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3章
キャッチボール
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1
ホーム電話を取ると、元気な若い女の声が聞こえた。
『わたし、ユキコです』
秦周一は一瞬、受話器を耳から外し、また当てなおした。
『ユキコ?』
『はい。麗江で別れたユキコです』
はきはきした声だった。
『ユキコだって……』
秦はどきりとした。
なんと、あのとき行方不明になったユキコからだった。
秦家に伝わる古文書を解明したが、その内容には、見事期待をはぐらかされた。
しかし、地図に記された×印の洞窟には、生身の可愛いい娘がいた。
しかも、病死した妻の明日子、事故死した娘の雪子に似た女性だった。
似ているどころか、娘の雪子の青味がかった瞳と同じ目をしていたのだ。
洞窟にいた娘は『氷が融けたときに迎えにくる人を待っていた』と答えたが、それは古文書にでてくる娘の台詞そのものでもあった。
さらに麗江の書道家に、秦家の祖先とおぼしき娘の父親の末裔が、秦国雲南薬草書簡を携え、東に向けて旅立ったという篆書の文書も見せられた。
この新たなる古文書の内容を素直に受け止めるとしたら、洞窟にいた娘は、遠い遠い時代の自分の祖先であるという奇妙なストーリーができてしまう。
洞窟内にいたユキコは、自分自身についてはなにも覚えていなかった。
雲南省の山育ちとはおもえぬ容姿であったが、そのくせ、石を投げて鳥を落とす見事な特技を持っていた。
野生的な毛皮も着ていたし、料理には黒曜石の包丁も使った。
だが、昆明に向かう途中、麗江で行方不明になった。
古文書から出てきた訳の分からない娘がどこかに消え、ほっとしたような気もしたが、成長した雪子を失ってしまったという無念の思いが心に残った。
帰国後、家でザックを開けてみると、豹とおぼしき動物の毛皮がでてきた。履いていた皮の靴は、どこにも見当たらなかった。
とにかく、まずはなんの毛皮なのかを確かめようと毛皮屋に行ってみた。
豹に似ているがなんの毛皮かは分からない、珍しい気がするのでと、毛皮屋の主は国立博物館勤務の動物学者、湯川博士を紹介してくれた。野生動物の専門家だった。
秦は動物学者に電話で連絡し、毛皮の切れ端を送った。
そして数日たったとき、鑑定が難しい、これをどこで手に入れたのか、と動物学者が電話で聞いてきた。秦
は、アジアの雪山をトレッキングしていたときの拾い物ですと答えた。
毛皮の正体については、動物学者の湯川博士が調査中であった。
『わたし、気がついたら上海にいたんです』
受話器からユキコの生の声が、耳に響いた。
『いま、麗江から電話しているんだな?』
秦は弾む気持ちをおさえ、声を殺した。
『いいえ、ちがいます。アキハバラの電気屋さんです。パックツアーで観光にきたんです』
『パックツアーで観光?、ほんとかよ』
いきなりの展開に、秦は声をあげてしまった。
だが、息をつき、落ち着こうとした。
『だけど、日本語、普通にしゃべってるじゃないか?』
電話に出たときから気になっていた。
『上海で日本人に教えてもらったんです』
すらすらと日本語で答える。
秦は、ユキコの超天才的な語学力を覚えていた。
『わたし、アキハバラのヒカリ電気の一階、ケイタイ売り場にいます。きてくれますか?』
がっかりさせられた古文書だったが、妻の明日子と娘の雪子の面影のあるユキコとの遭遇が唯一の収穫だった。
訳のわからない彼女の出現にとまどい、いなくなってやれやれという気持ちと、残念な気持ちが混ざりあった。
だが、麗江のホテルで渡した名刺を頼りに、パックツアーにまぎれ、やってきたのだ。
秦は拳をにぎり、ガッツポーズをとった。
散らかった居間に、久しぶりであふれるエネルギーだった。
2
地下鉄の駅を降り、電気街の通りをヒカリ電気のほうに向かった。
丸くなった背筋をのばし、不精髭を剃ってさっぱりした顎をひきしめた。
頬に当たる風が気持ちいい。
