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34 龍と再会
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もう後ろに退路はない。
エレベーターホールの壁に貼り付いた私を見て、龍は威嚇している子犬に差し出すように私に手を差し伸べてきた。
「さあ小春ちゃん、家に戻ろう」
例の悲しそうな微笑みを浮かべる。この笑顔に何度追い詰められたことか、もう数え切れなかった。
「大丈夫、僕の帰りが遅いから迎えに来たんだよね」
こんな状況を見ても、まだ認めたくないらしい。龍に足りないのは客観性ってやつかもしれないな、とふと思った。
龍は常に自分がステージの中心にいると思ってるんじゃないかな。私は大体において脇役配役だからか、余計にそう感じる。
「分かってる、怒らないからこっちにおいで」
状況は龍の家にいる時よりはマシだけど、今も龍と一対一で対峙している構図なことに変わりはない。どうしよう。住人がやってこないかなって期待したけど、エレベーターは止まったままで動く様子がない。
自分の手首に残る、赤い痣が目に入った。龍が私を引っ張ってここに連れてくる時に付いた痕だ。
あんな力で本気で襲われたら、きっとひとたまりもない。
龍の家に連れ戻されて春彦の目の前で襲われでもしたら、きっと私は立ち直れない。
それはきっと恐らく、春彦も。
だけどもう、どうするのが正解か分からなくなっていた。
頭をただふるふると何度も横に振ると、自分の身を守るように腕を引き寄せて縮こまる。相変わらず横にいてくれている春彦を、懇願するように見上げた。
春彦も状況打破の道を必死に考えているのか、噛み締めた唇が白くなっている。
私と目が合うと、「……小春」と口が動いた。
心配しているとありありと分かる春彦の優しい声色に、抑えていたものが溢れ出す。涙も滲んできてしまった。
「春彦……っ!」
お願い春彦、教えて。いつもみたいにああしろこうしろって言って。そうしたらきっと私の身体も動くから。
願いを込めて春彦の名前を呼んだ。途端、春彦が焦った顔になる。どうしたんだろう。
すると、私の呟きは事態を最悪な方向へと導いてしまった。
普段よりも低い声が、私に語りかける。
「……小春ちゃん、春彦って誰。僕の前で他の男の名前を呼ぶって、どういうことかな」
「あ……っ」
春彦が「あちゃー」という表情で口を押さえた。あ、まさか私、やっちゃった?
これまでずっと涼やかだった、冷たいとも取れる表情ばかりだった龍の顔に、初めてはっきりと苛立ちが浮かぶ。
ピク、ピク、と震える龍の頬が叫びたいほど怖くて、もうこれ以上取り繕って誤魔化すのは無理だった。
「う……っ」
ぼたぼたと床に染みを作り始めた涙を拭う余裕もなく、横にいる春彦に縋るように助けを求める。
「春彦、どうしよう……!」
春彦の目が見開かれた。
これまで何ひとつ春彦の忠告を聞いてこなかった癖に、結局はこうして春彦に頼る。自分がどれだけ日頃から春彦を頼りにしていたのかを、はっきりと思い知った。
「――春彦、助けて!」
「小春ちゃん! 春彦って誰のことだよ!」
龍が叫ぶ。龍が叫ぶところを、初めて見た。
涙で滲む視界に乱反射する龍の白のオーラは、海の底から見上げる太陽みたいだ。
綺麗で、――だけどそれだけだ。
でも。
「……あれ……?」
よく目を凝らすと、白の後ろに赤い糸みたいなものが視えるような。
それは、初めて見る龍の白以外のオーラだった。赤が、じわじわと少しずつ白を侵食していく。
「春彦は、俺だ」
と、春彦が、私を背中に庇うように両手を広げて立った。
伊達眼鏡を掛けていない私の目には、春彦がはっきりと映っている。触れられないだけで、確かにそこにいる。
春彦の背中に隠されて、龍が私の視界から消えてしまった。龍が今、どんな顔をしているのかが分からなくなる。
「え……え、小春ちゃん、今男の声が」
春彦の背中の向こうから、龍の戸惑う声が聞こえた。僅かな期待が、私の中に生まれる。
これはもしや、龍の目には春彦の姿は映らなくても、声は届いているんじゃないか。
「俺が視えないのか?」
春彦の肩越しに視える龍のオーラに、不安そうな紺色が混じり始めた。
――龍のオーラの色が、どんどん変わってる!
