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8章
チベット側の桃源郷
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1
二〇☆☆年、中国の雲南省、暮れの昆明。
父と娘と思われる二人が、病院の救急病棟で亡くなった。
もっとも病院に運ばれたとき、二人とも命は尽きかけていた。
父娘は代々の御守り役として、漢方の桃源郷で暮らす住民だった。
そこは、不可侵の薬草地として地域の住民に認められてきた聖域であり、周囲に住むチベット族や漢民族、その他の多くの少数民族は、聖域について他人に語ることはなかった。
桃源郷の一家は、山に奉納された聖なる男女の集まりでできていた。
父親も母親も子供たちも、それぞれが地域から捧げられた貢ぎ物である。
捧げられた子供は地域の賢い幼児が選ばれ、成長し、血の繋がりよりも濃い擬似家族を作った。しかし、家族が子供をつくることは禁止されていた。
一家はあくまでも、地域を守る知性の集まりであった。
一家の主は医術をこなし、薬草を処方し、その術は時代を越え、代々受け継がれた。
『聖域を守れ』の言い伝えは、同時に『地域の人々を守れ』ともなった。
一家はその言葉の意味を理解し、多くの人々のために尽くした。
しかし二千年代、新しい捧げ者はなかなか現れなかった。
そんなとき、父との暮らしに飽き足らなくなった娘が聖域の家を飛びだした。
ケイタイとインターネットの時代、若い娘にとって桃源郷は退屈な日々にしかすぎなかった。
世間知らずの娘は、ちょっとばかり容姿がすぐれていたので、たちまち町の男にもてあそばれた。
父親は娘を捜し、町から町へと足跡を追った。そ
してついに夜の町で娘を発見した。
娘は男相手の商売をさせられ、半分囚われの身だった。
父親は娘を連れて逃げた。
だが逃亡は失敗し、裏社会の男たちに捕まった。
半殺しの目にあい、昆明の郊外まで車で運ばれ、道端に捨てられた。
二人が発見されたとき、父親は『梅里雪山聖域守護人・萬雷』と書かれた小さな袋を着物の胸の内側に潜ませていた。
連絡を受けた梅里雪山の麓のチベット族の族長は、はるばる昆明を訪れ、死体を引き取った。
そして、守る者のいなくなった聖域内の丘に二人の骨を埋めた。
チベット族の族長は、漢族やその他の主だった地元の長たちを集めた。
主のいなくなった聖域の今後について、相談したのである。
その結果、すでに年老いてはいたが、かつて聖域を捨て、ニューヨークに逃れた萬雷の孫に帰還を依願した。
2
息を飲むと、右脇腹に猛烈な激痛が走った。
腹には分厚い包帯が巻かれていた。
丸顔に白髭を生やした男が腕を組み、秦周一を見下ろしていた。
ネットカフェにいた英語の話せない中国人のおやじさんだった。
秦を助けたのは、秦のからだや皮膚から漢方の薬の匂いを感じ取ったからである。
匂いを嗅ぎ分けられたのは、白髪のおやじさんの父親が、漢方を扱うサウスブロンクスのモグリの医者だったからだ。
おやじさんの父親の医術は、その父親である祖父から受け継いだ。
祖父は梅里雪山の聖域の一家から家出をし、密航者としてニューヨークに住みついた男だ。そのとき聖域の一家には長男がおり、次男の祖父に聖域を守る絶対的な義務はなかった。
ブロンクスに住みついた次男は、中華料理店の主の病気を治した縁で店の娘と結婚した。そして、サウスブロンクスの中国人やヒスパニック、アフリカ系の黒人たちの病気や怪我を無料で治療した。
当時アメリカには、鉄道や道路建設の労働者として、香港からイギリス商人に連れてこられた半奴隷の中国人、苦力が無数にいた。
彼ら中国人は全米の都市や町などで、悲惨な生活を送っていた。
萬雷は彼らを治療しているうち、どうしても聖域の薬が必要になった。
逃げてきた故郷に手紙を書くと、代々の教訓どおり、地域の貧しい住民のために使うという条件で許可が出た。
その後も、定期的に薬が送られるようになった。
サウスブロンクスでは、祖父の仕事を息子が受け継いだ。
だが孫にあたるその息子は、中華料理のコックのほうを選んだ。
秦を助けたネットカフェにいた白髪の男である。
そのコックの恩人は、店の裏側の部屋に家族とともに住んでいた。
ただの中華料理屋のコックであったが、その男の名は、祖先から受け継いだ由緒ある名、萬雷であった。
「あなたからは複雑な薬の匂いがした。それに名前に秦と周の字があった」
秦と周は、中国の歴史上の国家の名である。
パスポートを見たのだ。秦が持っていたショルダーバックは、ベッドの脇に置かれていた。
コックの萬雷は次のように語った。
だれもが避けるサウスブロンクスの奥に男が走っていく。
後を追ったら、拳銃を持ったCIAとおぼしき若い男が現れ、秦を射った。
次の瞬間、左右の廃墟のアパートの窓から発射された弾丸が、今度はCIAを路面に倒した。
町のその一画では、国家や警察はすべて敵だった。
廃墟の町に住む追剥たちが路地からクマネズミのごとく現れ、死体を脇路にひきこんだ。
秦も同じようにひきずりこまれた。
だが萬雷が駆けつけ、そいつは友人だ、と顔見知りの男たちに告げた。
店にはスペイン語の客も多く、片言のスペイン語が話せた。
秦にはまだ息があったので、ついでに家まで運んでもらった。
萬雷の部屋で気づいた秦は、日本人の自分がなぜ撃たれたのか分からないと語った。
ユキコや国家機密漏洩の件については、軽々しく口にできなかった。
サウスブロンクスのその町の周囲や出入り口は、CIAのエージェントに四六時中見張られていた。
町から出たとき、近づいてきた人間にいきなりずどんとやられる。
訳あり人間の脱出は難しかった。
事件はただの物盗りで処理されるし、第三者は無関心である。
