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8章
娘は東に向かう旅に出た
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1
ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの混血の娘が森を歩いていた。
軽い足取りだった。
豹の毛皮をまとい、肩から斜めに小さな毛皮の袋を下げている。
袋の中には、長の父親から預かった宝飾品が入っていた。
娘は外観をホモ・サピエンスの血を、体力や精神力はネアンデルタール人の血を受け継いでいた。
雪の降る寒い日と太陽が照る暖かい日が交互に続いた。
まだらに雪の積もった山々がまぶしく輝き、ぐるっと平野を囲っている。
娘はそんな時期の森の空気が好きだった。
ところどころ、大地をおおっていた氷や雪が融け、あちこちに土と緑がのぞく。娘はいつも同じ道を散歩した。
娘の行く手に倒木が陽を浴び、陽炎を揺らしていた。
大木が失せた後の空地には、太陽の光りの暖かさにたまりかね、土に眠っていた草花が、欠伸をするかのごとく芽を出す。
もしかしたら何かの花が咲いているのでは、と娘は倒木に近づき、横たわる幹の向こうに首をのばした。
そこには花ではなく、一面に薄桃色の小さな茸が生えていた。
一センチくらいの高さで茎は細く、先端には桃色の丸い球がついていた。
その球が、いまにも弾けそうに口を開け、自分の分身を飛ばそうと待ちかまえていたるところだった。
微生物の超粘菌たちである。
娘が薄桃色の鮮やかさに目を見張っていると、小さな丸い頭を揺らし、茸たちがぷつんと弾けた。
無数の胞子の放出である。
娘はかがんだ姿勢のまま、桃色の胞子の霧に包まれた。
口や鼻から胞子が体内に吸い込まれると、娘の頭が、ぽっと熱くなった。
熱は、頭からからだ全体にふわっとひろがった。
「なんだかわくわくして、いい気分」
娘はからだにみなぎる熱いエレルギーを感じ、胸いっぱいに息を吸いこんだ。
そして、閉じた唇から、ぴょう~と息を吹いた。
一面の薄桃色の茸は、自分の役割を終えたかのごとく地中に姿を消し、そこには降り注ぐ太陽が赤茶の土を暖かく照らしているだけだった。
じつはほんの少し前、超粘菌たちは、語りかけてくる微生物集団の声をそこで聞いていた。
⦅人間の娘と一体になれ。娘の体内の微生物の協力をあおぎ、その娘の遺伝子を操作し、ウイルスを発症させろ、ネアンデルタール人の遺伝子を破壊しろ⦆
微生物でもある超粘菌は、植物と動物の機能と性質を備えたスーパー生物だ。
その力を利用し、あるときは水中の生物に、あるときは地上や地中を動きまわり、あるときは空中に飛んだ。
DNAは、宇宙に生まれた元素がうまい具合に混じり合い、そこになんらかの作業が加わり、偶然に生まれた物質である。
DNAには変異という現象があり、働き方いかんによっては自分自身を滅ぼしたりもする。
ネアンデルタール人は、遺伝子の繁殖機能に突然変異を起こした生き物であり、このまま倍々に増えれば、地球はあっという間、彼らで溢れ、動物や植物を食い尽くす。
動植物の絶滅は地球の死に直結する。
自らの生命の維持とともに、あらゆる地球生命と共存してきた微生物たちは、即座に危機を感じとった。
微生物の仲間である超粘菌は、そのような状況に陥ったとき、最前線に出て働く使命を持っていた。
ネアンデルタール人の遺伝子をクリスパーウイルスによって切断し、死の遺伝子をそこに嵌め込むのである。
クリスパーウイルスは、DNAを切ったり、貼ったり、自由に作り変えることができる特異な技を持っている。
危機を感じたときはすばやく相手の体内に入り込み、確実に感染させ、生体を破壊させなければならない。
クリスパーウイルスは、生き物の創造主が仕組んでおいたにちがいない、地球生命の保身用の安全装置でもあったのだ。
2
木の上で、くるるっと鳥が鳴いた。
娘は反射的に足元の小石を掴んだ。
ばたばたと羽をもがかせ、鳥が落ちてきた。
