27 / 88
こんなつもりじゃなかった【楓視点】
27
しおりを挟む
次の日の朝。俺はいつもと同じ時間にベッドから身体を起こすと、昨晩脱ぎ散らかしたままにしていた下着を手早く着てしまう。身体は汗でベトベトしており、本当はシャワーを浴びてしまいたかったが、昨晩の事を思い出すと、一刻も早くこの部屋から出てしまいたかった。
(シャワーは事務所にもあるから、そっちで浴びるか……)
そんな事を考えながら、ワイシャツに袖を通していた時だった。
「んっ……」
先程まで俺が寝ていたベッドから、白い肩を晒し、一糸纏わぬ姿をした華奢な契約妻が、片手で目を擦りながら身体を起こしたのだった。
「あっ……!」
彼女と目が合った途端、バツが悪くなって目を逸らす。視界の隅に、よく磨かれた黒曜石の様に黒々とした瞳に涙が溜まっていくのが映った。
やがて彼女は両手で顔を覆うと、その場ですすり泣き出したのだった。
「うっ……ううっ……」
さめざめと泣く彼女を慰めようにも、かける言葉が見つからず、俺はただワイシャツのボタンを留め続ける。
(いつもこうだ。彼女を傷つけ、目を背けて、逃げてばかりいる)
自己嫌悪に陥りつつも、俺は口を開く。
「これで、貴女の目的は果たせたでしょう。早く日本に帰って下さい」
我ながら何とも酷い言葉だ。自分が嫌になる。
それでも彼女は――小春は、聞き分けの悪い子供の様に何度も首を振り続けた。その態度に舌打ちしたくなる。
「私に恩を返して、夫婦らしい事をしたかったのでしょう。これの何が不満だというんですか?」
詰問するように声を尖らせると、小春は泣くのを一度中断して俺の顔をじっと見つめてくる。何度も口を開閉したかと思うと、やがて蚊の鳴く様な声で言ったのだった。
「こんなの、夫婦じゃない……」
そうしてまた泣き出した小春に溜め息を吐くと無言で着替えを続ける。やがて上着を着ると、小春に背を向けたのだった。
「リビングのテーブルの上にお金を置いておきます。日本に帰るのなら、それでタクシーに乗って空港に行って下さい。冷蔵庫の中の物は勝手に食べてもらって構いません。シャワーも好きに使って下さい。予備のカードキーもここに置いて行くので、出て行く時は下のレターボックスにでも入れて下さい。
とにかく、目的を達成したのなら早く日本に帰って下さい。話があるのなら電話で聞きます。わざわざここに来なくて結構です」
足早にリビングルームに行くと、上着の内ポケットから財布を取り出す。中からドル札を数枚と予備のカードキーを引っ張り出して、叩きつける様にテーブルに置くと、玄関に向かったのだった。
玄関にまで小春のすすり泣く声が聞こえてきて、だんだん気分が重くなってくる。
(これで良い。これで彼女は安全な日本に帰ってくれる。いつ犯罪に巻き込まれるか分からない、この地から帰ってくれる)
マンションの廊下に出て、玄関の扉を閉めると、ようやく俺は安堵の息を吐き出せたのだった。
ニューヨークに来て、まず良いと思ったのは、バスの本数が多い事だろう。
日本でも田舎に住んでいた身としては、バスを一本逃すと、路線に寄っては四十分以上来ないのは当たり前であり、その日の最終バスを逃すと、帰宅難民になるのはほぼ確定であった。
それに比べてニューヨークは路線に関係なく、バスの本数が多い。本数が多いだけあって、満員になる事は少なく、また値段が一律なのもありがたい。
日本は目的に寄って値段もバラバラなので、あらかじめ調べておかないと乗車してから金が足りなかったという事態になりかねない。
マンションから最寄りのバス停に到着して間もなく、事務所の近くにある大通りを経由するバスがやって来る。俺はバスに乗ると、適当に窓際の席に座ったのだった。
(いつもこうだ)
バスが走り出してもなお、小春の泣く声と「夫婦じゃない」という言葉が耳から離れない。気絶するまで抱いた俺を責める様に耳の奥でこだまして、マンションから離れた今もずっと聞こえていた。
(こんなつもりじゃなかった。こんな事の為に自殺しようとしている彼女を助けて、契約結婚を申し出たつもりはなかった)
バスの窓に自分の顔が映る。童顔を気にして格好つけて掛けているレンズの入っていない銀縁眼鏡を外すと、そっとスーツの胸ポケットに掛ける。そして先程から窓に映る、無能な弁護士の顔をじっと睨みつけたのだった。
(シャワーは事務所にもあるから、そっちで浴びるか……)
そんな事を考えながら、ワイシャツに袖を通していた時だった。
「んっ……」
先程まで俺が寝ていたベッドから、白い肩を晒し、一糸纏わぬ姿をした華奢な契約妻が、片手で目を擦りながら身体を起こしたのだった。
「あっ……!」
彼女と目が合った途端、バツが悪くなって目を逸らす。視界の隅に、よく磨かれた黒曜石の様に黒々とした瞳に涙が溜まっていくのが映った。
