおり、椰子林の道を歩く。
緊張感もあってか、からだに汗が噴き出た。
左側に折れると、まっすぐな道がつづいた。
突然空が開け、農園が出現する。
やがて道が大きくひろがり、左右に茅葺の屋根が連なりだす。整然とならんだサムライたちの家である。又兵衛の屋敷を入れ、きっちり四十軒はある。
そのほかに元奴隷たちの日本人の家が、外側に建っている。さらにその裏に地元の小作農のラカイン人たちの小屋が点在している。
住民たちが軽く会釈していく。
抱えた荷物が目立たぬよう肘でおおい隠し、先を急いだ。
突き当りが前田又兵衛の屋敷だった。
非番の護衛隊員と貿易船の船大将の茂七の二人がやってきた。足をとめ、話しかけようとしたが、又兵衛は軽く首をふり、二人のまえを通りすぎた。
家の門のまえに立つ門番が会釈をしたが、声もかけず通り過ぎた。
又兵衛は庭を突っ切り、母屋にむかった。母屋の玄関に入って草履を脱いだ。女中にも気づかれず、中庭に面した廊下を進んだ。
庭の真ん中には、一本の椰子が生え、その根元には縦に細長い小屋が建っていた。屋根のてっぺんには、銅製の十字架が飾られている。
又兵衛はだれにも会わず、自分の部屋に入った。
腕のなかで、また赤子が足を蹴った。
この子になにがあったのか──。
封印していた疑問が頭をもたげた。自分を呼びにきた次郎吉から、ただならぬようすであるという事情は聞けた。だが、内容はわからない。
警備の任務についていたが、押し殺した会話は声が低く、離れた場所からでは次郎吉には、はっきり聞こえなかった。
赤子の血統は申し分ない。ダンマ王の父親のミンヤザ王がミャンマーからつれてきた王妃の娘が、後宮で大きくなり、ダンマ王の子を身籠ったのである。
後宮に出向いたとき、無言で包みをわたした呪術師のチョチョのあの冷たい目は、なにを物語っているのか。
又兵衛は、部屋の真ん中に立った。
厚手の茣蓙を敷いた床に膝をつき、包みをそっと足元に置いた。
又兵衛は両手を太腿に添え、卵形の包を見下ろした。
息をつぎ、腰を曲げ、包みの横の結び目に手をのばした。
あとは一気呵成だった。ためらいはなかった。
袋は繭状になり、すっぽりと赤子が納まっていた。
又兵衛は袋の口を両手でひろげた。
「おお……」
暗い袋の底で、二つの赤い目が光っていた。
透きとおった赤の色だった。
又兵衛の口から出た言葉は、自分の意志をこえていた。
「きれいだ……ルビーのようだ」
ルビーは、ラカインの都、ムラウーにきて始めた又兵衛たちの大事な交易の商品だった。
アユタヤ(タイ)に寄ったとき又兵衛は、上質のルビーが、ミャンマー族の王の所有するアヴァ(マンダレー/インワ)という町の近くの山で産出すると聞いた。
部下にその場所を探らせ、同時に最良の品質のルビーを手に入れる方法も見つけた。
部下たちには、数名の優秀な物見(ものみ・間諜)がいた。良質のルビーを手に入れるため、いちはやくエヤワデー川をさかのぼり、情報を掴んできた。
エヤワデー川はミャンマー中央を、国土を半分に分けたように流れる大河である。
又兵衛は、ルビーの色や輝きを知るようになった。
最高級のルビーは鳩の血の色をしている。
袋の中の目は、鳩の血の色だった。濃く艶があり、透明感のある赤だ。商人たちが最高級として例えている色である。
じっと眺めていると、吸いこまれ、溶けこんでいくかのように美しい。
赤子は自己主張するかのように赤い目を見開き、白い布を口にくわえてえていた。
又兵衛は手をのばし、口に含まれた布に触れてみた。しっとり濡れていた。
湿った布を顔に被せられ、窒息させられたのであろう。
袋に入れられ、包み込まれたとき、その布が顔からずれたのか。
渡し舟に乗った又兵衛が子供を抱えてかがみこんだそのとき、からだが圧迫され、息を吹き返したのか。
自分は、その赤子を穴に埋めるだけである。
そしてこの件は、絶対の秘密が条件だった。だからわざわざ、サムライの隊長である又兵衛が選ばれたのである。
袋のなかにのばした手が、布切れの端をつまんでいた。
柔らかく湿った布が、するすると口から出てきた。
最後の布切れがでたとき、ぷすっと軽い空気の漏れる音がした。
と同時に、ほぎゃあ、ほぎゃあ、と泣き声があがった。