娘が鳥を焼いて食い終えると、からだじゅうの血が湧きたち、頭が熱くなった。
⦅地球があぶないんだ⦆
突然、話しかけられた。
外からではなく、頭のなかからだった。
⦅ある生き物にDNAの変異があった。その生き物が無限に繁殖すると、地球のすべてが破壊される⦆
娘のとまどいを無視し、話が続いた。
⦅地球が壊れれば、もちろん、あなたの家族も一族も生きてはいられない。いつも通りかかるあなたを、実はずっと観察していました。かわいくて、賢そうで、元気で、だれからも好かれそうで、活発なあたにはぴったりの役目です。なんとしても協力してもらいたいんです。活動にさいしては脳細胞組織を使わせてもらうので、一瞬記憶が途切れます。活動中は家族と離れ離れになります。でもまた一緒に暮らすことができます。どうか、この大宇宙の奇跡の星である緑の地球のため、そしてそこに生きる無数の生物たちのためです。助けてほしいのです。お願いします⦆
優しい呼びかけだった。
「あなたは、だれですか?」
娘は、もちろん問いかけた。
⦅地球……地球の生き物すべての代表です⦆
「地球のすべての生き物?」
⦅最初に地球に生れた微生物たちが、地球の生き物の基本です。微生物の活動をもとに、他の生物が生きているのです。微生物は地球のどこにでもいます。そして、同種の仲間や異種の仲間と特殊な二種類のパルスを使い、他とコンタクトを取ります。
でも微生物が特別に偉いわけではありません。微生物だけではこの地球上の豊かなシステムは維持できません。あらゆる生き物と一緒でなければなりません。共存共栄関係です。地球は太陽の光を浴び、たおやかに生の営みを続けています。土の中では微生物が植物の成長を助け、動物がその植物を食べ、その動物を人間が食べ、それぞれが互いに仲間や家族を養うのです。
しかし、地球や世界を自分のものにし、食物などあらゆるものを独占し、生き物のDNAを自分の利益のためにもてあそぶ者が現れたらどうなりますか。そのものの出現で、今まで培ってきたすべてのシステムが壊れます。システムの破壊は、すべての崩壊につながります。あなたの家族も、どこかに消えてしまいます。とにかく今、地球は思わぬ危機を迎えているのです⦆
「分かりました。地球のため、皆さんのため、家族のためにやります。でも役目がすんだらまた家族と一緒に暮らさせてください」
⦅わかってくれてよかった……⦆
地球の生き物の代表は溜息をついた。
⦅もちろん、家族と暮らす件は約束させていただきます。しばらくはたった一人になりますが、我慢してください。それではさっそく、あなたの身体に入った特別の微生物である超粘菌たちに、活動を開始させます⦆
頭脳からからだの芯に熱いエネルギーが縦に走り、一瞬くらっとなった。
そして、あふれるパワーをからだに感じ、森の中を走りだした。
娘はその瞬間、すべてを忘れた。
自分の名前や自分の家やホモ・サピエンスの母と、ネアンデルタール人の父のことや、長の父の跡継ぎにふさわしいかどうかを占ってもらうため、自ら一人で出向いて金の粒や青玉と呼ばれる飾りを巫娘に届ける大事な使いなど、すべてを。
ぴょう~、と口笛を吹き、どんどん走った。
草原にでたとき、最初のネアンデルタールと遭遇した。
男たちは半円形に並び、槍をかかげ、巨大な野牛と格闘中だった。
野牛は何度も攻撃を受け、首筋に血をしたたらせ、背中には数本の槍が刺っていた。
とどめを刺さんと、男たちがにじり寄った。
そこへ娘が跳びだし、槍をかまえた一人に微笑みかけた。
あたりでは見かけないミス・ユニバース級の美人である。
娘は、いきなり男の肩口に手をかけ、からだを寄せてハグをした。
さらに頬をおしつけ、耳に息を吹きかけた。
「おい、こんなときになんだ……」
男はかまえていた槍を、ぽろり手から落とした。
「おまえ、おれと仲良くなりたいのかよ」
娘はだまってもう一度、からだを寄せてハグをした。
ほかの男たちが、にわかに親くなってハグをかわす二人を、唖然と見守った。
昂った娘の吐息が、周りの男たちの鼻腔をくすぐった。
男たちが口々に叫んだ。
「次はおれの番だ」
「はい、みなさん、順番です」
