扉の先のブックカフェ

ミドリ

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28 大川さんの家

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 大川さんの家に向かう道中、大川さんは辺りを警戒する素振りを見せた。

 隣を歩きたい。でも何かあったら嫌だから、後ろをついてきて。

 そう言われて、大川さんの少し後ろを、他人のふりをしてついて行った。

 緊張している背中が、大川さんが絶対にMを私に近付けたくないと考えていることが窺えて、切なくなる。

 駅を挟んで『ピート』とは反対側の大通りを暫く行くと、エントランスからして立派なマンションが目の前に現れた。エントランス手前は半分公園の様になっていて、植木とベンチが絶妙な位置に設置されている。休日だからか、子供と父親らしき男性がボール遊びをしている姿が微笑ましかった。

 大川さんはちらりと私に一瞥をくれると、そのままスタスタと二重になっている最初の自動ドアの向こうへと入って行く。

 あまりの豪華さに唖然としながら遅れてマンションの中に足を踏み入れると、閉じられたままのふたつ目の自動ドアの前で、大川さんが外をじっと見つめていた。暫くキョロキョロと目を忙しなく動かした後、怪しい影がないことを確認したんだろう。強張っていた肩の力がふっと抜ける。

 私に「来て」と小さく声を掛けると、大川さんの身体に隠れて外からは見えない位置に私を立たせた。

 背後から覗かれない為か、横向きに設置されたエントランスのオートロックシステムのテンキー。大川さんはそこにカードキーをかざすと、四桁の番号を私に見せる様にゆっくりと入力していった。

 解錠ボタンを押すと、二枚目の自動ドアが開く。これで中へと入れるらしい。

 大川さんはもう一度一枚目の自動ドアの外を探る様に見つめると、私の肩を抱き中へと入って行った。これはどう考えても、外から私の姿が見えない様に隠している。

 ロビーに入り、マンションの外が見えない位置まで来ると、大川さんが私の肩を離した。眉毛が少し下がった大川さんの、力が抜けた笑顔。

「ごめん、挙動不審だったかな。つい癖で」
「大川さん……」

 自分の家に帰るの時に、いつもこんなに警戒しているということだ。

「中には絶対に入れたくないから、暗証番号の入力とかも気を付けてるんだ。まあカードキーがなければ勝手に入ってはこられないんだけど、部屋の番号がばれてチャイムを慣らされるのも嫌だから」

 インターホンのモニターにもしMの姿が映っていたら、家の中に侵入された気分になりそうで。そう言いながら、ははは、と乾いた笑い声を出す大川さんを見て、悲しくなった。

「こっち」

 エレベーターホールの前に辿り着くと、フロアによって乗るエレベーターが違う。大川さんは『1ー20』という表示があるエレベーターの前に立つと、ボタンを押した。

「エレベーターに乗るにもカードキーをかざさないと、その階のボタンが押せないんだ」
「へ……すごいセキュリティだね」

 思わず感嘆の声を上げると、大川さんは少し照れくさそうに笑う。到着したエレベーターに乗り込んで私が来るのを待つと、黒いセンサーの部分にカードキーをかざして十五階のボタンを押した。

「うん。未成年の子供のひとり暮らしだったから、父さんはそこを重視してくれたみたいなんだ。初めは大袈裟だと思ったけど、これのお陰で僕のプライバシーはまだ守られてる」

 この人の生活は、Mを遠ざけることを中心に構成されてしまっているのだ。近付けたくないが故に、警戒せざるを得ない。大川さんが引っ越しをしてまで離れようとしないのは、父親の所有物件ということ以外に、このセキュリティの強固さもあるのかもしれなかった。

 エレベーターはぐんぐん上昇して、二人とも何となく移動していく階のランプの灯りを目で追った。

 Mは、大川さんに対し犯罪を犯している訳じゃない。ただ時折現れ、自分はいつでもお前を見ていると主張していくだけだ。大川さんが騒ごうものなら、その綺麗な外見を存分に利用し、自分がさも被害者の様に見せかける。か弱そうに見える女性を庇護すべきだという世間の一般常識を逆手に取った方法だけど、それは確実に効果を出していた。