部屋にはじきだされたその声は、あわてる又兵衛の心を見透かすかのように、たった二息でやんだ。
袋の底で、赤いルビーの目が又兵衛を見詰めていた。もちろん赤子は目を開けているだけで、まだなにも見えていない。
「お帰りなさいませ……」
背後で声がした。
又兵衛は膝を突いた姿勢でふり返った。
障子戸が開けたままだった。からだの幅ほどの隙間のむこうに、妻のサディが立っていた。
「まあ、聞こえましたよ」
サディの弾んだ明るい声だった。
「それ、赤ちゃんでしょ。どうなすったんです?」
サディはミャンマー族の女性であり、ミャンマーの港湾都市国家、シリアム(タニン/ヤンゴンの近く)に住む商人の娘だった。目が輝いていた。
シリアムは、ラカイン国の前王であるミンヤザ王が、ミャンマー国内の反乱を鎮めるために援軍を送って当時の王を助けたお礼として預かった都市だった。
その知事にミンヤザ王は、ラカインで功績のあったポルトガル人のデ・ブリトという人物を据えた。その後、デ・ブリトは、外国人でありながら地域住民のモン族を手なずけ、ミャンマー一の港湾貿易都市に発展させた。
シリアム生まれのサディは、又兵衛よりも十二歳ほど若かった。
サディは子供を欲しがった。だが恵まれなかった。
二十三歳のサディは腰がくびれ、頬がふっくらとし、唇も赤い。腰まである髪を頭のてっぺんに巻きあげ、結った髪には、いつも生きた花簪がゆれていた。
「これは秘密である」
又兵衛は怖い顔を作ったつもりだった。だが、怖い顔ができていなかった。
「はい……承知いたしました」
妻のサディは、この曖昧な言葉をどう受け取ったのか。
とにかく、なにごとかを察知し、小さな声で応えた。
「障子は、お閉めになったほうがよろしいかと」
サディはそう言いながら部屋のなかに入り、両手で障子を閉めた。
閉めた障子に、中庭の陽が眩しく照った。
陽が沈むまで、ムラウーは今日も一日中暑い。
又兵衛は、ひざまづいた姿勢で、袋の口を両手に持ったままだった。
赤子は鳴き声もたてず、なにかを訴えるように目を見開いていた。
「拝見しても、よろしいですか?」
サディは返事も聞かず、歩み寄った。
「あら、まあ」
首をのばしたサディが、息を呑んだ。
「ルビーのようです。この赤ちゃんは奇跡の子です」
サディの顔は、はじかれたように輝いた。
「この子は、人々に幸せをもたらします。ミャンマー族の言い伝です。この子を育てれば、いつかあなたの望みが叶えられます」
赤目の赤子のおどろきは、サディにとってはちがう意味になった。
サディはミャンマー族、チョチョはラカイン族。考え方がまったくちがった。
「それに、女の子です」
袋の中に手を入れたサディがそっとささやいた。
5
前田又兵衛は、九州備前の小領主の家に生まれた。
子供のころからエコール(神学校)で、ポルトガル人の教師からポルトガル語で切支丹について学んだ。
そのころ九州の各領主たちは、互いに領土争いをつづけ、果てがなかった。
さらに秀吉の九州征服、東軍の家康側と西軍の秀吉側とに別れての戦いと続いた。
悲劇は十六歳のときに起こった。関ヶ原の戦いである。
最前線の部隊として出陣した又兵衛の父が、家来全員を集めた会議中、敵に襲われた。そのとき、若い又兵衛は二世部隊を率い、自軍の陣から離れた丘にいた。敵情偵察であったが、その裏を突かれたのである。
父親たちは全滅だった。
又兵衛は二世部隊とともに、生き抜いた。
最後の戦いは、大阪の夏の陣だった。同時に、切支丹禁教令の試練も重なった。
もう日本では生きていけないと、又兵衛たちは日本を脱出した。
東南アジアを拠点にした切支丹商人は、隣接する国や部族があれば互いに戦争をけしかけ、双方に武器を売った。
また戦争で捕虜となった敗戦国の住民を白人商人たちが買い取り、他国に奴隷として売った。
遠いラカイン王国の首都であるムラウーにも、日本人奴隷がいた。
多くの若い女性たちが、さらに遠い、白人の国まで運ばれていったという。
そんな現実を見聞きした又兵衛たちは、宣教師たちの教えはなんだったのか、と大いに途惑った。
ラカイン王の信頼をかち得たとき、又兵衛は日本人奴隷を全員引き取った。全部で十五人ほどだった。