さっきの怒りの爆発のせいで、龍の鉄壁の聖人君子の皮が剥がれたのかもしれない。私の中の小さな期待の粒が、どんどん容積を増していく。
「え、誰が喋って……」
春彦が龍の方に向かって、大きく一歩前に出た。今にも飛びかかりそうな勢いだ。
「おいお前! 小春に散々酷いことしやがって、一体何様のつもりだよ!」
「え……!」
春彦が前に出たことでようやく見えた龍の顔は、驚愕の色に染まっていた。
エレベーターホールの壁に貼り付いた私を見て、龍は威嚇している子犬に差し出すように私に手を差し伸べてきた。
「さあ小春ちゃん、家に戻ろう」
例の悲しそうな微笑みを浮かべる。この笑顔に何度追い詰められたことか、もう数え切れなかった。
「大丈夫、僕の帰りが遅いから迎えに来たんだよね」
こんな状況を見ても、まだ認めたくないらしい。龍に足りないのは客観性ってやつかもしれないな、とふと思った。
龍は常に自分がステージの中心にいると思ってるんじゃないかな。私は大体において脇役配役だからか、余計にそう感じる。
「分かってる、怒らないからこっちにおいで」
状況は龍の家にいる時よりはマシだけど、今も龍と一対一で対峙している構図なことに変わりはない。どうしよう。住人がやってこないかなって期待したけど、エレベーターは止まったままで動く様子がない。
自分の手首に残る、赤い痣が目に入った。龍が私を引っ張ってここに連れてくる時に付いた痕だ。
あんな力で本気で襲われたら、きっとひとたまりもない。
龍の家に連れ戻されて春彦の目の前で襲われでもしたら、きっと私は立ち直れない。
それはきっと恐らく、春彦も。
だけどもう、どうするのが正解か分からなくなっていた。
頭をただふるふると何度も横に振ると、自分の身を守るように腕を引き寄せて縮こまる。相変わらず横にいてくれている春彦を、懇願するように見上げた。
春彦も状況打破の道を必死に考えているのか、噛み締めた唇が白くなっている。
私と目が合うと、「……小春」と口が動いた。
心配しているとありありと分かる春彦の優しい声色に、抑えていたものが溢れ出す。涙も滲んできてしまった。
「春彦……っ!」
お願い春彦、教えて。いつもみたいにああしろこうしろって言って。そうしたらきっと私の身体も動くから。
願いを込めて春彦の名前を呼んだ。途端、春彦が焦った顔になる。どうしたんだろう。
すると、私の呟きは事態を最悪な方向へと導いてしまった。
普段よりも低い声が、私に語りかける。
「……小春ちゃん、春彦って誰。僕の前で他の男の名前を呼ぶって、どういうことかな」
「あ……っ」
春彦が「あちゃー」という表情で口を押さえた。あ、まさか私、やっちゃった?
これまでずっと涼やかだった、冷たいとも取れる表情ばかりだった龍の顔に、初めてはっきりと苛立ちが浮かぶ。
ピク、ピク、と震える龍の頬が叫びたいほど怖くて、もうこれ以上取り繕って誤魔化すのは無理だった。
「う……っ」
ぼたぼたと床に染みを作り始めた涙を拭う余裕もなく、横にいる春彦に縋るように助けを求める。
「春彦、どうしよう……!」
春彦の目が見開かれた。
これまで何ひとつ春彦の忠告を聞いてこなかった癖に、結局はこうして春彦に頼る。自分がどれだけ日頃から春彦を頼りにしていたのかを、はっきりと思い知った。
「――春彦、助けて!」
「小春ちゃん! 春彦って誰のことだよ!」
龍が叫ぶ。龍が叫ぶところを、初めて見た。
涙で滲む視界に乱反射する龍の白のオーラは、海の底から見上げる太陽みたいだ。
綺麗で、――だけどそれだけだ。
でも。
「……あれ……?」
よく目を凝らすと、白の後ろに赤い糸みたいなものが視えるような。
それは、初めて見る龍の白以外のオーラだった。赤が、じわじわと少しずつ白を侵食していく。
「春彦は、俺だ」
と、春彦が、私を背中に庇うように両手を広げて立った。
伊達眼鏡を掛けていない私の目には、春彦がはっきりと映っている。触れられないだけで、確かにそこにいる。
春彦の背中に隠されて、龍が私の視界から消えてしまった。龍が今、どんな顔をしているのかが分からなくなる。
「え……え、小春ちゃん、今男の声が」
春彦の背中の向こうから、龍の戸惑う声が聞こえた。僅かな期待が、私の中に生まれる。
これはもしや、龍の目には春彦の姿は映らなくても、声は届いているんじゃないか。
「俺が視えないのか?」
春彦の肩越しに視える龍のオーラに、不安そうな紺色が混じり始めた。
――龍のオーラの色が、どんどん変わってる!
さっきの怒りの爆発のせいで、龍の鉄壁の聖人君子の皮が剥がれたのかもしれない。私の中の小さな期待の粒が、どんどん容積を増していく。
「え、誰が喋って……」
春彦が龍の方に向かって、大きく一歩前に出た。今にも飛びかかりそうな勢いだ。
「おいお前! 小春に散々酷いことしやがって、一体何様のつもりだよ!」
「え……!」
春彦が前に出たことでようやく見えた龍の顔は、驚愕の色に染まっていた。
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