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第二章

ハラワタ

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 血肉の海の中から次々と生えてきた亡者どもの手、それはまるで傷口に巣食う線虫のようにうごめいていた。私はこれから起こるであろう恐怖に身の毛がよだち、すくみ上がってしまう。
 しかし、そんな硬直した体でも眼球だけはしっかりと動かすことはできた。私の視界の端に真紅の細い一本の線が走ったのをはっきりと捉えたのだ。
 私を中心に円を描くようにほとばしる、その真紅の閃光──それはイヴの髪だった。

 亡者どもの腕、手首、指が切断され、血肉の海に散っていく。イヴの髪が通過した軌跡に残骸が沈みゆくその光景はまるでドミノ倒しのようであった。

 イヴは私の後ろにいた。いや、イヴはずっと私のそばにいたのだと思う。つばさの造った異界空間の中だろうが、この地獄の中だろうが。いや、もっと前から──

 『主人に尽くすことを最上の喜びとする』

 私は〈収集狂の図鑑〉に記載されていた説明を思い出した。イヴは主人である私に尽くすこと、すなわち私の命令に従うことを至上の喜びとしている。私を護らんと常に私のそばにある。イヴはさながら守護者のような存在なのだろう。

 こうやってまじまじとイヴを見たのは今回が初めてだ。私の身長より若干背が低い程度、175センチほどか。顔の位置は私とほぼ同じだが、9頭身くらいありそうなほどその顔は小さかった。
 イヴはそんな小さな顔を少し傾げて私を。物理的な目というものがないので私を見ているのかどうかわからないが、視線をしっかりと感じることができた。
 イヴのマネキンのようなその顔には目鼻立ちのライン、凹凸だけはしっかりと存在している。この世に顔立ちの黄金比というものがあるのならば、このマスクがそうだと言い切れるほど整っている。こいつに人間の皮を被せると端正な顔立ちになるかもしれない……こんな非常時にとんでもないことを考えてしまった。

 突然、前方からグチャッグチャッと不快な音が聞こえた。音がした方を見やると、そこには駅の天井まであろうかという巨体の化け物が足元の血肉を飛び散らせながら徘徊していた。横浜に現れた異形の者〈貪り喰う屍体したい〉が巨人化したような見たくれで、異様なまでに膨らんだ腹が特徴的だった。子供の頃によく読んだ妖怪の本に載っていた地獄の餓鬼のいびつな腹を思い出す。

 巨体の屍体は私たちに気づいていないが、徐々にこちらの方に近づいてくるようだった。私は奴の視界に入らぬように静かに柱の陰に隠れて、対処の方法を考えた。迂回するか、このままやり過ごすか、それともイヴに始末してもらうか。ふと天井の方を見ると、八重津南口と書いてある案内掲示板が電線だけでかろうじてぶら下がっていた。そうだ、私は東京駅の南東方面から構内に入ったのだ。そもそもこれからどこへ向かえばいい? つばさにつられて飛び込んだのはいいものの……
 先に突入したつばさは無事だろうか。私と同じように襲われていてもおかしくない。あの娘はこのような地獄が待ち受けていると知って飛び込んだのだろうか。彼女に取り憑いている得体の知れない霊体、異次元の力を持った赤い眼、そして怨念の塊のような雰囲気をまとう般若の死装束とその従者のような者たち……今は彼女の力を信じて、この地獄でも逞ましく生き延びていてくれと祈るしかない。

 巨体の屍体がウロウロしていた方向から大きな唸り声が聞こえてきた。柱の陰からそっと顔を出して様子を窺ってみると、巨体の屍体が四つん這いになっているのが見えた。そいつはその口を大きく開こうとして唸っているようだった。次の瞬間、顎が外れたのかその口がだらんと大きく開かれ、そこからドロドロと大量の赤い液体を吐き出し始めたのだ。床につきそうなほど大きく膨らんだ腹が吐くたびに大きく波打っている。何とおぞましい光景……私の精神はよく壊れずに持ちこたえてられているものだと、我ながらに感心する。

 吐き出された液体がモゾモゾと動き出した。そこから現れたのは──あの屍体ども、〈貪り喰う屍体〉だった。床から赤い血のような粘液の糸を引っ張りながら起きあがると、巨体の屍体の周りを徘徊し始めた。次々と増えていく屍体ども。この数に囲まれるとかなり危険だ。

 イヴはそんな私の思惑に気づいたのか、私に小さく頷くと巨体の屍体の視界に入るように飛び出していった。

 巨体の屍体はイヴに気づくと、その巨躯では考えられないほどのスピードで迫ってきた。顎をブランブランとぶらさげ、そこから屍体どもを撒き散らしながら。吐き出された屍体どもも一斉にイヴに迫り来る。

「イヴ! 来るぞ!」

 イヴは左足を力強く踏み出し、右足を大きく後ろに引くと、そのままサッカーのシュートを放つが如く足元の床を前方に蹴り抜いた。凄まじい轟音とともに床のタイル、コンクリートの破片が飛んでいく。その破片は散弾銃の弾のように間近に迫っていた異形の者どもを撃ち抜いていった。巨体の屍体は全身蜂の巣のように風穴が開き崩れ落ち、他の屍体どもは木っ端微塵になり消し飛んでいった。それはもう散弾銃ではなく、機関銃と言っても良いほどだった。
 
 イヴは間髪入れず残った屍体どももほふっていく。亡者の手、屍体どもの残骸が飛び散り、血肉の絨毯や壁を塗り替えるかのようにへばりついていく。イヴの動きには無駄な動きが一切なかった。敵とあらかじめ打ち合わせをした殺陣を観ているかのようだった。

 しかし、敵はそれ以上の数で次々と襲い来る。このの中は、言わば敵の腹の中、屍体や亡者どもは無尽蔵に湧いてくるのだ。このままでは拉致があかない。〈冥府の芽吹〉の本丸を叩かなくてはならないのではないか。図鑑に描かれていた〈冥府の芽吹〉は種だった。そこから想像するに、その種を植え付けた場所が本丸。種を植え付けるとしたら地中……最も深い場所はどこだ? 京葉線だったか、隣接のメトロだったか。

 東京駅の構内がイヴの戦闘による衝撃で小さく振動している。天井から肉の溶けたような粘り気のある液体が滴り落ちてくる。私は剥がれ落ちた天井に目をやると、そこには植物の根というか幹のようなものが這っていた。それはドクドクと何かを送り出しているかのように脈打っていた。天井、床、壁の血肉の裏には恐らくこれが這っているのだろう。

 脈打つ速度が速くなってきた。何か嫌な予感がする。何かが起ころうとしている。

 イヴが私を見た。私もイヴを見た。


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