又兵衛はそれでも信仰は捨てなかった。神は自分自身の心のなかにいる──そう信じた。
ラカイン王国も、見た目ほど平和ではなかった。
近隣の国との争いもあった。内部には謀反もあった。王の座を狙う謀略もあった。
あるとき、猜疑心をいだいた王の義弟が、剣をもって王の寝殿に侵入した。又兵衛は、刺客と王とのあいだに跳びこみ、謀叛人を斬り殺した。
日本には戦国時代があった。時を同じくして東南アジアも戦国時代だった。
日本で国同士が戦い、侵略し、侵略されていたころ、東南アジアの国々も覇権争いに暮れていたのである。
「ルビーは幸せをもたらします。この子を育てればあなたの望みも叶えられるでしょう」
ミャンマー族に伝わる風説なのか。妻のサディの言葉を耳にしながら、又兵衛は凍りついたように袋のなかに目を凝らしていた。
「お乳ならば、お袖さんが一ヶ月前に赤ちゃんを亡くしたばかりです。こちらに乳母としてきていたけたらと思います」
サディが提案した。お袖は日本人で元奴隷だった。日本人村でいちばん若く、サディよりも四つ下の十九歳である。
ラカイン族の貴族の家の下働きをしていたが、いまは又兵衛の家臣、警護隊の副隊長である次郎吉の妻である。家は又兵衛の屋敷のとなりだった。
「この子は、だれにも知られずに育てなければならない」
口にしてから、又兵衛は自分でもおどろいていた。いつしか、赤子を育てる決意をしていたのだ。
「奥の部屋を開かずの間にしましょう」
サディが提案する。
赤子の始末を託されたは理由は定かではない。『穴に埋めろ』とだけいわれた。王は又兵衛を信頼しきっていた。命令は実行され、そのような事実があったことも永遠に封じられる。証も求められない。事実、赤子は濡れた薄布を顔に被せられ、一度死んでいるのだ。
日本人村の部下たちは、日本にいるときから代々又兵衛に仕えてきた男たちだ。又兵衛と部下たちは、永遠の固い信頼関係で結ばれている。
屋敷で育てられる赤子の秘密は必ず守られる。乳を与える次郎吉の女房のお袖も、約束は厳守する。
規律の維持が又兵衛たちサムライをここまで生きのびさせてきたのである。
サディが袋から赤ん坊を取りだした。
「おう、おう、おう」
愛おしそうに両腕でかかげ、胸で抱きしめた。
「旦那様、ほら、ごらんください」
サディが卵形の頬で微笑みむ。
「この子の目は、明るいところでは赤く輝きません。奥のほうで小さな点になって潜んでいますよ」
又兵衛はサディに抱かれた赤ん坊をのぞいた。
たしかに明るい光のなかの赤ん坊の目は、赤くなかった。
サディがいうように、小さな点にになってじっとしている。
「おまえは、この屋敷でこの子を一人で育てなければならないのだぞ。育てられるか?」
「もちろんです。この子は、育てなさいといって天がわたしたちにくれたんです」
サディは興奮し頬を赤らめた。
そうか、天がくれたのか……又兵衛は噛みしめるようにつぶやいた。
●1章了
9984
1616年、一隻の貿易船がインド・バングラデシュにちかいミャンマー西域のカラダン川をさかのぼっていた。
ベンガル湾の河口から一日ほどの距離に、ラカイン王国の国際貿易港があった。
ポルトガル人やオランダ人たちは、そこを東洋のベニスと呼んでいた。
その貿易船には、四十人のサムライたちが乗っていた。
大阪、夏の陣で、徳川の軍と戦って敗れた九州の切支丹武士の一団である。
サムライたちは、日本での果てしない戦いで故郷を失い、親や家族を失っていた。
敗戦した豊臣側の武将に率いられ、サムライたちは、新たな平和な地を求めていた。
茶色の流れがうねってつづくカラダン川。
その河口は、広々とした穀倉地帯であった。
所どころ、岸辺にせりだすようにそびえている丘。そこには、金色のパゴダ(仏塔)の尖塔が、誇らしげに青空を裂いて光っていた。
岸辺に散在する村々は、ほとんどがあばら家でである。
しかし農民たちは、のんびりと日々を満喫しているように見えた。
サムライたちは甲板に出て、まだ見ぬラカイン王国の都、ムラウーにときめきと期待をこめ、大きく息を吐いた。
戦国の時代をかろうじて生きぬき、未知のパライソ(楽園)を求めての長い長い旅だった。
それから五年──。
2
ダンマ王は、王の間の玉座でその時をまっていた。