やがて彼女は両手で顔を覆うと、その場ですすり泣き出したのだった。
「うっ……ううっ……」
さめざめと泣く彼女を慰めようにも、かける言葉が見つからず、俺はただワイシャツのボタンを留め続ける。
(いつもこうだ。彼女を傷つけ、目を背けて、逃げてばかりいる)
自己嫌悪に陥りつつも、俺は口を開く。
「これで、貴女の目的は果たせたでしょう。早く日本に帰って下さい」
我ながら何とも酷い言葉だ。自分が嫌になる。
それでも彼女は――小春は、聞き分けの悪い子供の様に何度も首を振り続けた。その態度に舌打ちしたくなる。
「私に恩を返して、夫婦らしい事をしたかったのでしょう。これの何が不満だというんですか?」
詰問するように声を尖らせると、小春は泣くのを一度中断して俺の顔をじっと見つめてくる。何度も口を開閉したかと思うと、やがて蚊の鳴く様な声で言ったのだった。
「こんなの、夫婦じゃない……」
そうしてまた泣き出した小春に溜め息を吐くと無言で着替えを続ける。やがて上着を着ると、小春に背を向けたのだった。
「リビングのテーブルの上にお金を置いておきます。日本に帰るのなら、それでタクシーに乗って空港に行って下さい。冷蔵庫の中の物は勝手に食べてもらって構いません。シャワーも好きに使って下さい。予備のカードキーもここに置いて行くので、出て行く時は下のレターボックスにでも入れて下さい。
とにかく、目的を達成したのなら早く日本に帰って下さい。話があるのなら電話で聞きます。わざわざここに来なくて結構です」
足早にリビングルームに行くと、上着の内ポケットから財布を取り出す。中からドル札を数枚と予備のカードキーを引っ張り出して、叩きつける様にテーブルに置くと、玄関に向かったのだった。
玄関にまで小春のすすり泣く声が聞こえてきて、だんだん気分が重くなってくる。
(これで良い。これで彼女は安全な日本に帰ってくれる。いつ犯罪に巻き込まれるか分からない、この地から帰ってくれる)
マンションの廊下に出て、玄関の扉を閉めると、ようやく俺は安堵の息を吐き出せたのだった。
ニューヨークに来て、まず良いと思ったのは、バスの本数が多い事だろう。
日本でも田舎に住んでいた身としては、バスを一本逃すと、路線に寄っては四十分以上来ないのは当たり前であり、その日の最終バスを逃すと、帰宅難民になるのはほぼ確定であった。
それに比べてニューヨークは路線に関係なく、バスの本数が多い。本数が多いだけあって、満員になる事は少なく、また値段が一律なのもありがたい。
日本は目的に寄って値段もバラバラなので、あらかじめ調べておかないと乗車してから金が足りなかったという事態になりかねない。
マンションから最寄りのバス停に到着して間もなく、事務所の近くにある大通りを経由するバスがやって来る。俺はバスに乗ると、適当に窓際の席に座ったのだった。
(いつもこうだ)
バスが走り出してもなお、小春の泣く声と「夫婦じゃない」という言葉が耳から離れない。気絶するまで抱いた俺を責める様に耳の奥でこだまして、マンションから離れた今もずっと聞こえていた。
(こんなつもりじゃなかった。こんな事の為に自殺しようとしている彼女を助けて、契約結婚を申し出たつもりはなかった)
バスの窓に自分の顔が映る。童顔を気にして格好つけて掛けているレンズの入っていない銀縁眼鏡を外すと、そっとスーツの胸ポケットに掛ける。そして先程から窓に映る、無能な弁護士の顔をじっと睨みつけたのだった。
1
お気に入りに追加
72
あなたにおすすめの小説
誰にも言えないあなたへ
天海月
恋愛
子爵令嬢のクリスティーナは心に決めた思い人がいたが、彼が平民だという理由で結ばれることを諦め、彼女の事を見初めたという騎士で伯爵のマリオンと婚姻を結ぶ。
マリオンは家格も高いうえに、優しく美しい男であったが、常に他人と一線を引き、妻であるクリスティーナにさえ、どこか壁があるようだった。
年齢が離れている彼にとって自分は子供にしか見えないのかもしれない、と落ち込む彼女だったが・・・マリオンには誰にも言えない秘密があって・・・。
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
完結)余りもの同士、仲よくしましょう
オリハルコン陸
恋愛
婚約者に振られた。
「運命の人」に出会ってしまったのだと。
正式な書状により婚約は解消された…。
婚約者に振られた女が、同じく婚約者に振られた男と婚約して幸せになるお話。
◇ ◇ ◇
(ほとんど本編に出てこない)登場人物名
ミシュリア(ミシュ): 主人公
ジェイソン・オーキッド(ジェイ): 主人公の新しい婚約者
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
つかぬことをお伺いいたしますが、私はお飾りの妻ですよね?