みんなと公平にハグを交わしたあと、娘は告げた。
「わたしは行かなければなりません。さようなら」
もう行っちゃうの、とも言えず、男たちは興奮の眼で娘を見送った。
ウイルスに感染した男たちは、たちまちからだに熱をおびた。
そしてたまらなく、女とハグがしたくなった。
男たちは声をあげ、自分たちの村を目がけ、走りだした。
娘は口笛を吹きながら次の村に向かい、足早に進んだ。
そして娘が訪れた村や洞窟は、どこも大騒ぎになった。
「さあ、次だ。このままどんどん行けばいいんだわ」
ネアンデルタール人の住処を求め、娘はどんどん東に進んだ。
アルプス山脈を越え、大小の山や丘を越えた。
いくつもの村をとおり、いくつもの荒野をとおりすぎた。
夢中で東に向かい、各地のネアンデルタール人たちを狂わせた。
すでにネアンデルタール人は、意外なひろがりを見せていた。
娘は日の昇る方向へ、執りつかれたように進んだ。
「わたしってだれだっけ。どこからきたんだっけ」
ふいに、そんな思いが頭に浮かんだ。
3
気がついたとき、娘はネアンデルタール人のエリアをとっくに抜けていた。
ずいぶん遠くまできたような気がした。
ある夜、眠りついた娘の口から、一匹の蝶が飛びだした。
茸から蝶に姿を変え、遠く南に旅立つ微生物の超粘菌だった。
朝になり、目覚めた娘の頭の中にまた伝達があった。
⦅よくやってくれました。でも、もうすこし時間をください。なにかがあったときのために、少しばかり待機していただきます。また手伝ってもらわなくてはなりません。それまでの間、氷の中で眠ってもらいます。あなたのからだに初めから住んでいた微生物たちが、あなたのからだを守ってくれます。
このまま進んでいき、山の中の氷の洞窟で休んでいてください。ネアンデルタール人だけではなく、残っている一部のホモ・サピエンスのDNAにも欠陥が見つかったのです。いまは活動していませんが、いつ活性化するか分かりません。かなり危険な遺伝子です。
もし問題が起こったときは、南の森からきた蝶の使者と北の雪山にいるあなたが合体し、新たな危機を乗りこえます。そのときその蝶が、欠陥人間を地上から抹殺する遺伝子をあなたに運びます。それをあなたが確実に人間に移し替えるのです。地球のためだけではありません、奇跡で生まれた宇宙唯一の生命も守るためです⦆
「そういうことであれば、協力します。でもなぜ、わざわざ南と北に別れるんですか?」
娘は質問した。
⦅南のジャングルと北の雪山は、それぞれが地球危機に対応するバロメーターなんです。天体の活動の影響もあると思いますが、人間活動が常識の領域を越え、制御するリーダーが現れないとき、山の氷塊が融け、同時にジャングルの奥地への人間の侵入が、取り返しのつかない自然破壊のシグナルになります。そのとき南の超粘菌とあなたが目覚めるのです⦆
「ところで、しばらくは一人ぼっちだけど、目覚めたあと家族に会えると約束しましたよね」
⦅はい、約束しました。約束は守りますよ⦆
娘はそれが三万年後だとは思ってもいなかった。
4
正面に白い大きな山が見えた。
娘は山に向かい、歩いていった。
「おまえはだれだ。どこからきた」
村に入ったとき、異民族の男に聞かれた。
周りには同じ顔つきの人々がたくさんいた。
違う人種にたくさん出会ったが、語り部の血を引く娘は、覚えようという意識が働けば、瞬時に物事を記憶することができた。
どの民族の言葉も、すぐに喋れるようになったのである。
「自分はこのまま、まっすぐに歩いていきます」
「だけどそのまま行っても、この先には雪と氷と山しかないよ」
「いいんです。そこがわたしの行きたい所なんです。もしわたしが山の氷に埋まっても、そっとしておいてくださいね。じゃあ」
娘はまた歩きだした。
ぴょう~、と口笛を吹き、どんどん進んだ。
雪の山は登るにつれ、氷の山になった。
氷の洞窟があった。ここのところの暖かさで、真ん中に空洞ができていた。
異民族の男の一人が跡をつけ、洞窟に入る娘を見届けた。
娘は洞窟の氷の空洞を、這うように奥へ、奥へと進んだ。
すぐに寒波がきて、娘は永遠に氷の洞窟に閉じ込められた。
