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7章

フロリダからニューヨークへ

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BATARAば た らの蝶は、ついにアメリカ合衆国に到達した。
長老以下、不眠不休だ。
強くなったり、弱くなったりしているパルス。
ターゲットの娘からだ。

急げ、急げと長老は心で念じる。
以心伝心、それが蝶のBATARAの仲間に伝わる。
蝶の前翅ぜんし後翅こうしも、気がついたらぼろぼろだ。
はね輪郭りんかくが裂け、羽ばたくたび、ばさばさ音をたてた。
二本の後脚こうきゃくが、いつのまにか一本欠けていた。

眼下の緑の平野に町が出現した。
その町のエリアが、まるで変形菌のように緑の半島を浸食している。
最前線の触手がするする伸び、緑の木々を消化しているように思えた。
不動産開発である。

街は海岸沿いに帯状に続いた。
どの家も、アンデスや中南米住民の掘っ立て小屋の比ではない。
ずっしりした赤茶のかわらや分厚い白い壁が太陽を浴び、誇らしく堂々と輝く。
「ここにはエネルギー使いたい放題の生活がある。アンデスのインディオがエネルギーを使うのは、拾ってきたヤクの糞を燃やすときだけだっていうのにな」

すると白亜の家の中から、ビヤ樽のような一人の男がでてきた。
男はたぷたぷ腹を揺らし、芝生の上を駆け、プールに飛びこんだ。
ついで三人の子供がでてくる。
いずれも丸々と太っている。

最後に水着姿の母親だ。
これ以上肥えることができないほどの巨大な腰と太腿ふともも
150キロはありそうだ。
よろけるように歩き、水面に身を投げた。

「経済発展した国の人たちは、その他の国で毎年一千万人が、食べ物がなくて死んでいても気になんかしていない。一部の投資家や大企業経営者は、むしろ難民がぞろぞろでて、低賃金の労働者になって企業の利益を上げてくれればいいと願っている。そのような状況の中で、発展途上国の人たちや難民になった人々は、先進国の人々のような生活を求め、必死にがんばる。だけど、世界に住む七六億の人間が一日、四千キロカロリーの生活ができる可能性は永遠に……」
「なーい」

聞いていたBATARAの全員が、幼稚園児のように声をそろえた。
「いい生活を夢に見てがんばっている人々に、地球にはもうそんな余裕はないからあなた方は遠慮してください、なんてだれにも言えない。

地球は限界に近づいているといっても、それはあくまでも学問的なきれいごとの論理や格好の話題にしかすぎないとだれもが捉える。現にアメリカ中西部では、国土の半分近くをおおう大規模な旱魃が起こっているというのに、当事者の農場経営者以外、だれも気を揉んだりなんかしていない。だれが本気になってこの問題に取り組むのか」

珍しく、長老の声に憤懣ふんまんがこもっていた。
「だれが取り組むんだ」
長老がくり返す。その目は、世界をにらむようにきびしい。

だが、答えはどこからも返ってこない。
全員で、うーんと呻くだけである。
BATARAの蝶は、それぞれがそれぞれの考えにとりつかれたように、沈黙のまま羽ばたいた。

『おーい。アメリカにようこそ』
突然、眼下の森林から呼び声が上がった。
超粘菌の仲間だった。
『前から話を聞いていたけど、ニューヨークにいくのか? なにしにいくんだ』
『呼ばれたんだ。ちょっとした用だな』
気分を変え、長老は軽く受け流した。

長老は数億年来の掟に従い、どこであろうともBATARAの一族を引き連れ、指定された場所にいく。
『アメリカの生活はどうだい? 旱魃かんばつはあるのか?』
アメリカの超粘菌に、BATARAの超粘菌の質問が飛ぶ。
『見てのとおり、ここは森林と湿地帯だ』
すると即座に違う場所からパルスが上った。

『いいや、大西洋側の東部も砂漠化する恐れがある。灌漑用かんがいようの川の水が減っている』
川の水源は、山に降った雪や雨、高地に蓄えられた湖の水だ。
大きな山の頂に降った雪は、氷の層になって氷河になる。
この氷河が融けて流れ、大河の源になる。

