無力な聖女が魔王の右腕と契約する話

片茹で卵

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 何が起きたのか理解できなかった。まるで力の入らない身体。頭は泥を流し込まれたように思考が働かず、心臓だけが大きく脈動している。

「な、なに……」

 掠れた声でどうにか口にして視線を上向けると、椅子に座したまま見下ろしてくるヴェルムと視線が合った。教会の関係者であることを示す神聖な法衣、しかしその背中には、滑らかな艶を帯びた黒い羽が生えている。

(魔族……)

 存在は知っていたものの、対峙したのは初めてだった。魔王に仕える数多の魔物の中で、より高い地位を占めるもの。美しい容姿と甘言で人を惑わし、その魂を喰らうもの。
 今までどうやって隠してきたのか、淡い光を放つ瞳から感じられる魔力は全てを飲み込む濁流のようで、今のルクスはもちろん、街が一丸となっても太刀打ちできるとは思えなかった。

「手荒な真似をして申し訳ありません。護衛は眠らせておりますが、騒ぎになって無辜の民を手をかけるのは本意ではありませんので」

 立ち上がったヴェルムが、ゆっくり距離を詰める。恭しく床に跪くと、荒い息をつくルクスの頬に指先を走らせた。

「……っ」
「慈光の聖女、貴方の持つ魔力は少々特殊なのです」

 頬からこめかみ、耳朶へと移動する滑らかな皮膚からは、血のあたたかみが感じられない。

「我々の力に抗うことで初めて流動する静の魔力。防衛に用いるのならば現状でも多少役に立つでしょうが、体外に放つには貴方の力と同等の闇を取り込む必要があります」

 奇妙に長い指が額に垂れた髪を柔らかく梳いて、ルクスは身震いした。異性、それも魔族に触れられるなど夢にも思わなかった。不安に塗りつぶされる心を他所に、体内では魔力が細波を打っている。

「そして私は、この地を統べる魔王の右腕を務める者です。呼び水として多少はお役に立てるかと」

 事もなげに告げられた言葉に思い出す、魔王の傍に侍る黒い髪と灰燼の瞳を持つ魔族の噂。幾つもの街が焼き払われ、燃え盛る炎の中に人ならざる羽根の影が広がっていたと。
 まさか、目の前の男が。とても信じられないが、そうでもなければ説明できない甚大な魔力が不穏な予想を裏付ける。

「ま、魔王の配下が、なぜ人間に利するようなことを……あっ」

 横倒しになった身体を唐突に抱き上げられて、語尾が跳ね上がった。圧倒的な力を持つ魔族に身体の自由を奪われて、自身の無力を痛感する。
 恐れを隠せない心臓が悲鳴を上げるたびに脈動する魔力の熱。こんな時でなければ跪いて神に感謝しただろう。ついに祈りが通じたのだと。しかし実際にルクスに変化を与えたのは神ではなく出会ったばかりの魔族で、こわばる身体は白いシーツに横たえられた。

「人間に力添えする理由はごく単純で――私は飽いているのです」

 ぎしり、とベッドが軋みを上げる。覆いかぶさるヴェルムの面差しは、おそろしく美しかった。人間を欺くためのものだと理解していても、目を奪われそうになる。淡灰色の瞳に、燭台の光が星のように反射している。

「貴方もご存知の通り、この地は長く魔王様に支配されています。混沌より生まれた我々が人間を制圧し、新たな社会を作り出した。その結果生まれた秩序、変化のない世界と従順な他種族、あれほど闘争に明け暮れていたというのに、今や城を出ることすらない魔王様、全てにうんざりしているのです」

 体温の低い手が、とがった顎を掬い上げる。親指の腹に唇を割られて、ルクスはぞくりと背すじを震わせた。闇を取り込むという表現、全身を覆う影、それが何を意味しているのか少しも想像できないほど幼くはない。魔族がすぐに喰らうつもりのない人間を本能で支配する方法も、書物で学んでいる。

「私は闘いを望んでいます。抗うものをこの手で叩きつぶしたい。しかし我々混沌の民は、混沌そのものである魔王様と直接は争えない。ゆえに、貴方がたに託すのです。救世の勇者と慈光の聖女が筆頭となって、かつてこの地で行われたような闘争を繰り広げる。それが私の何よりの願いですが、そのためには貴方に強くなっていただかなくては」

 到底理解できない言葉を並べて微笑んだヴェルムが、吐息すら触れる距離でルクスを見据えた。夜を薄く削り取ったような瞳に、戸惑いに満ちた聖女の姿が映っている。

「最も簡単に、かつ対象を傷付けずに力を注ぐ術をご存知ですか?」
「…………ッ」

 露骨な背徳を帯びた問いかけが、清廉を重んじる魂にじわりと染みを作る。
 ルクスは迷った。例え歯が立たたなくとも全霊で抗うべきか。しかし、それが誰のためにもならないことはよくわかっていた。ルクスが拒めば、ヴェルムはあっさり牙を剥いて利用価値のない魂を喰らうだろう。それどころか、街そのものを破壊するかもしれない。魔族にとっての人間は戯れに生かしている存在に過ぎず、いつでも命を刈り取れるのだから。

 聖女という役割を与えられてから、数えきれないほど神に祈ってきた。どうか人々を助けるための力をお与え下さい、どんな困難も乗り越えますからと。誇りを貫いて破滅を選ぶか、苦難に耐えて実を取るか。民への奉仕者であるルクスにとって、取るべき行動は明らかだった。

「……も、もし私が聖女として成長し、救世の勇者と力を合わせれば、いつか貴方の首にも手が届くかもしれませんよ」

 せめてもの抵抗にと挑むように喉を反らせて見せたルクスに、ヴェルムが笑った。心から愉快だと言わんばかりに目を細めて、長い睫毛に縁取られた瞼を伏せる。柔和な顔立ちは、人間どころか虫一匹殺せないようにすら見えるのに。

「それも一興、恨みごとなど言いませんよ」

 鼻先が掠めるように触れ、最後に残された距離がゼロになる。ひんやりと乾いた皮膚の触れ心地は、ルクスが生涯経験しないはずだった口付けの味だった。
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