「この町のこのエリアには、不法滞在者や単純な犯罪者や凶悪犯もいるし、国家に追われているテロリストや政治犯など、あらゆる罪人が揃っている。罪人のほとんどは、警察官やCIAやFBIによって射殺される。だけど、この家にいる限りは安全だから安心してくれ」
萬雷はそう説明した。CIAに襲われた詳しい理由は聞こうとしなかった。
萬雷が中華料理店の厨房に立つため、部屋を出ていった。
入れ替わり、オランウータンの子供のように、丸い頭にわずかに毛の生えた、穏やかそうな目をした父親の萬雷老医師が現れた。
この父親が秦の腹の傷の手当てをしてくれたのである。
萬雷老医師は秦の腹の包帯を交換しながら、いきなり聖域の話をしはじめた。
そして、提案してきたのである。
「いま、その聖域では、主がいなくなり、困っている。ニューヨークとやらの生活を捨て、わしが行きたいが、もう八七歳で先がない。恥ずかしいが息子はぐうたらで博打が好きで、薬も医術も理解できない。孫たちもスマホゲームに夢中で人助けにはまったく無関心だ。そこでだが、八七歳のわしに比べたらあなたはまだ若く、将来性もある。聖域の山で薬草の管理をしながら地域の住民を治療し、残りの人生を有意義に過ごす生き方もある。どうだろう、
薬屋だったあなたならできる。聖域の薬や外科に関する詳しい話や手術に関する技術は、跡継ぎのためにやさしく書かれているので、山の家の資料を読めば理解できる。もちろん外科の手術には経験が必要だが、旅の途中、上海の知り合いの所に寄り、傷ぐらいは治せるようにちょっとの期間だけ修行すればいい。手紙を書いてあげます。その気ならば、われわれのルートでここから脱出させてあげますよ」
偶然だが、聖域は梅里雪山の麓にあった。
しかし、場所は中国側ではなくチベット側だ。
絶好の話だった。そこに、原始的な秘密の村があるかと聞いてみたが、当地いがいはない、と否定された。
それにもう、そこでどんな漢方薬が記録され、使用されているのかという興味があった。
「返事の前に、自分の娘に会いたいので連絡をとって欲しい。自分のケイタイはどこかに落としてしまった。しかし、ケイタイは探知されて危ないので、町の公衆電話を使って娘に連絡してもらいたい」
秦は萬雷医師に頼んだ。
その夜、白髭の息子の萬雷が、ユキコを連れてきた。
ユキコはマフラーを深く首に巻き、青みのある目をくりくりさせていた。
普段の好みとは違う、かなり高給そうな薄いピンクの薔薇の花柄のドレスを着ていた。
娘を守らなければいけない立場なのだが、今の秦にはなにもできない。
「風邪をひいてしまいました。薬を飲んだので、すぐに良くなると思います」
ユキコは、秦が休んでいるベットの手前一メートルのところで足を止めた。
からだから得体の知れないオーラを発し、目が、なにかを挑発しているように輝いた。
「お父さん、なんていうことに……」
萬雷老医師が、父親は二ヶ月で治ると告げると、ユキコはマフラーで隠れた口をすぼめ、ぴょう~と小さく口笛を吹いた。
そして、ベッドの上の秦に話しかけた。
これは二人だけの会話で日本語だった。
「ずっと心配していました。電話で萬雷さんに告げられ、腰が抜けるほどおどろいたけど、治るというので安心しました。ヤンキースタジアムでゲームを終えたとき、からだが浮き浮きして熱くなり、今にも爆発しそうに興奮していました。するとファンのアメリカ人のロバート・モレガンさんが大きな車で迎えにきたのです。
今夜は大騒ぎがしたいと告げたら、テイクアベニューというところ連れていってくれました。超特別階級のお金持ちだけが集まる秘密クラブでした。たった一日で有名になった日本人ピッチャーの登場で、パーティーは一気に盛り上がりました。そしてそこはまさしく、湧きあがっていた衝動を満たすのに十分な場所でした。
だから昨夜は、大勢の人とハグをしました。今日はデビル・ラリーさんとかドリイ・キムジャーさんとか、アメリカの重要人物ばかりではなく、ヨーロッパの偉い人もみんなくるそうです。願ってもいない絶好の機会です。でも、わたしは明日、アメリカから脱出します。
できれば、わたしがずっと眠っていた雲南省のような場所で暮らしたいです。落ち着いたら連絡します。それからお父さん、わたし、突然頭が冴えて熱くなった理由など、いろいろなことが分かりました。今日は時間がなくて説明できないので残念です。もういかなくてはなりません。あとで会ったときゆっくり話します。大事な用なので、ごめんなさい」
ユキコが部屋からでていこうとしたとき、萬雷老医師が地図を差しだした。
今度の事件と関連し、混乱した話し方や、雲南省などの言葉のようすから、どこかへ雲隠れする場所の相談らしいと判断したのだ。
「行き場所が決まっていないのなら、ここに行ってくれないか。もしかしたら、あなたの父親も後から行くだろう。あなたの怜悧そうな瞳を推測していうが、もし旅の途中で機会があったら、多少でもいいですから医学の知識、特に簡単な外科の技術を身につけていってもらいたい」
萬雷老医師はユキコになにも聞かず、そう依頼した。
ユキコが秦のほうを見たので、秦がうなずくとユキコもうなずいた。
秦はユキコに山ほど質問があった。
しかし、急ぎの用があるというので、つぎの機会を待つことにした。
ユキコは地図を持ってでていった。
「あの娘には神が宿っている。まさに聖域にふさわしい娘だ」
萬雷老医師が幼いオランウータンのつぶらな瞳で、だれにいうでもなくつぶやいた。
3
聖なる神の山はいまも人を寄せつけず、静寂の中心に鎮座している。
秦周一は東から眺めていた山を、初めて西側からあおいだ。
自治区との境がどこなのかは分からなかったが、雲南省からチベット自治区に入った原生林の森の中だ。
ところどころ露出した岩は苔むしている。
