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その二階建ての小さなコテジはリシア家が森の奥まで足を伸ばす際に使用するもので、お父様の趣味に合わせて質素ながらも使いやすく整えられていた。
「アルクス様、火を起こしますので少し……」
「必要ない」
点火用の魔法陣を描こうと白墨を取り出した私を片手で制して、円錐状に並べられた薪に手をかざすアルクス様。短い詠唱すらなく火は灯り、程なくして薪の爆ぜる音が聞こえ始めた。冷えた空気がぬくもりを帯びて、かじかんでいた指の痺れが解けていく。
「……降られましたね」
「ああ」
一階中央に位置する部屋には石造りの暖炉、その正面には背の低いテーブルと長椅子が配置されている。ひとつ失念していたのは本来長椅子と向かい合っているはずの肘掛け椅子が背もたれの傷みで修理に出されていたことで、結果、あまり大きいとは言えない長椅子以外に座る場所がない。アルクス様と身を寄せ合って座るのは抵抗があって、私は窓際に立って雨に濡れた風景を眺めた。
南向きの窓からは、森を流れる川が見える。波を打つ水面を眺めていると。あの日の記憶がよみがえった。急激に膨張した魔力の気配に目を見開いたアルクス様。地面を蹴って飛びついた細い御体と、次の瞬間鼓膜をつんざく勢いで鳴り響いた轟音。
「……先ほどの話なのですが」
「創術の件なら、私が勝手にすることだ。君に指図される謂れはない」
「そうは参りません。ああいった呪文を一から作り出すことがどれほど労力を要するか……」
「君にとっては困難でも、私にとっては違う」
素っ気ない口調を、けれど私は納得しなかった。ずっと納得していない。なぜアルクス様があの事故にこだわっているのか。
本来なら、一等貴族にとって準三等貴族の娘が傷を負ったことなど気にかけることじゃない。ましてや魔力の爆発はシルヴァの問題、管理不足によって客人を事故に巻き込みかけたと罰されてもおかしくない出来事だった。
なのにアルクス様は責任を取ろうとして、私を婚約者に選んだ。間違った方向に足を踏み出してしまった。
私はこの方を前にすると萎縮してしまうけれど、決して酷薄だとは思わない。身分のかけ離れた、優れた魔力も美貌もない年上の娘の爛れた背中を憐れんで求婚したのだから。この二年間だって、ないものとして扱われただけで、物理的に苦しめられたことは一度もない。
でも私は、自分の未来を変えたいと思った。それが、アルクス様のためでもあると。私たちはねじれて絡まった糸のようなもので、一度解くことで互いにこの閉塞感から救われるのだと。
「……花には咲くに相応しい場所があります」
唇から溢れた言葉は、舞踏会の夜、アルクス様が口にしたのと同じものだった。
「アルクス様は偶然踏みつけた私という花を救って下さりましたが、ありふれた野花があなたの胸を飾れるはずがない」
長椅子に座るアルクス様は飾り気のないシャツに黒い絹紋様の中衣、厚手の脚衣という慎ましやかな格好でありながら、輝くように美しい。湿った黒髪から覗く瞳は透き通るように淡い青にも紫にも見えて、初めて太陽の下で顔を合わせた時は、こんな瞳の方がいるのかと胸が高鳴った。
「一度、手を差し伸べて下さっただけで十分です。これ以上の罪滅ぼしは要りません。私は生まれ育ったこの地で、愛する者と生きて……」
お父様お母様の優しい笑顔、幸せそうに寄り添うミュリーとテネトを思い描いて口元を綻ばせたのと、アルクス様が立ち上がったのは同時だった。
「――今のが、君の本音か」
「アルクス様、火を起こしますので少し……」
「必要ない」
点火用の魔法陣を描こうと白墨を取り出した私を片手で制して、円錐状に並べられた薪に手をかざすアルクス様。短い詠唱すらなく火は灯り、程なくして薪の爆ぜる音が聞こえ始めた。冷えた空気がぬくもりを帯びて、かじかんでいた指の痺れが解けていく。
「……降られましたね」
「ああ」
一階中央に位置する部屋には石造りの暖炉、その正面には背の低いテーブルと長椅子が配置されている。ひとつ失念していたのは本来長椅子と向かい合っているはずの肘掛け椅子が背もたれの傷みで修理に出されていたことで、結果、あまり大きいとは言えない長椅子以外に座る場所がない。アルクス様と身を寄せ合って座るのは抵抗があって、私は窓際に立って雨に濡れた風景を眺めた。
南向きの窓からは、森を流れる川が見える。波を打つ水面を眺めていると。あの日の記憶がよみがえった。急激に膨張した魔力の気配に目を見開いたアルクス様。地面を蹴って飛びついた細い御体と、次の瞬間鼓膜をつんざく勢いで鳴り響いた轟音。
「……先ほどの話なのですが」
「創術の件なら、私が勝手にすることだ。君に指図される謂れはない」
「そうは参りません。ああいった呪文を一から作り出すことがどれほど労力を要するか……」
「君にとっては困難でも、私にとっては違う」
素っ気ない口調を、けれど私は納得しなかった。ずっと納得していない。なぜアルクス様があの事故にこだわっているのか。
本来なら、一等貴族にとって準三等貴族の娘が傷を負ったことなど気にかけることじゃない。ましてや魔力の爆発はシルヴァの問題、管理不足によって客人を事故に巻き込みかけたと罰されてもおかしくない出来事だった。
なのにアルクス様は責任を取ろうとして、私を婚約者に選んだ。間違った方向に足を踏み出してしまった。
私はこの方を前にすると萎縮してしまうけれど、決して酷薄だとは思わない。身分のかけ離れた、優れた魔力も美貌もない年上の娘の爛れた背中を憐れんで求婚したのだから。この二年間だって、ないものとして扱われただけで、物理的に苦しめられたことは一度もない。
でも私は、自分の未来を変えたいと思った。それが、アルクス様のためでもあると。私たちはねじれて絡まった糸のようなもので、一度解くことで互いにこの閉塞感から救われるのだと。
「……花には咲くに相応しい場所があります」
唇から溢れた言葉は、舞踏会の夜、アルクス様が口にしたのと同じものだった。
「アルクス様は偶然踏みつけた私という花を救って下さりましたが、ありふれた野花があなたの胸を飾れるはずがない」
長椅子に座るアルクス様は飾り気のないシャツに黒い絹紋様の中衣、厚手の脚衣という慎ましやかな格好でありながら、輝くように美しい。湿った黒髪から覗く瞳は透き通るように淡い青にも紫にも見えて、初めて太陽の下で顔を合わせた時は、こんな瞳の方がいるのかと胸が高鳴った。
「一度、手を差し伸べて下さっただけで十分です。これ以上の罪滅ぼしは要りません。私は生まれ育ったこの地で、愛する者と生きて……」
お父様お母様の優しい笑顔、幸せそうに寄り添うミュリーとテネトを思い描いて口元を綻ばせたのと、アルクス様が立ち上がったのは同時だった。
「――今のが、君の本音か」
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