お互いのために別れを告げた婚約者が追いかけてくる話

片茹で卵

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 ミュリーの言う通り、お父様とお母様は出戻った私をあたたかく迎えてくれた。
 もう二度と訪れないであろう良縁をふいにして、本来ならきつく叱られたり、考え直すよう説得されたりして当然なのに、背中を抱くぬくもりには尽きることのない優しさが込められていた。
 よく帰ってきた。どんな栄誉であろうとも、娘の笑顔を犠牲にしてまで手に入れたいとは思わない。私たちのことよりも、まずはあなたが幸せになることを考えなさい。その言葉は長く凍りついていた心に差し込んだ朝陽のようで、自分は愛に恵まれて生きてきたのだと神様に感謝した。



 ――数日後、私は一人夜の森を歩いていた。

 貴族の子女が夜間に外出するなんて通常は有りえないことだけど、地中の魔力が事故につながりやすいシルヴァでは魔法使いによる見回りが不可欠で、力の流れに敏感な私は子供の頃からお父様と一緒に領地を回っていた。森は庭のようなもの、なんて言うと大袈裟だけど、何か起きても立ち回れる程度には詳しい自信がある。

 静かな夜だった。聞こえるのは葉の擦れる音と水のせせらぎ、生き物の微かな息遣いばかり。
 そんな中に一人立っていると、初めてあの方……アルクス様と出会った日のことを思い出す。闇に溶けるように佇んでいた、まだ少年の線を残す美しい人。

『アルクス殿はシルヴァの地に興味を持っていたから、カペラとは話が合うかもしれないとも思ったが……そう都合良くは行かないものだな』

 王都での孤独な生活を聞いたお父様が口にしていた通り、アルクス様は一等貴族としては少し変わった方だった。普通王都に住むような高級貴族は防衛拠点でもない僻地に足を運んだりしないのに、ミュリーと変わらない年頃で単身シルヴァにやって来たのだから。

 土地の魔力に影響を受けた動植物を見るために、伝手を頼って滞在していたらしい。とはいえ身分が違いすぎるし、滞在先も二等貴族の別邸だとかで、私たちが顔を合わせる機会はなかった。もし私がミュリーのように暗いところが苦手で、夜はずっと屋敷で過ごしていたら、出会うこともなかっただろう。

(……私を、幽霊だと思ったって言ってたな。王都の女性は、髪を下ろして外に出たりしないから)

 警戒をあらわにした顔を思い出すと、懐かしいような切ないような気持ちが湧き上がる。その時の私は彼が一等貴族のご子息だなんて知らなくて、求められるままにシルヴァの地中に流れる魔力や、その影響について説明した。
 学んだことについて誰かと語れるのが嬉しかったのだと思う。他の地域に比べて生き物が大きいことを説明するために、岩辺でくつろぐ蜥蜴を手のひらに乗せたときには一歩引かれたけれど。

 その後は、三度言葉を交わした。一度目はごく短い会話で、別れ際に水辺は特に魔力が溜まりやすいから気をつけるよう忠告した。二度目は、淡い光を放つキノコを見ながらアルクス様がもうすぐ王都に帰らなければならないという話を聞いた。そして三度目は――

「カペラ」

 湿った風の音とともに鼓膜を震わせた声を、私は最初、空耳だと思った。冷えきった記憶のなかで唯一ぬくもりを帯びている部分が、もう二度と聞くはずのない声を再生したのだと。
 けれど、次に葉を踏む足音が聞こえて、鼓動が跳ね上がった。初めて出会った日と同じ、濃密な闇から浮き上がるように現れた人影が一歩一歩近付いてくるのを、夢でも見ているような気持ちで見届ける。

「アルクス、様……」

 夜の青みを帯びた黒い髪。水晶を削り取ったような色素の薄い瞳で覗きこまれると、緊張で喉が狭まる。この二年間ずっとそうだった。至らない婚約者を値踏みする眼差しがおそろしくて。

「随分と急な出立だったな、おかげで兄上達に迷惑をかけてしまった」
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