目の前を鹿や兎や栗鼠、そして見たこともないたくさんの動物がよぎった。
幾種類もの野鳥が幹と梢との間をかすめた。
ユキはたった一度、ヤンキースで投げ、世間から消えた。
野球選手ならだれでも憧れるノーヒットノーランのパーフェクトゲームを演じた上、世界一の速球も投げた。
新聞やテレビが大騒ぎをし、彼女を探したが跡形もなく消えた。
マネージャーでエージェントであるダン・池田も、ユキの私生活についてはなにも知らなかった。
密かに寄り添っていた父親の存在がつきとめられたが、その姿も消えた。
龍玉堂を受け継いだ東京の甥は、コメントを求められ、次のように答えた。
「叔父は退職して一、二年は自由の身を満喫するといっていました。私生活については、なにも知りません。家族はなく、独身です」
新たな噂がながれた。
ユキは消える前の二日間、夜の特別パーティーに出席していたという。
場所はニューヨークのハイソサエティーの中心地、テイクアベニュー。
そこには由緒ある伝統的な秘密クラブがあった。
秦周一は新聞や雑誌を拾い読みし、噂の秘密クラブの記事を探り当てた。
ユキがそんな遊びに参加するなんて、とおどろいた。
雑誌によればテイクアベニューの秘密クラブには、アメリカ建国以来の超特権階級の人たちの酒池肉林の場所があるという。
実際にヨーロッパでは、古代ローマ時代からそんなパーティーが存在していた。
現代ではコカインなどの麻薬が用いられ、淫靡さを一層色濃く演出しているのだそうだ。そんな場所になぜユキが、と秦はとまどった
が、これには訳があるはずだとすぐに思いなおした。
秦は、チベット自治区の山の澄んだ空気の中を進んだ。
物欲と権力欲が中心の白人の文化・文明は地球の隅々まで浸透し、伝統や文化を築いて生きるシンプルな社会を次々に破壊した。
だが、それでも地球上には彼らには手の届かない、梅里雪山の裏側のような未開の地域が幾つもあった。
懐には初めてユキコと出会った時のように、聖域までの地図があった。
サウスブロンクスで自分を助けてくれた、英語を話せない中華料理店のコックの父親、萬雷老医師がくれたものだ。
曲がりくねった小路は消え入りそうになりながら、灌木の斜面を這っていた。
周囲の草むらには、薬草が花を咲かせ、香りを競っていた。
目立ったのは、アザミに似た赤紫の花をつけた木香だ。
雑草の間から蕨のごとく顔をだしているのは、天麻である。
蜜柑のような葉をひろげ、赤い粒々の実をつけているのは、三七人参。
膝の高さほどの雑草を掻き分けると、冬虫夏草が地面の土を押し上げ、芽をだしていた。
漢方薬の薬屋としては、よくそんな山や草原の夢を見たものである。
秦は山路を歩いているうち、チベット側に息づく梅里雪山の薬草の桃源郷を目の当たりにしていたのだ。
もしかしたら祖先は、この地にいたのではないのか。
薬草の桃源郷は当時、梅里雪山を中心に、現在のチベットから中国側の領域にまで、ぐるうっと広がっていたのではないのか。
やがて秦は原生林を抜けだした。
眼下には碧色の透明な氷河湖が広がっていた。
澄んだ湖面に、梅里雪山の山々が逆さに聳えていた。
周囲は野菜の畑である。
畑の真ん中には石と丸太を組み合わせた古い家が、草の生えた屋根の煙突から煙をなびかせていた。
萬雷一家が代々暮らしてきた家だ。
氷河湖の外側を囲う山々と緑の森。
平野や森は多くの薬草で満たされ、あらゆる生き物が、静かに、そして活発にうごめいていた。
もちろん微生物をはじめとして、目に見えない地中の生き物たちもだ。
秦は最後の下りの路を、はずむ足取りで歩んだ。
長い道のりだった。
ニューヨークのサウスブロンクスで箱詰めにされ、中国船でニューヨークからパナマに抜け、ハワイへ密航した。
ハワイから香港、中国の雲南省、そしてチベット自治区から聖域へ。
サウスブロンクスの萬雷老医師は、嘘をつかなかった。
撃たれた傷の治療をほどこしたとき、すでに萬雷医師は、秦を聖域に送り込む気でいたのだ。
4
彼女は萬雷老医師がいったとおり、小屋に住んでいるのか。
「おーい、ユキコ」
声が、青い氷河湖の上を滑っていく。
すると小屋から一人の娘がでてきた。
足をとめ、斜面を見上げた。
秦の姿を認めると、畑のなかの路を走りだした。
「お父さん」
秦も小走りに路を下った。
荷物は背中のザック一つだ。
二人は坂道を降りたところで出会った。
「お父さん、三万年たってやっと会えた。あなたはわたしの大事な家族です」
やはりユキコは、梅里雪山の氷の洞窟で眠っていたのだ。
三万年後に目覚め、娘を捜しにきた父親の子孫と再会したのである。
「からだの傷は大丈夫ですか?」
「このとおり、モグリの萬雷老先生のおかげだよ」
大きくなった雪子が、父親の手を取っているのだ。
いや、その手の感触は、岩山を這い登る弾力性のある、しっかりした妻の明日子のものでもあった。
古文書から生まれた奇跡だった。
家は屋根の梁が深く、かなり大きかった。
床は板張りで、外科のための部屋と漢方の薬を貯蔵する部屋、そして生活用の部屋とに別れていた。
居間の中央には囲炉裏があり、土瓶が湯気をたてていた。
ユキコがきたときは山番がいて、畑もの中も整理されていたという。
ニューヨークの萬雷から手紙で知らせてきていたのだ。
山番がやってくるのは週に一度だ。
ユキコは、彼女に不審を抱く者がでないうち、ニューヨークから失踪したかった。
なにしろユキコの出現で、パーティーに参加した全員が熱に浮かされ、乱痴気騒ぎを演じたのだ。
ウイルスは近親者から始まり、同じDNAを持つ一族郎党、知人、友人へと感染する。
南のジャングルからきた微生物のBATARAの超粘菌たちが、ユキコのDNA遺伝子に働きかけ、クリスパーウイルスを放出させる。