 話し合って、果たしてMが納得してくれるんだろうか。何年にも渡って大川さんを狙い続けた彼女の心は、初めはちょっとした妬みだったのかもしれない。それが段々と膨れ上がり、綺麗になった自分がかつて同情顔をして自分を慰めた相手を追い詰めていくことに、もしかしたら快感を覚えてしまったんじゃないか。

 そうだとしたら、ただの説得にMが応じるとは思えなかった。

 だって、最初の時に大川さんが言っていたことだ。配下の人間が逆らうことは許せない。Mにとって、大川さんは配下に従えさせておきたい人、いや、もしかしたらMは全ての人を支配下におきたいのかもしれない。だとしたら、抵抗しながらも従わざるを得ない大川さんの反乱は、きっとMの嗜虐心を大いにくすぐる。

 エレベーターが十五階に到着すると、白を基調とした明るい印象のエレベーターホールに降り立った。大川さんはにこりと笑うと、無言のまま私の手を取り、ホールを出てすぐ左へと折れる。外部から部屋に入るところを見られない様に設計したのか、エレベーターホールは建物の中心部分に位置していて、それをぐるりと囲む様に部屋が配置されていた。

 まるでホテルの様な廊下を暫く進むと、大川さんは『1520』と書かれた部屋の前で止まる。

 ドアノブの上に付いているセンサーにもう一度カードキーをかざすと、ドアノブを下に押し、大きくドアを開いた。

「いらっしゃいませ」

 はにかんだ様な笑顔で言う大川さんに促されて、私は少し緊張を覚えながら大川さんの家に入る。綺麗に使っているんだろう。白い壁、ベージュに近いフローリングの廊下には物は一切なく、何年も住んでいる場所とは思えなかった。

 廊下には、寝室と思われるドアと、トイレや浴室と思われるドアが合計三つ並んでいる。幅広い廊下を通り過ぎると、日光が溢れた広いリビングに着いた。二十畳近くあるんじゃないか。そこにロッキングチェアとソファーが並んでいて、オットマンチェアまである。

 そして。

「うわあああ……!」
「マスターに比べたら足元にも及ばないけど」
「いやいや、凄いよ……! うわ、うわあああっ」

 窓やテレビが置いていない側の壁一面にあったのは、天井まで届く重厚な色合いの本棚だった。本棚は上段の方は可愛らしい小さな観葉植物やサボテンが飾られ、下段の方はずらりと本で埋められている。これが興奮しないでいられる訳がなかった。

「実は、オットマンチェアだけは最近買ったんだ。『ピート』にあるのを見て、いいなあって思って。本はまだ全然少ないから、本に囲まれるっていう夢はまだ当分先そうだけど」
「これ、心底羨ましい……!」

 寝ても起きてもそこに本がある。今日はどの物語の扉を開こうか。そんなことを四六時中夢想しながら暮らせる贅沢。本好きじゃない人には分からないかもしれないけど、物語を愛して止まない私みたいな人間にとって、ここは夢の様な空間だった。

「マスターはジャンル関係なく色んな本を知ってて、あの人は生粋の本好きなんだなあって思ったよ」
「マスターは読むのも早いから、読了の数は勝てないんだよね」
「――月島さん」

 感動し過ぎた私が本棚の前をウロウロと彷徨いていると、大川さんが私の背中に躊躇いがちに声を掛ける。私が振り返ると、思いもよらないほど真っ直ぐな大川さんの視線に一瞬で絡め取られた。

「Mの過去を、探ってみようと思うんだ。それが、心置きなく月島さんとここで本を読みながら過ごせる最短の方法だと思うから」

 淡々とした口調だけど、その中に込められている想いは熱く。

「……うん!」

 大川さんの胸に飛び込むと、互いの温もりを味わう様に暫しの間そのまま抱き締め合っていた。
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