もう一時間ちかく、知らせがなかった。
なにかがあったに違いないという不吉な予感で、王は筋のとおった鼻に皺をよせ、苛立っていた。王の脇には、総理大臣のジッタが控えていた。父のミンヤザ王の代から仕えている大柄の坊主頭の男だ。
閣議のときは大勢の大臣でにぎわう王の間も、いまはジッタ一人である。
大理石のひろい床が、二人の男の沈黙をひんやり受けとめていた。
そしてその二人の背後の壁際には、護衛隊の副隊長、次郎吉が立っていた。玉座からは十五歩ばかり離れた位置である。いつもの任務であり、着物姿である。腰の長刀を鞘ごと抜き、柄を上に、杖のように立てている。
風取り窓からは、外の睡蓮の池の柔らかな陽光が反射し、ルビーやサファイアを埋めた漆喰の天井にさまざまな光の波紋を描いていた。
王の間の入り口に、人影が差した。王の心の不安をあおるように足音がなかった。
後宮の女官であり、王室お抱えの呪術師でもあるチョチョだった。
頬骨の張った顔に、吊り上った目が鋭い。王の従者の案内もなにもない。
チョチョは王の信頼を得ている身内に等しい人間だった。
チョチョは玉座のまえまできてうやうやしく頭を下げると、腰を折った姿勢のままさらに歩み寄った。
「お生まれになりました」
薄い唇から言葉がもれた。
玉座に背をもたせかけたダンマ王の、金糸の刺繍の上着の肩が、かすかに動いた。
「なにがあった?」
「目が赤いです」
「目が赤いだと?」
王は眉をあげ、チョチョを睨んだ。
チョチョも骨ばった頬で王を見返した。
「病気などではありません。ときどき皮膚の白い子が生まれますが、それと同じです。でも、赤い目は不吉のあらわれです」
チョチョは小さく溜息をつき、虚空に目を移した。まるで、不吉の根源の片棒である王から視線をそらすかのようだった。
が、すぐにまた視線をもどし、王の耳元でささやいた。
「即刻抹殺すべきです。そうしないと、王が滅びます」
チョチョは躊躇なくつぶやいた。
「わたしが滅びる?」
男盛りの王の眼が鈍く光った。
「あの子が大きくなったとき、王に大きな災いを……」
か細い声だったが、一言一言、はっきりしていた。
チョチョは、後宮の女官である。同時に、ダンマ王の父親の代から仕えている呪術師でもあった。
地震や旱魃や洪水、そしてミャンマー族との戦争の勝利や、多くのヨーロッパ人たちの訪来を言い当てていた。
先代のミンヤザ王が亡くなり、息子のダンマ王があとを継いだ。七年前である。
「わたしが死ぬというのか……」
ダンマ王は、南国の民族としては珍しく、鼻も高く、眼もくっきりと大きい。その顔がゆがんだ。
「いいえ、あの子が王を殺すというわけではありません。あの子が死をもたらすという意味です」
チョチョはまた虚空に目を据え、薄い唇を引き結んだ。
ダンマ王は言葉を詰まらせ、王座の横に立っていた総理大臣、ジッタに顔をむけた。
胸を反らし、肩幅のひろい坊主頭のジッタが神妙な顔でうなずいた。
「護衛隊の隊長、又兵衛にやらせましょう」
ジッタの頭に、すぐ又兵衛の名が閃いたようだった。
又兵衛は忠実である。そして確実に任務をこなす。
サムライたちは自ら船を仕立て、カラダン川をさかのぼってきた。シリアム(ヤンゴン)から、ベンガルの海をこえきた。
ミャンマーの小都市、シリアムは、ラカイン国の飛び地領だった。
又兵衛はシリアムの副知事にラカイン王国の首都、ムラウーにいくよう勧められた。国は豊かで平和で、寛大な王はサムライたちを暖かく迎えるだろう、と言ってくれた。もちろん、サムライたちについて、手紙で報告をしたうえでの話である。
白人たちの船は珍しくなかった。積極的に貿易をおこない、チョチョの予言どおり、ラカインの国を豊かにした。だが、日本の船は珍しかった。しかも、いままで見たこともない、又兵衛を頭とする四十人のサムライたちが乗っていたのである。
いつしか東の国から異人が現れ、王を守るだろうと、これもチョチョが予言していた。
呪術師のチョチョはさらに告げる。
「後宮の母親は追放すべきです」
ラカインのミンヤザ王は、乱をおこしたミャンマーの新王に援軍の派遣を 依頼された。そして戦いに勝利した証として小都市シリアムを手に入れ、ミャンマー旧王の妃と幼い娘を白象に乗せ、自国につれ帰った。