(8-2 了)
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ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの混血の娘が森を歩いていた。
軽い足取りだった。
豹の毛皮をまとい、肩から斜めに小さな毛皮の袋を下げている。
袋の中には、長の父親から預かった宝飾品が入っていた。
娘は外観をホモ・サピエンスの血を、体力や精神力はネアンデルタール人の血を受け継いでいた。
雪の降る寒い日と太陽が照る暖かい日が交互に続いた。
まだらに雪の積もった山々がまぶしく輝き、ぐるっと平野を囲っている。
娘はそんな時期の森の空気が好きだった。
ところどころ、大地をおおっていた氷や雪が融け、あちこちに土と緑がのぞく。娘はいつも同じ道を散歩した。
娘の行く手に倒木が陽を浴び、陽炎を揺らしていた。
大木が失せた後の空地には、太陽の光りの暖かさにたまりかね、土に眠っていた草花が、欠伸をするかのごとく芽を出す。
もしかしたら何かの花が咲いているのでは、と娘は倒木に近づき、横たわる幹の向こうに首をのばした。
そこには花ではなく、一面に薄桃色の小さな茸が生えていた。
一センチくらいの高さで茎は細く、先端には桃色の丸い球がついていた。
その球が、いまにも弾けそうに口を開け、自分の分身を飛ばそうと待ちかまえていたるところだった。
微生物の超粘菌たちである。
娘が薄桃色の鮮やかさに目を見張っていると、小さな丸い頭を揺らし、茸たちがぷつんと弾けた。
無数の胞子の放出である。
娘はかがんだ姿勢のまま、桃色の胞子の霧に包まれた。
口や鼻から胞子が体内に吸い込まれると、娘の頭が、ぽっと熱くなった。
熱は、頭からからだ全体にふわっとひろがった。
「なんだかわくわくして、いい気分」
娘はからだにみなぎる熱いエレルギーを感じ、胸いっぱいに息を吸いこんだ。
そして、閉じた唇から、ぴょう~と息を吹いた。
一面の薄桃色の茸は、自分の役割を終えたかのごとく地中に姿を消し、そこには降り注ぐ太陽が赤茶の土を暖かく照らしているだけだった。
じつはほんの少し前、超粘菌たちは、語りかけてくる微生物集団の声をそこで聞いていた。
⦅人間の娘と一体になれ。娘の体内の微生物の協力をあおぎ、その娘の遺伝子を操作し、ウイルスを発症させろ、ネアンデルタール人の遺伝子を破壊しろ⦆
微生物でもある超粘菌は、植物と動物の機能と性質を備えたスーパー生物だ。
その力を利用し、あるときは水中の生物に、あるときは地上や地中を動きまわり、あるときは空中に飛んだ。
DNAは、宇宙に生まれた元素がうまい具合に混じり合い、そこになんらかの作業が加わり、偶然に生まれた物質である。
DNAには変異という現象があり、働き方いかんによっては自分自身を滅ぼしたりもする。
ネアンデルタール人は、遺伝子の繁殖機能に突然変異を起こした生き物であり、このまま倍々に増えれば、地球はあっという間、彼らで溢れ、動物や植物を食い尽くす。
動植物の絶滅は地球の死に直結する。
自らの生命の維持とともに、あらゆる地球生命と共存してきた微生物たちは、即座に危機を感じとった。
微生物の仲間である超粘菌は、そのような状況に陥ったとき、最前線に出て働く使命を持っていた。
ネアンデルタール人の遺伝子をクリスパーウイルスによって切断し、死の遺伝子をそこに嵌め込むのである。
クリスパーウイルスは、DNAを切ったり、貼ったり、自由に作り変えることができる特異な技を持っている。
危機を感じたときはすばやく相手の体内に入り込み、確実に感染させ、生体を破壊させなければならない。
クリスパーウイルスは、生き物の創造主が仕組んでおいたにちがいない、地球生命の保身用の安全装置でもあったのだ。
2
木の上で、くるるっと鳥が鳴いた。
娘は反射的に足元の小石を掴んだ。
ばたばたと羽をもがかせ、鳥が落ちてきた。
娘が鳥を焼いて食い終えると、からだじゅうの血が湧きたち、頭が熱くなった。
⦅地球があぶないんだ⦆
突然、話しかけられた。
