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4 マスターとの出会い
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アパートの近くには大型書店はなく、図書館はあるものの、規模が小さくて蔵書数が少ない。
本は昔から好きだったけど、私以外誰もいない広い家で静かに読書をするのは、あまりにも切ない。
その為、結局は引っ越す前までは読書は避けて、毎日ラジオやテレビを点けて過ごしていた。
引っ越して気付いたのは、部屋が物理的に狭ければ孤独を感じにくいということだ。
巷でよく言われていたことだったので何となくそういうものかなとずっと思っていたけど、いざワンルームでひとり過ごす様になって気が付いた。
隣の部屋の住人の生活音。外を散歩する犬の鳴き声。子供の泣く声や学生たちが交わす挨拶の声。
一軒家の時よりも、外の音との距離が近い。
世界は私だけじゃない、他にも生きている人がいるんだ。
そんな単純なことにようやく気付けた私は、両親の死後読むのを止めていた読書を再開することにした。もう孤独を感じずに読めるんじゃ、そう思えたからだ。
実家にあった全ての本をひとり暮らしの狭い部屋に持っていく訳にもいかなくて、お気に入りの数冊の他は売ってしまった。
その中に、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』もあった。ハードカバーの、映画に出てくるものと同じ様な本だ。
暗い嵐の中で読み耽る内に、段々と世界が溶け合っていく、あの不思議な感覚。閉じ籠もっている主人公のバスチアンが、両親を失って歯を食いしばりながら生きてきた自分と重なった。
読み終えた時のあの高揚感のまま眠りにつけたら、もしかしたら私の世界も少しは明るいものに変わるんじゃないか。
もう一度、あの話が読みたい。そう思っても、売ってしまったものはもう遅い。
もう一度買おう。そう思い立った。
本屋は大きなビルのワンフロアを独占しており、それを見ただけで興奮する。
お目当ての『はてしない物語』はすぐに見つかった。ついでに、手放してしまったけどやっぱり好きだという本も何冊も腕に抱えた。中には海外に滞在していた時に読んで、帰国の際他の日本人にあげてしまったものも。
思い出が多すぎて、買わずにはいられなかった。
紙袋を二重にしてもらい、千切れそうに痛い指に力を入れながら、ビルの外へと出る。
すると、電話をしているひとりの中年サラリーマンが私の前を足早に通り過ぎていった。鞄と一緒に横向きに持っていた傘が、腕の動きと共に私が必死で持っていた紙袋に大きな穴を空ける。
「あっ」
思わず声を上げてサラリーマンの方を見たけど、電話に夢中で気付かなかったのか、そのままスタスタと行ってしまった。
「あ、あっ」
みるみる内に、紙袋が重みでビリビリと裂けていく。
「あ、待って、やだ……っ」
底を抱え直そうとした瞬間、崩壊が起きた。
買ったばかりの本が、両親と共にいた時に読んだ記憶と共にある本が、アスファルトの上に音を立てて落ち、辺りに散らばる。
「嘘だ……」
急いで膝を付いて、本を拾い上げようとした。でも、紙袋はビリビリだ。まだ散らばっている本をとりあえず積み重ねていったけど、買いすぎてひとりじゃ抱えられない。
だって、私はひとりだから。
世界で、やっぱり私はひとりきりなんだ。
暫く忘れることが出来ていた、深海に沈んでいく様な孤独が支配した。
ぽたり、と『はてしない物語』のケースの上に、水滴が落ちる。
雨かな、そう思った。最悪だ。袋は破けるし、本は大量すぎてひとりじゃ運べない。
「あ……っ」
ボタボタ、とまた水滴が垂れる。光沢紙だけど、滲みないとは限らない。それを指の腹でグイッと拭った。だけど、どんどん『はてしない物語』の上だけに降ってくる。
何でだろう、どうしよう。
ぐるぐるとするだけの思考に、動かない身体。
すると、不意に目の前が翳った。思わず見上げると、背の高い、丈の長いソムリエエプロンを腰に巻いた、若くもないけど年を取ってもない年齢不詳の男性が立っている。