その娘がラカイン王の後宮で大きくなり、ミンヤザ王の後を継いだダンマ王の子を身籠ったのである。
旧ミャンマー王の血を引くその子は特別だった。ダンマ王は生まれてくる赤子を待ち望んでいたが、生まれるという報告があってからずいぶん時間がたっていた。
現れたのは赤子を抱いた女官ではなく、呪術師のチョチョだった。
ダンマ王には言葉がなかった。逆らう気持ちもなかった。
チョチョはそれだけを告げ、背をむけた。
「次郎吉、又兵衛を呼んでこい」
総理大臣のジッタがふりかえり、太い声で命じた。
王の部屋の周囲には、十名ほどのサムライたちが任務についていた。
だが、王の部屋で護衛しているのは、副隊長の次郎吉だけである。
腰に刀を差した束髪の次郎吉が、ジッタのまえでかしこまった。チョチョやジッタの会話は次郎吉の耳にも届くが、知った内容は決して口にしなかった。
「はい。又兵衛を呼んでまいります」
足音が回廊を遠ざかった。
水鳥がきききと鳴き、羽ばたいた。
王宮には濠がめぐらされ、水草が色とりどりの花を咲かせていた。
王宮のサムライ護衛隊は十名ずつ、四組に別れていた。
四十人は、ムラウーに辿り着いたときの着物姿で、腰に大小の刀を差し、髪を後ろに束ねた束髪である。
実は、そのほかにも日本人村には、十五人ほどの日本人がいた。そのうちの七人は女性だった。全員がなんと、白人商人の手により、この地に売られた奴隷であった。
3
前田又兵衛は、日本人村の頭であり、四十人のサムライ護衛隊の隊長でもある。
呼び出された又兵衛は、ダンマ王と総理大臣のジッタから用件を告げられた。
又兵衛は、ひろい額に真っすぐ横にのびた眉をかすかに寄せ、表情を殺した。
「承知いたしました」
又兵衛は王宮の回廊から、北側の後宮にむかった。
王室の建物から石の渡り廊下をわたると、そこに後宮の門衛が立っていた。
王の用でチョチョに会いにきたと告げると、すぐに石の部屋に案内された。
供もなくチョチが現れ、無言で一抱えの布の包みを又兵衛に渡した。さらりとした手触りの布に包まれ、密やかな暖かさを感じさせる肉塊だった。
チョチョはサムライの又兵衛を睨みつけると、白い衣をひるがし、さっと後宮の奥に消えた 。
王宮は、廻廊状になった四角形の建物だった。同じ四角形の建物が三つ連なり、それぞれの建物と建物は、深い濠と回廊に囲まれている。
王の館がその中心に位置しているのである。
王宮から外に出るためには、警備兵のいる四つの門を潜らなければならなかった。
王宮の外門のまえには、ポルトガル人、オランダ人、イギリス人、フランス人たちの住む町があった。白人たちの家は石や木材を組み合わせ、ラカイン王国の高級役人の家よりも荘重だった。
外国人町に面した湾には、カラダン川の港がひろがっている。
その水面には、低く木々の茂る小島が点在し、蓮の花や数々の水草が花を咲かせている。あでやかな羽の水鳥も、自由に泳ぎまわっている。
湾の外側には外国船が浮き、又兵衛たちの貿易船もそこにあった。
ポルトガル人やオランダ人はこの港の景色を眺め、まるで南国のベニスのようだ、と言った。
前田又兵衛は三十半ばにさしかかっていた。
すこし猫背だったが、落ち着きのあるゆったりとした足取りには、幾多の困難を乗り越えてきた兵の風格があった。中肉中背で、ひろい額に少々神経質そうな顎。顎の先に短く生えた鬚。寡黙さを表すように強く結んだ唇。
門から出て背後をあおぐと、王宮と王宮を挟んでむこうにひろがる住民の町と、手前にひろがる港町を囲うように、丘の上に半円形に石の城壁が連なっていた。城壁の所々には櫓が建ち、緑の地に仏像の姿をあしらったラカイン王国の旗をなびかせている。
又兵衛は背中を丸め、布の包みをそっと抱えた。
ポルトガル人町を左に見、右側にまっすぐ下るとカラダン川の渡しにでる。
渡しの船頭が又兵衛の姿に気づき、敬意の挨拶をしてくる。そして中央の席に座るよう、うながしてくれる。
カラダン川の渡しのその場所は、川幅が狭くなっている。
対岸には椰子が茂り、熱くゆらめく陽光のなかで、濃い葉影を水面に落としている。
川をわたると、桟橋からつづく道が椰子林の間にのびている。