外からではなく、頭のなかからだった。
⦅ある生き物にDNAの変異があった。その生き物が無限に繁殖すると、地球のすべてが破壊される⦆
娘のとまどいを無視し、話が続いた。
⦅地球が壊れれば、もちろん、あなたの家族も一族も生きてはいられない。いつも通りかかるあなたを、実はずっと観察していました。かわいくて、賢そうで、元気で、だれからも好かれそうで、活発なあたにはぴったりの役目です。なんとしても協力してもらいたいんです。活動にさいしては脳細胞組織を使わせてもらうので、一瞬記憶が途切れます。活動中は家族と離れ離れになります。でもまた一緒に暮らすことができます。どうか、この大宇宙の奇跡の星である緑の地球のため、そしてそこに生きる無数の生物たちのためです。助けてほしいのです。お願いします⦆
優しい呼びかけだった。
「あなたは、だれですか?」
娘は、もちろん問いかけた。
⦅地球……地球の生き物すべての代表です⦆
「地球のすべての生き物?」
⦅最初に地球に生れた微生物たちが、地球の生き物の基本です。微生物の活動をもとに、他の生物が生きているのです。微生物は地球のどこにでもいます。そして、同種の仲間や異種の仲間と特殊な二種類のパルスを使い、他とコンタクトを取ります。
でも微生物が特別に偉いわけではありません。微生物だけではこの地球上の豊かなシステムは維持できません。あらゆる生き物と一緒でなければなりません。共存共栄関係です。地球は太陽の光を浴び、たおやかに生の営みを続けています。土の中では微生物が植物の成長を助け、動物がその植物を食べ、その動物を人間が食べ、それぞれが互いに仲間や家族を養うのです。
しかし、地球や世界を自分のものにし、食物などあらゆるものを独占し、生き物のDNAを自分の利益のためにもてあそぶ者が現れたらどうなりますか。そのものの出現で、今まで培ってきたすべてのシステムが壊れます。システムの破壊は、すべての崩壊につながります。あなたの家族も、どこかに消えてしまいます。とにかく今、地球は思わぬ危機を迎えているのです⦆
「分かりました。地球のため、皆さんのため、家族のためにやります。でも役目がすんだらまた家族と一緒に暮らさせてください」
⦅わかってくれてよかった……⦆
地球の生き物の代表は溜息をついた。
⦅もちろん、家族と暮らす件は約束させていただきます。しばらくはたった一人になりますが、我慢してください。それではさっそく、あなたの身体に入った特別の微生物である超粘菌たちに、活動を開始させます⦆
頭脳からからだの芯に熱いエネルギーが縦に走り、一瞬くらっとなった。
そして、あふれるパワーをからだに感じ、森の中を走りだした。
娘はその瞬間、すべてを忘れた。
自分の名前や自分の家やホモ・サピエンスの母と、ネアンデルタール人の父のことや、長の父の跡継ぎにふさわしいかどうかを占ってもらうため、自ら一人で出向いて金の粒や青玉と呼ばれる飾りを巫娘に届ける大事な使いなど、すべてを。
ぴょう~、と口笛を吹き、どんどん走った。
草原にでたとき、最初のネアンデルタールと遭遇した。
男たちは半円形に並び、槍をかかげ、巨大な野牛と格闘中だった。
野牛は何度も攻撃を受け、首筋に血をしたたらせ、背中には数本の槍が刺っていた。
とどめを刺さんと、男たちがにじり寄った。
そこへ娘が跳びだし、槍をかまえた一人に微笑みかけた。
あたりでは見かけないミス・ユニバース級の美人である。
娘は、いきなり男の肩口に手をかけ、からだを寄せてハグをした。
さらに頬をおしつけ、耳に息を吹きかけた。
「おい、こんなときになんだ……」
男はかまえていた槍を、ぽろり手から落とした。
「おまえ、おれと仲良くなりたいのかよ」
娘はだまってもう一度、からだを寄せてハグをした。
ほかの男たちが、にわかに親くなってハグをかわす二人を、唖然と見守った。
昂った娘の吐息が、周りの男たちの鼻腔をくすぐった。
男たちが口々に叫んだ。
「次はおれの番だ」
「はい、みなさん、順番です」
みんなと公平にハグを交わしたあと、娘は告げた。
「わたしは行かなければなりません。さようなら」
