扉の先のブックカフェ

ミドリ

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35 笑いの理由

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 私の名前を呼ぶ大川さんとマスターの必死な声も、梨花の剣幕の前では掻き消された。

「お前こいつのことはよく知らないって言ってたのは嘘だったのかよ! 私を騙そうなんて生意気なんだよ!」
「真山! やめろ!」
「お前どうなるか分かってんだろうな!」

 梨花は大川さんを反対側に突き飛ばすと、振り返った勢いで床に倒れている私の腹部をヒールで思い切り踏む。

「ううっ!」

 あまりの痛みに、ダンゴムシの様に身体を縮こませる。梨花は正気を失っているのか、鬼の形相で梨花の手を掴み引き戻そうとする大川さんの腹部も蹴った。

「く……! 真山やめろ! 月島さんは関係ないから!」
「誰があんたの言うことなんて信じるか!」

 痛みを堪えながら起き上がりかけた私を再度振り返ると、今度は拳を振りかぶる。

「――マリちゃん!」

 急いで走ってきたマスターが私を腕の中に庇うと、梨花の拳がマスターの肩に当たった。マスターが、怒鳴る。

「突き指を見てもらってただけだ! マリちゃんは俺の恋人だって言ってるだろ、何てことをするんだよ!」

 梨花の動きが止まった。マスターは梨花をキッと睨みつけると、起き上がった大川さんもろとも、吐き捨てる様に告げる。

「二人とも、うちの店から出ていってくれ! 今すぐにだ!」
「ごめんなさい! 私ってば勘違いしちゃったの! お願い許して!」

 ころっと態度を変えた梨花がマスターの背中に指を触れたけど、マスターはそれを跳ね除けた。

「出ていってくれって言ってるだろ!」

 顔面蒼白になっている大川さんに、マスターが「連れて行け」と冷たく言い放つ。大川さんはがっくりと項垂れると、梨花の腕を掴み店の外へと向かった。

 二人を睨みつけたままのマスターが、大川さんの背中に向かって言う。

「大川さん、後で話し合いだ。電話するから逃げるなよ」
「……はい、すみません」

 マスターのその言葉で、マスターが本気で大川さんを怒っている訳ではないことが分かりホッとする。二人が店の外へと消えると、マスターは私を振り返り、抱き寄せた。

「え? マ、マスター?」
「驚いた……」

 はあ、と耳元で安堵の息を吐かれ、これまで一度もない抱擁にどうしていいか分からず、ただ固まる。

「大川さんとは、俺が話す。マリちゃんは、解決の目処が立つまで連絡するんじゃないぞ。危険だから」
「でも……」

 まだ伝えてない。対峙する時は私も一緒だと。大川さんだけじゃないんだと、きちんと伝えていないのに。

「あいつらの話し合いがどうなったのか、聞いたら教えるから」

 今日は早く閉めて駅まで送る。悪いからと固辞したけど、マスターは頑として譲らなかった。

「俺が守ってやれたらよかったのに」

 ポツリと呟いた言葉があまりにも寂しそうで、何と答えたらいいか分からなかった。



 騒動の一部始終を見ていたお客さんにお詫びの珈琲を振る舞うと、マスターはもしもの為と言って全員に連絡先を尋ねた。

 会社の名刺をもらうと、多分ご迷惑お掛けすることはないと思うんですがとひとりずつに頭を下げる。

「彼女が蹴られたらそりゃ怒るって! 気にしないでよマスター」

 常連の男性がそう言うと、今日初めて来たらしい他のお客さんもそうそうと頷いてくれた。私もぺこりと頭を下げると、「嫉妬にも程度ってもんがあるよね、いやあ怖い怖い」と笑いかけてくれる。

 お客さんが全員帰ると、マスターは店をさっさと閉め始めた。臨時休業の札を窓硝子についた吸盤に掛けると、「マリちゃんは何食べたい?」と食事に誘う。

 何から何まで、いつもマスターには面倒を掛けてばかりだ。迷惑を掛けてごめんなさいと謝ると、マスターは俯きがちだった私の額を人差し指で押し上げ、笑顔になった。

「面倒だなんて思ったことはないし、マリちゃんは何ひとつ悪くない。すぐそうやって自分の所為にするのはマリちゃんの悪い癖だな」
「マスター……。ありがとう」
「おう。じゃ、俺の行きたかった所に行っていいか?」
「うん」