「ほら! 俺、袋持ってるから、泣かないで!」
男はしゃがみ込むと、手に下げていたエコバッグを広げる。だけど小さくて、『はてしない物語』を入れたらパンパンになってしまった。
「あれー? おっかしいな……」
男はそう言うと、「あっそうだ!」と自分が巻いていたエプロンを脱ぎ、地面に広げ始める。
その上に他の本を重ねていくと、風呂敷の様に布の角を結び、「ふん!」と抱え上げた。
呆然としている私を見下ろして、ニカッと笑う。手を差し出してきたので、訳が分からないままそれを手を重ねた。
ぐん、と勢いよく引っ張り上げられると、男が苦笑する。
「ごめん、これ使っちゃったから、悪いんだけど店に寄ってくれない? 美味しい珈琲出すからさ」
そう言って歯を見せて笑ったその人が、マスターだった。
雨だと思っていた涙が止まるまで、マスターは堰を切った様に話す私の話をうんうんと相槌を挟みながら聞いてくれた。
ひと通り話し終わってもまだグズグズと泣いている私に、マスターは温かいおしぼりをスッと渡す。
目に当てると、ベルガモットのいい香りがした。
なんて優しい香りなんだろう。
その日から、ベルガモットの香りはマスターがくれた安堵と繋がった。この香りを嗅ぐと、私は心から安心出来る様になったのだ。
マスターはその後、名前を堀田克也と名乗り、年齢は三十歳丁度だと教えてくれた。この店は、親が店を畳むというので改装してまだオープンしたてなんだ、と笑う顔は、大人と子供が半々の不思議な笑顔に見えた。
壁一面に立てられた本棚は、まだその時は半分程度しか埋まっていなかった。私と出会った時は、本屋にシリーズの欠けている巻を買いに行っていたところだったのそうだ。
前を大荷物でフラフラと歩いているなあ、大丈夫かなあと思って見ていたら、傘が当たって袋が破れ、とうとう泣き出してしまった。放っておけなくて声を掛けたけど、不審者と思われないか実は不安だったんだ、と照れくさそうに笑うマスター。
私はこの日、マスターに救われた。
その日を境に私はブックカフェ『ピート』の最初の常連客となり、時には一緒にビラを配ったり、要らなくなった本をもらってきてはマスターに提供したりもした。
その度にマスターは、「ありがとう、助かるよ」と嬉しそうに歯を見せて笑ってくれる。
私の境遇を聞いたマスターは、いつでもここで待ってると言ってくれた。
人は互いに寄りかかって生きていくものなのに、マリちゃんは寄りかかる先がなくなって倒れそうになってたんだね。
だったらここに寄りかかればいい。マリちゃんが心から寄りかかりたいと思って、寄りかかってもらいたいと思える人と出会うまで、いくらでも寄りかかっていればいい。
私が凹む度に、優しい言葉と美味しい珈琲を提供してくれるマスターに、感謝してもし切れなかった。
そんなマスターと出会った書店がある入口に辿り着く。
あれから四年が経ち、店の本棚はもうほぼ埋まった。でも「子供も来れる様に児童書も置きたいなあ」なんて言ってるから、店はまだまだ変容していくんだろう。
私は社会人四年目になり、その四年の間に一度だけ男性とお付き合いするに至った。学生の時以来だったので、かなり久々だ。それくらい、私のメンタルが回復したということだったんだろう。
その人は、職場の先輩の大学時代の後輩で、先輩に頼まれて人数合わせの為に出席した合コンにいた人だった。
優しそうな素朴そうな人で、三回目のデートで告白され、付き合うことになった。だけど、その日に自分が天涯孤独であることを話すと、彼は言ったのだ。
「じゃあ、保険金で暮らせるじゃないか。働く必要なくない?」
と。彼としては、半分は冗談だったんだろう。だけど、私は両親の死をお金に換算された気分になってしまい、――許せなかった。
やっぱり付き合えないことを伝えると、温厚そうだと思っていた彼は私に暴言を吐き、店を出ていった。彼が予約したというお高めのフレンチ料理店で、二人分のお会計は私が払った。
両親の死は、簡単には話せない――。
世の中、皆がマスターの様な人じゃないんだ。そう思ったエピソードだ。
頭を振って、過去のろくでもなかった思い出を思考の外に追い出す。
