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第二章
異界の図鑑
しおりを挟むあのおぞましい事件は連日のように報道されていた。私のマンション周辺では今も世界中のマスコミが陣取り合戦を続けている。
美沙のご両親が心配して電話をくれた。『しばらくこちらに来たらどうか』と言われたのだが、丁重にお断りした。今、私のそばでは何が起こるかわからない。ご両親を巻き添えにすることなんて絶対にできるわけがなかった。
疎遠になっている弟の拓海からも電話があった。素っ気ない電話だったが、私の無事を聞いて少なからず安心はしてくれたようである。
現代の科学では到底説明のつかない現象が起こり、多くの犠牲者も出た未曾有の事件。皆の関心が高くて当然である。
犠牲者と言えば少なくとも百人以上と報道されているが、恐らくもっといると思う。私はあの地獄絵図を目の当たりにしたのでわかる。屍体どもは全てを喰らい尽くしていたのだ。跡形なんてほぼ何も残っていないだろう。よくホラー映画などでゾンビに喰われ、ゾンビの仲間になってしまう人間がいるが、あれはそんな生易しいものではなかった。
そんな怪物どもの大群をいとも簡単に屠ってしまったイヴ。
あの時彼女は私を守ろうとしていたのだろうか? もしそうだとしたらなぜ?
彼女は屍体どもの殲滅を終えると、私の部屋の時のようにまた赤い塵となり消えた。正体、目的は一切謎のままである。
そしてあの屍体の大群……あいつらもどうやって現れたのだろうか? イヴやルーレットと何か関係があるのだろうか?
謎が謎を呼ぶ。今は何でもいいから情報が欲しい。そのためにできることは全てやっておかなくてはならない。
幸い、会社から長期休暇をもらったので時間はたっぷりとある。年末年始ということもあったのだが、あの惨劇が私のマンションのすぐ近所で起こったことを知った上司が『しばらく休養が必要だろう』と気を遣って休暇をくれたのだ。私はその言葉に甘えさせてもらった。
ルーレットをそっとテーブルに置いた。恐ろしい形相をしている悪魔、道化の針を見てゴクリと唾を飲む。
今、唯一の手がかりはこのルーレットだけだ。できることはただ一つ……やるしかないと覚悟を決める。
ルーレットの中央に突き出している円錐の先端に人差指の腹を強く押し付ける。指からほんのわずかな量の血がゆっくりと滴り落ちていく。
三つの針がゆっくり動き出した。血が動力になっているのはどうやら間違いないようだ。
カリッ カリッ カリ……
針はこの前とは異なり、どれも一周ほど廻らだけでにすぐ止まってしまった。
最後の悪魔の針が止まると同時に、またあの独特の禍々しい空気が立ち込めてくる。緊張がピークに達し、自分の心臓の音が気持ち悪いほど聞こえる。
ゴトンと目の前の床に見覚えのある本が落ちた。
「えっ?」
拍子抜けして思わず声が出てしまった。
床に落ちた本を拾い上げる。読みかけのビジネス英語の参考書だった。確か、会社に持っていく鞄に入れていたはずだ。自室に行って机の脇に置いてある鞄の中を確認してみると、そこにあるはずの参考書はなくなっていた。
鞄の中からリビングに瞬間移動したのか? 何がどうなっているのだ?
