賽の河原の拾い物

ミドリ

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32 春彦、怒る

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 片足の拘束が解けたことで、私の機動力が一気に上昇する。

 もう片方の足からも、結束バンドを抜いた。脱げてしまった靴下を履き直すと、急いで立ち上がる。

 逃げなくちゃいけない。

 だけどその前に、まずは春彦にひと言物申さないと気が済まなかった。

 赤く火照った焦り顔の春彦を、キッと上目遣いで睨む。

「見たなあ……っ!」

 春彦が、慌てた様子で手と頭をぶんぶん横に振った。柔和な顔はちょっと引き攣っているけど、頬が若干緩んでいる。これは決して嫌なものを見てしまったという反応じゃなさそうだ。

 龍はほぼ無反応だったけど、この様子だと私もまるきり色気ゼロという訳でもないんだろうか。

「ふ、不可抗力だ!」

 面白いくらい真っ赤になっている春彦が、きっぱりと肯定した。やっぱりはっきり見たらしい。

 私は「あー」、と溜息に近い低い声を吐く。

「何で一日に二度もパンツを……」
「は?」

 私の呟きを聞いた途端、春彦の優しい目が三角に吊り上がった。しまったと思った時には、もう遅い。

「まさか、あいつも見たのか?」
「ふ、不可抗力で……」

 さっきの春彦と同じ回答をすればやり過ごせるかなと思ったけど、甘かった。

 私の耳元で、春彦が矢継ぎ早に怒鳴りながら詰問を始める。

「小春、あいつに一体何された! ここにいないのは分かるけど、何をしにどこに行ってるんだよ!」

 あー、耳が痛い。鼓膜が破れるよ。

「春彦、とりあえず外に出よう! ね?」

 春彦がいくら喚こうが、実体のない春彦に私の動きを止めることはできない。

 ぎゃーぎゃー喚く春彦は無視して玄関の棚の上にある鞄を両手で掴むと、靴を履いて玄関のドアを開けた。

 バッと外に出ると、オートロックなんだろう、重く閉まったドアがカチッと金属音を立てて閉まる。外のムワッとした夜の湿気が、乾燥していた私の肌にまとわりついた。

「ここ、どこだ?」

 春彦が、今更な質問をする。

 春彦にしてみれば、呼ばれた先はどこか分からず、とりあえず私が縛られていたので龍の仕業だと推測しただけなんだろう。

「龍くんが住んでる高層マンションだよ」

 廊下を小走りに駆けていった。

 春彦はキョロ、と辺りを見回すと、不安そうな表情を浮かべる。

「このまま真っ直ぐ降りて大丈夫なのか? あいつ、どこに何しに行ってるんだ?」

 春彦は裸足のまま私の隣を並走している。よく見ると、影がなかった。影がないことに、少なからずショックを受ける。

 ――やっぱり春彦は幽霊なんだ。

 毎朝話をしていたのは、春彦の幽霊だった。気付かなかった自分の迂闊さに、ほとほと嫌気が差す。そりゃ春彦が迂闊だ隙があるだの言う筈だ。

 それにそういえば、と今更ながら気付く。

 春彦がいた窓枠の奥に、春彦以外の物があった記憶がない。春彦の背景は、いつもどんよりとしたグレーだった。

 よく考えたら、カーテンや部屋の壁が見えて当然な筈なのに。

 何の違和感もなく無機質な背景を受け入れていたのは、日頃オーラを見過ぎて過食気味だった私の脳が何もないものを求めていたからか。だとしたら、とんだ間抜けだ。

 だけどそうすると、春彦は一体どこから話しかけていたんだろう。まさかうちの窓枠から? 貼り付いてる感じ?

 そんな私の疑惑をよそに、春彦は喚き続けている。幽霊な割には元気だな。

「小春、言えよ! 何で黙ってるんだ! 何か言えないことでもされたのか! あいつ、お前に何を!」
「ちょ、ちょっと待ってよ春彦! ちゃんと答えるから落ち着いて!」

 春彦の剣幕があまりにも凄くて、渋々だけど答えることにした。

 春彦は、とにかくしつこい。答えなければ答えるまで延々問い続けられることは、長年の付き合いでよく理解している。

 怒られるのは分かった上で、私は思い切って伝えることにした。

「その……何て言うか、私に好きになってもらうには、そのう……え、エッチなことをですね、したら好きになるんじゃないかと言い出して」

 もごもご言いながらも、エレベーター方面へ駆けて行く。さっき記憶しておいて本当によかった。これは私が偉い。

 それにしても、春彦の返事がない。とりあえず理解してくれたと判断して、先を続けることにした。

「なので、ええとですね、替えの下着も、ゴ、ゴムもないしって言ったら買いに出掛けました。で、今がチャンスだと思って逃げようと」

 エレベーターにさえ乗ってしまえば、きっと逃げられる。次の角を曲がれば、確かエレベーターホールに出る筈だから。

 バタバタと騒がしい足音を立てているのは私だけで、後は遠くから聞こえてくるクラクションの音が時折響いてくるだけだ。

 ……いや、やけに静か過ぎやしないか。

「……春彦?」

 春彦が異様なほどに静かなので、横にいるかと不安になって春彦の方を見ると。

「――ひっ」

 春彦が、般若の形相で私を凝視していた。滅茶苦茶怖い。

 まるで威嚇している犬みたいに唇がめくれ上がっていき、噛み締めている歯が剥き出しになってきている。怖い、怖いってば。

 春彦は、それはそれは低い声で言った。

「……は?」

 龍も怖いけど、こっちも怖い。

「ゴム……? エッチなこと……? あいつ、お前を縛った上に、何てことをしようとしてるんだよ!」
「ま、まだ何もされてないから!」

 正確にはキスされまくったりパンツを見られたり胸に顔を押し付けられてスリスリされたりしたけど、春彦が恐ろしすぎて言えなかった。こんなことを聞いたら、本気で般若になっちゃうんじゃないか。なんせ幽霊だし。

「当然だ!」

 春彦が怒鳴る。だけど私は気付いてしまった。さっきからこんなに怒鳴り続けているのに、響いているのは私の靴音と私の声だけだと。

 春彦の声は、きっと私にしか聞こえていないんだ。

 バタバタとエレベーターホールに飛び込むと、バン! と下行きのボタンを押す。

 遥か下にあるエレベーターが、ゆっくりと上昇を始めた。日頃は何も思わないエレベーターランプの緩慢な動きが、今日ばかりは憎い。

 春彦は、未だに怒鳴り続けていた。元気な幽霊だな。一般的に知られる幽霊のイメージからは、大分かけ離れている気がした。

「そもそもな、小春!」

 とうとう怒りの矛先が私に向けられる。

「三年間、一度も俺を呼ばないってどういうことだよ! あそこから出るまで、三年だぞ三年! もっと早くに呼べよ!」

 三年間というのは、あの事故があった日から数えてだろう。三年もの間、春彦は成仏もできずあそこに囚われていたんだ。

 でも、私にだって呼ばなかった正当な理由はある。

「だ、だって! スマホ持ってなかったでしょ!」

 幽霊という認識がなかったのに、どう呼べと言うんだろう。ちょっと理不尽すぎやしないか。

 だけど春彦の怒りは頂点に達しているらしく、苛立たしげに地団駄を踏む。

「馬鹿! お前な、あいつに処女奪われるところだったんだぞ!」
「うっ」
「俺の言うことを聞かないでふらふらしてるからこういうことになるの! 分かったか!」
「ふ、ふぁい……」

 仰る通りなので、私は反省の意を示すべく下唇を突き出した。
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