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タチアナの華奢な首。そこにあったのは。
――赤い痣だった。
ティナと最後に会った時のことを思い返す。ティナはいつも、首にある痣を隠す為に首が隠れる服を着て、更に扇子で口元を隠していた。俺が見えるのは、目だけだ。
それすらも俺と合うことはなく、ボソボソと小声で交わされる中身のない会話。
タチアナが言っていた、急にお役御免になったという家業。
そして、俺の部屋に続く通路を衛兵を押しのけながら悪態をつきつつ向かってきたティナの、肌を思い切り見せた衣装。
人が変わった様で、怖かった。あんなにも美しくたおやかだったティナが、欲丸出しで迫ってきたことが理解出来なかった。
だが、俺の考えが正しければ、そりゃあそうだ。だって、俺が会っていたティナとあの日怒涛の勢いでやってきたティナとは、別人なんだから。
――影武者。
その言葉が、俺の中にずん、と重くのしかかる。
それと同時に、二の腕の内側にある古傷が、いつも痛むことなんてないのに急にズキズキと痛み出した。
何が起こってるのか、何が正しくて何が見えていないのか。誰が全容を知っている。どういうことなんだ。
混乱したまま、俺は為す術もなくただ露台を見上げることしか出来なかった。
群衆が、ざわざわと再びざわめく。露台に出てきたのは、きらびやかな式典用の格好をした衛兵二人だ。露台の左右に分かれると、そこで待機の体勢を取る。
その後出てきたのは、宰相のネス。恭しくかしずいている。誰に? 露台の奥から来る人物に対して、だ。
露台の奥から、軍の総司令官を表す白い豪奢な制服を着た金髪の男が登場した。腐るほど見てきた、俺と同じ顔だ。言われなくても誰だか分かる。
感情を窺わせないその顔は、一体何を考えて群衆を見下ろしているのか。いつも読めない奴だったが、今も全く読めなかった。
そして、奴の後ろから現れた人物。これまた白の豪華な衣装を身に纏ったティナだ。胸元は大きく開き、日光を受けて眩しく煌めく首飾りを付けている。
誇らしげなその表情は、やはり俺が会ってきたティナではなく、最後に見たティナのものだった。
これで確信出来た。ティナはずっと影武者を寄越していたのだ。だが、婚儀の日程が確定した以上、影武者を表舞台に出しておくことは出来ない。
だからあの日から、アリスタ王子の前から儚いティナは消え、代わりに本来の強欲で小説に出てくる悪役令嬢の様にあざといと噂の本物のティナが出てくる様になったのだろう。
イリスが、すう、と息を吸う。
朗々と響く声で、群衆に向かって言った。
「この度、ティナ・シュタインベルガー公爵令嬢との婚儀を行なうことが決定した」
イリスだ。間違いなくあれはイリスだ。俺はただ、イリスを見続けることしか出来ない。あいつは納得したのだろうか。
このまま逃げた俺の代わりに自分が犠牲になることを、納得してあそこに立っているのだろうか。
「婚儀を執り行うにつき、前後三日間城門を解放し施しを行なう。また、一部の罪人について恩赦を与える」
わああああ、と群衆が歓声を上げる。施しとは、投げ銭と国庫を開いての穀物の配布を指す。国を上げての祝い事だから、その金で祝えということだ。
アリスタ殿下万歳、という歓声が群衆から上がり、耳が割れそうになる。
演説は終わったのだろう、イリスが少しほっとした表情を見せると、口角を少しだけ上げて群衆を見回しながら手を振った。それに興奮して大騒ぎする群衆。
「――行こうか」
「……うん、そうだね。戻って美味しいものを食べようか」
もう、ここに俺の居場所はない。自分から捨てて、そしてそれを皆が回収した。もう二度とこの場所に足を踏み入れることはしないだろうな、と思いながらイリスの晴れ姿をぼんやりと眺める。
「まだ食べられるの? まあ俺もまだまだいけるけど」
「今度は甘いものなんてどう? 気分を入れ替えてさ」
気分を入れ替え。タチアナは、俺のどこまでを知っているのだろう。俺が城で会っていた張本人だと、もしかして初めから気付いていたのだろうか。
俺と必要以上に喋ろうとしなかったのも、これで納得がいった。距離が近くなればなるほど、ばれる可能性は高くなる。だから表情を見せず声も押さえて、個人の感情が窺える様なことは何も言わなかったのだ。
「甘いもの、いいね。確かに気分を入れ替えたい気分だよ」
「じゃあ決まりね!」
タチアナが、俺を振り返る。俺の心の中はぐしゃぐしゃだったが、タチアナが傍にいてくれる、そのことが今は何よりも嬉しかった。
「じゃあ行こうか――」
最後に何気なく露台を見る。
やめておけばよかった。
驚愕の表情で俺を真っ直ぐに見ているイリスと、目が合った。口が大きく開かれ、露台の縁に駆け寄ってくる。
――拙い。
「タチアナ!」
「えっ?」
俺はくるりとイリスに背中を向けると、タチアナの手を引っ掴み群衆の波を掻き分け、一目散に逃げ出したのだった。