人込みを縫う足が自然に速くなった。
日本に帰ってから二ヶ月がたっていた。
長い時間ではなかったが、どんな娘になっているのかと胸がさわいだ。
新製品がならぶ一階のケイタイ売り場を見わたした。
だが、にぎわう客の中にユキコの姿はなかった。
広い店の奥に外国語のざわめきがあったが、そっちにもそれらしき姿はない。
二階かなと歩きだそうとしたとき、上の階からエスカレーターで降りてくるユキコを発見した。
肩から例の豹皮のポシェットを下げている。
黄色い花柄のブラウスに襞のある白いスカートだ。
髪がすこし伸び、肩にかかっていた。
入口の秦を発見し、白い歯をのぞかせ、笑顔を見せた。
人ごみを縫い、跳びつかんばかりに駆けてきた。
子供のように輝き、透きとおったその目の奥に、かすかな青味がある。
「ここの買い物が終わったので、もう自由行動です。秦さん、スカイツリーに連れて行ってください。そうだ、それから、ちょっと教えてください」
いきなりの忙し気な挨拶だった。
ユキコに袖を引かれるまま、秦はエスカレーターで三階までいった。
店じゅうのテレビが野球を放映していた。
録画である。満員の観客がわあーとどよめく。
それが大小無数のテレビに映しだされ、天井や壁に反射する。
電気屋の三階は球場の歓声であふれた。
「これなに?」
ユキコは、目の前の大型テレビを指差した。
ピッチャーがボールを投げるところだった。
ユキコがなにを言わんとしているのか、秦は即座に理解した。
「これは野球というスポーツだ。ボールという球を投げて、打者がそれを打って、点を争うゲームだ。詳しく説明するから、ゆっくり話せるところにいこう。ほかにもいろいろ聞きたい」
そうか、もしユキコがすごいボールを投げられたら面白いと、そのときに頭に閃いた。ふいに浮かんだわくわく感だったが、ぐっと押さえた。
今は、ほかの用件が先だ。
一階のケイタイ売り場をでて、大通りの歩道をさっき来た方向に向かった。
歩道は相変わらずの人混みである。並んで歩くユキコのからだが、秦の腕にふれる。
「あなたは、自分の名前や故郷を思い出したの? パスポート、見せてもらえる?」
ユキコは愛用のポシェットから、パスポートをだした。
赤茶の表紙の中国のパスポートだ。李月蘭という名前だった。
199X年3月19日生まれ、20歳。ビザもちゃんと取れていた。完璧なパスポートだった。
パソコンショップの隣のコーヒーショップに入った。
「わたし、だれかに⦅大きな都市にいきなさい⦆と言われて、気がついたら上海にいたんです。そのとき、ポシェットにあった秦さんの名刺にメモされていたホテルに電話をしたら、半月前に帰ったといわれたんです」
「やっぱり、まだ頭が熱くなるのか? それでその聞こえたというのは、自分の声? それとも誰かの声?」
大事な問いかけを発しながらも、自分を探していたという嬉しさが口元に現れた。
「もしかしたら、神様かな」
ユキコは、はにかむように笑って答える。
そして続けた。
「わたし、自分の名前、思い出せないんですけど、ときどき体験でもしたような変な夢を見るんです。はじめはジャングルの奥地で一本の大木が倒され、蝶が飛び立ちます。次は未開の民族が狩りをしながら楽しそうに暮らしている風景ですが、いつか文明人の手によって壊われるのではないか、という不安感が漂っています。そして海水の水位が上がって、島が沈むという嘘のニュースです。さらに人の争いで樹木が失せ、住民が暮らしていけなくなるという孤高の島の物語です」
秦は、ユキコの故郷の夢かと緊張したが、どこかのだれかとの雑談から生まれた話のようでもあった。
「とにかく⦅大きな都市にいきなさい⦆と神様にいわれて上海に着いたら、そこの人がもっと大きな都市があるって。それは東京だって言うんです」
記憶喪失などの場合は、障害の原因を西洋医学でチェックし、その後で漢方の服用に入る方法もあった。ユキコは一時的な健忘症と思われるので、用意する生薬は六種類。甘麦大棗湯、弓(くさかんむりに弓)帰調血飲第一加減、当帰勺(くさかんむりに勺)薬散、八味丸、八味丸+紅参、抑肝散・加陳皮半夏。いずれも神経症や各種の痴呆症などに抜群の効果がある。これを朝晩の二回、食事前に服用する。
