お互いのために別れを告げた婚約者が追いかけてくる話

片茹で卵

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「――」

 時が止まったかのようだった。清潔に乾いた唇が隙間なく重なって、触れ合った箇所から微かな体温が伝搬する。
 擦り合わせるように表面を撫でる薄い皮膚と、顎を固定する骨ばった指。自分が何をされているのか、この上なく鮮明に感じているのに受け入れられない。あのアルクス様が、凍土に佇むような人が、こんなことを。

「ん、う」

 ぎこちなく身を捩って逃れようとしても、すぐに吐息を奪われる。鼻に抜けるようなはしたない声が洩れて、顔から火が出そうだった。白く染まる思考と、破裂しそうな心臓。あと数秒長く口付けが続いていれば、膝から崩れ落ちていたかもしれない。

「は……ぁ……」

 やがてゆっくりと唇が離れて、私は肩を震わせながら息を吐いた。ろくに力の入らない身体を、長い腕に抱き止められる。じわりと滲む視界に、目頭が濡れているのだと気付いた。

「なぜ、ですか……どうしてこんな……」

 もしも王都で暮らしていた時に唇を求められたのなら、迷いながらも受け入れたと思う。私に触れたいと思って下さるのだと、嬉しくなったかもしれない。
 けれど今は、この方が怖い。感情の窺えない声、冷えた肌が。なのに背を抱いて離さない力の強さが。

 きっと、淑女にあるまじき姿をしているであろう私を見下ろすアルクス様の美しい瞳は、光を通さない角度のせいか、底のない沼のように見えた。

「――君の気が変わるまで、ここに滞在しよう」
「え?」
「冬になる前に戻るつもりだったが、たまには今後について話し合うのも悪くない」

 当たり前のように言い放たれて、言葉を失う。

「ア、アルクス様、先程も申し上げましたがこれ以上お話しすることはありません。もう、王都には……」
「私は君の婚約者をやめるつもりはないし、準三等貴族に一等貴族との婚約を破棄する権限はない。それと、」

 忘れ物を返しておく。抑揚のない言葉とともに、何か硬く冷たいものが指先に触れる。慌てて手元を見ると、左手の薬指に金細工の指輪が嵌められていた。
 私が王都に残していった、アルクス様からの婚約指輪――繊細にカットされた宝玉は私の瞳と同じ深碧で、植物をかたどった彫金が施されている。
 けれど、私の背を震わせたのは指輪そのものではなかった。魔法使いが長く身につけた装飾品に宿る魔力、持ち主の痕跡とも言うべきそれを、私は完全に消し去った上でアルクス様にお返しした。なのに、今薬指を飾っている指輪には、私の魔力がそのまま残っている。
 大気に散った魔力を再び集めるなんて、泉で砂粒を探すようなもの。目を見開く私の耳元に、アルクス様が淡々と囁いた。

「魔力を消せば、この二年間をなかったものにできると思ったのか?」
「そんなつもりは……ただ、お返しする以上は元の状態に近付けておくべきだと」
「必要ない、君以外が身に着けることはないのだから」

 宝玉を強調する華奢なつくりの指輪が、水を吸ったように重く感じられる。
 不意に手を掴まれて、振り解くこともできずに息を弾ませる私の脳裏に、婚約の儀で交わしたやり取りがよみがえった。自分が一等貴族に嫁ぐなんて信じられなくて、伴侶の役目が務まるのか不安で、隣に座るアルクス様に耳打ちした言葉。

『本当に、私などを選んで良かったのですか?』

 あの時、儀式用の絢爛な魔術布をかぶったアルクス様がどんな顔をしていたのかはわからないけれど、返事の言葉は覚えている。金銀糸で縁取られた布地の隙間から覗く唇の動きも。
 今、目の前で見ているのと全く同じもの。

「……他の相手なんて、考えたこともない」

 二度目の口付けは、一度目よりも長かった。
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