「オズ、オズ……と」
まだ当分、寄りかかる先はマスターがいるあの店になりそうだな。
そう思いながら、目的の本を探しに向かったのだった。
本は昔から好きだったけど、私以外誰もいない広い家で静かに読書をするのは、あまりにも切ない。
その為、結局は引っ越す前までは読書は避けて、毎日ラジオやテレビを点けて過ごしていた。
引っ越して気付いたのは、部屋が物理的に狭ければ孤独を感じにくいということだ。
巷でよく言われていたことだったので何となくそういうものかなとずっと思っていたけど、いざワンルームでひとり過ごす様になって気が付いた。
隣の部屋の住人の生活音。外を散歩する犬の鳴き声。子供の泣く声や学生たちが交わす挨拶の声。
一軒家の時よりも、外の音との距離が近い。
世界は私だけじゃない、他にも生きている人がいるんだ。
そんな単純なことにようやく気付けた私は、両親の死後読むのを止めていた読書を再開することにした。もう孤独を感じずに読めるんじゃ、そう思えたからだ。
実家にあった全ての本をひとり暮らしの狭い部屋に持っていく訳にもいかなくて、お気に入りの数冊の他は売ってしまった。
その中に、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』もあった。ハードカバーの、映画に出てくるものと同じ様な本だ。
暗い嵐の中で読み耽る内に、段々と世界が溶け合っていく、あの不思議な感覚。閉じ籠もっている主人公のバスチアンが、両親を失って歯を食いしばりながら生きてきた自分と重なった。
読み終えた時のあの高揚感のまま眠りにつけたら、もしかしたら私の世界も少しは明るいものに変わるんじゃないか。
もう一度、あの話が読みたい。そう思っても、売ってしまったものはもう遅い。
もう一度買おう。そう思い立った。
本屋は大きなビルのワンフロアを独占しており、それを見ただけで興奮する。
お目当ての『はてしない物語』はすぐに見つかった。ついでに、手放してしまったけどやっぱり好きだという本も何冊も腕に抱えた。中には海外に滞在していた時に読んで、帰国の際他の日本人にあげてしまったものも。
思い出が多すぎて、買わずにはいられなかった。
紙袋を二重にしてもらい、千切れそうに痛い指に力を入れながら、ビルの外へと出る。
すると、電話をしているひとりの中年サラリーマンが私の前を足早に通り過ぎていった。鞄と一緒に横向きに持っていた傘が、腕の動きと共に私が必死で持っていた紙袋に大きな穴を空ける。
「あっ」
思わず声を上げてサラリーマンの方を見たけど、電話に夢中で気付かなかったのか、そのままスタスタと行ってしまった。
「あ、あっ」
みるみる内に、紙袋が重みでビリビリと裂けていく。
「あ、待って、やだ……っ」
底を抱え直そうとした瞬間、崩壊が起きた。
買ったばかりの本が、両親と共にいた時に読んだ記憶と共にある本が、アスファルトの上に音を立てて落ち、辺りに散らばる。
「嘘だ……」
急いで膝を付いて、本を拾い上げようとした。でも、紙袋はビリビリだ。まだ散らばっている本をとりあえず積み重ねていったけど、買いすぎてひとりじゃ抱えられない。
だって、私はひとりだから。
世界で、やっぱり私はひとりきりなんだ。
暫く忘れることが出来ていた、深海に沈んでいく様な孤独が支配した。
ぽたり、と『はてしない物語』のケースの上に、水滴が落ちる。
雨かな、そう思った。最悪だ。袋は破けるし、本は大量すぎてひとりじゃ運べない。
「あ……っ」
ボタボタ、とまた水滴が垂れる。光沢紙だけど、滲みないとは限らない。それを指の腹でグイッと拭った。だけど、どんどん『はてしない物語』の上だけに降ってくる。
何でだろう、どうしよう。
ぐるぐるとするだけの思考に、動かない身体。
すると、不意に目の前が翳った。思わず見上げると、背の高い、丈の長いソムリエエプロンを腰に巻いた、若くもないけど年を取ってもない年齢不詳の男性が立っている。
「ほら! 俺、袋持ってるから、泣かないで!」
男はしゃがみ込むと、手に下げていたエコバッグを広げる。だけど小さくて、『はてしない物語』を入れたらパンパンになってしまった。