そのウイルスは子孫存続のための性欲を伴いながら、変異を生じた特定の遺伝子配列を狙って攻撃する。
特定の遺伝子を持った一族が、その国の国民になって国家を利用し、知力と暴力と持て余すほどの資金力で他を買収し、すべてを支配する。
共存共栄は鼻糞である。
ヨーロッパにも同じ種族がおり、同じ運命をたどる。
このときの特定の遺伝子の配列は、理不尽に地球を支配しようとする人種たちだけが保有する。
そして、その遺伝子がクリスパーウイルスによって切り取られ、その個所にあらたな塩基配列が並ぶ。
塩基の配列整うと、細胞たちは徐々に衰え、活動を停止させる。死んでいくのだ。
ターゲットは紀元前、ある地域から発祥した異端の民族である。
BATARAの長老は、インドネシアのジャングルを出発するとき、訳が分からないままその記号を微生物集団のリーダーから受け取った。
ユキコが去ったテイクアベニューの建物では、昼夜を問わず、男女の咆哮がはちきれた。
大勢の仲間たちがリビドー天国の噂を聞きつけ、さらに集まった。
そして、燃えさかる森林の火事のように炎をたぎらせ、狂気をくりをひろげた。
感染者が自家用ジェット機で帰宅し、地球の裏側まで、拡散はあっというまだ。
テイクアベニューで目的を達成した夜だった。
⦅アメリカからすぐ逃げてください。すぐにです⦆
ユキコはアドバイスを受けた。
するとその夜、眠っているユキコの口から紋白蝶が飛びだした。
単細胞の微生物になってユキコのからだに飛び込み、しばしの滋養で生気をとりもどしたBATARAの超粘菌である。
目的を達成し、再び多細胞の蝶の姿に戻り、熱帯のジャングルに帰るのだ。
今度は急ぎの旅ではない。
あちこち気ままに飛び、住みやすそうなジャングルを見つけ、またそこで微生物の仲間として、単細胞と多細胞、動物と植物を兼ねた超粘菌の姿で生きていく。
ユキコは萬雷老医師の故郷をめざし、まずは香港に飛んだ。
香港から路線バスを何度も乗り継ぎ、陸路を上海に向かった。
萬雷老医師の願いどおり、そこで医学の書籍を読み漁った。
同時に外科医を雇い、直接、簡単な手術の手ほどきを受けた。
父親の秦の怪我が治るまでの短い修行だったが、持ち前の記憶力で初歩の手術をマスターした。
薬については秦に任せるつもりだった。
ユキコと秦は囲炉裏で沸かしたお茶を飲んだ。
三十センチ四方の、支え棒で止められた引き出窓から山々が見えた。
「お父さん。わたしは微生物の仲間である超粘菌と一緒に仕事をしました」
窓の明かりに映え、日焼けした秦の頬が光った。
秦は、微生物や粘菌は知っているが超粘菌という菌は知らない。
ユキコが語りはじめた。
「いまから三万年前、ネアンデルタール人が滅ぼされました。わたしのからだに入った微生物の仲間の超粘菌がわたしのDNAをコントロールし、ウイルスを発症させ、彼らを滅ぼしたのです。素晴らしい文化を持ち、大繁栄しつつあったネアンデルタール人に、存在を遠慮してもらったのです。心配だったのはネアンデルタール人だった自分の父親でした。でも、母親であるホモ・サピエンスと体液を交えた者には免疫が与えられていたのです。現在発見されているネアンデルタール人の骨は、免疫のあった者か感染のなかった者のものなのです」
ユキコは遠い世界からよみがえった人間だ。
どんな話がでてきても不思議ではなかった。
「ネアンデルタール人は遺伝子の変異で倍々ゲームのごとく人口が増え、すぐにでもヨーロッパ全域とその周辺域を制覇する勢いでした。数十年で地球は満杯です。人であふれた地球は、どうなるでしょう。生き残るため、あらゆる自然は競争で利用され、争いがおこり、破壊されます。最後は砂漠化します。仕方がなかったのです。
ネアンデルタール人が滅びても、ホモ・サピエンスがいるので、バランスは保てるはずでした。でもこれは誤りでした。ホモ・サピエンスの中に、遺伝子の変異種があらわれたのです。しかも、彼らはネアンデルタール人とはまったく違っていました。地球上の人間の不幸のほとんどは、限りない強欲思想を持った彼らがもたらしたものだったのです。
共存共栄で生きてきた地球上の通常の民族のほとんどを、彼らが滅ぼしてしまいました。彼ら特異のDNAがそのようにさせてしまうのです。そんなとき、わたしたちは地球を守る微生物たちの意志でまた呼ばれました。放っておけば今度こそ地球が破滅します。北の神の山の梅里雪山にいたわたしと、南のジャングルの神の古木にいた超粘菌BATARAが合体し、地球のリーダーにふさわしくない人間たちの削除、という範囲で手をうったのです。
感染者は早くて半月、遅くて一ヶ月で亡くなります。しかし、それより以前にテイクアベニューの連中はわたしの存在に気づき、調べようとするでしょう。でもわたしについては関係者に訊問しても、だれもなにも知りません。
香港まで足跡をたどれたとしても、その後は路線バスを利用し、たった一人でここまでやってきたので、追跡は不可能です。もっとも彼ら種族は一年もあれば完全に滅びるので、一年後に、わたしたちは自由です。どこにでも自由に住めます」
秦は、秦国雲南薬草書簡とともに伝わった秦家の古文書に記された地図に導かれ、雲南省の梅里雪山にたどり着いた。
古文書には、文字もない遠い過去に、娘を追ってきた古代の父親の意志が籠っていた。
そして、言い伝えを守って娘を救い出そうとした代々の男たちであったが、果たせず、縄文後期の時代(弥生時代)の秦にその意思が受け継がれ、ついに現生の秦周一によって願いが叶ったのである。
そして遠い遠い時代から蘇ったその娘が、妻の明日子や娘の雪子の面影を残しながら、いま父親の秦周一に語りかけているのだ。
「お父さん、二、三日したら薬を処方する者が着いたと地域の指導者に知らせます。きっと病人や怪我人がどっと押し寄せます。ずっとお医者さんがいませんでしたからね。二人でがんばりましょう」