しかし、アメリカ西部の三大水流であるロッキー山脈の積雪が年々少なくなっている。
これらの川の水は、流域の都市住民の生活用水や飲料水になっている。
この現象や問題は、アフリカや中国や中東や南米・中南米やロシア、ヨーロッパなど、世界中で同時進行中だ。
残念ながら水を失えば都市は機能を失い、文明は終わる。

水事情の悪化が穀物の収穫減退となり、人はいずこかに消える。
森林の破壊から水事情が悪化し、歴史上の都市国家は次々に消滅した。
文明を維持するために消化した自然資源が消え、あとに砂漠が残った。

「でもここはアメリカで、ノーベル賞受賞者がたくさんいる国だから、なんとかするんじゃないかな」
『だめだ。おれはワシントンDCに住む超粘菌だ。ワシントンDCの政治家たちはアメリカ国民のためではなく、自分たちの利益のために政治をやってる。こいつらが利益にもならない多くの普通の人々を救うと思うか。ノーベル受賞者は一部をのぞいて、みんな自分のための研究に忙しい』

『だけど、貧乏人ばかりになったら、だれも物を買わなくなる』
『消費者がいなくなる』
『経済が成り立たなくなる』

「みなさん。情報ありがとう。急ぐので、またな」
長老は礼を述べた。
そして大声で叫んだ。
「みんな、とにかく急ごう。もう外からのパルスは無視する。いいか、一直線にニューヨークだ。急げ、急げ」


星と月明りの下を、BATARAの蝶はけんめいに羽ばたいた。
無言の夜間飛行だ。

ワシントンDCを過ぎてしばらくすると、水平線が明るくなった。
「長老、夜明けです」
視覚神経係が報告してきた。
強烈な光線が蝶の横から射した。

あまりもの眩しさに、蝶ははばたきを乱した。
はねはぼろぼろで、後翅こうしは三分の一が千切れていた。
所どころに、小さな裂けめや穴ができていた。
それでも、きしきし、ばさばさと音をたて、必死に羽ばたく。

眼下には家と緑の景色が途切れ途切れにつづく。
さらに何時間かを飛び続ける。
「ニューヨークまでどれくらいだ」
長老がまた翅部隊隊長しぶたいたいちょうに尋ねた。
「あと四時間もあれば着くと思います」

「長老、パルスです」
通信係が報告してきた。
〖ニューヨーク、ニューヨーク、ニューヨーク……〗
その相手は途切れながら、ずっと呼びかけていたような気がした。

どうやら今までの通信ではなく、ターゲットからの誘導発信のようだった。
「ニューヨークのどこにいけばいいんだ」
「問いかけには応じません。ただし、パルスの方向ははっきりしています」

通信係の報告だ。とにかく、パルスが飛んでくる方向にいけばいいのだ。
「みんな、もうすぐだ。がんばれ。ニューヨークは目の前だ」
長老は何度目かの激を飛ばした。

翅の超粘菌たちは歯を食いしばり、最後の力を振り絞った。
白いはねはいつの間にか、くすんだ薄茶色に変わっていた。
しかし眼下の街は明るい太陽を浴び、燦然さんぜんと輝いていた。
ハイウエイには車が行き来し、港や河で船が波を蹴立てている。
その波がきらきら光った。

睡眠不足の超粘菌たちは、目をつぶって羽ばたいた。
たちまち睡魔が襲ってくる。
破れかぶれで、眠りながら羽ばたく者もでてくる。
一人が眠れば、居眠りが伝播でんぱする。

「なんだ、どうした?」
BATARAの蝶は羽ばたきながら、大きな円を描いていた。
翅部隊隊長は指を口にくわえ、ぴっぴーと指笛を鳴らした。
夢を見ながら頑張っていた超粘菌たちはぶるっと震え、目を開けた。

また必死に羽ばたく。
と、監視係が報告した。
「ニューヨークだ。ニューヨーク着きました。長老、ニューヨークです」
超粘菌たちは、いっぺんに目を覚ました。
「とうとう着いたぞ」
BATARAの超粘菌たちは、地上の景色に見とれた。
前方に、いままで眺めたこともないビル群が、凸凹になって陽を浴びていた。