 ひとりじゃ入りづらかったというエッグベネディクトが有名なハワイアン料理の店に行った。確かに女性客かカップルばかりで、男性ひとりで入るのは抵抗がありそうな店だ。

 店では、大川さんや梨花の話題になりかけるとマスターはすぐに話題を別の方に持っていき、終始私を笑わせようとしてくれた。

 駅の改札前まで送ってくれたけど、ソワソワと落ち着きがない。どうしたのかと尋ねると、「遠くから見られてる可能性もあるし、念の為」。そう言って、私を抱き寄せた。

 マスターの服からは香ばしい珈琲豆の香りがして、本当だったら慌ててしまうだろうこの状況も、まるで『ピート』にいるかの様な安堵を感じたのだった。



 帰宅後暫くして、マスターから電話がきた。大川さんと連絡がついたらしい。

 大川さんがあの後、マスターと私に迷惑を掛けたことを責めると、梨花は「こんな私、死んだ方がいいの!」と言ってまた道路に飛び出そうとしたらしい。

 演技がかった態度にも、周りの目は大川さんを非難するものばかりだったそうで、とにかくもう二人には構わないでくれと頭を下げた。

 すると梨花は何故か楽しそうに笑い出し、そのまま颯爽と帰っていったそうだ。

 意味が分からなかった大川さんは、ゾッとした思いを抱えたまま『ピート』に向かった。だけど臨時休業の札が掛かっており、中は暗い。

 重い足を引きずりながら帰宅するとマスターに電話を掛け、店に迷惑を掛けたことをまずは謝ってきたという。

 そもそも何故『ピート』の存在がこうもあっさりばれてしまったのか。その疑問に、梨花はあっさり答えた。

 マスターが駅前の書店で大量の本を買い込んでいたことから、次の日、つまり昨日書店を訪ねたのだ。

 そこで店員を捕まえ、どこかのお店の店員が昨日欲しかった本を大量に買っていったと抗議したらしい。

 すると、あれはブックカフェの店長だからそこに行けば読めるんじゃないかとあっさりと教えてくれたそうだ。

「さっき書店の人を捕まえて聞いてみたんだよ。そうしたら案の定、胸を押し付けてべたべたくっつくからつい余計なことまで教えちゃったって言っててさ」

 店をやっているから、お客さんになるからいいだろうという思いもあったらしい。

 しょっちゅう本を買いに来て領収書を書いてもらうマスターは、書店の中では常連客で身元も判明していたから。

「俺はあの子が笑ってたってことが怖い」

 いつもは快活なマスターの声は、今は低く不安を窺わせるものだった。

「職場では、信用できる人の近くにいる様にした方がいいかもしれない」
「うん……そうします。ありがとうマスター」

 私がそう返すと、マスターが情けない声を出す。

「名前で呼んでって言ってるのに……」
「あ、ごめんなさい。克也さん」

 電話の向こうで「ぶふっ」という吹き出す声がした。こそばゆい、という呟きがその後聞こえてくる。

 勝手だとは思ったけど、危険性を鑑みて大川さんには当面私に連絡をしないでくれ、と伝えたらしい。「その間に月島さんに触ったりしないで下さいね」とそれは静かな声色で言われ怖かったと笑うマスターの心遣いに、頭が下がる思いだった。

 それに、とマスターが続ける。マスターが大川さんに活を入れたので、これまで以上に必死になるだろうと笑いを含む声で教えてくれた。

 一体何を言ったのかと尋ねると、「絶対教えない」と返される。

「明日、少しでもいいから顔を見せにおいで。なんせ『ピート』はマリちゃんの癒やしスポットだからな」
「うん。出来るだけ寄らせてもらいます」

 おやすみを言い合い、電話を切る。大川さんにだっておやすみのひと言だけでも伝えたかったけど。

「我慢我慢……」

 何がどう梨花に影響するか分かったものじゃない。早く物事が解決することを祈りつつ、大人しく眠りについたのだった。
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