あたりは王宮側とは対照的に、一面が椰子でおおわれている。
日本人村はその椰子林の奥にあった。王の特別のはからいで、土地が与えられていたのだ。日本人たちが、この地に住みたいと願い出たからである。
そこには椰子林を切り開いてできた農園があり、陸稲や野菜やそのほかの穀物が作られ、自給で生活ができた。護衛隊長の又兵衛は、村の自治権を委られ、ひろい敷地のその中央に家をかまえていた。
4
渡しの小舟の中で、又兵衛は腰の大小の刀を脇に置き、身をかがめた。
顎の先に短く伸びた鬚が、布の包みをなでた。小舟が左右にゆれ、漣がたった。そのとき、抱えた楕円形の肉塊がもそりと動いたのだ。
どきっとした。生きている? まさかと蒼ざめた。
なにかの間違い……と又兵衛は、腕のなかの包みを見詰めた。
いや、そんなはずがない……しかし、今、たしかに思いおこしたかのように、もそっと……。
ひょっとして、もし、泣きだしたら……と胸の包を見守った。
だが、又兵衛の危惧を推し測るように、赤子は声をあげなかった。
その代わりもう一度、ぐいと足を突っ張った。
それはまるで、己の運命に抵抗しているかのごとく力強かった。
又兵衛の胸の鼓動が高まった。
舟をおり、椰子林の道を歩く。
緊張感もあってか、からだに汗が噴き出た。
左側に折れると、まっすぐな道がつづいた。
突然空が開け、農園が出現する。
やがて道が大きくひろがり、左右に茅葺の屋根が連なりだす。整然とならんだサムライたちの家である。又兵衛の屋敷を入れ、きっちり四十軒はある。
そのほかに元奴隷たちの日本人の家が、外側に建っている。さらにその裏に地元の小作農のラカイン人たちの小屋が点在している。
住民たちが軽く会釈していく。
抱えた荷物が目立たぬよう肘でおおい隠し、先を急いだ。
突き当りが前田又兵衛の屋敷だった。
非番の護衛隊員と貿易船の船大将の茂七の二人がやってきた。足をとめ、話しかけようとしたが、又兵衛は軽く首をふり、二人のまえを通りすぎた。
家の門のまえに立つ門番が会釈をしたが、声もかけず通り過ぎた。
又兵衛は庭を突っ切り、母屋にむかった。母屋の玄関に入って草履を脱いだ。女中にも気づかれず、中庭に面した廊下を進んだ。
庭の真ん中には、一本の椰子が生え、その根元には縦に細長い小屋が建っていた。屋根のてっぺんには、銅製の十字架が飾られている。
又兵衛はだれにも会わず、自分の部屋に入った。
腕のなかで、また赤子が足を蹴った。
この子になにがあったのか──。
封印していた疑問が頭をもたげた。自分を呼びにきた次郎吉から、ただならぬようすであるという事情は聞けた。だが、内容はわからない。
警備の任務についていたが、押し殺した会話は声が低く、離れた場所からでは次郎吉には、はっきり聞こえなかった。
赤子の血統は申し分ない。ダンマ王の父親のミンヤザ王がミャンマーからつれてきた王妃の娘が、後宮で大きくなり、ダンマ王の子を身籠ったのである。
後宮に出向いたとき、無言で包みをわたした呪術師のチョチョのあの冷たい目は、なにを物語っているのか。
又兵衛は、部屋の真ん中に立った。
厚手の茣蓙を敷いた床に膝をつき、包みをそっと足元に置いた。
又兵衛は両手を太腿に添え、卵形の包を見下ろした。
息をつぎ、腰を曲げ、包みの横の結び目に手をのばした。
あとは一気呵成だった。ためらいはなかった。
袋は繭状になり、すっぽりと赤子が納まっていた。
又兵衛は袋の口を両手でひろげた。
「おお……」
暗い袋の底で、二つの赤い目が光っていた。
透きとおった赤の色だった。
又兵衛の口から出た言葉は、自分の意志をこえていた。
「きれいだ……ルビーのようだ」
ルビーは、ラカインの都、ムラウーにきて始めた又兵衛たちの大事な交易の商品だった。
アユタヤ(タイ)に寄ったとき又兵衛は、上質のルビーが、ミャンマー族の王の所有するアヴァ(マンダレー/インワ)という町の近くの山で産出すると聞いた。
部下にその場所を探らせ、同時に最良の品質のルビーを手に入れる方法も見つけた。
部下たちには、数名の優秀な物見(ものみ・間諜)がいた。良質のルビーを手に入れるため、いちはやくエヤワデー川をさかのぼり、情報を掴んできた。
エヤワデー川はミャンマー中央を、国土を半分に分けたように流れる大河である。