もう行っちゃうの、とも言えず、男たちは興奮の眼で娘を見送った。
ウイルスに感染した男たちは、たちまちからだに熱をおびた。
そしてたまらなく、女とハグがしたくなった。
男たちは声をあげ、自分たちの村を目がけ、走りだした。
娘は口笛を吹きながら次の村に向かい、足早に進んだ。
そして娘が訪れた村や洞窟は、どこも大騒ぎになった。
「さあ、次だ。このままどんどん行けばいいんだわ」
ネアンデルタール人の住処を求め、娘はどんどん東に進んだ。
アルプス山脈を越え、大小の山や丘を越えた。
いくつもの村をとおり、いくつもの荒野をとおりすぎた。
夢中で東に向かい、各地のネアンデルタール人たちを狂わせた。
すでにネアンデルタール人は、意外なひろがりを見せていた。
娘は日の昇る方向へ、執りつかれたように進んだ。
「わたしってだれだっけ。どこからきたんだっけ」
ふいに、そんな思いが頭に浮かんだ。
3
気がついたとき、娘はネアンデルタール人のエリアをとっくに抜けていた。
ずいぶん遠くまできたような気がした。
ある夜、眠りついた娘の口から、一匹の蝶が飛びだした。
茸から蝶に姿を変え、遠く南に旅立つ微生物の超粘菌だった。
朝になり、目覚めた娘の頭の中にまた伝達があった。
⦅よくやってくれました。でも、もうすこし時間をください。なにかがあったときのために、少しばかり待機していただきます。また手伝ってもらわなくてはなりません。それまでの間、氷の中で眠ってもらいます。あなたのからだに初めから住んでいた微生物たちが、あなたのからだを守ってくれます。
このまま進んでいき、山の中の氷の洞窟で休んでいてください。ネアンデルタール人だけではなく、残っている一部のホモ・サピエンスのDNAにも欠陥が見つかったのです。いまは活動していませんが、いつ活性化するか分かりません。かなり危険な遺伝子です。
もし問題が起こったときは、南の森からきた蝶の使者と北の雪山にいるあなたが合体し、新たな危機を乗りこえます。そのときその蝶が、欠陥人間を地上から抹殺する遺伝子をあなたに運びます。それをあなたが確実に人間に移し替えるのです。地球のためだけではありません、奇跡で生まれた宇宙唯一の生命も守るためです⦆
「そういうことであれば、協力します。でもなぜ、わざわざ南と北に別れるんですか?」
娘は質問した。
⦅南のジャングルと北の雪山は、それぞれが地球危機に対応するバロメーターなんです。天体の活動の影響もあると思いますが、人間活動が常識の領域を越え、制御するリーダーが現れないとき、山の氷塊が融け、同時にジャングルの奥地への人間の侵入が、取り返しのつかない自然破壊のシグナルになります。そのとき南の超粘菌とあなたが目覚めるのです⦆
「ところで、しばらくは一人ぼっちだけど、目覚めたあと家族に会えると約束しましたよね」
⦅はい、約束しました。約束は守りますよ⦆
娘はそれが三万年後だとは思ってもいなかった。
4
正面に白い大きな山が見えた。
娘は山に向かい、歩いていった。
「おまえはだれだ。どこからきた」
村に入ったとき、異民族の男に聞かれた。
周りには同じ顔つきの人々がたくさんいた。
違う人種にたくさん出会ったが、語り部の血を引く娘は、覚えようという意識が働けば、瞬時に物事を記憶することができた。
どの民族の言葉も、すぐに喋れるようになったのである。
「自分はこのまま、まっすぐに歩いていきます」
「だけどそのまま行っても、この先には雪と氷と山しかないよ」
「いいんです。そこがわたしの行きたい所なんです。もしわたしが山の氷に埋まっても、そっとしておいてくださいね。じゃあ」
娘はまた歩きだした。
ぴょう~、と口笛を吹き、どんどん進んだ。
雪の山は登るにつれ、氷の山になった。
氷の洞窟があった。ここのところの暖かさで、真ん中に空洞ができていた。
異民族の男の一人が跡をつけ、洞窟に入る娘を見届けた。
娘は洞窟の氷の空洞を、這うように奥へ、奥へと進んだ。
すぐに寒波がきて、娘は永遠に氷の洞窟に閉じ込められた。
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