「あれー? おっかしいな……」
男はそう言うと、「あっそうだ!」と自分が巻いていたエプロンを脱ぎ、地面に広げ始める。
その上に他の本を重ねていくと、風呂敷の様に布の角を結び、「ふん!」と抱え上げた。
呆然としている私を見下ろして、ニカッと笑う。手を差し出してきたので、訳が分からないままそれを手を重ねた。
ぐん、と勢いよく引っ張り上げられると、男が苦笑する。
「ごめん、これ使っちゃったから、悪いんだけど店に寄ってくれない? 美味しい珈琲出すからさ」
そう言って歯を見せて笑ったその人が、マスターだった。
雨だと思っていた涙が止まるまで、マスターは堰を切った様に話す私の話をうんうんと相槌を挟みながら聞いてくれた。
ひと通り話し終わってもまだグズグズと泣いている私に、マスターは温かいおしぼりをスッと渡す。
目に当てると、ベルガモットのいい香りがした。
なんて優しい香りなんだろう。
その日から、ベルガモットの香りはマスターがくれた安堵と繋がった。この香りを嗅ぐと、私は心から安心出来る様になったのだ。
マスターはその後、名前を堀田克也と名乗り、年齢は三十歳丁度だと教えてくれた。この店は、親が店を畳むというので改装してまだオープンしたてなんだ、と笑う顔は、大人と子供が半々の不思議な笑顔に見えた。
壁一面に立てられた本棚は、まだその時は半分程度しか埋まっていなかった。私と出会った時は、本屋にシリーズの欠けている巻を買いに行っていたところだったのそうだ。
前を大荷物でフラフラと歩いているなあ、大丈夫かなあと思って見ていたら、傘が当たって袋が破れ、とうとう泣き出してしまった。放っておけなくて声を掛けたけど、不審者と思われないか実は不安だったんだ、と照れくさそうに笑うマスター。
私はこの日、マスターに救われた。
その日を境に私はブックカフェ『ピート』の最初の常連客となり、時には一緒にビラを配ったり、要らなくなった本をもらってきてはマスターに提供したりもした。
その度にマスターは、「ありがとう、助かるよ」と嬉しそうに歯を見せて笑ってくれる。
私の境遇を聞いたマスターは、いつでもここで待ってると言ってくれた。
人は互いに寄りかかって生きていくものなのに、マリちゃんは寄りかかる先がなくなって倒れそうになってたんだね。
だったらここに寄りかかればいい。マリちゃんが心から寄りかかりたいと思って、寄りかかってもらいたいと思える人と出会うまで、いくらでも寄りかかっていればいい。
私が凹む度に、優しい言葉と美味しい珈琲を提供してくれるマスターに、感謝してもし切れなかった。
そんなマスターと出会った書店がある入口に辿り着く。
あれから四年が経ち、店の本棚はもうほぼ埋まった。でも「子供も来れる様に児童書も置きたいなあ」なんて言ってるから、店はまだまだ変容していくんだろう。
私は社会人四年目になり、その四年の間に一度だけ男性とお付き合いするに至った。学生の時以来だったので、かなり久々だ。それくらい、私のメンタルが回復したということだったんだろう。
その人は、職場の先輩の大学時代の後輩で、先輩に頼まれて人数合わせの為に出席した合コンにいた人だった。
優しそうな素朴そうな人で、三回目のデートで告白され、付き合うことになった。だけど、その日に自分が天涯孤独であることを話すと、彼は言ったのだ。
「じゃあ、保険金で暮らせるじゃないか。働く必要なくない?」
と。彼としては、半分は冗談だったんだろう。だけど、私は両親の死をお金に換算された気分になってしまい、――許せなかった。
やっぱり付き合えないことを伝えると、温厚そうだと思っていた彼は私に暴言を吐き、店を出ていった。彼が予約したというお高めのフレンチ料理店で、二人分のお会計は私が払った。
両親の死は、簡単には話せない――。
世の中、皆がマスターの様な人じゃないんだ。そう思ったエピソードだ。
頭を振って、過去のろくでもなかった思い出を思考の外に追い出す。
「オズ、オズ……と」
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