(8-3 了)
二〇☆☆年、中国の雲南省、暮れの昆明。
父と娘と思われる二人が、病院の救急病棟で亡くなった。
もっとも病院に運ばれたとき、二人とも命は尽きかけていた。
父娘は代々の御守り役として、漢方の桃源郷で暮らす住民だった。
そこは、不可侵の薬草地として地域の住民に認められてきた聖域であり、周囲に住むチベット族や漢民族、その他の多くの少数民族は、聖域について他人に語ることはなかった。
桃源郷の一家は、山に奉納された聖なる男女の集まりでできていた。
父親も母親も子供たちも、それぞれが地域から捧げられた貢ぎ物である。
捧げられた子供は地域の賢い幼児が選ばれ、成長し、血の繋がりよりも濃い擬似家族を作った。しかし、家族が子供をつくることは禁止されていた。
一家はあくまでも、地域を守る知性の集まりであった。
一家の主は医術をこなし、薬草を処方し、その術は時代を越え、代々受け継がれた。
『聖域を守れ』の言い伝えは、同時に『地域の人々を守れ』ともなった。
一家はその言葉の意味を理解し、多くの人々のために尽くした。
しかし二千年代、新しい捧げ者はなかなか現れなかった。
そんなとき、父との暮らしに飽き足らなくなった娘が聖域の家を飛びだした。
ケイタイとインターネットの時代、若い娘にとって桃源郷は退屈な日々にしかすぎなかった。
世間知らずの娘は、ちょっとばかり容姿がすぐれていたので、たちまち町の男にもてあそばれた。
父親は娘を捜し、町から町へと足跡を追った。そ
してついに夜の町で娘を発見した。
娘は男相手の商売をさせられ、半分囚われの身だった。
父親は娘を連れて逃げた。
だが逃亡は失敗し、裏社会の男たちに捕まった。
半殺しの目にあい、昆明の郊外まで車で運ばれ、道端に捨てられた。
二人が発見されたとき、父親は『梅里雪山聖域守護人・萬雷』と書かれた小さな袋を着物の胸の内側に潜ませていた。
連絡を受けた梅里雪山の麓のチベット族の族長は、はるばる昆明を訪れ、死体を引き取った。
そして、守る者のいなくなった聖域内の丘に二人の骨を埋めた。
チベット族の族長は、漢族やその他の主だった地元の長たちを集めた。
主のいなくなった聖域の今後について、相談したのである。
その結果、すでに年老いてはいたが、かつて聖域を捨て、ニューヨークに逃れた萬雷の孫に帰還を依願した。
2
息を飲むと、右脇腹に猛烈な激痛が走った。
腹には分厚い包帯が巻かれていた。
丸顔に白髭を生やした男が腕を組み、秦周一を見下ろしていた。
ネットカフェにいた英語の話せない中国人のおやじさんだった。
秦を助けたのは、秦のからだや皮膚から漢方の薬の匂いを感じ取ったからである。
匂いを嗅ぎ分けられたのは、白髪のおやじさんの父親が、漢方を扱うサウスブロンクスのモグリの医者だったからだ。
おやじさんの父親の医術は、その父親である祖父から受け継いだ。
祖父は梅里雪山の聖域の一家から家出をし、密航者としてニューヨークに住みついた男だ。そのとき聖域の一家には長男がおり、次男の祖父に聖域を守る絶対的な義務はなかった。
ブロンクスに住みついた次男は、中華料理店の主の病気を治した縁で店の娘と結婚した。そして、サウスブロンクスの中国人やヒスパニック、アフリカ系の黒人たちの病気や怪我を無料で治療した。
当時アメリカには、鉄道や道路建設の労働者として、香港からイギリス商人に連れてこられた半奴隷の中国人、苦力が無数にいた。
彼ら中国人は全米の都市や町などで、悲惨な生活を送っていた。
萬雷は彼らを治療しているうち、どうしても聖域の薬が必要になった。
逃げてきた故郷に手紙を書くと、代々の教訓どおり、地域の貧しい住民のために使うという条件で許可が出た。
その後も、定期的に薬が送られるようになった。
サウスブロンクスでは、祖父の仕事を息子が受け継いだ。
だが孫にあたるその息子は、中華料理のコックのほうを選んだ。
秦を助けたネットカフェにいた白髪の男である。
そのコックの恩人は、店の裏側の部屋に家族とともに住んでいた。
ただの中華料理屋のコックであったが、その男の名は、祖先から受け継いだ由緒ある名、萬雷であった。
「あなたからは複雑な薬の匂いがした。それに名前に秦と周の字があった」
秦と周は、中国の歴史上の国家の名である。
パスポートを見たのだ。秦が持っていたショルダーバックは、ベッドの脇に置かれていた。
コックの萬雷は次のように語った。
だれもが避けるサウスブロンクスの奥に男が走っていく。
後を追ったら、拳銃を持ったCIAとおぼしき若い男が現れ、秦を射った。
次の瞬間、左右の廃墟のアパートの窓から発射された弾丸が、今度はCIAを路面に倒した。
町のその一画では、国家や警察はすべて敵だった。
廃墟の町に住む追剥たちが路地からクマネズミのごとく現れ、死体を脇路にひきこんだ。
秦も同じようにひきずりこまれた。
だが萬雷が駆けつけ、そいつは友人だ、と顔見知りの男たちに告げた。
店にはスペイン語の客も多く、片言のスペイン語が話せた。
秦にはまだ息があったので、ついでに家まで運んでもらった。
萬雷の部屋で気づいた秦は、日本人の自分がなぜ撃たれたのか分からないと語った。
ユキコや国家機密漏洩の件については、軽々しく口にできなかった。
サウスブロンクスのその町の周囲や出入り口は、CIAのエージェントに四六時中見張られていた。
町から出たとき、近づいてきた人間にいきなりずどんとやられる。
訳あり人間の脱出は難しかった。
事件はただの物盗りで処理されるし、第三者は無関心である。
「この町のこのエリアには、不法滞在者や単純な犯罪者や凶悪犯もいるし、国家に追われているテロリストや政治犯など、あらゆる罪人が揃っている。罪人のほとんどは、警察官やCIAやFBIによって射殺される。だけど、この家にいる限りは安全だから安心してくれ」