〖ニューヨーク、ニューヨーク、ニューヨーク〗
「このまま、まっすぐ九十度の方向です」
「ようし、直進だ」
長老がすかさず指示をだす。

BATARAの蝶は、ぼろぼろの翅に力をこめ、羽ばたいた。
ニューヨーク湾の上空にきた。
湾の左側の岸辺の桟橋に、たくさんの大型貨物船が横腹を着けている。
その沖合には、自由の女神が沈黙の炎を燃やしている

「マンハッタンだ」
すべてがビルだった。
マンハッタン島の陸の上に、植林された森の木のようにビルが並んでいる。
ビルの重みで薄っぺらに見える島が、今にも沈みそうに見える。

「パルスの方向はこれでいいのか」
長老が通信係りに問う。
「はい。マンハッタン島を縦に突っ切っています」

島はすべて、きっちりとした縦横の道路で区切られている。
そこに巨大なビルが、ところせましと肩を寄せ合っている。
道路にはたくさんの車が走り、ビルとビルの間の通路には、どこから出現したのか、大勢の人間が動き廻っている。

ビル群を越え、セントラルパークの上空にさしかかった。
「ジャングルだ」
「緑の森だ」
「だめだ。降りないよ。目的地はここじゃない」
長老がストップをかける。

「湖もあるじゃないか」
翅の超粘菌たちは恨めしそうにつぶやき、セントラルパーク上空を通過する。
そこは湖ではなく、池である。
人々が三々五々さんさんごご陽を浴びてくつろいでいる。

「まだ先なのか」
「すぐこの先です」
レーダー係りが答える。
〖ニューヨーク、ニューヨーク、ニューヨーク〗
パルスだ。目的の相手からである。

「すぐこの先です、長老」
「よおし、いよいよだ」
長老の言葉がこわばる。
「直進、直進」
翅部隊隊長が声を張りあげる。

いよいよと聞いて、超粘菌たちは力を盛り返した。
羽ばたきが大きくなった。
はるか遠く、東南アジアのジャングルから、太平洋の海を島伝いに越えてきた。
アンデスの山脈沿いに北上し、カリブの海を渡り、とうとうアメリカの中心地までやってきたのだ。

〖ニューヨーク、ニューヨーク、ニューヨーク〗
「すぐそこだ」
「返答しろ」
『ニューヨーク、ニューヨーク、ニューヨーク』
BATARAの蝶も応答する。

川を斜めに横切った。
『わー、わー、わー』
人間の歓声が聞こえた。
BATARAの超粘菌たちは、身を乗りだすように前方をのぞきこんだ。

『わー、わー、わー』
声がどんどん大きくなった。
ついで、不思議な歓声が超粘菌たちの耳をとらえた。
「ユキ、ユキ、ユキ、ユキ、ヤンキース、ユキ、ユキ、ユキ、ユキ、パーフェクト」
パルスが斜め下からやってきた。

〖ニューヨーク、ニューヨーク、ニューヨーク〗
「すぐそこだ。全員、よーい」
長老は前頭葉のひだで立ち上がり、足を踏ん張った。
BATARAの紋白蝶は、声の響く建物の縁を超えた。

超粘菌たちがそこで見たものは、大勢の人間たちだった。
擂鉢状すりばちじょうの建物の内部にびっしり並び、声をあげていた。
「ユキ、ユキ、ユキ、ユキ、ヤンキース、ユキ、ユキ、ユキ、ユキ、パーフェクト」
観客たちが見守る楕円形の建物の中央部、その広いグラウンドに数人の人間がちらばっていた。

〖ニューヨーク、ニューヨーク、ニューヨーク〗
「ユキ、ユキ、ユキ、ユキ、ヤンキース、ユキ、ユキ、ユキ、ユキ、パーフェクト」
長老は、はっきり見た。
そこに一人の娘が立っていた。
パルスがまっすぐ垂直に昇ってきていた。

娘の背に揺れるポニーテール。
パルスはその娘の頭のてっぺんからだ。
彼女のからだに住む微生物たちが、集団パワーを発揮し、通信を助けているのだ。
『そうだ、あのときの娘だ』
長老が低く叫んだ。
(7-2 了)


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