「神様に告げられたって言ったけど、もちろん秦さんに会いにきたんです。もう国には帰りません。できれば秦さんの養子かなにかにしていただけませんでしょうか。書類も用意してきました。だめなら結婚してもいいんです」
ユキコは大胆な提案をした。内心あわてたが、冷静に対応した。
「でも、あなたは自分の名前も思いだせないんだろ。どうやって書類を作ったんだ」
上海で劉という男と知りあい、渡航手続きも全部やってくれたこと、そして日本語の教師も劉が紹介してくれたことなどをユキコは話した。
「費用はどうした。かなりかかったんだろう?」
ユキコはテーブルの脇のポシェットの口を開け、なかから皮の小袋、そして青玉の首飾りをだした。
「これは中国の宝物です。同じものが上海博物館にあります。どうしてこの袋にあったのかは知りません。上海の骨董屋で、同じものが高値で売られていました。青玉というんだそうですが、うまく作った偽物だそうです。それからこっちの小袋には金の粒が入っていました。これもなぜ入っていたのかは知りません。金は売ってお金にしました。こっちは本物でした」
秦は、直径二センチのブルーの玉が三つ連なる首飾りを手に取った。
透きとおった青い玉が金の鎖でつながれていた。
「あなたはやっぱり、古代から続いている王族の娘さんだ」
容姿やちょっとした仕草からしても、貧しい村から出稼ぎにきて、洞窟に迷い込んだとは思えないのだ。贋作の首飾りとしても、毛皮を着ていて、金などを持っていれば、やはり平民などではない。王の娘は言いすぎだったが、とにかく口にしてみた。
「わたしが、王族の娘?」
「きっとチベット側の山麓に、未発見の小さな王国があるのかもしれない」
そんな国は存在しないと分かっていても、秦は本当にありそうな気がした。
3
ユキコは旅行会社指定のホテルから、秦の自宅に近いホテルに移った。
大学病院へいき、精神科で検査をしたが、異常はなかった。
できれば頭が熱いときや記憶がなくなったときに来て欲しい、また『大きな都市にいけ』と告げられたのは、自分の欲望がそのように耳に響いたのではないか、と告げられた。
秦は、用意した六種類の漢方薬を朝晩に服用させたが、まだ日が浅く、記憶の回復はなかった。
東京見物に飽きたころ、秦はスポーツ用品店へいった。
そこで野球のグラブ二つとボールを買い、白金の自宅に案内した。
自宅の表側の店舗は閉鎖され、中の商品は甥の新しい店に移された。
商品の整理や発送の仕事をしてきた昔からの二人の使用人も一緒だ。
高窓から陽の射す空っぽの店舗の床に立っていると、遠く子供たちの元気な叫び声が聞こえてくる。
近所に公営のグラウンドがあるのだ。
グラウンドの隣は、高校野球でも名の知れた帝王高校のグラウンドだ。
部員たちが泥だらけで練習をしている。
秦は、公営グラウンドにユキコを連れていった。
公園の隅で、子供たちが野球を楽しんでいた。
「これから野球を教えるぞ」
野球をすると知ったユキコは、握った拳をえいっと突きあげた。
グランドに立つや、左手にグラブをはめたユキコが大きくふりかぶった。
スニーカーをはいた片足をあげ、やあと投げる真似をした。
野球の試合をビディオで観察し、投球フォームもしっかり覚えていたのだ。
「さあ、いこうか」
声をかけた。
待ってましたとばかり、いきなりユキコがふりかぶった。
びゅうっと風を切り、早速ボールが飛んできた。
かまえたグラブにぴたっと納まる。
おっ、と秦はつい声をもらした。ストレートだ。
しかしも、予想以上のコントロールだった。
テレビで見た有名選手のフォームとそっくりだった。
「ほんとかよ……」
秦はつぶやき、後ずさりした。
どんどん退っていって、公式の18メートルの距離をとった。
「さあこい」
ユキコは赤らめた頬でうなずいた。
大きく足をあげ、えいっ、とばかり放ってくる。