又兵衛は、ルビーの色や輝きを知るようになった。
最高級のルビーは鳩の血の色をしている。
袋の中の目は、鳩の血の色だった。濃く艶があり、透明感のある赤だ。商人たちが最高級として例えている色である。
じっと眺めていると、吸いこまれ、溶けこんでいくかのように美しい。
赤子は自己主張するかのように赤い目を見開き、白い布を口にくわえてえていた。
又兵衛は手をのばし、口に含まれた布に触れてみた。しっとり濡れていた。
湿った布を顔に被せられ、窒息させられたのであろう。
袋に入れられ、包み込まれたとき、その布が顔からずれたのか。
渡し舟に乗った又兵衛が子供を抱えてかがみこんだそのとき、からだが圧迫され、息を吹き返したのか。
自分は、その赤子を穴に埋めるだけである。
そしてこの件は、絶対の秘密が条件だった。だからわざわざ、サムライの隊長である又兵衛が選ばれたのである。
袋のなかにのばした手が、布切れの端をつまんでいた。
柔らかく湿った布が、するすると口から出てきた。
最後の布切れがでたとき、ぷすっと軽い空気の漏れる音がした。
と同時に、ほぎゃあ、ほぎゃあ、と泣き声があがった。
部屋にはじきだされたその声は、あわてる又兵衛の心を見透かすかのように、たった二息でやんだ。
袋の底で、赤いルビーの目が又兵衛を見詰めていた。もちろん赤子は目を開けているだけで、まだなにも見えていない。
「お帰りなさいませ……」
背後で声がした。
又兵衛は膝を突いた姿勢でふり返った。
障子戸が開けたままだった。からだの幅ほどの隙間のむこうに、妻のサディが立っていた。
「まあ、聞こえましたよ」
サディの弾んだ明るい声だった。
「それ、赤ちゃんでしょ。どうなすったんです?」
サディはミャンマー族の女性であり、ミャンマーの港湾都市国家、シリアム(タニン/ヤンゴンの近く)に住む商人の娘だった。目が輝いていた。
シリアムは、ラカイン国の前王であるミンヤザ王が、ミャンマー国内の反乱を鎮めるために援軍を送って当時の王を助けたお礼として預かった都市だった。
その知事にミンヤザ王は、ラカインで功績のあったポルトガル人のデ・ブリトという人物を据えた。その後、デ・ブリトは、外国人でありながら地域住民のモン族を手なずけ、ミャンマー一の港湾貿易都市に発展させた。
シリアム生まれのサディは、又兵衛よりも十二歳ほど若かった。
サディは子供を欲しがった。だが恵まれなかった。
二十三歳のサディは腰がくびれ、頬がふっくらとし、唇も赤い。腰まである髪を頭のてっぺんに巻きあげ、結った髪には、いつも生きた花簪がゆれていた。
「これは秘密である」
又兵衛は怖い顔を作ったつもりだった。だが、怖い顔ができていなかった。
「はい……承知いたしました」
妻のサディは、この曖昧な言葉をどう受け取ったのか。
とにかく、なにごとかを察知し、小さな声で応えた。
「障子は、お閉めになったほうがよろしいかと」
サディはそう言いながら部屋のなかに入り、両手で障子を閉めた。
閉めた障子に、中庭の陽が眩しく照った。
陽が沈むまで、ムラウーは今日も一日中暑い。
又兵衛は、ひざまづいた姿勢で、袋の口を両手に持ったままだった。
赤子は鳴き声もたてず、なにかを訴えるように目を見開いていた。
「拝見しても、よろしいですか?」
サディは返事も聞かず、歩み寄った。
「あら、まあ」
首をのばしたサディが、息を呑んだ。
「ルビーのようです。この赤ちゃんは奇跡の子です」
サディの顔は、はじかれたように輝いた。
「この子は、人々に幸せをもたらします。ミャンマー族の言い伝です。この子を育てれば、いつかあなたの望みが叶えられます」
赤目の赤子のおどろきは、サディにとってはちがう意味になった。
サディはミャンマー族、チョチョはラカイン族。考え方がまったくちがった。
「それに、女の子です」
袋の中に手を入れたサディがそっとささやいた。
5
前田又兵衛は、九州備前の小領主の家に生まれた。
子供のころからエコール(神学校)で、ポルトガル人の教師からポルトガル語で切支丹について学んだ。
そのころ九州の各領主たちは、互いに領土争いをつづけ、果てがなかった。
さらに秀吉の九州征服、東軍の家康側と西軍の秀吉側とに別れての戦いと続いた。