参考書の中身を確認してみる、その途端──
頭の中を奇妙な感覚が走り出す。自分の存在が本の中に吸い込まれていき、逆にこの本の存在が自分の記憶の中に入り込んでくるような奇妙な感覚。ルーレット、イヴ、動く屍体、そしてこの参考書……頭の中で次々と記憶がフラッシュバックしていく。
めまいで立っていられずソファに寝そべる。
深呼吸で気持ちを落ち着かせ、もう一度参考書を開いてみた。
そこに書かれていたものはビジネス英語の参考書とは全く異なるものだった──
一ページ目、そこにはゆらゆらと揺れながら『全ての収集狂へ捧げる』というタイトルが浮き出ていた。目で見ているというよりも意識で見ている感覚だ。
不思議な感覚に戸惑いながら、ページをめくる。一ページ目同様、書かれている文字、描かれている絵全てがゆらゆらと浮き出ていた。
二ページ目には何と、今私が見ているビジネス英語の参考書の絵が精細に描かれていて、絵の上には【No.1 収集狂の図鑑】と書かれている。そして隣の三ページ目にはその説明らしきものが書かれていた。
一、これは、蝕界で生まれし図鑑である
二、これは、召喚した者しか読むことはできない
三、これは、蝕界で生まれた存在を自動書記していくことができる
四、これは、召喚者の経験したものしか記さない
『知識を極めし賢者が最後は覇者となる』
どうやらこの参考書の外観は変わらず、中身だけが変な図鑑に変わってしまったようである。そしてこの図鑑に図鑑自身が載っている。恐らく説明にある『蝕界』という、聞いたこともない世界の影響で奇妙なことが起こってしまっているのだろう。
さらにページをめくってみた。そこには目の前のテーブルに置かれている恐ろしいルーレットが載っていた。先ほどの図鑑のページと同じ構成で、見開きの左ページにルーレットが描かれていて、【No.488 愚者のルーレット】とある。右ページにはルーレットの説明が記載されている。
一、これは、蝕界で生まれしルーレットである
二、これは、生き血を捧げた者へ僥倖、厄災のいずれかをもたらす
三、これは、霊魂を賭けることで起動させることができる
四、これは、蝕界の存在を召喚することができる 生き血を捧げた者はその存在の主人となる
『魂にも質があるのだ お前の魂も計ってみるがよい』
やはりこのアンティークは時計盤ではなくルーレットであった。そして異界から何かを召喚するための道具でもあるようだ。つまりこのルーレットで召喚したイヴや図鑑の主人は私ということか……イヴが私に危害を加えず、私の依頼を聞いてくれたことに合点が行く。
『霊魂を賭ける』、『お前の魂も計ってみるがよい』という言葉が気になったが、それ以上に次のページを早く見たいという欲求に負けてしまう。
さらにページをめくると、そこには彼女がいた。【No.XXXXXX イヴ】という名前がついている。
私がつけた名前があることを不思議に思いつつ、さらに読み進めていった。
恐ろしくも妖艶な姿が描かれてる。真紅の長い髪、若い女性のデスマスクのような顔。マネキンのようにすらりと長い手脚が伸びていて、体つきはモデルの女性そのものだ。しかし、全身真っ黒な上、下腹部から肩口にかけて赤い毛細血管のような筋が無数に浮き出ている姿を見ると、やはりこの世の者ではないのだと改めて思うのだった。
イヴの説明はこう書かれている。
一、これは、蝕界で生まれし最上位生命体である
二、これは、蝕界で唯一無二の存在である
三、これは、類稀なる能力を有する
・蝕界で最も硬度のある骨格、皮膚、筋肉、髪を有する
・思考と肉体の間には誤差、時間差が生じない
・髪を自在に操ることができる
四、これは、主人に尽くすことを最上の喜びとする
『深紅の焔は深淵の闇を照らし、数多の業を焼き尽くすだろう』
なんという豪華なスペック。イヴのあの鬼神のような強さは図鑑にも現れていた。
図鑑の名前には『No.XXXXXX』と書かれていて、他とは違う存在であることが何となく想像できる。存在自体も稀有なのかもしれない。
私はとんでもない存在を召喚してしまったようだ……
イヴの次のページには【No.187435 貪り喰う屍体】と書かれていた。ポートサイドに突如現れたあの腐った人体模型のような化け物。人間の全身の皮膚が溶け落ちて内臓や骨が露わになった姿をしている。こいつの表情からは生者の肉を求めるおぞましい執念のようなものが伝わってくる。
一、これは、蝕界で生まれし擬似生物である
二、これは、人間界の魂を供物として捧げることで容易に召喚できる下等な存在である
三、これは、知能は低く、生者の肉を貪り喰うことしか考えない
『自分の腹が破れても彼らは喰らい続けるだろう なぜ喰らうのかわかっていないのだから』
あれで下等な存在とは……下等であってもあいつらが群になると非常に危険である。人間が次々と貪り喰われていった地獄絵図が目に焼き付いている。
説明に『召喚できる』と書かれているので、誰かがポートサイドに〈貪り喰う屍体〉の群を召喚したということか。恐らく昼を一瞬で暗闇に変えたのも同一人物だろう。かなり危険な奴がいるということだ。
次のページ以降は何も書かれておらず白紙であった。〈収集狂の図鑑〉の説明に書かれていた『召喚者の経験したことしか記さない』という説明の通りだ。つまり、『蝕界で生まれた存在』で私が経験したものは、今のところこの図鑑に載っている四種だけということである。
この図鑑をルーレットで召喚できたことは素晴らしい収穫であった。図鑑のおかげで未知の世界の情報を手にすることができた。
すぐそばに常識を覆す未知の世界があるのだ。美沙の死がルーレットによるものであれば、ルーレットで生き返らせることもできるのではないかと淡い期待を抱いてしまう。このルーレットには何かそのような力が宿っているような気がしてならない。
私は図鑑を閉じ、窓越しに空を見上げた。雲ひとつない紺碧の空が広がっていた。
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