高々と片足を上げたので、スカートの裾が腿の付け根までずれた。
殺風景な公営グランドに、なまめかしい一本の白い足が映えた。
「わー」
フェンス際で見物していた少年たちの喚声が上がる。
女がキャッチボールはじめたぞ、と全員で注目していたのだ。
同時に、ユキコの投げたボールがぶるうーっと、ふるえながら秦の頭上を通過した。
秦は首とからだをひねり、ボールを目で追った。
ボールはフェンスを越え、高校のグラウンドの隅まで飛んでいった。
てんてんと転がっていく。小さくてもう見えない。
「はえー」
「ちょーはえー」
少年たちは口々に叫んだ。
秦も腰をかがめ、すっげえーと声をあげそうになった。
ボールの行方を追っていると、校舎の庭に面した一階の教室のドアが開いた。
中から一人の男がでてきた。
男は校舎際の花壇にかがみこみ、ボールを拾った。
そうして、白い上履のまま、両腕を振ってまっすぐ駆けてきた。
ひきしまった体格の中年の男だった。
男は校庭を横切り、フェンスの内側に立った。
肩で息をつき、細い目でフェンスの外の秦とユキコを睨んだ。
その目を少年たちの方に向ける。
「このボール、だれが投げたか、知ってるか?」
「そこにいるお姉さーん」
全員がユキコを指差した。
髪の薄い中年の男は、眉間に皺を寄せ、心持ち顔を突きだした。
「あなたが? 失礼ですが、あなたの娘さんですか?」
ユキコから目を移し、となりの秦に訊いた。
「娘がキャッチボールをしたいというので、投げさせたら、あっちの方まで飛んでいってしまいました」
男は、ほう、と顔で答え、音をたてそうに瞬いた。
「たまたま、飛んでくるボールを窓から見ていましたよ」
剥げた頭に浮かぶ粒の汗を、ハンカチで拭う。
「うちのグランドで投げてみますか。あと二、三分で授業も終わります。野球部の部員も校庭にでてきます。あ、私、君島と申します。ここで、野球部の監督をやらせてもらっています。どうですか?」
「やらせてください」
秦の返事を待たず、元気いっぱいのユキコが答えた。
(3-1 了)
ホーム電話を取ると、元気な若い女の声が聞こえた。
『わたし、ユキコです』
秦周一は一瞬、受話器を耳から外し、また当てなおした。
『ユキコ?』
『はい。麗江で別れたユキコです』
はきはきした声だった。
『ユキコだって……』
秦はどきりとした。
なんと、あのとき行方不明になったユキコからだった。
秦家に伝わる古文書を解明したが、その内容には、見事期待をはぐらかされた。
しかし、地図に記された×印の洞窟には、生身の可愛いい娘がいた。
しかも、病死した妻の明日子、事故死した娘の雪子に似た女性だった。
似ているどころか、娘の雪子の青味がかった瞳と同じ目をしていたのだ。
洞窟にいた娘は『氷が融けたときに迎えにくる人を待っていた』と答えたが、それは古文書にでてくる娘の台詞そのものでもあった。
さらに麗江の書道家に、秦家の祖先とおぼしき娘の父親の末裔が、秦国雲南薬草書簡を携え、東に向けて旅立ったという篆書の文書も見せられた。
この新たなる古文書の内容を素直に受け止めるとしたら、洞窟にいた娘は、遠い遠い時代の自分の祖先であるという奇妙なストーリーができてしまう。
洞窟内にいたユキコは、自分自身についてはなにも覚えていなかった。
雲南省の山育ちとはおもえぬ容姿であったが、そのくせ、石を投げて鳥を落とす見事な特技を持っていた。
野生的な毛皮も着ていたし、料理には黒曜石の包丁も使った。
だが、昆明に向かう途中、麗江で行方不明になった。
古文書から出てきた訳の分からない娘がどこかに消え、ほっとしたような気もしたが、成長した雪子を失ってしまったという無念の思いが心に残った。
帰国後、家でザックを開けてみると、豹とおぼしき動物の毛皮がでてきた。履いていた皮の靴は、どこにも見当たらなかった。
とにかく、まずはなんの毛皮なのかを確かめようと毛皮屋に行ってみた。
豹に似ているがなんの毛皮かは分からない、珍しい気がするのでと、毛皮屋の主は国立博物館勤務の動物学者、湯川博士を紹介してくれた。野生動物の専門家だった。
