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「……」
自分の瞳に映るものが信じられなかった。アルクス様がいる、目の前に立っている。あれほど噂になった婚約を解消する以上、話し合いが長引いて王都に呼び出されるかもしれないとは想像していたけど、こんなに早くシルヴァで顔を合わせるなんて。
そもそも、私が王都を出たときアルクス様は王宮の防護結界を改刻するために屋敷を空けていたはず。まさか途中で切り上げて私を追ってきたのだろうか。何のために?
「カペラ」
「も……申し訳ありません、ご挨拶もせず王都を出てしまい……」
「別に責めてはいない、それよりすぐ荷物をまとめるように」
明日の早朝に発てば降星祭には戻れる。当たり前のように言い放たれて硬直した。戻る? 王都に? 何を言われているのか理解できずに見上げた淡空色の瞳には、けれど何の感情も浮かんでない。
降星祭は一年で最も大気の澄む日に星空を楽しむ祭りで、一般的には家族と過ごすことが多い。私も婚約前は実家やソル家でささやかなお祝いに参加したけど、王都に引っ越してからは部屋の窓から空を眺めるだけだった。ヴェスパー家の祝いに参加することは、アルクス様に禁じられていたから。
「……アルクス様、私の書いた手紙は読まれましたか」
掠れた声で訊ねると、左右対称の眉が僅かに持ち上がった。
「読んだから迎えにきた」
「ではご存知でしょうが、私の魔力は変質しつつあります」
「……」
「い、今はまだかろうじて玉水の形状を保っていますが、雪に変わるのは時間の問題で――」
「それは婚約を解消する理由にはならない」
私が言い終わる前に言葉を被せて、アルクス様は懐から筒状の紙を取り出した。私が書き残した手紙、なるべく質の良い紙を選んだそれに、握りしめたような皺が幾重にも寄っている。
「そもそも玉水だろうが雪華だろうが、ヴェスパー家にとっては大した価値などない。ましてや三男の妻の魔力が婚約を左右するなんて本気で考えたのか」
本気じゃない。ただの建前だとわかっている。でも、いざ声に出して言われると胸が痛んだ。魔力も、家柄も、もちろん人間としても求められていない。だったら何のために私はこの方の婚約者になったのだろう。
「違います。ア、アルクス様は、思われないのですか。これで私と離れられる、結婚しなくて済むと」
歯切れの悪い物言いがもどかしい。私は、アルクス様を前にした時の自分が嫌いだった。
「私たちは今、お互いに求めていない未来に向かって歩みつつあります。ですから、今ならまだ引き返せるとお伝えしたくて……手紙を残しました」
「引き返したかったのはお互いでなく君だ。今さら引き返せるわけがない。一度世間に知れ渡った婚約を解消するなんてどれほどの恥か」
恥。その言葉を色々な方の口から何度も聞いた。なぜ田舎の下級貴族の娘なんかと、ヴェスパー家の恥だ。よく恥ずかしげもなく人前に姿を現せる。私ならあんなドレス、恥ずかしくて着られない。そして。
『アルクス様は、私とこうなったことを後悔されていますか』
『少なくとも、恥だという自覚はある』
泥のように押し寄せる記憶の断片を振り払うように首を振って、私はアルクス様と視線を合わせた。
「これは何も持たぬものだから言える言葉なのでしょうが、ご自身の幸せを追求することは決して恥ではないと思います。それに人々の興味は移ろうもの、私の話などすぐに忘れられるでしょう」
「カペラ」
「アルクス様、どうぞお帰りください。これ以上私のために時間を使う必要はありません」
そう深く頭を下げた時、不意に強い風が木々を揺らした。私たちの間にわだかまっている何かを巻き上げるように。数秒にも数十分にも感じられる沈黙の後、アルクス様が静かに口を開いた。
「…………髪を下ろしている君を見るのは久しぶりだ」
自分の瞳に映るものが信じられなかった。アルクス様がいる、目の前に立っている。あれほど噂になった婚約を解消する以上、話し合いが長引いて王都に呼び出されるかもしれないとは想像していたけど、こんなに早くシルヴァで顔を合わせるなんて。
そもそも、私が王都を出たときアルクス様は王宮の防護結界を改刻するために屋敷を空けていたはず。まさか途中で切り上げて私を追ってきたのだろうか。何のために?
「カペラ」
「も……申し訳ありません、ご挨拶もせず王都を出てしまい……」
「別に責めてはいない、それよりすぐ荷物をまとめるように」
明日の早朝に発てば降星祭には戻れる。当たり前のように言い放たれて硬直した。戻る? 王都に? 何を言われているのか理解できずに見上げた淡空色の瞳には、けれど何の感情も浮かんでない。
降星祭は一年で最も大気の澄む日に星空を楽しむ祭りで、一般的には家族と過ごすことが多い。私も婚約前は実家やソル家でささやかなお祝いに参加したけど、王都に引っ越してからは部屋の窓から空を眺めるだけだった。ヴェスパー家の祝いに参加することは、アルクス様に禁じられていたから。
「……アルクス様、私の書いた手紙は読まれましたか」
掠れた声で訊ねると、左右対称の眉が僅かに持ち上がった。
「読んだから迎えにきた」
「ではご存知でしょうが、私の魔力は変質しつつあります」
「……」
「い、今はまだかろうじて玉水の形状を保っていますが、雪に変わるのは時間の問題で――」
「それは婚約を解消する理由にはならない」
私が言い終わる前に言葉を被せて、アルクス様は懐から筒状の紙を取り出した。私が書き残した手紙、なるべく質の良い紙を選んだそれに、握りしめたような皺が幾重にも寄っている。
「そもそも玉水だろうが雪華だろうが、ヴェスパー家にとっては大した価値などない。ましてや三男の妻の魔力が婚約を左右するなんて本気で考えたのか」
本気じゃない。ただの建前だとわかっている。でも、いざ声に出して言われると胸が痛んだ。魔力も、家柄も、もちろん人間としても求められていない。だったら何のために私はこの方の婚約者になったのだろう。
「違います。ア、アルクス様は、思われないのですか。これで私と離れられる、結婚しなくて済むと」
歯切れの悪い物言いがもどかしい。私は、アルクス様を前にした時の自分が嫌いだった。
「私たちは今、お互いに求めていない未来に向かって歩みつつあります。ですから、今ならまだ引き返せるとお伝えしたくて……手紙を残しました」
「引き返したかったのはお互いでなく君だ。今さら引き返せるわけがない。一度世間に知れ渡った婚約を解消するなんてどれほどの恥か」
恥。その言葉を色々な方の口から何度も聞いた。なぜ田舎の下級貴族の娘なんかと、ヴェスパー家の恥だ。よく恥ずかしげもなく人前に姿を現せる。私ならあんなドレス、恥ずかしくて着られない。そして。
『アルクス様は、私とこうなったことを後悔されていますか』
『少なくとも、恥だという自覚はある』
泥のように押し寄せる記憶の断片を振り払うように首を振って、私はアルクス様と視線を合わせた。
「これは何も持たぬものだから言える言葉なのでしょうが、ご自身の幸せを追求することは決して恥ではないと思います。それに人々の興味は移ろうもの、私の話などすぐに忘れられるでしょう」
「カペラ」
「アルクス様、どうぞお帰りください。これ以上私のために時間を使う必要はありません」
そう深く頭を下げた時、不意に強い風が木々を揺らした。私たちの間にわだかまっている何かを巻き上げるように。数秒にも数十分にも感じられる沈黙の後、アルクス様が静かに口を開いた。
「…………髪を下ろしている君を見るのは久しぶりだ」
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