悲劇は十六歳のときに起こった。関ヶ原の戦いである。
最前線の部隊として出陣した又兵衛の父が、家来全員を集めた会議中、敵に襲われた。そのとき、若い又兵衛は二世部隊を率い、自軍の陣から離れた丘にいた。敵情偵察であったが、その裏を突かれたのである。
父親たちは全滅だった。
又兵衛は二世部隊とともに、生き抜いた。
最後の戦いは、大阪の夏の陣だった。同時に、切支丹禁教令の試練も重なった。
もう日本では生きていけないと、又兵衛たちは日本を脱出した。
東南アジアを拠点にした切支丹商人は、隣接する国や部族があれば互いに戦争をけしかけ、双方に武器を売った。
また戦争で捕虜となった敗戦国の住民を白人商人たちが買い取り、他国に奴隷として売った。
遠いラカイン王国の首都であるムラウーにも、日本人奴隷がいた。
多くの若い女性たちが、さらに遠い、白人の国まで運ばれていったという。
そんな現実を見聞きした又兵衛たちは、宣教師たちの教えはなんだったのか、と大いに途惑った。
ラカイン王の信頼をかち得たとき、又兵衛は日本人奴隷を全員引き取った。全部で十五人ほどだった。
又兵衛はそれでも信仰は捨てなかった。神は自分自身の心のなかにいる──そう信じた。
ラカイン王国も、見た目ほど平和ではなかった。
近隣の国との争いもあった。内部には謀反もあった。王の座を狙う謀略もあった。
あるとき、猜疑心をいだいた王の義弟が、剣をもって王の寝殿に侵入した。又兵衛は、刺客と王とのあいだに跳びこみ、謀叛人を斬り殺した。
日本には戦国時代があった。時を同じくして東南アジアも戦国時代だった。
日本で国同士が戦い、侵略し、侵略されていたころ、東南アジアの国々も覇権争いに暮れていたのである。
「ルビーは幸せをもたらします。この子を育てればあなたの望みも叶えられるでしょう」
ミャンマー族に伝わる風説なのか。妻のサディの言葉を耳にしながら、又兵衛は凍りついたように袋のなかに目を凝らしていた。
「お乳ならば、お袖さんが一ヶ月前に赤ちゃんを亡くしたばかりです。こちらに乳母としてきていたけたらと思います」
サディが提案した。お袖は日本人で元奴隷だった。日本人村でいちばん若く、サディよりも四つ下の十九歳である。
ラカイン族の貴族の家の下働きをしていたが、いまは又兵衛の家臣、警護隊の副隊長である次郎吉の妻である。家は又兵衛の屋敷のとなりだった。
「この子は、だれにも知られずに育てなければならない」
口にしてから、又兵衛は自分でもおどろいていた。いつしか、赤子を育てる決意をしていたのだ。
「奥の部屋を開かずの間にしましょう」
サディが提案する。
赤子の始末を託されたは理由は定かではない。『穴に埋めろ』とだけいわれた。王は又兵衛を信頼しきっていた。命令は実行され、そのような事実があったことも永遠に封じられる。証も求められない。事実、赤子は濡れた薄布を顔に被せられ、一度死んでいるのだ。
日本人村の部下たちは、日本にいるときから代々又兵衛に仕えてきた男たちだ。又兵衛と部下たちは、永遠の固い信頼関係で結ばれている。
屋敷で育てられる赤子の秘密は必ず守られる。乳を与える次郎吉の女房のお袖も、約束は厳守する。
規律の維持が又兵衛たちサムライをここまで生きのびさせてきたのである。
サディが袋から赤ん坊を取りだした。
「おう、おう、おう」
愛おしそうに両腕でかかげ、胸で抱きしめた。
「旦那様、ほら、ごらんください」
サディが卵形の頬で微笑みむ。
「この子の目は、明るいところでは赤く輝きません。奥のほうで小さな点になって潜んでいますよ」
又兵衛はサディに抱かれた赤ん坊をのぞいた。
たしかに明るい光のなかの赤ん坊の目は、赤くなかった。
サディがいうように、小さな点にになってじっとしている。
「おまえは、この屋敷でこの子を一人で育てなければならないのだぞ。育てられるか?」
「もちろんです。この子は、育てなさいといって天がわたしたちにくれたんです」
サディは興奮し頬を赤らめた。
そうか、天がくれたのか……又兵衛は噛みしめるようにつぶやいた。
●1章了
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