賽の河原の拾い物

ミドリ

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41 帰還

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 猛ダッシュで駆け上っていたからか、階段の踊り場でリズムを崩しつんのめりそうになる。

 と、春彦がグン、と繋いだ手で私が転ぶのを防いでくれた。

 今は全く余裕のなくなった半透明の顔を、私に向ける。

「小春、頑張れ!」
「うん!」

 息の上がらない春彦が私よりも先に行き、私の手を引っ張り始めた。

 春彦のお母さんの「行けええええ!」と叫ぶ声が、期待を背負った私の背中を押す。もう直接見てはいないのに、彼女の放つ眩いオーラが私たちの前方を照らした。

 春彦、お願い間に合って――!

 喉をヒューヒュー言わせながらも、なんとか四階に到達する。

「425号室だよね!?」

 勢いのまま、一気に右へと折れた。

「そうだ! 俺が番号を確認するから、小春はとにかく走って!」
「うん!」

 私の手を引っ張る春彦の身体は、どんどん薄くなっていっている。曲がってすぐ近くの病室は、412。まだ先だ。

 肺が破裂しそうに苦しいけど、でもまだ保って、待っていて、あと少しだから。

 すると、春彦が言った。

「小春」
「はあっはあっ……うん?」

 バタバタと廊下を走る足音は、ひとり分だけだ。

「俺のオーラ、多分笑っちゃう色だと思うけど……」
「……へ?」

 どうしてこのタイミングでオーラの話になるんだろう。ちらっと振り返る春彦の目元は、透けてはいるけどほんのりピンク色に染まっていた。……うん?

「笑わないでね」

 420。もう少し。

「はあっはあっ……!」

 喉が時折張り付いてしまい、口の中にある唾を掻き集めて呑み込んでも、すぐに張り付く。

「春彦……! 何色だって、いいから……!」
「へへ……っ」

 春彦の姿が、どんどん薄くなっていく。

 ――待って、まだ駄目だよ。あと少しなのに。

 私は消えゆく春彦に向かって、泣き叫んだ。

「春彦! まだ駄目! 消えないでっ!」
「小春、行って――」

 ふ、と目の前を走っていた春彦の姿が掻き消える。と同時に、繋いでいた手の温もりも瞬時に失われた。

 手の中に残るのは、賽の河原の小石の固い感触だけ。

「……ああああああああっ!」

 424。次。だから待って、逝かないで春彦――!