秦は動物学者に電話で連絡し、毛皮の切れ端を送った。
そして数日たったとき、鑑定が難しい、これをどこで手に入れたのか、と動物学者が電話で聞いてきた。秦
は、アジアの雪山をトレッキングしていたときの拾い物ですと答えた。
毛皮の正体については、動物学者の湯川博士が調査中であった。
『わたし、気がついたら上海にいたんです』
受話器からユキコの生の声が、耳に響いた。
『いま、麗江から電話しているんだな?』
秦は弾む気持ちをおさえ、声を殺した。
『いいえ、ちがいます。アキハバラの電気屋さんです。パックツアーで観光にきたんです』
『パックツアーで観光?、ほんとかよ』
いきなりの展開に、秦は声をあげてしまった。
だが、息をつき、落ち着こうとした。
『だけど、日本語、普通にしゃべってるじゃないか?』
電話に出たときから気になっていた。
『上海で日本人に教えてもらったんです』
すらすらと日本語で答える。
秦は、ユキコの超天才的な語学力を覚えていた。
『わたし、アキハバラのヒカリ電気の一階、ケイタイ売り場にいます。きてくれますか?』
がっかりさせられた古文書だったが、妻の明日子と娘の雪子の面影のあるユキコとの遭遇が唯一の収穫だった。
訳のわからない彼女の出現にとまどい、いなくなってやれやれという気持ちと、残念な気持ちが混ざりあった。
だが、麗江のホテルで渡した名刺を頼りに、パックツアーにまぎれ、やってきたのだ。
秦は拳をにぎり、ガッツポーズをとった。
散らかった居間に、久しぶりであふれるエネルギーだった。
2
地下鉄の駅を降り、電気街の通りをヒカリ電気のほうに向かった。
丸くなった背筋をのばし、不精髭を剃ってさっぱりした顎をひきしめた。
頬に当たる風が気持ちいい。
人込みを縫う足が自然に速くなった。
日本に帰ってから二ヶ月がたっていた。
長い時間ではなかったが、どんな娘になっているのかと胸がさわいだ。
新製品がならぶ一階のケイタイ売り場を見わたした。
だが、にぎわう客の中にユキコの姿はなかった。
広い店の奥に外国語のざわめきがあったが、そっちにもそれらしき姿はない。
二階かなと歩きだそうとしたとき、上の階からエスカレーターで降りてくるユキコを発見した。
肩から例の豹皮のポシェットを下げている。
黄色い花柄のブラウスに襞のある白いスカートだ。
髪がすこし伸び、肩にかかっていた。
入口の秦を発見し、白い歯をのぞかせ、笑顔を見せた。
人ごみを縫い、跳びつかんばかりに駆けてきた。
子供のように輝き、透きとおったその目の奥に、かすかな青味がある。
「ここの買い物が終わったので、もう自由行動です。秦さん、スカイツリーに連れて行ってください。そうだ、それから、ちょっと教えてください」
いきなりの忙し気な挨拶だった。
ユキコに袖を引かれるまま、秦はエスカレーターで三階までいった。
店じゅうのテレビが野球を放映していた。
録画である。満員の観客がわあーとどよめく。
それが大小無数のテレビに映しだされ、天井や壁に反射する。
電気屋の三階は球場の歓声であふれた。
「これなに?」
ユキコは、目の前の大型テレビを指差した。
ピッチャーがボールを投げるところだった。
ユキコがなにを言わんとしているのか、秦は即座に理解した。
「これは野球というスポーツだ。ボールという球を投げて、打者がそれを打って、点を争うゲームだ。詳しく説明するから、ゆっくり話せるところにいこう。ほかにもいろいろ聞きたい」
そうか、もしユキコがすごいボールを投げられたら面白いと、そのときに頭に閃いた。ふいに浮かんだわくわく感だったが、ぐっと押さえた。
今は、ほかの用件が先だ。
一階のケイタイ売り場をでて、大通りの歩道をさっき来た方向に向かった。
歩道は相変わらずの人混みである。並んで歩くユキコのからだが、秦の腕にふれる。
「あなたは、自分の名前や故郷を思い出したの? パスポート、見せてもらえる?」
ユキコは愛用のポシェットから、パスポートをだした。
赤茶の表紙の中国のパスポートだ。李月蘭という名前だった。