萬雷はそう説明した。CIAに襲われた詳しい理由は聞こうとしなかった。
萬雷が中華料理店の厨房に立つため、部屋を出ていった。
入れ替わり、オランウータンの子供のように、丸い頭にわずかに毛の生えた、穏やかそうな目をした父親の萬雷老医師が現れた。
この父親が秦の腹の傷の手当てをしてくれたのである。
萬雷老医師は秦の腹の包帯を交換しながら、いきなり聖域の話をしはじめた。
そして、提案してきたのである。
「いま、その聖域では、主がいなくなり、困っている。ニューヨークとやらの生活を捨て、わしが行きたいが、もう八七歳で先がない。恥ずかしいが息子はぐうたらで博打が好きで、薬も医術も理解できない。孫たちもスマホゲームに夢中で人助けにはまったく無関心だ。そこでだが、八七歳のわしに比べたらあなたはまだ若く、将来性もある。聖域の山で薬草の管理をしながら地域の住民を治療し、残りの人生を有意義に過ごす生き方もある。どうだろう、
薬屋だったあなたならできる。聖域の薬や外科に関する詳しい話や手術に関する技術は、跡継ぎのためにやさしく書かれているので、山の家の資料を読めば理解できる。もちろん外科の手術には経験が必要だが、旅の途中、上海の知り合いの所に寄り、傷ぐらいは治せるようにちょっとの期間だけ修行すればいい。手紙を書いてあげます。その気ならば、われわれのルートでここから脱出させてあげますよ」
偶然だが、聖域は梅里雪山の麓にあった。
しかし、場所は中国側ではなくチベット側だ。
絶好の話だった。そこに、原始的な秘密の村があるかと聞いてみたが、当地いがいはない、と否定された。
それにもう、そこでどんな漢方薬が記録され、使用されているのかという興味があった。
「返事の前に、自分の娘に会いたいので連絡をとって欲しい。自分のケイタイはどこかに落としてしまった。しかし、ケイタイは探知されて危ないので、町の公衆電話を使って娘に連絡してもらいたい」
秦は萬雷医師に頼んだ。
その夜、白髭の息子の萬雷が、ユキコを連れてきた。
ユキコはマフラーを深く首に巻き、青みのある目をくりくりさせていた。
普段の好みとは違う、かなり高給そうな薄いピンクの薔薇の花柄のドレスを着ていた。
娘を守らなければいけない立場なのだが、今の秦にはなにもできない。
「風邪をひいてしまいました。薬を飲んだので、すぐに良くなると思います」
ユキコは、秦が休んでいるベットの手前一メートルのところで足を止めた。
からだから得体の知れないオーラを発し、目が、なにかを挑発しているように輝いた。
「お父さん、なんていうことに……」
萬雷老医師が、父親は二ヶ月で治ると告げると、ユキコはマフラーで隠れた口をすぼめ、ぴょう~と小さく口笛を吹いた。
そして、ベッドの上の秦に話しかけた。
これは二人だけの会話で日本語だった。
「ずっと心配していました。電話で萬雷さんに告げられ、腰が抜けるほどおどろいたけど、治るというので安心しました。ヤンキースタジアムでゲームを終えたとき、からだが浮き浮きして熱くなり、今にも爆発しそうに興奮していました。するとファンのアメリカ人のロバート・モレガンさんが大きな車で迎えにきたのです。
今夜は大騒ぎがしたいと告げたら、テイクアベニューというところ連れていってくれました。超特別階級のお金持ちだけが集まる秘密クラブでした。たった一日で有名になった日本人ピッチャーの登場で、パーティーは一気に盛り上がりました。そしてそこはまさしく、湧きあがっていた衝動を満たすのに十分な場所でした。
だから昨夜は、大勢の人とハグをしました。今日はデビル・ラリーさんとかドリイ・キムジャーさんとか、アメリカの重要人物ばかりではなく、ヨーロッパの偉い人もみんなくるそうです。願ってもいない絶好の機会です。でも、わたしは明日、アメリカから脱出します。
できれば、わたしがずっと眠っていた雲南省のような場所で暮らしたいです。落ち着いたら連絡します。それからお父さん、わたし、突然頭が冴えて熱くなった理由など、いろいろなことが分かりました。今日は時間がなくて説明できないので残念です。もういかなくてはなりません。あとで会ったときゆっくり話します。大事な用なので、ごめんなさい」
ユキコが部屋からでていこうとしたとき、萬雷老医師が地図を差しだした。
今度の事件と関連し、混乱した話し方や、雲南省などの言葉のようすから、どこかへ雲隠れする場所の相談らしいと判断したのだ。
「行き場所が決まっていないのなら、ここに行ってくれないか。もしかしたら、あなたの父親も後から行くだろう。あなたの怜悧そうな瞳を推測していうが、もし旅の途中で機会があったら、多少でもいいですから医学の知識、特に簡単な外科の技術を身につけていってもらいたい」
萬雷老医師はユキコになにも聞かず、そう依頼した。
ユキコが秦のほうを見たので、秦がうなずくとユキコもうなずいた。
秦はユキコに山ほど質問があった。
しかし、急ぎの用があるというので、つぎの機会を待つことにした。
ユキコは地図を持ってでていった。
「あの娘には神が宿っている。まさに聖域にふさわしい娘だ」
萬雷老医師が幼いオランウータンのつぶらな瞳で、だれにいうでもなくつぶやいた。
3
聖なる神の山はいまも人を寄せつけず、静寂の中心に鎮座している。
秦周一は東から眺めていた山を、初めて西側からあおいだ。
自治区との境がどこなのかは分からなかったが、雲南省からチベット自治区に入った原生林の森の中だ。
ところどころ露出した岩は苔むしている。
目の前を鹿や兎や栗鼠、そして見たこともないたくさんの動物がよぎった。
幾種類もの野鳥が幹と梢との間をかすめた。
ユキはたった一度、ヤンキースで投げ、世間から消えた。
野球選手ならだれでも憧れるノーヒットノーランのパーフェクトゲームを演じた上、世界一の速球も投げた。
新聞やテレビが大騒ぎをし、彼女を探したが跡形もなく消えた。
マネージャーでエージェントであるダン・池田も、ユキの私生活についてはなにも知らなかった。
密かに寄り添っていた父親の存在がつきとめられたが、その姿も消えた。
龍玉堂を受け継いだ東京の甥は、コメントを求められ、次のように答えた。
「叔父は退職して一、二年は自由の身を満喫するといっていました。私生活については、なにも知りません。家族はなく、独身です」
新たな噂がながれた。
ユキは消える前の二日間、夜の特別パーティーに出席していたという。
場所はニューヨークのハイソサエティーの中心地、テイクアベニュー。
そこには由緒ある伝統的な秘密クラブがあった。
秦周一は新聞や雑誌を拾い読みし、噂の秘密クラブの記事を探り当てた。
ユキがそんな遊びに参加するなんて、とおどろいた。
雑誌によればテイクアベニューの秘密クラブには、アメリカ建国以来の超特権階級の人たちの酒池肉林の場所があるという。
実際にヨーロッパでは、古代ローマ時代からそんなパーティーが存在していた。
現代ではコカインなどの麻薬が用いられ、淫靡さを一層色濃く演出しているのだそうだ。そんな場所になぜユキが、と秦はとまどった
が、これには訳があるはずだとすぐに思いなおした。
秦は、チベット自治区の山の澄んだ空気の中を進んだ。
物欲と権力欲が中心の白人の文化・文明は地球の隅々まで浸透し、伝統や文化を築いて生きるシンプルな社会を次々に破壊した。
だが、それでも地球上には彼らには手の届かない、梅里雪山の裏側のような未開の地域が幾つもあった。
懐には初めてユキコと出会った時のように、聖域までの地図があった。
サウスブロンクスで自分を助けてくれた、英語を話せない中華料理店のコックの父親、萬雷老医師がくれたものだ。
曲がりくねった小路は消え入りそうになりながら、灌木の斜面を這っていた。
周囲の草むらには、薬草が花を咲かせ、香りを競っていた。
目立ったのは、アザミに似た赤紫の花をつけた木香だ。
雑草の間から蕨のごとく顔をだしているのは、天麻である。
蜜柑のような葉をひろげ、赤い粒々の実をつけているのは、三七人参。
膝の高さほどの雑草を掻き分けると、冬虫夏草が地面の土を押し上げ、芽をだしていた。
漢方薬の薬屋としては、よくそんな山や草原の夢を見たものである。
秦は山路を歩いているうち、チベット側に息づく梅里雪山の薬草の桃源郷を目の当たりにしていたのだ。
もしかしたら祖先は、この地にいたのではないのか。
薬草の桃源郷は当時、梅里雪山を中心に、現在のチベットから中国側の領域にまで、ぐるうっと広がっていたのではないのか。
やがて秦は原生林を抜けだした。
眼下には碧色の透明な氷河湖が広がっていた。
澄んだ湖面に、梅里雪山の山々が逆さに聳えていた。
周囲は野菜の畑である。
畑の真ん中には石と丸太を組み合わせた古い家が、草の生えた屋根の煙突から煙をなびかせていた。
萬雷一家が代々暮らしてきた家だ。
氷河湖の外側を囲う山々と緑の森。
平野や森は多くの薬草で満たされ、あらゆる生き物が、静かに、そして活発にうごめいていた。
もちろん微生物をはじめとして、目に見えない地中の生き物たちもだ。
秦は最後の下りの路を、はずむ足取りで歩んだ。
長い道のりだった。
ニューヨークのサウスブロンクスで箱詰めにされ、中国船でニューヨークからパナマに抜け、ハワイへ密航した。
ハワイから香港、中国の雲南省、そしてチベット自治区から聖域へ。
サウスブロンクスの萬雷老医師は、嘘をつかなかった。
撃たれた傷の治療をほどこしたとき、すでに萬雷医師は、秦を聖域に送り込む気でいたのだ。
4
彼女は萬雷老医師がいったとおり、小屋に住んでいるのか。
「おーい、ユキコ」
声が、青い氷河湖の上を滑っていく。
すると小屋から一人の娘がでてきた。
足をとめ、斜面を見上げた。
秦の姿を認めると、畑のなかの路を走りだした。
「お父さん」
秦も小走りに路を下った。
荷物は背中のザック一つだ。
二人は坂道を降りたところで出会った。
「お父さん、三万年たってやっと会えた。あなたはわたしの大事な家族です」
やはりユキコは、梅里雪山の氷の洞窟で眠っていたのだ。
三万年後に目覚め、娘を捜しにきた父親の子孫と再会したのである。
「からだの傷は大丈夫ですか?」
「このとおり、モグリの萬雷老先生のおかげだよ」
大きくなった雪子が、父親の手を取っているのだ。
いや、その手の感触は、岩山を這い登る弾力性のある、しっかりした妻の明日子のものでもあった。
古文書から生まれた奇跡だった。
家は屋根の梁が深く、かなり大きかった。
床は板張りで、外科のための部屋と漢方の薬を貯蔵する部屋、そして生活用の部屋とに別れていた。
居間の中央には囲炉裏があり、土瓶が湯気をたてていた。
ユキコがきたときは山番がいて、畑もの中も整理されていたという。
ニューヨークの萬雷から手紙で知らせてきていたのだ。
山番がやってくるのは週に一度だ。
ユキコは、彼女に不審を抱く者がでないうち、ニューヨークから失踪したかった。
なにしろユキコの出現で、パーティーに参加した全員が熱に浮かされ、乱痴気騒ぎを演じたのだ。
ウイルスは近親者から始まり、同じDNAを持つ一族郎党、知人、友人へと感染する。
南のジャングルからきた微生物のBATARAの超粘菌たちが、ユキコのDNA遺伝子に働きかけ、クリスパーウイルスを放出させる。
そのウイルスは子孫存続のための性欲を伴いながら、変異を生じた特定の遺伝子配列を狙って攻撃する。
特定の遺伝子を持った一族が、その国の国民になって国家を利用し、知力と暴力と持て余すほどの資金力で他を買収し、すべてを支配する。