 叫び続けながら、425号室の扉の取手を掴む。重いけど、渾身の力でスライドし、春彦の姿を探した。

「春彦!」

 いた! 窓際のベッドに、管に繋がれた春彦のほっそりとした姿がある。

「春彦っ!」

 春彦の身体は宣言通り、何故かピンク色のオーラに包まれていた。その意味を考えている時間は、今はない。

「待って! 置いていかないで!」

 滑り込むように春彦のベッド脇に辿り着く。膝が床に擦れて熱いけど、痛みなんて今はどうでもよかった。

 力なく開かれた手のひらの上に、賽の河原の拾い物を叩きつける。

 春彦は、動かない。

「春彦! お願い、目を覚まして――!」

 私と春彦の手の間にある小石が、少しずつ存在を失っていき始めた。ゆっくりと、春彦の中に溶けていくように。

「春彦、春彦……!」

 間に合って、春彦を返して、お願いだから。

 一体誰に向かって祈っているのかも分からないまま、ただひたすらに祈った。

「春彦お……っ」

 やがて、小石の感触が全てなくなる。

 なのに、春彦はぴくりとも動かない。

「嘘だ……! 春彦、逝ってないよね……?」

 へなへなと膝から下の力が抜け、ベッド脇の床にペタンとお尻を付いてしまった。春彦に見られた縞柄のパンツ越しに、床の冷たさを感じる。

「う……っえぐ、嫌だ……っ」

 涙が、止め処なく流れた。

「春彦……っ! 私を置いていかないでよ、春彦おおお……!」

 さっきまで繋いでいたものよりも大分薄っぺらい春彦の手の甲に、額を付けた。龍の家で散々ぶつけた時にできた瘤が、ズキンと痛む。

 春彦の手は温かいのに、どうして起きてくれないの。嘘だ、だって毎日おはようを言ってもらわないと、私の一日は始まらなくなっちゃうんだよ。

「春彦……っ嘘って言って……!」

 こんな痛み、春彦を喪失する痛みに比べたら、羽根で撫でられた程度に過ぎない。いくらだって我慢する。だからお願い、目を覚まして春彦――!

 すると。

「……おでこ、腫れてる…………」

 殆ど聞こえない程度の掠れ声が、頭上から降ってきた。

 ……え?

「小春ちゃん!」

 呼ばれてはっと顔を上げると、丁度春彦のお母さんが病室に入ってきたところだった。あれ? じゃあ、今の声は彼女の声か。

 春彦のお母さんが、ドアの前でへなへなと座り込む。

「はあ……っは、春彦……!」

 廊下からは、ドタバタという音が聞こえてきた。

「母さん! 春彦はどうなった!」

 春彦のお母さんの後ろから、春彦のお父さんと部長が息を切らして飛び込んでくる。

 三人とも、春彦の方を見ると、パアアッと明るい笑顔に変わった。

 ……え? どうして笑ってるの?

 あれ? そういえば皆のオーラが見えない?

「ゴホッ……こ、小春……」
「へ……」

 まさか、さっきの声って。

 ギギギ、と音が鳴るかのように、ぎこちなく首を動かす。見たい。見たくない。現実を直視したくない。でも、もしかしたら春彦が――。

「……春彦?」

 スローモーションくらいにゆっくりと、春彦を振り返る。

「小春……」

 ブワッと涙が滝のように溢れ出した。

「う、う、うううっ!」

 かなり弱々しいけど、今のは毎朝おはようを言ってくれて、私の心配をして小言を言う声と同じものじゃないか。

 見るのが怖くて、でもそこに見たい光景があることを確かめたくて、私は涙で滲む瞳を春彦に向けた。

 ――春彦と目が合う。

 枕の上で力なく頭を傾けているけど、確かに目を開けている。春彦が、春彦が――起きた!

「春彦!」

 目からも鼻からも水分を出しまくっている私を見て、春彦が小さく笑った。

「……力、入らないから。おでこ、近くで見せて」

 今にも消えそうな掠れ声なのに、それでも春彦は私の心配をする。いつもいつも。

 急いで春彦に額の瘤を見せると、春彦が小さく笑った。

「もっと、近く」
「え? これくらい?」
「もうちょっと下」

 春彦の言う通りに調整すると、いきなり背中に乗ってくるものがあり、春彦に向かって倒れ込んでしまった。

「わっ」

 私の額の瘤に、春彦の乾燥した唇が触れる。

 私の背中に置かれたもの。それは、春彦の腕だった。

 私の身体が、筋肉が失われた春彦の胸の上に乗っている。ずっと寝たきりだったから、弱っているんだ。

 だけど、それは驚くほどに暖かくて。

「うぐ……っは、春彦おおおっ! おかえり、おかえりいいいっ!」

 堪え切れず、春彦の身体に縋り付きながら、大泣きを始める。

 瘤に触れたままの春彦の口が笑みの形に変わるのが、瘤の若干の痛みとともに感じられた。

 小さな声が返ってくる。

「……ただいま、小春」

 それは、確かに生きている目の前の春彦の口から聞こえてくるものだった。

「うう……っ!」

 戻ってきた。春彦が賽の河原から戻ってきたんだ。

「うえっううう、うわあああああ――っ!」

 背中の春彦の腕の力は、あまりにも弱々しい。

 それでも、賽の河原で手を繋いでくれていた時のような深い安堵を、私に与えてくれたのだった。
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