199X年3月19日生まれ、20歳。ビザもちゃんと取れていた。完璧なパスポートだった。
パソコンショップの隣のコーヒーショップに入った。
「わたし、だれかに⦅大きな都市にいきなさい⦆と言われて、気がついたら上海にいたんです。そのとき、ポシェットにあった秦さんの名刺にメモされていたホテルに電話をしたら、半月前に帰ったといわれたんです」
「やっぱり、まだ頭が熱くなるのか? それでその聞こえたというのは、自分の声? それとも誰かの声?」
大事な問いかけを発しながらも、自分を探していたという嬉しさが口元に現れた。
「もしかしたら、神様かな」
ユキコは、はにかむように笑って答える。
そして続けた。
「わたし、自分の名前、思い出せないんですけど、ときどき体験でもしたような変な夢を見るんです。はじめはジャングルの奥地で一本の大木が倒され、蝶が飛び立ちます。次は未開の民族が狩りをしながら楽しそうに暮らしている風景ですが、いつか文明人の手によって壊われるのではないか、という不安感が漂っています。そして海水の水位が上がって、島が沈むという嘘のニュースです。さらに人の争いで樹木が失せ、住民が暮らしていけなくなるという孤高の島の物語です」
秦は、ユキコの故郷の夢かと緊張したが、どこかのだれかとの雑談から生まれた話のようでもあった。
「とにかく⦅大きな都市にいきなさい⦆と神様にいわれて上海に着いたら、そこの人がもっと大きな都市があるって。それは東京だって言うんです」
記憶喪失などの場合は、障害の原因を西洋医学でチェックし、その後で漢方の服用に入る方法もあった。ユキコは一時的な健忘症と思われるので、用意する生薬は六種類。甘麦大棗湯、弓(くさかんむりに弓)帰調血飲第一加減、当帰勺(くさかんむりに勺)薬散、八味丸、八味丸+紅参、抑肝散・加陳皮半夏。いずれも神経症や各種の痴呆症などに抜群の効果がある。これを朝晩の二回、食事前に服用する。
「神様に告げられたって言ったけど、もちろん秦さんに会いにきたんです。もう国には帰りません。できれば秦さんの養子かなにかにしていただけませんでしょうか。書類も用意してきました。だめなら結婚してもいいんです」
ユキコは大胆な提案をした。内心あわてたが、冷静に対応した。
「でも、あなたは自分の名前も思いだせないんだろ。どうやって書類を作ったんだ」
上海で劉という男と知りあい、渡航手続きも全部やってくれたこと、そして日本語の教師も劉が紹介してくれたことなどをユキコは話した。
「費用はどうした。かなりかかったんだろう?」
ユキコはテーブルの脇のポシェットの口を開け、なかから皮の小袋、そして青玉の首飾りをだした。
「これは中国の宝物です。同じものが上海博物館にあります。どうしてこの袋にあったのかは知りません。上海の骨董屋で、同じものが高値で売られていました。青玉というんだそうですが、うまく作った偽物だそうです。それからこっちの小袋には金の粒が入っていました。これもなぜ入っていたのかは知りません。金は売ってお金にしました。こっちは本物でした」
秦は、直径二センチのブルーの玉が三つ連なる首飾りを手に取った。
透きとおった青い玉が金の鎖でつながれていた。
「あなたはやっぱり、古代から続いている王族の娘さんだ」
容姿やちょっとした仕草からしても、貧しい村から出稼ぎにきて、洞窟に迷い込んだとは思えないのだ。贋作の首飾りとしても、毛皮を着ていて、金などを持っていれば、やはり平民などではない。王の娘は言いすぎだったが、とにかく口にしてみた。
「わたしが、王族の娘?」
「きっとチベット側の山麓に、未発見の小さな王国があるのかもしれない」
そんな国は存在しないと分かっていても、秦は本当にありそうな気がした。
3
ユキコは旅行会社指定のホテルから、秦の自宅に近いホテルに移った。
大学病院へいき、精神科で検査をしたが、異常はなかった。
できれば頭が熱いときや記憶がなくなったときに来て欲しい、また『大きな都市にいけ』と告げられたのは、自分の欲望がそのように耳に響いたのではないか、と告げられた。
