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想像していなかった言葉に、私は目を見開いた。
「……え?」
「だから、私ではない相手と人生を共にしたいのだろう」
「ご、誤解です、愛する者というのは家族の話で」
冬の雨よりも冷たい声に心臓が縮み上がる。
そう広くない部屋で私とアルクス様の距離は数歩の内にゼロになって、私は壁に背をつけて身を小さくする他なかった。緊張と混乱で、心臓が軋むように痛む。息が上がって、思うように話せない。
「アルクス様、い……以前からお伝えしようと思っておりましたが、私には意中の方などおりません」
より正直に言えば、いたことがなかった。幼い頃、テネトのお兄様であるグィリス様にほのかな憧れを抱いた記憶はあるけれど、恋慕と呼べる感情はまだ知らない。一生知らないままかもしれないとさえ思っている。
アルクス様は、誰かを愛したことがあるのだろうか。あるとしたら、きっとお相手は私とは似ても似つかない麗しい貴婦人だろう。例えば……エウレア様のような。
「……カペラ」
前腕を壁に預けたアルクス様が、私を覗きこむように顔を寄せた。さらりと溢れる艶のある黒髪。薄氷めいた瞳に揺らめく炎が反射して、奇妙な熱が灯っているように見える。
「君はあの夜、招待客でもない男と中庭で隠れて踊っていた」
「彼は、」
「ソル家の次男だろう、幼馴染で仲が良いと聞いている」
「それは、否定しませんが……アルクス様の思われるような関係ではありません」
凍えたように震える声で否定したものの、注がれる眼差しは到底私の言い分を信じているようには見えない。
知らず手を握りしめて、私は落ちつかなく視線を左右に動かした。テネトはミュリーと想い合っているけれど、未だ正式に婚約していない二人の関係を伝えるのは憚られる。そもそも、伝えたところで納得していただけるかどうか。そう不安を覚えるほど、私たちの間には信頼が欠けていた。
「……白々しい話だな」
言葉に詰まった私の肩に、アルクス様が躊躇いなく触れる。森での一件が脳裏をよぎり、慌てて制止の声を上げようとしたものの、先に乾いた指先が首すじを撫で上げた。
触れるか触れないかの微細な触れ方に、うなじが粟立つ。
「な、に……」
「正直に言えば、君の答えに興味はない。この場で証明できるものではないし、仮に君が私を欺こうとしているのだとしても、婚約している事実は変わらないのだから」
剥き出しの肌身、それも日頃あまり触れない箇所に、指の長い手が触れている。足元から這い上がる恐怖に、どうしてこの場に足を踏み入れてしまったのかと後悔したけれど、今更だった。腕の中に閉じ込められて、どう逃げればいいのか分からない。
「とはいえ、未練は断ち切っておきたい。今後決して他の手を取らないように、自分が誰の伴侶なのか、その身で理解できるように」
怖いほど静かな声が、語尾でわずかに掠れる。それは昂りというよりも、自棄の色を帯びて響いた。触れるべきでないものに触れた諦観の息遣い。
――アルクス様は、本当に今の状況を望んでおられるのだろうか。頭のすみを掠めた疑問は、けれどすぐに霧散した。輪郭を這う指に喉を晒されて、制止の声を上げる間もなく口付けが降ってくる。
「……ん、ん」
唇は一度隙間なく重なるとすぐに離れていったけれど、アルクス様は身を引かず、依然吐息のかかる距離で私を見ていた。羞恥に頬を染める私を無言で凝視すると、やがて囁くように名前を呼ぶ。親指の先が唇に触れて、あ、と思う間もなく僅かな隙間が開いた。
「カペラ、君が言っていたように、私は自身を恥じるよりも得たいものを優先しようと思う」
口腔の粘膜に空気が触れる。それが何を意味するのか気付いて鋭い吐息を吐いた唇に、熱く柔らかいものが触れた。
「……え?」
「だから、私ではない相手と人生を共にしたいのだろう」
「ご、誤解です、愛する者というのは家族の話で」
冬の雨よりも冷たい声に心臓が縮み上がる。
そう広くない部屋で私とアルクス様の距離は数歩の内にゼロになって、私は壁に背をつけて身を小さくする他なかった。緊張と混乱で、心臓が軋むように痛む。息が上がって、思うように話せない。
「アルクス様、い……以前からお伝えしようと思っておりましたが、私には意中の方などおりません」
より正直に言えば、いたことがなかった。幼い頃、テネトのお兄様であるグィリス様にほのかな憧れを抱いた記憶はあるけれど、恋慕と呼べる感情はまだ知らない。一生知らないままかもしれないとさえ思っている。
アルクス様は、誰かを愛したことがあるのだろうか。あるとしたら、きっとお相手は私とは似ても似つかない麗しい貴婦人だろう。例えば……エウレア様のような。
「……カペラ」
前腕を壁に預けたアルクス様が、私を覗きこむように顔を寄せた。さらりと溢れる艶のある黒髪。薄氷めいた瞳に揺らめく炎が反射して、奇妙な熱が灯っているように見える。
「君はあの夜、招待客でもない男と中庭で隠れて踊っていた」
「彼は、」
「ソル家の次男だろう、幼馴染で仲が良いと聞いている」
「それは、否定しませんが……アルクス様の思われるような関係ではありません」
凍えたように震える声で否定したものの、注がれる眼差しは到底私の言い分を信じているようには見えない。
知らず手を握りしめて、私は落ちつかなく視線を左右に動かした。テネトはミュリーと想い合っているけれど、未だ正式に婚約していない二人の関係を伝えるのは憚られる。そもそも、伝えたところで納得していただけるかどうか。そう不安を覚えるほど、私たちの間には信頼が欠けていた。
「……白々しい話だな」
言葉に詰まった私の肩に、アルクス様が躊躇いなく触れる。森での一件が脳裏をよぎり、慌てて制止の声を上げようとしたものの、先に乾いた指先が首すじを撫で上げた。
触れるか触れないかの微細な触れ方に、うなじが粟立つ。
「な、に……」
「正直に言えば、君の答えに興味はない。この場で証明できるものではないし、仮に君が私を欺こうとしているのだとしても、婚約している事実は変わらないのだから」
剥き出しの肌身、それも日頃あまり触れない箇所に、指の長い手が触れている。足元から這い上がる恐怖に、どうしてこの場に足を踏み入れてしまったのかと後悔したけれど、今更だった。腕の中に閉じ込められて、どう逃げればいいのか分からない。
「とはいえ、未練は断ち切っておきたい。今後決して他の手を取らないように、自分が誰の伴侶なのか、その身で理解できるように」
怖いほど静かな声が、語尾でわずかに掠れる。それは昂りというよりも、自棄の色を帯びて響いた。触れるべきでないものに触れた諦観の息遣い。
――アルクス様は、本当に今の状況を望んでおられるのだろうか。頭のすみを掠めた疑問は、けれどすぐに霧散した。輪郭を這う指に喉を晒されて、制止の声を上げる間もなく口付けが降ってくる。
「……ん、ん」
唇は一度隙間なく重なるとすぐに離れていったけれど、アルクス様は身を引かず、依然吐息のかかる距離で私を見ていた。羞恥に頬を染める私を無言で凝視すると、やがて囁くように名前を呼ぶ。親指の先が唇に触れて、あ、と思う間もなく僅かな隙間が開いた。
「カペラ、君が言っていたように、私は自身を恥じるよりも得たいものを優先しようと思う」
口腔の粘膜に空気が触れる。それが何を意味するのか気付いて鋭い吐息を吐いた唇に、熱く柔らかいものが触れた。
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