共存共栄は鼻糞である。
ヨーロッパにも同じ種族がおり、同じ運命をたどる。
このときの特定の遺伝子の配列は、理不尽に地球を支配しようとする人種たちだけが保有する。
そして、その遺伝子がクリスパーウイルスによって切り取られ、その個所にあらたな塩基配列が並ぶ。
塩基の配列整うと、細胞たちは徐々に衰え、活動を停止させる。死んでいくのだ。
ターゲットは紀元前、ある地域から発祥した異端の民族である。
BATARAの長老は、インドネシアのジャングルを出発するとき、訳が分からないままその記号を微生物集団のリーダーから受け取った。
ユキコが去ったテイクアベニューの建物では、昼夜を問わず、男女の咆哮がはちきれた。
大勢の仲間たちがリビドー天国の噂を聞きつけ、さらに集まった。
そして、燃えさかる森林の火事のように炎をたぎらせ、狂気をくりをひろげた。
感染者が自家用ジェット機で帰宅し、地球の裏側まで、拡散はあっというまだ。
テイクアベニューで目的を達成した夜だった。
⦅アメリカからすぐ逃げてください。すぐにです⦆
ユキコはアドバイスを受けた。
するとその夜、眠っているユキコの口から紋白蝶が飛びだした。
単細胞の微生物になってユキコのからだに飛び込み、しばしの滋養で生気をとりもどしたBATARAの超粘菌である。
目的を達成し、再び多細胞の蝶の姿に戻り、熱帯のジャングルに帰るのだ。
今度は急ぎの旅ではない。
あちこち気ままに飛び、住みやすそうなジャングルを見つけ、またそこで微生物の仲間として、単細胞と多細胞、動物と植物を兼ねた超粘菌の姿で生きていく。
ユキコは萬雷老医師の故郷をめざし、まずは香港に飛んだ。
香港から路線バスを何度も乗り継ぎ、陸路を上海に向かった。
萬雷老医師の願いどおり、そこで医学の書籍を読み漁った。
同時に外科医を雇い、直接、簡単な手術の手ほどきを受けた。
父親の秦の怪我が治るまでの短い修行だったが、持ち前の記憶力で初歩の手術をマスターした。
薬については秦に任せるつもりだった。
ユキコと秦は囲炉裏で沸かしたお茶を飲んだ。
三十センチ四方の、支え棒で止められた引き出窓から山々が見えた。
「お父さん。わたしは微生物の仲間である超粘菌と一緒に仕事をしました」
窓の明かりに映え、日焼けした秦の頬が光った。
秦は、微生物や粘菌は知っているが超粘菌という菌は知らない。
ユキコが語りはじめた。
「いまから三万年前、ネアンデルタール人が滅ぼされました。わたしのからだに入った微生物の仲間の超粘菌がわたしのDNAをコントロールし、ウイルスを発症させ、彼らを滅ぼしたのです。素晴らしい文化を持ち、大繁栄しつつあったネアンデルタール人に、存在を遠慮してもらったのです。心配だったのはネアンデルタール人だった自分の父親でした。でも、母親であるホモ・サピエンスと体液を交えた者には免疫が与えられていたのです。現在発見されているネアンデルタール人の骨は、免疫のあった者か感染のなかった者のものなのです」
ユキコは遠い世界からよみがえった人間だ。
どんな話がでてきても不思議ではなかった。
「ネアンデルタール人は遺伝子の変異で倍々ゲームのごとく人口が増え、すぐにでもヨーロッパ全域とその周辺域を制覇する勢いでした。数十年で地球は満杯です。人であふれた地球は、どうなるでしょう。生き残るため、あらゆる自然は競争で利用され、争いがおこり、破壊されます。最後は砂漠化します。仕方がなかったのです。
ネアンデルタール人が滅びても、ホモ・サピエンスがいるので、バランスは保てるはずでした。でもこれは誤りでした。ホモ・サピエンスの中に、遺伝子の変異種があらわれたのです。しかも、彼らはネアンデルタール人とはまったく違っていました。地球上の人間の不幸のほとんどは、限りない強欲思想を持った彼らがもたらしたものだったのです。
共存共栄で生きてきた地球上の通常の民族のほとんどを、彼らが滅ぼしてしまいました。彼ら特異のDNAがそのようにさせてしまうのです。そんなとき、わたしたちは地球を守る微生物たちの意志でまた呼ばれました。放っておけば今度こそ地球が破滅します。北の神の山の梅里雪山にいたわたしと、南のジャングルの神の古木にいた超粘菌BATARAが合体し、地球のリーダーにふさわしくない人間たちの削除、という範囲で手をうったのです。
感染者は早くて半月、遅くて一ヶ月で亡くなります。しかし、それより以前にテイクアベニューの連中はわたしの存在に気づき、調べようとするでしょう。でもわたしについては関係者に訊問しても、だれもなにも知りません。
香港まで足跡をたどれたとしても、その後は路線バスを利用し、たった一人でここまでやってきたので、追跡は不可能です。もっとも彼ら種族は一年もあれば完全に滅びるので、一年後に、わたしたちは自由です。どこにでも自由に住めます」
秦は、秦国雲南薬草書簡とともに伝わった秦家の古文書に記された地図に導かれ、雲南省の梅里雪山にたどり着いた。
古文書には、文字もない遠い過去に、娘を追ってきた古代の父親の意志が籠っていた。
そして、言い伝えを守って娘を救い出そうとした代々の男たちであったが、果たせず、縄文後期の時代(弥生時代)の秦にその意思が受け継がれ、ついに現生の秦周一によって願いが叶ったのである。
そして遠い遠い時代から蘇ったその娘が、妻の明日子や娘の雪子の面影を残しながら、いま父親の秦周一に語りかけているのだ。
「お父さん、二、三日したら薬を処方する者が着いたと地域の指導者に知らせます。きっと病人や怪我人がどっと押し寄せます。ずっとお医者さんがいませんでしたからね。二人でがんばりましょう」
(8-3 了)
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