――赤い痣だった。
ティナと最後に会った時のことを思い返す。ティナはいつも、首にある痣を隠す為に首が隠れる服を着て、更に扇子で口元を隠していた。俺が見えるのは、目だけだ。
それすらも俺と合うことはなく、ボソボソと小声で交わされる中身のない会話。
タチアナが言っていた、急にお役御免になったという家業。
そして、俺の部屋に続く通路を衛兵を押しのけながら悪態をつきつつ向かってきたティナの、肌を思い切り見せた衣装。
人が変わった様で、怖かった。あんなにも美しくたおやかだったティナが、欲丸出しで迫ってきたことが理解出来なかった。
だが、俺の考えが正しければ、そりゃあそうだ。だって、俺が会っていたティナとあの日怒涛の勢いでやってきたティナとは、別人なんだから。
――影武者。
その言葉が、俺の中にずん、と重くのしかかる。
それと同時に、二の腕の内側にある古傷が、いつも痛むことなんてないのに急にズキズキと痛み出した。
何が起こってるのか、何が正しくて何が見えていないのか。誰が全容を知っている。どういうことなんだ。
混乱したまま、俺は為す術もなくただ露台を見上げることしか出来なかった。
群衆が、ざわざわと再びざわめく。露台に出てきたのは、きらびやかな式典用の格好をした衛兵二人だ。露台の左右に分かれると、そこで待機の体勢を取る。
その後出てきたのは、宰相のネス。恭しくかしずいている。誰に? 露台の奥から来る人物に対して、だ。
露台の奥から、軍の総司令官を表す白い豪奢な制服を着た金髪の男が登場した。腐るほど見てきた、俺と同じ顔だ。言われなくても誰だか分かる。
感情を窺わせないその顔は、一体何を考えて群衆を見下ろしているのか。いつも読めない奴だったが、今も全く読めなかった。
そして、奴の後ろから現れた人物。これまた白の豪華な衣装を身に纏ったティナだ。胸元は大きく開き、日光を受けて眩しく煌めく首飾りを付けている。
誇らしげなその表情は、やはり俺が会ってきたティナではなく、最後に見たティナのものだった。
これで確信出来た。ティナはずっと影武者を寄越していたのだ。だが、婚儀の日程が確定した以上、影武者を表舞台に出しておくことは出来ない。
だからあの日から、アリスタ王子の前から儚いティナは消え、代わりに本来の強欲で小説に出てくる悪役令嬢の様にあざといと噂の本物のティナが出てくる様になったのだろう。
イリスが、すう、と息を吸う。
朗々と響く声で、群衆に向かって言った。
「この度、ティナ・シュタインベルガー公爵令嬢との婚儀を行なうことが決定した」
イリスだ。間違いなくあれはイリスだ。俺はただ、イリスを見続けることしか出来ない。あいつは納得したのだろうか。
このまま逃げた俺の代わりに自分が犠牲になることを、納得してあそこに立っているのだろうか。
「婚儀を執り行うにつき、前後三日間城門を解放し施しを行なう。また、一部の罪人について恩赦を与える」
わああああ、と群衆が歓声を上げる。施しとは、投げ銭と国庫を開いての穀物の配布を指す。国を上げての祝い事だから、その金で祝えということだ。
アリスタ殿下万歳、という歓声が群衆から上がり、耳が割れそうになる。
演説は終わったのだろう、イリスが少しほっとした表情を見せると、口角を少しだけ上げて群衆を見回しながら手を振った。それに興奮して大騒ぎする群衆。
「――行こうか」
「……うん、そうだね。戻って美味しいものを食べようか」
もう、ここに俺の居場所はない。自分から捨てて、そしてそれを皆が回収した。もう二度とこの場所に足を踏み入れることはしないだろうな、と思いながらイリスの晴れ姿をぼんやりと眺める。
「まだ食べられるの? まあ俺もまだまだいけるけど」
「今度は甘いものなんてどう? 気分を入れ替えてさ」
気分を入れ替え。タチアナは、俺のどこまでを知っているのだろう。俺が城で会っていた張本人だと、もしかして初めから気付いていたのだろうか。
俺と必要以上に喋ろうとしなかったのも、これで納得がいった。距離が近くなればなるほど、ばれる可能性は高くなる。だから表情を見せず声も押さえて、個人の感情が窺える様なことは何も言わなかったのだ。
「甘いもの、いいね。確かに気分を入れ替えたい気分だよ」
「じゃあ決まりね!」
タチアナが、俺を振り返る。俺の心の中はぐしゃぐしゃだったが、タチアナが傍にいてくれる、そのことが今は何よりも嬉しかった。
「じゃあ行こうか――」
最後に何気なく露台を見る。
やめておけばよかった。
驚愕の表情で俺を真っ直ぐに見ているイリスと、目が合った。口が大きく開かれ、露台の縁に駆け寄ってくる。
――拙い。
「タチアナ!」
「えっ?」
俺はくるりとイリスに背中を向けると、タチアナの手を引っ掴み群衆の波を掻き分け、一目散に逃げ出したのだった。
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