秦は、用意した六種類の漢方薬を朝晩に服用させたが、まだ日が浅く、記憶の回復はなかった。
東京見物に飽きたころ、秦はスポーツ用品店へいった。
そこで野球のグラブ二つとボールを買い、白金の自宅に案内した。
自宅の表側の店舗は閉鎖され、中の商品は甥の新しい店に移された。
商品の整理や発送の仕事をしてきた昔からの二人の使用人も一緒だ。
高窓から陽の射す空っぽの店舗の床に立っていると、遠く子供たちの元気な叫び声が聞こえてくる。
近所に公営のグラウンドがあるのだ。
グラウンドの隣は、高校野球でも名の知れた帝王高校のグラウンドだ。
部員たちが泥だらけで練習をしている。
秦は、公営グラウンドにユキコを連れていった。
公園の隅で、子供たちが野球を楽しんでいた。
「これから野球を教えるぞ」
野球をすると知ったユキコは、握った拳をえいっと突きあげた。
グランドに立つや、左手にグラブをはめたユキコが大きくふりかぶった。
スニーカーをはいた片足をあげ、やあと投げる真似をした。
野球の試合をビディオで観察し、投球フォームもしっかり覚えていたのだ。
「さあ、いこうか」
声をかけた。
待ってましたとばかり、いきなりユキコがふりかぶった。
びゅうっと風を切り、早速ボールが飛んできた。
かまえたグラブにぴたっと納まる。
おっ、と秦はつい声をもらした。ストレートだ。
しかしも、予想以上のコントロールだった。
テレビで見た有名選手のフォームとそっくりだった。
「ほんとかよ……」
秦はつぶやき、後ずさりした。
どんどん退っていって、公式の18メートルの距離をとった。
「さあこい」
ユキコは赤らめた頬でうなずいた。
大きく足をあげ、えいっ、とばかり放ってくる。
高々と片足を上げたので、スカートの裾が腿の付け根までずれた。
殺風景な公営グランドに、なまめかしい一本の白い足が映えた。
「わー」
フェンス際で見物していた少年たちの喚声が上がる。
女がキャッチボールはじめたぞ、と全員で注目していたのだ。
同時に、ユキコの投げたボールがぶるうーっと、ふるえながら秦の頭上を通過した。
秦は首とからだをひねり、ボールを目で追った。
ボールはフェンスを越え、高校のグラウンドの隅まで飛んでいった。
てんてんと転がっていく。小さくてもう見えない。
「はえー」
「ちょーはえー」
少年たちは口々に叫んだ。
秦も腰をかがめ、すっげえーと声をあげそうになった。
ボールの行方を追っていると、校舎の庭に面した一階の教室のドアが開いた。
中から一人の男がでてきた。
男は校舎際の花壇にかがみこみ、ボールを拾った。
そうして、白い上履のまま、両腕を振ってまっすぐ駆けてきた。
ひきしまった体格の中年の男だった。
男は校庭を横切り、フェンスの内側に立った。
肩で息をつき、細い目でフェンスの外の秦とユキコを睨んだ。
その目を少年たちの方に向ける。
「このボール、だれが投げたか、知ってるか?」
「そこにいるお姉さーん」
全員がユキコを指差した。
髪の薄い中年の男は、眉間に皺を寄せ、心持ち顔を突きだした。
「あなたが? 失礼ですが、あなたの娘さんですか?」
ユキコから目を移し、となりの秦に訊いた。
「娘がキャッチボールをしたいというので、投げさせたら、あっちの方まで飛んでいってしまいました」
男は、ほう、と顔で答え、音をたてそうに瞬いた。
「たまたま、飛んでくるボールを窓から見ていましたよ」
剥げた頭に浮かぶ粒の汗を、ハンカチで拭う。
「うちのグランドで投げてみますか。あと二、三分で授業も終わります。野球部の部員も校庭にでてきます。あ、私、君島と申します。ここで、野球部の監督をやらせてもらっています。どうですか?」
「やらせてください」
秦の返事を待たず、元気いっぱいのユキコが答えた。
(3-1 了)
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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