蓮
恋愛
少しネガティブな天然鈍感辺境伯令嬢と目つきが悪く恋愛に関してはポンコツコミュ障公爵令息のコミュニケーションエラー必至の爆笑(?)すれ違いラブコメ!
ランツベルク辺境伯令嬢ローザリンデは優秀な兄弟姉妹に囲まれて少し自信を持てずにいた。そんなローザリンデを夜会でエスコートしたいと申し出たのはオルデンブルク公爵令息ルートヴィヒ。そして複数回のエスコートを経て、ルートヴィヒとの結婚が決まるローザリンデ。しかし、ルートヴィヒには身分違いだが恋仲の女性がいる噂をローザリンデは知っていた。
エーベルシュタイン女男爵であるハイデマリー。彼女こそ、ルートヴィヒの恋人である。しかし上級貴族と下級貴族の結婚は許されていない上、ハイデマリーは既婚者である。
ローザリンデは自分がお飾りの妻だと理解した。その上でルートヴィヒとの結婚を受け入れる。ランツベルク家としても、筆頭公爵家であるオルデンブルク家と繋がりを持てることは有益なのだ。
しかし結婚後、ルートヴィヒの様子が明らかにおかしい。ローザリンデはルートヴィヒからお菓子、花、アクセサリー、更にはドレスまでことあるごとにプレゼントされる。プレゼントの量はどんどん増える。流石にこれはおかしいと思ったローザリンデはある日の夜会で聞いてみる。
「つかぬことをお伺いいたしますが、私はお飾りの妻ですよね?」
するとルートヴィヒからは予想外の返事があった。
小説家になろう、カクヨムにも投稿しています。
「好き」の距離
饕餮
恋愛
ずっと貴方に片思いしていた。ただ単に笑ってほしかっただけなのに……。
伯爵令嬢と公爵子息の、勘違いとすれ違い(微妙にすれ違ってない)の恋のお話。
以前、某サイトに載せていたものを大幅に改稿・加筆したお話です。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
【完結】8年越しの初恋に破れたら、なぜか意地悪な幼馴染が急に優しくなりました。
大森 樹
恋愛
「君だけを愛している」
「サム、もちろん私も愛しているわ」
伯爵令嬢のリリー・スティアートは八年前からずっと恋焦がれていた騎士サムの甘い言葉を聞いていた。そう……『私でない女性』に対して言っているのを。
告白もしていないのに振られた私は、ショックで泣いていると喧嘩ばかりしている大嫌いな幼馴染の魔法使いアイザックに見つかってしまう。
泣いていることを揶揄われると思いきや、なんだか急に優しくなって気持ち悪い。
リリーとアイザックの関係はどう変わっていくのか?そしてなにやら、リリーは誰かに狙われているようで……一体それは誰なのか?なぜ狙われなければならないのか。
どんな形であれハッピーエンド+完結保証します。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
【完結】夫が私に魅了魔法をかけていたらしい
綺咲 潔
恋愛
公爵令嬢のエリーゼと公爵のラディリアスは2年前に結婚して以降、まるで絵に描いたように幸せな結婚生活を送っている。
そのはずなのだが……最近、何だかラディリアスの様子がおかしい。
気になったエリーゼがその原因を探ってみると、そこには女の影が――?
そんな折、エリーゼはラディリアスに呼び出され、思いもよらぬ告白をされる。
「君が僕を好いてくれているのは、魅了魔法の効果だ。つまり……本当の君は僕のことを好きじゃない」
私が夫を愛するこの気持ちは偽り?
それとも……。
*全17話で完結予定。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。
松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。
そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。
しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる